2016年1月23日土曜日

映画「リンカーン」を観て

2012年公開のアメリカ映画で、本来リンカーン生誕200周年に合わせて2009年に公開する予定でしたが、少しずれこみました。リンカーンは、丸太小屋で生まれ、独学で弁護士となり、ついには大統領にまでなった人物で、まさにアメリカン・ドリームを体現しているような人物であるとともに、南北戦争を指揮し、奴隷解放宣言を発布した人物として、アメリカで最も尊敬されている大統領です。なお、丸太小屋生まれというリンカーン伝説には、多少の脚色があるとしても、大筋では間違っていません。











彼は父親とともに各地を転々とし、彼自身も色々な職業を経験しますが、最後はイリノイ州で弁護士となり、下院議員・上院議員を経て、第16代大統領となります。彼が大統領に就任した頃、アメリカは引き裂かれていました。南北戦争の原因については、多くの議論があり、ここでは深入りしません。一言で言えば、北部と南部では、経済構造が違い過ぎ、もはや共存は不可能になりつつあったということです。そして奴隷制の問題も、対立の大きな要因であり、奴隷解放論者だったリンカーンが、1860年に大統領に当選すると、南北の対立は決定的となります。
アメリカの大統領選挙は11月に行われ、大統領に就任するのは翌年の3月です。ここに4カ月の政治的空白期間があります。交通・通信遮断が発達していなかった当時としては、やむを得ないことだと思いますが、この4か月間に次々と南部諸州が分離し、リンカーンが大統領に就任した時には、アメリカは完全に分裂していました。話が逸れまずが、1930年代の世界恐慌の際、F.ローズヴェルトが大統領に当選しますが、4カ月の空白期間の間に恐慌は最悪となってしまいました。そのため、今日では、大統領の就任は1月に変更されています。
 リンカーンは、一般に言われる程過激な奴隷解放論者ではありませんでした。彼にとって当面最も重要なのは連邦統一の維持であり、そのためなら、奴隷制を認めてもよいと考えていました。この時代は、国民国家の時代であり、イタリアやドイツの統一、日本の明治維新のように、統一的な国民国家の形成が時代の趨勢となっており、リンカーンにとって連邦の統一が何よりも優先される課題でした。しかし戦争が長引くにつれ、また戦争による死傷者が異常に多かったこともあって、北部では厭戦気分が広がり、「南部が独立したければ、独立させればよいではないか」といった意見が強くなってきました。また対外的にも、イギリスは経済的に深く結びついた南部を支持しており、国際的にも北部が孤立する可能性がありました。
 そうした中で、リンカーンは戦争目的を明確にする必要に迫られ、その結果この戦争は、邪悪な奴隷制度を廃止するための戦いであることを明確にします。こうして1863年奴隷解放宣言が発せられ、国民もこれを支持し、奴隷制を禁止するイギリスは南部から手を引きました。この結果、1864年にリンカーンは再選され、また中間選挙で与党共和党も勝利します。しかし問題がありました。憲法上、奴隷制度の問題は州の問題であり、大統領も議会も州の問題に介入する権限がありませんでした。したがってリンカーンは、この宣言を最高司令官の職務としての軍事的指令として行ったのであり、それでも憲法がねじ曲がってしまう程拡大解釈した上での宣言でした。そしてこの宣言は、戦争が終われば無効となり、南部の議員が議会に戻ってくれば、奴隷制度の廃止は困難となります。そこでリンカーンは、戦争が終わる前に、憲法を修正して奴隷制度を禁止しようと考えます。
 映画は、ここから始まります。アメリカの憲法は、1787年に制定されてから今日に至るまで、一切変更されていません。ただ、修正条項が憲法に追加され、今日までに27の修正条項が加えられました。その内の第一修正から第10修正は、憲法発効と同時に、各州の意見を入れて追加されました。その後今日まで17の修正条項が追加される分けですが、その内容は、見方によっては憲法本文と矛盾するものもあります。しかし、矛盾が問題となった場合、連邦最高裁がその時その時の社会情勢に応じて柔軟に解釈しつつ、今日まで至っています。これは、見方によっては、かなりいい加減な憲法とも言えますが、非常に柔軟性のある憲法とも言えます。
 さて、リンカーンが企てたのは、修正13条です。憲法の修正は、議会の3分の2の賛成により各州に修正が提案され、その時の州の数の4分の3が批准して可能となります。これは容易なことではなく、憲法制定から今日まで1万件以上の修正案が提出されましたが、最初の10条をのぞくと、17件しか成立していないわけです。当時、与党の共和党は全員修正に賛成しており、これで過半数を超えていますが、野党の民主党が反対しているため、とうてい3分の2には達しませんでした。映画は、1865年の1月の1カ月間、リンカーンとその側近による多数派工作の過程を描いています。その過程はかなりスリリングで、説得、買収、脅しなど、あらゆる手段が用いられます。そして、131日の議会で、かろうじて3分の2を以上の賛成で可決され、21日にリンカーンが署名しました。もちろんこれで修正される分けではなく、4分の3の州が批准する必要がありますが、その目途はたっていました。したがって、修正13条は事実上成立した分けです。
 その後南部は敗北を重ね、186543日に南部の首都リッチモンドが陥落、9日にはリー将軍が降伏して、南北戦争は事実上終了しました。両軍合わせて60万人もの死者が出るという悲惨な戦争でした。4年間戦い、これ程の死者を出したのですから、リンカーンとしては、奴隷制度廃止という目に見える結果を出さなければ、死者に顔向けができなかったのでしょう。ただリンカーンの奴隷制廃止の思想には問題があります。確かに彼は奴隷制度廃止論者でしたが、黒人と白人の混血が進むのを嫌っており、解放された奴隷はアフリカに帰させるべきだ、という非現実的な考えをもっていました。なぜ非現実的なのかと言えば、今やアメリカの黒人のほとんどがアメリカ生まれであり、彼らはアフリカについて何も知らなかったのです。つまり、リンカーンの思想の根底には、白人優位主義的な側面があったと思われます。
 また、リンカーンはインディアに対しては冷酷でした。祖父がインディアに殺されたこともあるのでしょうが、インディア討伐隊にも加わっているし、大統領在任中は多くのインディアンの殺戮にも手を染めています。サウスダコタのスー族を滅ぼしたのも彼で、これについては、「映画でアメリカを観る(3)  ダンス・ウィズ・ウルブズ」を参照して下さい(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/3.html)。彼のインディアンに対する仕打ちは、「インディアン強制移住法」で悪名の高いジャクソン大統領も顔負けです。結局私には、リンカーンは、人道主義者、奴隷制度廃止論者、民主主義者である前に、優れてアメリカ的人間だったのではなかったのかと思われます。
 奴隷制度が廃止され、戦争にも勝利したリンカーンには、南部の再建という大きな仕事がまっていました。彼は、常々南部に対しては寛容の精神で当たるようにと言っていましたが、彼は414日に暗殺され、その後南部に対して非寛容な政策が行われるようになります。大統領暗殺の犯人は、大統領をはじめ政府高官を殺して連邦政府を混乱させ、その間に南部が再起できることを期待したそうですが、大統領が死亡、辞任、解任、執務不能となった場合、大統領の継承者として18番目まで序列が決まっていますので、即座に混乱が起きることはありません。これが独裁者が支配する国とは異なるところです。
 映画はリンカーンの死をもって終わりますが、映画では議会での討論と野次の応酬、リンカーンと妻子との関係、通信室に入り浸って戦争を指揮する姿などが描かれており、大変興味深い内容でした。
 なお、現在のオバマ大統領は第44代大統領であり、過去に10人の大統領が暗殺(4)あるいは暗殺未遂に合っています。そして犯人の多くが、情緒が不安定だったり、精神に疾患を抱えた人々で、こうした人々による犯行を阻止することは極めて困難であり、大統領職は相当リスクの高い職業だといえます。

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