2015年3月28日土曜日

映画でガイディとマザー・テレサを観て

ガンディー

1982年公開のイギリスとインドとの合作映画で、ガンディーを演じた役者は新人ですが、非常にガンディーに似ていたため、インド人の中にはガンディーの再来だと信じて、お参り来る人が絶えなかったとのことです。ガンディーについては、このブログの「第28章 帝国の崩壊とナショナリズム 」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/28.html)を参照して下さい。ただ、彼は非常に複雑な人物で、一言で述べるのは難しいように思います。
映画は、1948年のガンディー暗殺と葬儀から始まります。地位も金もない一人の人間の葬儀のために、世界中から政治家や思想家が参列しました。そして話は1893年の南アフリカに戻ります。この年24歳のガンディーは、イギリスで弁護士資格をとった後、南アフリカに向かいました。インド人は大英帝国の領域の至る所に進出し、南アフリカでは有色人種として差別されていました。彼は一等車に乗っていたのですが、有色人種であったため、列車から放り出されます。そしてこの時から彼の運動が始まります。
ここで大変興味深いのは、彼がインド人を大英帝国の臣民だと主張している点です。つまりヴィクトリア女王の臣民であり、女王の下にすべて平等だとしている点です。イギリスは多様な植民地をヴィクトリア女王の臣下とすることで、その維持を図ってきたのですが、ここでその矛盾が露呈されたわけです。(「映画で三人の女王を観る ヴィクトリア女王」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html)
彼は南アフリカで25年以上活動した後、1915年に46歳の時インドに帰ってきます。南アフリカにいた時は、彼はイギリス紳士風のスタイルをしていましたが、インドに上陸した時はヒンドゥー教の聖者のようでした。彼は非暴力・不服従運動を開始しますが、まもなく暴力事件が起こったため、運動の停止を命じます。その後彼が逮捕されたこともあって、運動は停滞しましが、彼は国民に非暴力の精神が侵透するのを待っていたように思います。
ガンディーは、ヒンドゥー教の聖者のような姿をし、糸巻で糸を紡ぎ、原始的生活をしているように思われましたが、同時に彼は優れた戦略家でもありました。まず彼はマスコミを巧みに使います。彼の周りには常にマスコミが張り付き、彼の行動は全世界に報道され、イギリスに圧力をかけていました。さらに彼は「塩の後進」と呼ばれる運動を演出します。海まで何百キロも歩いていき、海の水で塩を作り、それを販売するのです。たかが塩なのですが、多くのインド人がこの運動に参加したため、もはやイギリスも無視できず、10万人を超える人々を逮捕し、さらに無抵抗で前進するインド人を棒で殴り倒しますが、インド人は全くひるむことなく前進します。そしてこの情景が、マスコミを通じで全世界に報道されました。もはやイギリスに打つ手はなくなります。
第二次世界大戦後の1947年にイギリスはインドの独立を認めます。しかし今度はインド内部で問題が発生しました。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立です。もともと両者は共存していたのですが、イギリスによる離間策により、修復不能なまでに対立し、インドはほとんど内乱状態になります。ここでガンディーは伝家の宝刀を抜きました。対立が収まるまで断食すると宣言したのです。まさに死の断食です。その結果内乱はとりあえず収束に向かいますが、根本的な解決には至らず、1948年彼はヒンドゥー教の過激派によって暗殺されます。
その後ネルーが国造りに励みますが、それはおそらくガンディーが思い描いていた国とは異なるでしょう。また、インドはパキスタンとの間で何度も戦争を行い、今も両国の対立はつづいています。

ガンディーは、この程度の言葉では語りつくせない程複雑な人物ですが、ここでは映画の紹介という範囲に留めておきたいと思います。この映画で用いられたエキストラは延30万人を超え、ガンディーを演じたベン・キングズレーは新人でしたが、徹底的にガンディーの外見や仕草を模倣し、アカデミー賞主演男優賞を獲得しました。とくに男たちが無抵抗で警官たちに棍棒で殴り倒されていく場面は圧巻で、まさにイギリスの敗北を象徴する場面でした。

なお、インドについては、このブログの以下の項目も参照して下さい。
インド映画「ムトゥ」を観て 
インド映画「ボンベイ」を観て
現代史「第3章 南アジア」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/3.html


マザー・テレサ

2005年に制作されたイタリアとイギリスの合作映画で、生涯を貧困者の救済に尽くした修道女マザー・テレサの半生を描いたテレビ映画です。
マザー・テレサは、1910年にオスマン帝国領だったアルバニアに生まれました。アルバニアはイスラーム教・カトリック・ギリシア正教が混在する地域で、そうした環境が彼女の宗教観に影響を与えたかもしれません。彼女の言葉によれば、13歳の時に神の声を聴き、18歳の特に聖ロレト女子修道会に入り、インドのカルカッタ(コルカタ)に赴き、ここで1947年まで女子教育に専念します。1946年に彼女は、「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたとされます。これはガンディーの言葉でもあります。また映画では、ある年老いた乞食が「私は渇いている」と述べたとされています。これは十字架上でのイエスの言葉です。この時彼女は、貧者の中に神を見たわけですが、これはヒンドゥー教的でもあります。
こうしたことから、彼女は修道院の外へ出て、貧者への奉仕活動をしたいと思うようになりますが、尼僧は修道院の外で活動することは許されません。まして当時はインド独立前夜であり、イスラーム教とヒンドゥー教徒との対立が激化しており、カルカッタのスラム街は尼僧が一人で歩けるような場所ではありませんでした。しかし彼女は思い込んだら決して諦めない質のようで、ローマ教皇に手紙を書き、1948年についにローマ教皇から許可を得ました。38歳の時です。こうして彼女は、たたった一人でスラムでの生活を始めます。そしてこの年、ガンディーが暗殺されました。
1950年にローマ教皇から新たな修道院を設立する許可が与えられ、「神の愛の宣教者会」が設立されます。その目的は、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでした。こうしてシスター・テレサはマザー・テレサとなります。次第に彼女の活動を援助する人々が増え、やがては海外でも活動するようになります。その結果彼女の活動は世界中で知られるようになり、1977年にノーベル平和賞を受賞しました。そして1997年に87歳で逝去しました。その時、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていました。
 前に述べた「黒水仙」の尼僧たちは、圧倒的な自然と文明の重みの中で挫折し、「尼僧物語」のシスター・ルークは、従順の掟と自らの意志との葛藤から、修道院を去って行きました。それに対して、マザー・テレサは自らの意志を神の意志と信じて貫き通し、自らの修道院を造りさえしました。どれが一番正しいかということではありませんが、マザー・テレサの場合、優れてヒンドゥー教的であり、またガンディー的だったように思われます。


 なお映画では、かつてジュリエットを演じたオリヴィア・ハッセイが、マザー・テレサを演じていました。彼女も当時すでに50歳を超えていましたが、とてもチャーミングなマザー・テレサでした。

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