2015年8月1日土曜日

映画で西欧中世を観て(6)

フランチェスコ

1989年のイタリア・西ドイツによる合作映画で、フランチェスコ(フランシスコ)会の創始者であるフランチェスコの半生を描いています。彼の洗礼名はジョバンニですが、父がフランスと商売していたか、母がフランス人だった理由で、「フランス人」という程度の意味でフランチェスコと呼ばれました。フランチェスコという名は当時としては珍しい名でしたが、その後広く用いられるようになり、イエズス会のフランシスコ・ザビエルやアメリカのサンフランシスコといった都市にも用いられています。











フランチェスコが生まれたのは、イタリア中部にあるアッシジという、商業で栄えた町でした。彼は1182年に富裕な商人の家に生まれ、父親に溺愛され、享楽的な生活を送っていましたが、1205年頃から回心への道を歩き始めます。彼の回心のきっかけについては、さまざまな伝承があり、はっきりしませんが、ある時神から「行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞いたとされます。父は、家業の商売に背を向ける息子に怒り、司教の前で父子は対決しますが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、自分にとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切りました。彼は一切の所有を拒否し、托鉢で生活し、ハンセン病患者などへの奉仕を行います。
 当初、彼の行動は奇異なものとして軽蔑されましたが、しだいに彼に共感する人々が増え、全財産を捨てて参加する人々がでてきました。やがて彼らは自分たちを「小さき兄弟団」とよび、現在もこれがフランチェスコ会の正式名称です。彼らは活動の認可を得るため、1210年にローマ教皇に謁見します。彼らの活動は、当時の教会の基準からすれば、異端すれすれでしたが、教皇はこれを認可します。それ以降、フランチェスコ会への参加者が全ヨーロッパから集まり、「小さき兄弟団」は巨大な集団へと発展していきます。
このようにフランチェスコ会が成長したのは、当時の教会体制が時代の要請に応えられなくなっていたからです。今や教会は大荘園領主であり、教会は領主として農民の労働と精神を支配していました。ところが商業が発展し、都市が成長し、その結果貧富の差が拡大すると、教会は都市の人々に対応する術をもちませんでした。農村には共同体があり、人々はその共同体の一員として生きていくことができましたが、都市では人々は孤立しており、孤独でした。フランチェスコ会は、こうした新しい時代に対応するものでした。彼らは荘園を含む一切の財産を所有せず、托鉢によってのみ活動するという、まさに都市型の宗教だったのです。こうした団体を托鉢修道会と呼びますが、同じころスペインでドミニコ修道会という托鉢修道会が設立されています。そしてフランチェスコ会もドミニコ会も、ローマ教会を支える重要な支柱となっていきます。
映画は、初期の入会者たちが、フランチェスコについて回想する形で進められていきます。話があちこちに飛ぶため少し分かりにくいのですが、この映画の本題は、あまりに巨大となったフランチェスコ会の運営を巡るフランチェスコの苦悩を描くことです。彼は所有を否定し清貧を貴びますが、何千人もの会員が托鉢のために歩き回れば、それはもはや浮浪者の集まりです。しっかりした会則を作り、人々を統制する必要があり、そのためには資金も必要とします。しかし彼はそれを断固拒否します。彼はただ自らが清貧に生きたかっただけであり、できれば他の人々にもそうして欲しかっただけなのでしょう。
 彼は会から離れて山中を放浪します。巨大な組織の存続と彼が真に願う信仰があまりに乖離していたため、苦悩を深め、体も衰弱していきます。彼は小鳥や動物とも話したと言われます。これは鹿野苑(ろくやおん)で鹿が仏陀の説教を聞いたという話と似ていますが、これはキリスト教にあっては特異な思想です。聖書は、人間を神の姿に似せて造ったとしており、人間はすべての生物の頂点にあります。しかし仏教は生あるものすべてを対等に見ます。そしてフランチェスコもまた同様に考えます。1980年、ローマ教皇はフランチェスコを「自然環境保護(エコロジー)の聖人」に指定したそうですが、それは少し違うような気がします。「自然環境保護」というのは、人間が自然を守ってやるという思想だと思います。
 1224年、フランチェスコは絶望して神の声を求め、山をさ迷い歩いている時、意識をうしないます。そして意識が戻った時、体に聖痕があることに気がつきます。聖痕とは、イエスが磔刑にされた時についた傷痕のことで、両手両足の釘の跡4カ所と槍を刺された傷1カ所のことです。聖痕は、キリストの受難への強い共感によって現れるとされ、事実かどうかは知りませんが、他にも例があるとのことです。その後フランチェスコは各地を回り、しだいに体力が衰え、目もほとんど見えなくなり、1226年に死亡します。44年の生涯でした。彼が回心してから20年程経っています。
 彼の死後まもなく、故郷のアッシジに壮大なサン-フランチェスコ大聖堂が建立され、さらにヨーロッパ各地に立派な聖堂が建てられます。一体フランチェスコの教えは何だったのでしょうか。これは明らかにフランチェスコの教えに反します。特に問題となったのは、フランチェスコの思想の原点である「所有」の否定ということでした。そこで考え出されたのが「所有」ではなく「使用」である、ということでした。このような言葉の使い分けは詭弁としか言いようがありませんが、フランチェスコの信仰が多くの人々に受け入れられ、その結果巨大な組織に発展していった時、フランチェスコの理想が非現実的だったのも確かです。
 その後フランチェスコ会は、ドミニコ会とともに異端審問を担い、16世紀以降は積極的な海外布教を行うなど、ローマ教会の先兵として重要な役割を担い、今日も世界中に多くの会員を擁しています。ただ、それはフランチェスコが真に願っていたものとは異なるような気がします。
 映画は、神への愛を貫こうとするフランチェスコの真摯な姿と苦悩が描き出されており、それなりによくできた映画だとは思いますが、ある程度の基礎知識がないと、非常に分かりにくい映画だと思います。

ブラザー・サン シスター・ムーン

1972年のイタリア・イギリスによる合作映画で、これもフランチェスコの半生を描いたものです。前の「フランチェスコ」は後半生を中心に描いた映画でしたが、この映画は前半生を描いています。「ブラザー・サン シスター・ムーン」というのは、フランチェスコ自身が好んで用いた言葉であり、この映画の主題歌の名称でもあります。「兄弟・姉妹である日や月よ」といった意味で、神が創造した大自然を意味していると思われます。映画全体で、多くの曲や歌が流され、大変美しく、感動的な映画です。
 フランチェスコは大した教養もなく、かろうじてラテン語を読める程度でした。しかしそれが幸いしたと言えるかもしれません。当時、聖書はラテン語で書かれており、それ以外の言葉で聖書を語ることは許されませんでした。したがって聖書を読める人は、ほとんどいませんでした。そうした中でフランチェスコは、聖書を俗語であるイタリア語で語り、音楽も利用して、巧みな説話で人々の心を捉えます。そうした芸能的ともいえる活動から、フランチェスコは「神の道化師」とも呼ばれました。それは高度な神学的知識を持った人の説話ではなく、「星の輝きを宿した無知」というべきものでした。
 この映画には、もう一人重要な人物が登場します。それはキアラ(クレア、クララ)という女性です。彼女は富裕な家庭に生まれ、映画ではハンセン病患者の世話をしたり、またフランチェスコに好意をもっていたことになっています。いずれにせよ、1210年にキアラは路上で説教するフランチェスコの言葉に感銘し、フランチェスコに従うことになります。当時の若者たちは、暗くて権威主義的な教会に対して、明るくて分かりやすいフランチェスコの言葉に魅かれたようです。彼女はフランチェスコの言葉をよく守り、病弱となったフランチェスコの晩年には、1226年に彼が死ぬまで看病を続けます。彼女自身は1253年、59歳まで生きます。その間に彼女は、フランチェスコ会の女子修道会を組織し、それはキアラ会として今日まで続いています。
 映画は、1210年にフランチェスコが教皇インノケンティウス3世に謁見したところで終わります。インノケンティウス3世がなぜフランチェスコ会を認めたのかは諸説ありますが、当時同様の宗教運動が各地で興っており、もはや弾圧するより体制内に取り込んだ方が有利と考えたからだとされ、事実それは成功しました。映画では、教皇はボロをまとった素足のフランチェスコの前に跪き、その足に接吻します。これは多分事実ではないと思いますが、もし事実であるとするなら、インノケンティウス3世は名役者だったというべきでしょう。
 映画は、多少フランチェスコを美化しすぎているかもしれませんが、美しい音楽と美しい大自然、そしてフランチェスコの清らかな心には、誰もが心を打たれるでしょう。主題歌の「ブラザー・サン シスター・ムーン」は、名曲として知られています。


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