2020年8月11日火曜日

台湾映画「セデック・バレ」を観て


2011年に台湾(中華民国)で制作された映画で、日本の支配に対する先住民セデックの反乱(霧社事件、1930)を描いています。「第一部 太陽旗」と「第二部 虹の橋」を合わせて277分の大作です。なお、「セデック・バレ」とは、セデック語で「真の人」を意味するのだそうです。台湾については、このブログの「台湾映画「非情都市」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/blog-post_8669.html)「「図説 台湾の歴史」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2020/08/blog-post_10.html)を参照して下さい。
 台湾の面積は日本の九州と同程度で、島をほぼ南北に縦走する5つの山脈が島の総面積の半分近くを占めており、耕作可能地は島の約30%にすぎません。台湾には、古くから先住民が住み、その言語系統は東南アジアのそれに類似している部分があるということですが、これについては今後の研究が待たれるとのことです。なお、日本では「原住民」という言葉は「野蛮」を連想させるので、「先住民」という言葉を使うことが多いのですが、台湾では「先住民」という言葉はすでに居ない民族を連想させるため、「原住民」という言葉を使用するのだそうです。
 17世紀末に中国(清王朝)による支配が始まると、中国から台湾へ移民する人が増大し、西部の平地の開墾が進められ、平地に住む先住民との混血も進みました。したがってこれ以降の先住民は、高地先住民のことです。この時代に移住した人々は、今日本省人と呼ばれ、台湾人口の85パーセントを占めています。日清戦争の結果1895年に締結された下関条約により、台湾は日本に割譲されます。ただしこれは日本と清朝との政府間で決定されたことであり、台湾に住んでいる人々の意志とは無関係です。当時台湾には、11万人の先住民と290万人の漢人が住んでいました。
 台湾統治は、日本にとって最初の植民地統治であり、とりあえず中国による統治形態を踏襲しつつ、試行錯誤を繰り返していきます。時には、日本の統治が台湾の発展に役立ったと強弁されることがあったとしても、植民地統治の本質は植民地からの収奪であり、50年に及ぶ日本支配の間に、漢人や先住民による反乱はしばしば起きました。特に先住民に対しては、日本は強力な警察権力を通して統制し、さらに労役を課していたため、先住民の間に不満が高まっていました。
 その他に、様々な問題がありました。当時日本は、先住民を日本人と同じ小学校に通わせ、先住民の同化を図っていました。そうした中で花岡兄弟(実際には兄弟ではない)という先住民は、警察官に採用され、名前も日本風に改め、日本にとっては蛮人でもこのように文明化できるという宣伝材料となりました。実際には、二人の給料は日本人警官よりはるから安く、また常に日本人から侮辱されていました。そして反乱が起きた時、二人は警察と先住民との板挟みになって苦しみ、結局遺書を残して自殺します。悲しい結末でした。
 また、当時日本は先住民の統治を利する目的で、警察官に先住民の有力者の娘を娶ることを奨励していました。しかしこうした警察官の多くは、日本本土にすでに妻子がいましたので、本人が帰国すれば先住民の妻は捨てられることになります。先住民はこうしたことにも不満をもっており、霧社事件を率いた頭目モーナ・ルダオの妹もまた日本人警察官に嫁いでいましたが、夫は数年前に行方不明になっていました。頭目の妹がこのように捨てられたとしたら、それは許しがたいことでした。
 一方、先住民も一致結束していませんでした。先住民には、言語さえ違う民族が含まれており、古くから部族間の争いは絶えませんでした。当然部族の中には親日派もおり、モーナ・ルダオに反感をもつ人もいましたし、勝てる見込みのない戦いに部族を巻き込むわけにはいきませんでした。その結果、先住民族は結束できず、親日派の部族の中には、報償目当てで反乱者の討伐に加担する部族もいました。これもまた悲劇でした。
 反乱のきっかけは、1930107日にモーナ・ルダオの長男が引き起こした日本人警察官殴打事件でした。モーナ・ルダオにとって、このままでは長男が逮捕されることは確実ですので、決起の決意をしたとされます。それは最初から勝利の見込みのない、部族としての誇りを取り戻すためだけの戦いでした。セデック族は、誰からも支配されることなく自然の中で狩猟をし、先祖から伝わる掟に従い、暮らしていました。当時の官憲の資料によると、モール・ルダオは「気性は精悍、体躯は長大、そして少壮のころより戦術に長じている」とのことです。
 戦いは、当初はセデックが有利でしたが、やがて日本は大砲や飛行機を投入し、最後には毒ガスを使用したとも言われます。さらに山岳戦に慣れた親日派の先住民が投入されると、セデックたちは次第に追い詰められ、殺害され、自殺する者もあらわれました。そうした中で、戦っている男たちの妻たちは、やがて日本人により凌辱されることは明らかでしたので集団自殺し、モール・ルダオも山中深く入り、自殺しました。そして蜂起したもの700人が戦死し、500人ほどが投降して処刑されました。まさに悲劇でした。
 蜂起に参加した人々はほとんど戦死したため、彼らの証言を聞くことは出来ず、日本側の資料に依存するしかありませんが、ただ、映画で描かれるセデックの姿は、日本人に対する憎しみというより、セデックとしてのアイデンティティの喪失に対する哀しみでした。しばしば映画で、古老がセデックの伝承を歌います。「虹の橋に行けば、古の英雄たちに会え、自らも英雄になれる」と。

 1937年に日中戦争が始まると、本格的な皇民化政策が推進され、台湾人の母語の使用が制限され、新聞の漢文欄も廃止され、伝統的宗教行事も禁止されました。さらに日本語の使用強制、天照大神の奉祀や日本式姓名への改姓名運動が終戦直前まで強行されました。そうした中で、先住民による「高砂義勇隊」が結成され、南方戦線に送られました。かつて日本と闘った先住民族は、今や「天皇陛下万歳」を叫びながら死に、靖国神社に奉られることになったのです。これもまた、悲しい話です。


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