2016年8月31日水曜日

映画「戦場カメラマン 真実の証明」を観て 

2009年にアイルランド・スペイン・ベルギー・フランスによって制作された映画で、戦争における生と死の問題を扱っています。邦題の「戦場カメラマン 真実の証明」というのは、映画の内容を反映していないばかりか、誤解を与えるタイトルです。この映画の原題は「トリアージ」、つまり「選別」です。
 トリアージとは、例えば事故などで多数の負傷者が出た場合、治療の優先順位をつけることです。まず第一のトリアージは、生きているか死んでいるかであり、後は症状に応じて優先順位をつけていきます。本来、医療はすべての人を平等に治療するのが建て前で、このような選別は医療倫理に反する面もありますが、一方で、大規模事故が起きて医療のキャパシティーが不足した場合、このような選別を行う必要がある、という人もいます。どちらが正しいのか、私には判断できませんが、現実にトリアージは広く行われています。
 映画は、マークとデビッドという戦場カメラマンが、クルディスタンに取材に出かけるところから始まります。クルド人については、このブログの「クルド人の映画を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_494.html)を参照して下さい。時代は1988年で、フセイン大統領がクルディスタンの石油資源を奪うため、クルド人の虐殺を行っていた時代でした。二人はまずクルド人の拠点の一つを訪問します。そこでは、一人のクルド人医師が、次々と運ばれてくる負傷者の治療にあたっていました。そこで二人は衝撃的な事実を目撃します。医師は、負傷者が運ばれてくると、まず治療できる患者とできない患者に選別し、できない患者は医師自身が銃で射殺していました。人材も医療器具も医薬品も不足しているため、治療が困難であり、苦しんで死ぬのを待つより、早く楽にしてやる方が良い、ということです。そして、この病院で、このことに不満を持つ人はいませんでした。まさに、究極のトリアージです。
 妻が臨月を迎えていたデビッドは先に帰り、やや遅れてマークは負傷して帰ります。ところが先に帰ったはずのデビッドがまだ帰っておらず、またマークも精神的に不安定になっていました。心配した妻は、精神科医である彼女の祖父に夫の治療を依頼しました。彼はすでに80歳を過ぎており、スペイン内戦で多くの人を虐殺した反乱軍の兵士たちの精神治療に当たってきました。政府軍だけでなく、反乱軍の兵士にも、心を病む人々が沢山いたのです。マークの妻は、ファシストを治療した祖父を嫌悪していましたが、医者にとっては患者がファシストだろうと民主主義者であろうと、関係がありません。残虐行為を行って心が壊れた人々を治療したくないという思いは、医者にもあったかもしれませんが、それでも治療せねばならない、これもまたトリアージの問題なのです。つまり、トリアージの基準には、患者の地位や身分や思想は含まれません。なお、市民戦争がスペインの人々の心に残した傷については、「「子供たちのスペイン戦争」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_24.html)、「映画「サルバドールの朝」を見て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_27.html)を参照して下さい。
 心を閉ざしていたマークも、少しずつ真実を語り始めます。実は彼はデビッドと一緒に帰途についたのですが、途中で襲撃され、デビッドが両足を吹き飛ばされます。マークは何とかデビッドを連れて帰ろうとしますが、川を渡っているとき溺れそうになり、デビッドを離してしまいます。彼は友を見捨てた自分を恥じ、自分を責めていました。これもトリアージの問題でした。デビッドは、事故がなくても、おそらく目的地に着くまでに死んだでしょうし、もしここでマークがデビッドを離さなければ、おそらく二人とも死んでいたでしょう。戦争という異常な状況な中で、人々は絶えず生と死のトリアージを迫られます。そして映画は冒頭で、「戦場で生死を分ける決まり事などない。戦争とは、人が死ぬものだからだ。それだけが決まっている」と述べて、戦争の無惨さを訴えています。


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