2015年8月8日土曜日

映画で西欧中世を観て(7)



エスケープ 暗黒の狩人と逃亡者

2012年にノルウェーで制作された映画で、時代は14世紀後半、「1363年 ペスト流行の10年後」ということになっています。14~15世紀は、ペストの流行など世界的に危機の時代でした。この点については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第14章 1415世紀-危機の時代」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/141415.html)を参照して下さい。ペストは、1347年頃にシチリアに上陸し、48年にはアルプスを越え、50年にはノルウェーに達します。ペストの流行は全世界に及び、全世界でおよそ8,500万人、ヨーロッパでは、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されており、ノルウェーでは人口の半分が死亡したと推定されています。
 国土は荒廃し、人々の心は荒んでいました。ノルウェーはヴァイキングの国であり、もともと王位継承の争いが絶えず、しかもペストで王家が断絶してしまったため、秩序は乱れ切っていました。二十歳くらいの娘シグネは、両親と弟ともに新しい土地を求めて旅をしていましたが、山賊に襲われ、両親も弟も殺されてしまいました。当時しては日常茶飯事の事件です。山賊の頭領ダグマルは女性で、5人の男たちを率いていました。何故かダグマルはシグネを殺さず、隠れ家に連れて帰りました。隠れ家には、ダグマルの娘で10歳くらいのフリッグという少女がおり、何故かいつも怯えていました。
 その夜、フリッグがシグネを逃がしてくれ、二人で逃亡します。やがて山賊たちが彼女たちを追跡し、特にダグマルは半狂乱になってフリッグを取り戻そうとします。こうして逃走と追跡劇が始まるわけですが、その過程で様々な事実が明らかとなっていきます。それはちょうど、ソポクレスの「オイディプス」のようです。
 ダグマルは、かつてペストが蔓延する村で呪いをかけたと疑われ、幼い娘とともに水責めにされて娘は死亡し、さらにお腹の子も死亡します。これは当時よくあったことで、特にユダヤ人が迫害の対象になりましたが、彼女がユダヤ人かどうかは分かりません。その後、彼女は山賊となり、復讐の鬼と化します。たまたまペストで両親を亡くしたフリッグを拾って育てますが、それはかつて殺された娘の身代わりでした。さらにシグネに子供を産ませ、かつて堕胎した子供の身代わりにしようとしていました。彼女の愛は屈折しており、それを感じ取っていたフリッグは、シグネとともに逃げ出そうとしたのでした。その後いろいろあって、結局シグネはダグマルと戦って殺します。ダグマルの死に顔は、とても穏やかでした。それは、阿修羅のごとき生き様から解放された安堵感だと思います。

 この映画は、たまたまノルウェーで制作されましたが、舞台はドイツでも、フランスでも、イギリスでも同じだったでしょう。この時代のヨーロッパは疲弊し、誰もが苦しみから逃れようともがいていました。その様なヨーロッパの一コマを、この映画はよく描いていると思います。


ジャンヌ・ダルク

1999年に制作されたフランス・アメリカの合作映画で、原題は「神の使者 ジャンヌ・ダルクの物語」です。今日では、ジャンヌ・ダルクは商品名や色々な喩にも用いられます。阿部首相は、自民党政調会長の稲田朋美衆議院議員を「自由党のジャンヌ・ダルク」と評したそうですが、意味がよく分かりません。

ジャンヌ・ダルクについては、史実と伝説が入り混じり、その実像を把握することは容易ではありません。18歳の田舎娘が、突然フランスのために戦えという神の言葉を聞いたとして出現し、実際に兵士を率いて戦場で戦い、フランスを勝利に導き、そして19歳で火炙りの刑で死亡します。あまりに突飛な話で、にわかには信じられません。








彼女は、1412年頃ロレーヌ地方のドンレミという村で生まれました。彼女自身の証言によれば、12歳の時初めて「神の声」を聴いたとのことです。それによれば「イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよ」ということです。映画では、「神の声」を聴いた時のジャンヌは、幻想を見る統合失調症の様でした。彼女は1429年4月頃シノンにある王宮を訪ね、「神の言葉」を伝え、なぜか国王シャルル7世は彼女を認めて軍隊を与えます。ここで疑問が生じます。何故シャルル7世はこのような小娘に軍隊を与えたのでしょうか。これは長く議論されてきたことであり、シャルル7世は完全に手詰まり状態にあって、それ以外にとる道がなかったとか、彼女を象徴として利用しようとしたとか、色々言われていますが、よく分かりません。そして彼女は、当時陥落寸前だったオルレアンを解放し、ランスでシャルル7世を国王に戴冠させます。ランスは、498年にフランク王国のクローヴィスが戴冠した場所であり、フランク王国にとって特別な場所でした。
その後シャルルは、敵との外交交渉を重視し、これ以上の戦いには消極的となっていきます。ジャンヌは国王の支援を得られないまま、無謀な戦いを続け、敵に捕らえられ、ルーアンで裁判にかけられて火炙りとなります。普通こうした戦争捕虜は、身代金を支払って解放しますが、なぜかシャルルは身代金を払いませんでした。これについても色々議論がありますが、はっきりしません。一方、裁判については詳細な裁判記録が残っており、無知なジャンヌは、相当理にかなった答弁をしているそうです。映画では、最後に彼女は神に懺悔します。彼女の村はイングランドに焼打ちされて家族を殺され、復讐したいという願望が「神の声」となって表れ、自分を戦争に駆り立てたのだということを。映画では、ジャンヌは何かに取りつかれたように、1年間を走り抜けます。要するに神は関係なかったということです。合理的説明を好む私向きの説明ではありましたが、その思い込みだけで、18歳の田舎娘にあれ程のことができるのか、という疑問は残ります。
話しは前後しますが、ジャンヌ・ダルクが登場する背景となった百年戦争とは、何だったのでしょうか。この戦争は、1337年イングランドのエドワード3世がフランスの王位継承を要求して、挑戦状を突きつけたことから始まりました。もちろん、初めから百年も戦争をするつもりだったわけではなく、結果的にそうなっただけであり、この戦争が百年戦争と呼ばれるようになったのは、19世紀になってからです。今日的な国家の感覚では、イングランド王がフランスの王位を要求するなどということは、奇妙に思われるかもしれませんが、そもそも当時のイングランドの王朝であるプランタジネット朝は、フランスの貴族でもあり、こうしたことは当時としては決して珍しいことではありませんでした。
戦争は泥沼化し、この間にペストの流行もあって、15世紀には戦場となったフランスは惨憺たる有様でした。ジャンヌが生まれた1412年頃、当時のフランス国王シャルル6世は精神障害を患って統治が困難となっていたため、その摂政の地位を巡って血腥い対立が続き、この混乱に乗じてイングランドのヘンリ5世がフランスに侵入してきます。後にフランス王となるシャルル7世は、4人の兄が次々と死んだため、突然後継者となることになます。ところが、1422年にシャルル6世が死去すると、王妃でありシャルル7世の実の母であるイザボーは、シャルル7世がシャルル6世の子ではなく不倫の子であるとして、王位をイングランド王ヘンリ5世に与えると約束したのです。しかし、この年ヘンリ5世は死去し、ヘンリ5世の子ヘンリ6世がイングランド王となり、フランス王にも即位します。ヘンリ6世は、この時1歳にも満たない乳児だったので、フランスの大貴族ブルゴーニュ公が後見にとなり、これに反対する貴族たちがヘンリ7世を担ぎ上げます。まさに無茶苦茶です。ヘンリ7世には何の力もなく、イングランド軍は破竹の勢いでフランス侵攻を進め、南部のオルレアンを包囲します。もしオルレアンが陥落すれば、シャルル7世はすべての権力基盤を失うことになり、そうした時に突如ジャンヌ・ダルクが出現するわけです。
前にも述べたように、シャルル7世は藁にでもすがる思いで、ジャンヌ・ダルクにかけたのかも知れませんが、それでも18歳の田舎娘に軍を預けた理由としては、納得できません。シャルル7世は決して信仰深い人物ではなかったし、また無能な人物でもありませんでした。彼は、ジャンヌダルクの死後20年以上戦って、1453年にイングランド軍を駆逐し、さらにフランス王権の強化に努めます。彼によってブルボン朝による絶対王政への道が開かれたといってよいのではないかと思います。その彼がジャンヌを用いた理由は、結局私には分かりません。
一方、ジャンヌは、何故シャルル7世のために戦ったのか。「神の声」に導かれたのか、それとも復讐心なのか。ただ、彼女の中に後世から見れば、新しい要素、つまり祖国としてのフランスという意識が見られます。当時にあっては、国民などというものは存在せず、一般の民衆にとって国王が誰であるかなどということは、どうでもよいことでした。そもそもフランス国民などというものが登場するのは、フランス革命においてでした。ただジャンヌは、祖国が真の危機にあるとき、祖国のために戦わねばならないこと、そして正統なる君主を伝統の地ランスで戴冠させねばならないとして、そのために戦ったのだと思います。シャルル7世がジャンヌを用い、男たちがジャンヌの下で戦った理由は、その辺にあるのではないかと思います。
ジャンヌによってフランス国民意識が形成されたとするのは、言い過ぎだと思いますが、その片鱗が認められるように思います。そしてジャンヌが人々から高く評価されるようになるのは、19世紀に国民意識が発展してきた時代でした。この時代にジャンヌはフランス国民の象徴とされ、さらに聖人に祭り上げられました。しかしジャンヌについては疑問点が多すぎ、ジャンヌの実像がどのようなものであったのか、未だに私には分かりません。


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