2014年10月17日金曜日

映画でゲバラを観て

 ゲバラに関する映画を4本観ました。ゲバラは、カストロとともにキューバ革命を指導した人物で、人生を革命にささげ、今でも世界中に彼の崇拝者がたくさんいます。まず、映画について述べる前に、彼の生涯を簡単に述べておきたいと思います。
 ゲバラは、1928年にアルゼンチンの富裕な家庭に生まれました。カストロより2歳年下です。彼の本名は「エルンスト・ゲバラ」ですが、「チェ・ゲバラ」と呼ばれることが多いようです。「チェ」とは、親しみをこめて「おい」とか「お前」という意味で、ゲバラがこれをよく使っていたため、これがゲバラの愛称となり、今では「チェ」といえばゲバラのことを指します。彼は幼少の時から喘息を患っていましたが、ラグビーとかサッカーのような激しいスポーツを好み、当時は「フーセル(激しい男)」というあだ名がついていました。
 1948年にブエノスアイレス大学の医学部に入学し、本来6年の過程を3年で卒業して医師免許を得ました。この間に、半年に及ぶ南米縦断旅行をしているわけですから、彼がいかに秀才だったかが分かります。この頃のアルゼンチンはペロンの独裁体制下にあり、またエヴァ(映画でラテンアメリカの女性を観る エビータ」参照)が死亡します。大学卒業後、ゲバラは、1953年に再び放浪の旅にでます。ボリビアでは1952年に革命が起き、大胆な改革が開始されたばかりで、これにゲバラは非常に感銘を受けます。グァテマラでは、1950年以来大胆な改革が行われており、ゲバラはここで医師としての生活を始めます。この間にペルーから亡命してきた女性活動家に出会い、彼女の影響で社会改革に目覚め、やがて彼女と結婚します。しかし1954年にグァテマラにCIAが介入し政府が転覆されると、失意のうちにメキシコへ亡命し、この頃から本気で武力革命の必要性を考えるようになります。
 1955年にゲバラは、キューバから亡命してきていたカストロに出会い、翌年彼とともにキューバに上陸、喘息に苦しみながらゲリラ戦を展開、59年にキューバ革命を達成します。あの病弱で、繊細で、心優しい青年が、いつの間にか筋金入りの革命家に成長していました。この年ゲバラは、通商使節団とともに日本を訪問し、各地の工場を視察するとともに、広島を訪問して原爆死没者慰霊碑に献花しました。これ以来、キューバでは現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下がとりあげられているとのことです。
 革命後600人に及ぶ旧バティスタ派の人々の処刑を指揮し、これがゲバラの冷酷さの証拠として喧伝されていますが、彼がこうした行動をとった背景には、グァテマラでの苦い経験があったからでしょう。CIAは、反対勢力を武装させて政府を転覆させる、というのが常套手段でしたから、それを未然に防ぐ必要がありました。その後社会主義的な政策を推し進めていきますが、アメリカによる経済封鎖のため経済は好転せず、キューバ危機後は、ゲバラはソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難したためソ連と対立し、政府内でも孤立していきます。

 1965年、ゲバラはカストロ、父母、子供達に手紙を残してキューバを離れ、動乱の続くコンゴで革命の指導を試みますが失敗し、一旦帰国した後、翌年ボリビアに向かいます。ボリビアを選んだ理由は、かつて彼が滞在していた時に行われた改革は潰され、軍事独裁に移行していたこと、またボリビアは地理的に南アメリカの中央にあって多くの国と国境を接しており、革命の拡散に適していたこと、などがあげられます。しかし、ボリビア軍はCIAなどからゲリラ対策の特殊訓練を受けており、さらに、「リヨンの虐殺者」として知られたナチスのバルビーが、ボリビアの軍事顧問となっていました(映画でヒトラーを観て 敵こそ我が友」参照)。こうした中で、ゲバラはしだいに追い詰められ、1967年に捕らえられて射殺されました。

ゲバラは、一方で世界中に紛争をまき散らすと批判されますが、彼の直接行動主義と理想主義は多くの人々の心を捉えました。とくに中南米では彼は絶大な人気があり、さらに第三世界や反米的な若者たちには今も多くの崇拝者がいます。彼の顔をプリントしたTシャツは、現在でも見かけます。












ゲバラの語録から3つだけあげておきます。(ウイキペディアより)
バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ。
  世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。
  もし私達が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだ」。
そしてカストロはゲバラを、「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評しました。

モーターサイクル・ダイアリーズ

2004年のイギリス・アメリカによる合作映画ですが、使用される言語はすべてスペイン語です。この映画は、23歳の医学生だったエルンストが、1952年に南米を友人と二人で縦断するという話で、エルンストの日記に基づいて制作された映画です。映画の冒頭で、「これは偉業の物語ではない。同じ大志と夢をもった二つの人生が、しばし並走した物語である。」と述べられます。
友人とはアルベルト・グラナードで、自称放浪化学者、29歳で、夢は30歳までに旅を終えることです。「目的 本でしか知らない南米大陸の探検。旅行計画 4か月で8000キロ走る。方法 行き当たりばったり」ということです。ブエノスアイレスから出発し、まず南部のパタゴニアに入り、チリに入って標高6000メートルのアンデス山脈を越え、そこからマチュピチュを訪問し、さらにペルーのハンセン病療養所に滞在した後、ベネズエラに至ります。実際には12000キロを走破し、7か月以上かかりました。
古いオートバイに大の男が二人乗り、たくさんの荷物を積んで走ります。僅かなお金と食糧しかありません。オートバイは何度も故障し、また転び、よれよれで走って行きます。それは痩馬ロシナンテをともなったドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅のようでした。3000キロ程走ったところでバイクは修理不能なまでに故障し、そこから先はモーターサイクルではなくヒッチハイクとなりました。もしかすると、エルンストの一生はドン・キホーテの物語と同じだったのかもしれません。
 二人はペルーのハンセン病療養所に滞在しますが、ここは女子修道院が運営しており、そこでは患者以外は手袋をはめる規則がありました。しかしハンセン病は接触では感染しません。これは明らかにハンセン病患者に対する差別です。エルンストは、手袋をはめるのを拒否してハンセン病患者と握手し、修道院長を怒らせてしまいます。二人はそこでしばらく働いていましたが、いよいよそこを去る前日、それはエルンストの誕生日でもありましたが、職員たちが盛大に祝ってくれました。ところが、そこには患者たちの姿は見当たりません。病棟は川を隔てた向こう側にあり、ボートも隠されていました。患者たちは隔離されていたのです。エルンストは患者たちと一緒にパーティーをしたいと主張し、危険をおかして対岸まで泳いで渡っていきます。ここに、どんな時にも正義を貫こうとする、後のチェ・ゲバラの面影をみることができます。

 話がそれますが、日本では明治時代にらい()予防法が制定され、その後何度か改定され、ハンセン病患者は隔離され続けました。しかしハンセン病は感染力が弱く、1940年代には治療法が確立された病気でした。しかし日本はらい予防法を廃止せず、この間に患者に対して強制的に断種手術や堕胎手術が行われるなど、きわめて非人道的な政策が行われていました。1958年に国際ハンセン病学会がらい予防法の廃止を勧告しましたが、そのまま維持され、1996年にようやく廃止されました。

 この映画は、さわやかな青春物語です。青春時代には、誰もが荒野を手探りで歩いています。そしてさまざまな障害にぶつかり、さまざまな人に出会い、それらの影響を受けてさまざまな選択を行いつつ自分の道を歩いて行きます。この旅の物語は、まさに青春時代そのものです。そしてエルンストは、この旅を通じて革命への道を突き進んでいくことになります。
 なお、アルベルトは1960年にエルンストによってキューバに招かれ、キューバの医療教育に大きな役割を果たします。そしてこの映画が制作されたとき、彼はまだ生きており、映画の最後に少しだけ顔を出します。


革命戦士ゲバラ

1969年にアメリカで制作された映画です。1969年といえば、ゲバラが殺されてから、まだ2年しか経っていません。
映画は、ゲバラが射殺されたところから始まり、次に1956年にカストロらとともにキューバに上陸する場面に戻ります。初めゲバラは軍医として参加したのですが、しだいに軍事的能力を認められ、やがてカストロは何事につけてもゲバラに相談するようになります。映画では、事実上ゲバラが指揮しているかのようで、ゲバラの側にいるとカストロが間抜けに見えます。アメリカ人は、どうしてもカストロを悪く描きたいようです。
革命成功後、皆が陽気に浮かれている時も、ゲバラは陰気な顔をして元政府派の人々の処刑を認可する書類にサインをし続けます。ここでは冷酷なゲバラが描き出されています。要するに過激な政策はほとんどゲバラの指示によるもので、ソ連のミサイル基地建設を望んだのもゲバラということになっています。やがて彼はキューバに飽きたらず、世界革命を目指して外国で戦うことを決意します。カストロは懸命にゲバラを引き留めますが、結局ゲバラはキューバを去ります。
ボリビアでは苦戦を強いられます。すでに50年代の革命で土地を手に入れていた農民は革命に関心がなく、ボリビア共産党は協力を拒み、さらにCIAによって対ゲリラ戦を訓練された軍隊は手ごわく、結局1967年に捕らえられ殺害されました。「ゲバラは生きている」という伝説が残ると厄介なので、軍は遺体を見世物にし、証拠として両手首を切り落として埋葬します。そして映画は最後に、ゲバラ殺害についてCIAは一切関わっていないと主張しますが、実は最初から最後まで関わっていました。
結局、ゲバラは無謀で冷酷な理想主義であるというのが、この映画の主張のようです。なおゲバラの遺体は、1997年にキューバとボリビアの合同捜索隊により発見され、遺族らが居るキューバへ送られて埋葬されました。

チェ 28歳の革命

2008年のアメリカ・フランス・スペインの合作映画です。本来、次に述べる「チェ 39 別れの手紙」を含めて一本の映画だったのですが、上映時間が4時間30分に及ぶため、二本に分割しました。映画は、1955年のメキシコから始まります。メキシコからヨットでキューバに渡り、政府軍の激しい攻撃を受けながら、革命への第一歩を踏み出します。チェ、28歳の時でした。
映画はドキュメンタリー風で、淡々とチェの姿を追います。この映画に冒険物語はありません。初めの2年は軍医として、喘息に苦しみながらも、けが人の治療や村人の治療を行います。兵士は皆ひげをはやし、同じような服を着ているため、はじめはどれがチェなのかよく分かりませんでした。それ程彼は人々に溶け込んで生活をしていたということです。また、彼は兵士たちに読み書きを教えます。革命以前のキューバでは、50%以上が初等教育を受けておらず、60%以上が准文盲でしたので、チェはゲリラの行く先々で教室を開きます。そこには、献身的で心優しいチェの姿を見ることができます。それは「モーターサイクル・ダイアリーズ」でのエルンストであり、ハンセン病患者たちに会うために激流を泳ぎ渡った、ひた向きなエルンストそのものでした。
 革命後、チェは通商を求めて世界各地を訪問し、さらに*国連総会で2度演説をします。このアメリカ訪問時のチェの姿が、何度も途中で挿入されます。今やチェは、キューバのナンバー・ツーであり、世界的に有名人でもありますので、記者会見やインタビューや要人との会見が行われ、それらが映画で再現されています。映画自体は、淡々とチェの行動をおっていますが、挿入されたアメリカでの映像によって彼の思想が語られています。そこでのチェの態度は、気負うことなく、兵士や農民と接するときの態度とまったく同じでした。この挿入部分だけを、あとでまとめてもう一度観てみたいと思います。
 *19641211日、国連総会の演説の一部
  我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。
この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
   我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。
特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”
 映画は、とくにチェの英雄的な行為を華々しく取り上げている分けではなく、事実を淡々と描いているだけです。それでも、映画を観終わった後、深い感銘を受けました。それはここで描き出されたチェという人物の人間的な魅力によるものでないでしょうか。主演のデル・トロは、カンヌ映画祭で男優賞を受賞しました。
 なお、アメリカ政府はキューバで撮影することを禁じたため、撮影はスペインやボリビアで行われたそうです。アメリカは、どうしてもキューバを許すことができないようです。

チェ 39 別れの手紙

「チェ 28歳の革命」の続編で、ボリビアでのチェのゲリラ闘争と彼の死を描いています。チェは、ボリビア到着から死の2日前まで、後に「ゲバラ日記」として知られる日記を書いており、この映画はこの日記をもとに制作され、日記風に描かれます。日記は1966年の11月から始まり、処刑される2日前で終わっていますが、映画ではチェがボリビアに着いた19661023日を第1日目とし、チェが捕らえられた109日を341日目、そして翌日処刑されます。チェ、39歳のときでした。ただし、ボリビアには死刑制度がないため、戦闘で死んだということにされます。
 19653月に、チェはカストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残して、密かにキューバを去ります。これがチェの「別れの手紙」です。初めはアフリカのコンゴでゲリラ闘争を指導しますが失敗し、一旦帰国した後1966年にボリビアに向かいます。キューバからチェに従った同志が12人おり、この他にドイツ国籍のタニアという女性諜報員がいます。
チェがキューバを去った理由について、謎ということになっています。カストロと対立してキューバから追い出されたとか、逆にカストロの指示で世界革命のためにキューバを去ったとか、いろいろ取りざたされましたが、彼がカストロに送った「別れの手紙」があり、その内容を疑う理由はありません。もともと彼はキューバ人ではなく、キューバにおける自分の役割は終わったと考えていたようです。「世界の中には、僕のささやかなこの力を必要としているところがまだ他にある。」「すべての義務の中でもっとも神聖なるもの、すなわち、帝国主義があるところならばどこででも戦うという義務を果たすものだという昂(たか)ぶる思いを携えていくだろう。」この言葉は、ハンセン病患者に合うために激流を泳ぎ切ったエルンストの言葉そのものです。
映画は、チェたちの行動を淡々と追っています。そしてしだいに追い詰められていくチェの姿が描き出されています。その過程でもチェは常に冷静であり、仲間をいたわり、村人と優しく接します。そこにあるものは、南米大陸を縦断した時のエルンストの姿でした。多分彼は、何よりも人と人との繋がりを大切にしたのだろうと思います。もしかしたら、チェはこの戦いに勝てないと思っていたのかもしれません。しかし彼が勝つかどうかは重要なことではなく、ここでの戦いが必ず後に引き継がれ、それが全世界に広がっていくと信じていたのだと思います。
 チェの最後の言葉は、自分を殺すために銃撃を躊躇する兵士に向けて、「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」というものだったそうですが、真偽のほどは不明です。後にこの兵士は、目の治療のために第三世界で最も高度な医療を無料で受けられるキューバを訪れましたが、キューバ政府は特に問題にせず、彼は無事に治療を受けることができたとのことです。
 以下に、チェがカストロと子供たちに送った手紙を掲載します。これはネット上で見つけたものを、そのまま転載したもので、出典としてそれぞれのアドレスを掲載しました。

チェからカストロへ

フィデルへ
 僕の中には今、さまざまな思い出が去来している。マリーア・アントニアの家で君と初めて出会ったときのこと、一緒にやろうと僕を誘ってくれたときのこと、革命に向けて準備をしていた緊張に満ちた日々のこと。
  あの日、誰からともなく、死んだときには誰にそれを知らせるべきかという話題になって、僕たちは、死が現実にありうるのだという事実に動揺した。だが、それは本当だった。革命においては(それが本物の革命であればだが)、勝利か死か、そのいずれかしかあり得ない。そうして多くの同志が、勝利への道半ばで、死んでいった。
  今、すべてのことが以前ほど劇的に感じられないが、それは僕たちが成熟したからなのだろう。しかし、同じことが今なお繰り返されている。僕は、このキューバの地で革命を行うということに僕が負っていた責任は、これを果たしたと思っている。僕は君に別れを告げる、すべての同志に、そして今や僕のものでもある君の人民に別れを告げる。
  僕は正式に、党指導部としての職務、大臣の地位、司令官の階級、キューバ市民としての資格を放棄する。僕とキューバは法的には何の関わりもなくなる。しかし、僕とキューバとの間には、何かの辞令でつながっているのとは違う次元の絆は残る。
  過去を振り返ると、僕はキューバ革命の勝利を確実なものとするために誠実に、献身的に働いてきたと思う。僕が何か重大な誤りを犯したとすれば、それは唯一、シエラ・マエストラでの最初の頃にはまだそれほど君のことを信頼していなかったこと、つまり、君に指導者としての、また革命家としての資質が備わっているということをすぐには見抜くことができなかったということぐらいだ。なんと素晴らしい日々だったことか。ミサイル危機のときの、輝かしくも、しかし過酷な日々には、君のかたわらで僕は人民の一員であることに誇りを感じていた。あの頃の君ほどに優れた指導者などまずいまい。僕自身、ためらわずに君に従い、ものの考え方、危険や原則といったものをどう捉えてどう評価するのかというその方法についても、君のものを僕のものにできたことを誇らしく思っている。
  世界の中には、僕のささやかなこの力を必要としているところがまだ他にある。キューバに対する責任がある君にはできないことが、この僕にはできる。僕たちに、別れの時が来た。
  別れていく僕の心の中は喜びと辛さが入り混じっているということを、どうか分かってほしい。僕はここに、建設者としてのもっとも純粋な希望と、僕の愛するもののうち、もっとも愛しいものを残していく。・・・そして、僕のことを息子のように受け入れてくれた人民に別れを告げる。それを思うと、心の一部が切り裂かれるようだ。僕は、新たな戦いの場に、君が僕にたたき込んでくれた信念、我が人民が持つ革命の精神、すべての義務の中でもっとも神聖なるもの、すなわち、帝国主義があるところならばどこででも戦うという義務を果たすものだという昂(たか)ぶる思いを携えていくだろう。その思いは、引き裂かれたこの胸の痛みがどれほど深くても、僕に勇気を与え、心をとっぷりと癒してくれる。
  もう一度言う。キューバはもはや、僕の行動に対して何の責任を負うものではない。ただ一つ、僕の革命家としての行動は、これまでも、これからも、キューバにその規範があるという点を除いては。僕がどこか別の地で最後を迎えるとしたら、そのとき、僕の頭に浮かぶのは我が人民、とりわけ君のことだろうと思う。君が僕にさまざまなことを教えてくれたこと、手本を示してくれたことに感謝する。そして、僕の行動の最後まで、そうしたものに忠実であろうと努力するつもりだ。僕は常に、この革命の対外政策と自分を一体化してきた。それはこれからも変わらない。どこの地にいようとも僕は、キューバの革命家としての責任を自覚し、そのように行動するだろう。僕は子どもたちと妻には物質的なものは何も残せないが、それを恥だとは思わない。むしろ、そうであることを喜んでいる。この者たちのために何かを頼むようなことはしない。なぜなら国家が、生きていくのに、そして教育を受けるのに必要なものは与えてくれるはずだからだ。
  僕はまだ、君にも、我が人民にも言い足りないことがたくさんあるのかもしれない。だが、それはもう言うまい。言葉では僕の思いを伝えることができない。だから、これ以上書く必要もないと思う。
勝利に向かって、常に。祖国か、死か。
 革命家としての情熱をもって、君を抱擁する。
http://blog.goo.ne.jp/hydebrave/e/bb44ed89ebf85cf8a8f1fa657decd422

チェから子供たちへ

わが子たちへ
愛するイルディータ、アレイディータ、カミーロ、セーリアそしてエルネスト、もしいつかお前たちがこの手紙を読まなくてはならなくなった時、それはパパがもうお前たちの間にはいないからだ。――お前たちはもう私を思い出さないかもしれない、とくに小さい子供達は何も覚えていないかもしれない。――お前たちの父はいつも考えた通りに行動してきた人間であり、みずからの信念に忠実であった。――すぐれた革命家として成長しなさい。それによって自然を支配することのできる技術を習得するためにたくさん勉強しなさい。また次のことを覚えておきなさい。革命は最も重要なものであり、またわれわれの一人一人は(ばらばらであるかぎり)何の価値もないのだということを。
 とりわけ、世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それが一人の革命家のもっとも美しい資質なのだ。――さようなら、わが子たち、まだ私はお前たちに会いたいと思う。しかし今はただパパの最大のキスと抱擁を送る。
http://ameblo.jp/gebara-city/entry-10417744236.html


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