http://ace-int.org/oss-australia.com/aboutaustralia.html
ところで、オーストラリアとは、ラテン語で「南の地」という意味で、憲法上は立憲君主国です。オーストラリアはイギリス連邦に加盟しており、形式上その君主はイギリス国王(女王)ということになり、この点ではニュージーランドもカナダも同様です。これは日本人には分かりにくいことですが、19世紀に繁栄した大英帝国の名残だと考えればよいと思います。形式とはいえ、それぞれの国にはイギリス国王の代理である総督が存在しています。2000年に開催されたシドニー・オリンピックの開会式で、イギリスの総督が挨拶したことに気づいた人は、あまりいないのではないでしょうか。
もっとも、私もオーストラリアについてほとんど知りません。ずっと以前にオーストラリアに関する本を十数冊まとめ読みしたことがありますが、あまり印象に残っていません。そこでまず、予備知識としてオーストラリアの歴史を概観しておきたいと思います。
今から5万年前には、オーストラリアとニューギニアは一つの陸地を形成していましたが、1万5千年ほど前に海面が上昇し、オーストラリア大陸は孤立してしまいます。人種的には、マダガスカルから太平洋に散らばる島々に居住するモンゴロイドに属すると考えられています。彼らは、ヨーロッパ人からアボリジニあるいはアボリジニナルと呼ばれますが、これは「原住民」という意味でしかありません。ヨーロッパ人到来以前のアボリジニについては、ほとんど分かっていないようです。17世紀にオランダのタスマンがオーストラリアに到来しますが、植民地化しませんでした。ただ、オーストラリア南部のタスマニア島に、彼の名前が残っています。そしてイギリスのクックが、1770年にシドニー湾に上陸して領有宣言を行い、以後オーストラリアはイギリスの植民地となっていきます。
とはいえ、当時のイギリスはこの広大な大陸をどのように扱うのか、何の考えもありませんでした。一方、当時のイギリスでは土地囲い込みが進行して農民が土地を失い、彼らが都市に流入して犯罪が激増していました。政府はこうした犯罪者を流刑囚としてアメリカ植民地に送り込んでいたのですが、1776年にアメリカが独立宣言を行い、もはや囚人を送ることができなくなりました。その結果、国内では囚人がたまる一方でした。こうした中で思いついたのが、囚人をオーストラリアに送るということです。こうして1788年に最初の囚人が送り込まれ、以後次々と囚人が送られていきます。オーストラリアは、まさに流刑植民地として始まったのです。
19世紀になると内陸の開拓が進められ、牧羊業が発展します。当時イギリスで毛織物工業が発展していたため、羊毛の大半はイギリスに輸出されました。こうした中で、流刑徒以外の入植者も増え、しだいに流刑植民地としての性格が薄まって行きます。19世紀後半になると各地で金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが始まりました。その結果中国を中心に大量のアジア系の人々が労働者として流れ込みました。当時中国ではアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱などが起きて混乱していたことが背景にあります。こうした中で、中国人に対する反発が強まり、そこからやがて白人至上主義的な白豪主義が形成され、さらにそれは人種差別を国是とする法制化にまで至りました。こうした問題は労働問題と深く関わっています。人口の絶対数が少ないため、労使関係は労働者に有利に働きますが、アジア系の低賃金労働者の流入は、白人労働者の脅威となります。似たようなことは、同じ時代のアメリカでも起こっており、中国人や日本人の移民が排斥されます。
オーストラリア人のほとんどはイギリス人の入植者でしたから、オーストラリアはあらゆる点でイギリスに依存していました。第一次世界大戦では、人口500万に満たないオーストラリアは40万の兵を戦線に送り、6万人近い死者を出しています。戦後自治領の発言権が強まると、1931年にイギリスはウェストミンスター憲章によって白人自治領に本国と対等の地位を与えますが、イギリスへの依存意識の強いオーストラリアはこれを批准しませんでした。1939年に第二次世界大戦が始まると、今回もオーストラリアは軍隊を派遣し、1941年に日本が真珠湾攻撃を行うと、日本にも戦線布告します。
ところで、第一次世界大戦後南太平洋の旧ドイツの植民地は、赤道を境に北が日本の、南がオーストラリアの国際連盟委任統治領となります。そして1942年に日本軍がイギリスの植民地であるシンガポールを陥落させると、オーストラリアは大きな衝撃を受けます。もはやイギリスにはオーストラリアを守る力がないことは明らかだからです。そしてこの年オーストラリアはウェストミンスター憲章を批准してイギリスから事実上独立し、アメリカに接近していきます。その後日本軍は南太平洋の島々を占領し、さらにオーストラリアを直接爆撃するようになります。そして映画「オーストラリア」の舞台となったのは、この時代のオーストラリア北部の町ダーウィンです。
次に、オーストラリアの先住民であるアボリジニについて、すこし述べておきたいと思います。「裸足の1500マイル」のテーマとなったのは、このアボリジニの問題です。アボリジニとは、ab-origin(源から)つまり「先住民」を意味します。イギリス人が移住した頃のアボリジニ人口は50万から100万人とされていますが、はっきりしません。入植したイギリス人の多くは流刑囚だったので気が荒く、彼らは多くのアボリジニをスポーツ・ハンティングの対象として殺害しました。さらに19世紀前半に、開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行されたため、アボリジニの人口は10分の1にまで減少したとされます。そのため、アボリジニは「死にゆく民族」と呼ばれました。
19世紀後半にオーストラリア政府は、アボリジニの保護を名目に、アボリジニとの混血の児童を親から引き離し、隔離施設に入れる法律を作りました。この法律は、名目上アボリジニの文明化のためということになっていますが、実態はアボリジニとしてのアイデンティティを失わせるものでした。この時代は「盗まれた世代」と呼ばれます。その後1967年にアボリジニに市民権が与えられ、69年には隔離政策が廃止され、2008年には政府はアボリジニに公式に謝罪しましたが、今となっては手遅れです。なお、アボリジニは飲酒文化を持たず、また遺伝的にもアルコール分解酵素が極端に少ないため、体質的に少量の酒で泥酔しやすいそうです。そのためアボリジニにはアルコール依存症が多く、深刻な社会問題となっています。
第二次世界大戦後、ヨーロッパでは戦争で多くの人が死んだため、白人移民は減り続けました。その結果、国力の基礎となる人口増加が鈍化したため、1980年代からは白豪主義を撤廃し、世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行しました。対外的にはアメリカ依存を強めるとともに、アジア・太平洋地域の一員となることに努めています。
裸足の1500マイル
2002年に、オーストラリアで実話に基づいて制作された映画で、原題は「うさぎよけフェンス」ですが、その意味については後で述べたいと思います。時代は1931年、場所は西オーストラリア州で、映画はオーストラリア政府による非道なアボリジニ政策により翻弄されたアボリジニの少女たちの姿を描いています。なお、西オーストラリア州は、オーストラリア全体の3分の1を占めますが、その90パーセントが砂漠か半砂漠で、人口の多くが州都パースに集中しています。
前にアボリジニ保護政策について述べましたが、20世紀に入ると、特に優生学の観点から、アボリジニの混血女性を白人男性と結婚させ、アボリジニを白人化させるとともに、アボリジニの文明化を図るという政策が推進されます。そのため、各地にアボリジニ保護官と収容施設が建設され、各地から組織的にアボリジニの混血児を強制的に親から引き離し、施設に入れるようになりました。この論理から言えば、混血の男子を白人女性と結婚させてもよい分けですが、そのような発想はありません。明らかに欺瞞です。移民社会は一般に男性が多く、女性が少ない傾向があります。こうした事情から考えても、この政策はアボリジニを白人男性の性の道具としようとする思惑も垣間見えます。
映画は、西オーストラリア・ギブソン砂漠の端に位置するジガロングという村に住む3人の混血児が、保護官により獣のように檻に入れられて、パース近郊の施設まで連れて行かれます。14歳のモリーと妹の8歳のデイジー、モリーの従妹である10歳のグレイシーです。話は逸れますが、移住者たちは食用あるいは狩猟用にウサギを持ち込みますが、オーストラリアでは天敵となる大型肉食獣がいないため、ウサギが大繁殖します。これが牧畜業に被害をもたらしたため、政府は西オーストラリア州の南北に5000マイル(約8000キロ)に及ぶ「うさぎよけフェンス」を建設しますが、このフェンスの建設過程で作業員の男たちが現地の女性を犯し、多数の混血児が生まれることになりました。この3人の少女たちも、そうして生まれた子供たちでした。
施設では現地語を話すことが禁じられ、厳しい日課が課せられます。大自然の中で自由に生きてきた子供たちには耐えられません。時々脱走者が出ますが、アボリジニの追跡人が必ず捕まえます。アボリジニが混血児の追跡人というのは皮肉な話ですが、実は彼の娘も施設に入れられており、いわば人質をとられている分けです。モリーもデイジーとグレイシーを連れて脱走します。巧みに足跡を消し、追っ手を逃れます。そして「うさぎよけフェンス」に沿っていけばジガロングにたどり着けることを知ります。これが、タイトルの「うさぎよけフェンス」の意味です。保護官は、ナチスのアイヒマンのように命令に忠実で、徹底的に逃亡者を追い詰めます。彼は言います。「混血児を文明化する……。人種交配も三代で肌の黒さは消滅します。白人文化のあらゆる知識を授けてやるのです。野蛮で無知な原住民を救うのです」
途中でグレイシーが捕らえられますが、モリーとデイジーはひたすら歩き、故郷にたどりつきます。9週間かけて1500マイル(約2400キロ)を歩きます。それは北海道の稚内から沖縄の那覇までの距離に相当するそうです。映画はここで終わりますが、後日談があります。その後モリーは砂漠の奥地に入って結婚し、2人の女の子を生みますが、1940年に娘達と共に再び収容所へ移送されました。そして翌年、モリーは上の娘ドリスを残し、当時一歳半のアナベルだけを連れて再び脱走し、九年前と同じ道を辿って故郷へ戻ります。ところがその三年後、娘のアナベルが再び施設へ送られてしまいます。
一方、4歳のドリスは収容所で一人残され、白人の思惑通り、白人に同化されていきます。ある時、彼女は父親の写真を見て、自分が白人ではないことに気づき、自らのアイデンティティを探し求めるようになります。そして叔母のデイジーから聞いた話をもとに、彼女は「うさぎよけフェンス」を著し、それが映画化されたわけです。そして、この映画が制作された段階で、モリーもデイジーもまだ生きており、映画の最後に少しだけ顔を出します。
この映画で語られたことは、まったく非道な行為ですが、ただ、オーストラリアだけを責めることはできないと思います。この時代は、世界的に見てこうしたことが当然のように行われた時代でした。一つの民族による一つの国家という国民国家の概念や、白人種が他の人種より優れているという優生学的な理論が普及し、劣った種族を絶滅しようとするジェノサイドが行われるようになりました。ナチスによるユダヤ人虐殺はその典型的な例ですが、日本でも明治時代に北海道旧土人保護法が制定され、アイヌの土地収奪や文化の抹殺を行いました。この法が廃止されたのは、実に1997年のことです。映画におけるアボリジニに対する白人の態度には怒りを禁じえませんが、それは決して他人事ではないのだと思います。
オレンジと太陽
2011年にイギリスで制作された映画で、児童強制移民について扱っており、これも実話です。児童強制移民について、私はまったく知りませんでしたが、何しろ公表されたのが21世紀になってからなので、ほとんどの人が知らなかったと思います。
児童強制移民とは、19世紀頃から本格化した制度で、孤児院の子どもたちを、親がいようがいまいが、白人植民地に強制移住させるという政策です。子供が孤児院に入れられるのには色々事情があり、両親が死んでしまった場合、親が子を育てられなくて一時孤児院に預けた場合、あるいはよい家庭で養子として育ててもらいたい場合などがあります。ところが、孤児院は、孤児たちに両親が死んだと伝え、「太陽が光り輝き、毎日オレンジが食べられる国へいくのだ」とだまして、植民地へ送り込んでいました。そして親が子供を引き取りにきたときには、すでに立派な家庭に養子に出したので、ここにはいないと説明します。
イギリスという国は、政治的・宗教的な不満分子はアメリカに亡命し、囚人はオーストラリアに流し、孤児はオーストラリアなど植民地に放り出し、そうすることで国内の均衡を保ってきた国のように思われます。孤児については、オーストラリアだけではなく、カナダ、ニュージーランド、ローデシア(現ジンバブエ)などにも送り込みましたが、20世紀半ば頃からはオーストラリアが主要な受け入れ先となります。
では、一体なぜ孤児を植民地に送り込んだのでしょうか。はっきりした理由は分かりませんが、一つには厄介者を排除するというイギリスの思惑があったでしょう。しかしそれ以上に、植民地とイギリス本国に共通する思惑があったように思います。イギリスの白人植民地は、当然のことながら移住者から成り立っているため、白人の人口が少なく、そのまま放置すれば、やがて現地人に飲み込まれてしまいます。そこで孤児を送って白人人口を増やそうとするわけですが、これはアボリジニの混血女性を白人と結婚させて、アボリジニを白人化するという発想と同じです。映画ではオーストラリアのケースしか扱っていませんので、他の国に送られた孤児が、その後どうなったのか分かりません。ただ、1950年代にオーストラリアへの孤児の移民がピークに達し、この映画の舞台となった1980年代には、彼らの多くはまだ生きていたということです。
映画では、イギリスのほぼ中央部にあるノッティンガムで児童福祉士として働くマーガレット・ハンフリーズという女性のもとに、1986年に一人の女性が訪ねてきました。彼女は、自分は4歳の時に両親が死んで孤児院に入れられ、分けもわからずにオーストラリアに送られたこと、記憶にあるのはノッティンガムという地名だけだということ、そしてもし母が生きているなら探して欲しいと言って、オーストラリアに帰って行きました。マーガレットは、いろいろ調べていくうちに、オーストラリアに送られた孤児が相当たくさんいること、しかもこの移民には政府・教会・慈善団体が関わっていることが分かってきました。
オーストラリアに送られた孤児たちは、汚い建物に閉じ込められ、奴隷のように働かされ、そして孤児院を出るときは、今までの養育費を借金として支払わされます。かつて孤児だった人々の話を聞き取りしている内に、彼女は彼らの心の痛みを自ら感じ、外傷性ストレス障害になってしまいます。さらに政府や教会や慈善団体からさまざまな嫌がらせを受けます。しかし夫の援助もあって、多くの孤児たちの家族を探し出し、マスコミでも取り上げられるようになり、彼女の仕事は人々から認知されるようになります。そしてこの映画の制作が始まると、オーストラリア政府は2009年に、イギリス政府は2010年に事実を認め、正式に謝罪しました。彼女が調査を開始してから25年もたってからです。
こうした非道な行いは、世界の長い歴史の過程で数えきれない程行われてきたでしょう。そしてその多くは、闇に葬り去られてきたでしょう。しかしたまたま知ることができたことについては、事実を解明し公開する責務が人間にはあると思います。そして、小さな町の一介の児童福祉士だったマーガレットは、それをやり遂げたのです。
オーストラリア
2008年にオーストラリアで制作された映画で、オーストラリアとはどのような国かを描いており、オーストラリア的なさまざまな側面が描かれています。
オーストラリアの都市として日本によく知られているのは、シドニーとかメルボルンであろうと思います。実際、シドニーの人口は500万弱、メルボルンの人口は450万弱、オーストラリアの人口が2000万強ですから、あの広大なオーストラリアで人口の半分近くが、この2つの都市に住んでいるわけです。そして、この映画の舞台となったダーウィンは、ノーザンテリトリー準州(北部領域)の州都ですが、ノーザンテリトリーは9割が砂漠で、人口20万人のうち6割がダーウィンに住んでいます。ダーウィンへの本格的な入植は19世紀の後半に金鉱が発見されてからで、アボリジニが比較的多く残っており、またアジア系の移民も多く、非常に多文化的な都市となっています。
映画は、イギリスの貴族サラ・アシュレイ夫人が、オーストラリアに牧場経営のため行ったきり帰ってこない夫を連れ戻すために、ダーウィンへやって来ることから始まります。イギリスの貴族や金持ちが植民地に投資するということはよくあることですが、それにしても荒くれ者の集まるダーウィンで、アシュレイ夫人はいかにも場違いです。しかし、イギリスへの依存心やコンプレックスをもつオーストラリア人は、この貴婦人を眩いものでも見るかのように見つめます。
港まで彼女を迎えに来たのはドローヴァーという「牛追い」でした。「牛追い」とはカウボーイで、牛を内陸から港や駅に運ぶのを仕事とする人々です。オーストラリア人には、荒々しい植民地人という気風があります。アメリカでは、東部はイギリスへの帰属意識が長く続きますが、真のアメリカ人は西部で生まれたとされます。同じように、真のオーストラリア人は内陸部で生まれたとされます。そしてドローヴァーは、荒々しいオーストラリア人の典型として描かれているのだそうです。
アシュレイ夫人はドローヴァーの案内で夫の牧場へ行きますが、夫はすでに殺されていました。犯人は、夫の牧場を手に入れようとした近隣の大牧場主でしたが、証拠がないので、どうすることもできません。このままでは、牧場の経営が危ういため、ドローヴァーの力を借りて、残された1500頭の牛をダーウィン港まで連れて行き、軍に食料用牛肉として売ることにしました。当時第二次世界大戦が始まっており、オーストラリアもイギリスに援軍を送っており、さらに日本が南太平洋に進出していましたので、軍も食料用の大量の牛肉を必要としていました。こうして、1500頭の牛を引き連れて、はるか彼方のダーウィンに向けた壮大な旅が始まります。その過程で、オーストラリアの荒々しくも美しい自然がたっぷりと映し出されます。
ところで、牧場にはナラという名前の混血児がいました。混血児は、見つかると強制的に収容所に入れられるので、白人が来ると隠れていました。そしてそこへアシュレイ夫人が訪れることになります。ナラの母はアボリジニで、白人男性に犯されてナラを生みます。ナラは非常に聡明な少年で、実はこの物語全体がナラによるナレーションで展開され、白人でもアボリジニでもない混血児の目を通して、オーストラリアが語られます。映画の冒頭で、ナラは「この土地を僕の祖先は色んな名前で呼んでいる。でも白人をこの土地をオーストラリアと名付けた」と語ります。
ナラの母の父、つまり祖父はキング・ジョージと呼ばれるアボリジニのシャーマン(祈祷師・霊媒師)で、不思議な力をもっており、折に触れてナラにもその力を教えていました。私にはよく分かりませんが、アボリジニの宗教は歌と深く関わっているようです。アボリジニの神話は、彼らの祖先が歌を歌いながら自然のすべてを創造したというもので、歌を歌うことで、自然と共鳴するのだそうです。ナラやキング・ジョージは、時々自然に語りかけるように歌を歌いますが、その歌には人の心を引きつける穏やかさがあります。私には、キング・ジョージがヒンドゥー教の聖人のように思われました。
白人はアボリジニに虐待しつつも、同時にアボリジニが不思議な力をもつものとして畏怖の念も抱いていました。実際にアボリジニが不思議な力をもっているのかどうか分かりませんが、少なくとも彼らは自然の中で生きていく達人でした。白人が内陸部に入ろうとするなら、彼らの助けなしには不可能でした。映画では、このような白人とアボリジニとの微妙な関係が描き出されると同時に、アボリジニの混血を白人化するという非道も行われている、というのが当時のオーストラリアの現実でした。
結局、アシュレイ夫人はオーストラリアに残ることを決意します。ドローヴァーを愛するようになったということもありますが、オーストラリアの壮大な自然、荒々しいカウボーイやアボリジニとの交流、様々な未知なる経験を通して、彼女は新たな自分を見出していったからです。そして彼女はナラを自分の子どもとして育てようと決意します。しかしナラは、キング・ジョージの勧めでウォーキング・アバウトに出たいと言います。ウォーキング・アバウトとは、大人になる前に一人で内陸を旅することで、アボリジニの大人になるための通過儀礼でした。アシュレイ夫人は、幼い子が一人で危険な旅をすることには断固反対しました。そんなことはイギリスではあり得ないことです。しかし彼女は分かっていませんでした。彼女の保護のもとでナラを育てるということは、混血児を収容所に閉じ込めるのと同じことだったのです。
収容所で育ち、通過儀礼を行わなかった人には、しばしばアイデンティティ・クライシス=自己喪失が起き、心理的な危機状況が生じることがあるそうです。アボリジニにとってウォーキング・アバウトは、アイデンティティを獲得するための重要な通過儀礼でした。キング・ジョージは、繰り返しナラに「大事なことは自分の物語もつことだ」と言います。それは、自らのアイデンティティを形成せよという意味ではないかと思います。この間いろいろな事件があり、それを通じてアシュレイ夫人は自分の過ちに気づき、最後に彼女はナラをキング・ジョージに託して旅立たせます。
私はオーストラリアについての知識がほとんどありませんので、この映画については、この程度のことしか書けません。ただ、この映画自体は娯楽映画などで、あまり難しく考えて見る必要はないと思います。ちょうどアメリカの西部劇を観ているような感覚で楽しむことができる映画でした。
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