2015年4月4日土曜日

映画でアフリカを観て(2)

この投稿は、「映画「Tsotsi(ツォツィ)」」を観て(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/tsotsi.html)と「映画でアフリカを観る」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7359.html)の続編です。ここでは、近代のアフリカに関する映画を観ます。

ズールー大戦争

 2001年に南アフリカとアメリカで制作された映画で、19世紀に活躍したシャカ・ズールーというズールー人の王を主人公とした映画です。この映画の日本版のタイトルは「ズールー大戦争」ですが、この映画には戦争は僅かしかありません。原題は「シャカ・ズールー」で、この日本語版のタイトルをつけた人は、映画を観ているのでしょうか。














ウイキペディア

この映画を観るためには、二つの前提となる知識が必要です。ズールー人とケープ植民地です。ズールー人というのは、バントゥー語族に属します。バントゥー語族は、現在のナイジェリアあたりで、4000年程前に発祥したと推測されています。彼らは農業と金属加工の技術を発達させ、数千年かけて東方や南方に移動し、先住の狩猟採集民を吸収していきました。この長期に及ぶ民族移動は、人類の歴史の中でもきわめて重要な事件の一つと言えます。東海岸にまで達したバントゥー語族の言葉に、アラビア語の語彙が入り込んでスワヒリ語が生まれ、この地域一帯の共通語となります。また、15世紀から18世紀まで、現在のジンバブエにモノモタパ王国が繁栄させます。そして5世紀頃には、バントゥー語族は現在の南アフリカに到達したと思われます。現在のアフリカに、400以上の民族と35千万の人々がバントゥー系に属するとされています。
ウイキペディア
バントゥー語族の一つであるズールー人は、14世紀頃には南アフリカに居住していたと思われますが、本格的に歴史に登場するのは19世紀に入ってからです。1816年にシャカがズールー王国を建設し、斬新な軍事技術と統治法により急速に勢力を拡大しました。ただ、国内では恐怖政治を行ったため、1828年に暗殺されました。そしてこの映画は、シャカ王と、当時南アフリカに進出してきたイギリスとの関係を描いています。
 一方、1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見して以来、喜望峰沖はヨーロッパからインドに向かう重要な航路になっており、17世紀の半ばにオランダが寄港地としてケープタウンを建設しました。しかし、18世紀末のフランス革命とナポレオン戦争の際にオランダがフランスに占領されたため、イギリスはインド航路の要衝ケープ植民地を占領し、1815年のウィーン条約で正式にイギリスの領土として認められました。そしてちょうどこの頃、シャカがズールー王国を建国し、急速に勢力を拡大していました。それはイギリスにとって重大な脅威であり、イギリスは和平のためズールー王国に使節を派遣しました。これがこの映画の背景です。
 この映画で語られていることが事実かどうかわ分かりませんが、イギリスのフェアウェル大佐がシャカのもとに滞在しており、イギリスとの和平を提案したり、銃器を提供して戦争に協力していました。すでに彼は2年もズールー王国に滞在しており、実は彼はアフリカの大地とシャカに魅せられてしまったようです。そのため、彼の娘が父を捜し出すために、無謀にも一人で旅に出、奴隷船に乗せてもらいます。そして奴隷狩りに捕まったシャカが、この奴隷船に乗せられてきます。こんなことってあるのでしょうか。おそらく創作だと思います。多分ヨーロッパ人の奴隷貿易の非道さ示すために描かれたのだと思います。その後シャカは自力で奴隷船から脱出し、大軍を率いてケープ植民地のはずれにあるキングストン(現在のポートエリザベスの一部)を包囲しますが、結局攻撃せずに帰って行きます。そしてフェアウェル大佐もシャカと行動をともにし、平和は保たれました。
 この映画では、シャカは聡明な人物として描かれます。この映画を制作したのは南アフリカであり、南アフリカにとってシャカは英雄ですので、こうした描き方になっているのだと思います。一方で、シャカの残虐な行為も多く伝えられていますが、これもヨーロッパ人が生み出したイメージが含まれていると思われるので、多少割り引いて考える必要があります。私自身がシャカについてほとんど知りませんので、この点について判断のしようがありません。ただシャカは最後に、フェアウェル大佐に、イギリス人が沢山やってきて、やがて「われわれの間に生まれてくる子はどの国の子になるのか」という意味ありげな言葉を残して映画は終わります。
 事実、その後白人の数は急速に増え、やがて先住民を圧倒し、アパルトヘイトによって先住民は差別され、さらに後に先住民による国家が成立します。この映画は、その後の南アフリカの激動を予感させるような映画でした。

ズールー戦争/野望の大陸

1979年に制作されたアメリカ・オランダの合作映画で、イギリス軍がズールー軍に敗北したイサンドルワナの戦いを扱っています。この戦いは1879年なので、多分百周年を記念して制作されたものと思われます。なおこの映画の原題は「Zulu Dawn」です。
 前の映画で観たシャカ・ズールーの時代には、南アフリカにおけるイギリスの勢力は弱小で、ズールー族と戦うなど、まだ夢物語でした。しかし、しだいにイギリス人の入植者も増え、軍隊も増えると、領土を拡大するようになり、その結果ズールー王国と境を接するようになります。ただ、当時イギリスはアフガニスタンで戦争をしていたため、政府は現地総督にズールー王国との和平を求めていました。そして当時のズールー国王セテワヨも、イギリス領に侵入する意志はなく、和平を求めていました。
 ところが現地の高等弁務官フレアが野心家で、色々言いがかりをつけてはセテワヨを刺激し、1879111にチェルムスフォードを総司令官として、本国の許可なしに12000人の軍隊をズールー王国に侵攻させ、これを4万のズールー軍が迎え撃ちます。映画の後半はほとんど戦争の話で、かなり正確に戦争の経過を再現していますので、軍事映画ではないかとさえ思われます。近代的な火器で装備されたイギリス軍は数で劣っていたとはいえ、鑓と楯しかもたないズールー軍に勝利することは可能でした。しかし、本来敵地に侵入する場合、軍隊を分散させるのはタブーですが、イギリス軍は軍隊を3つに分散させ、その内1200人の部隊が122日に遮蔽物のない平地であるイサンドルワナに野営しました。これに2万のズールー軍が攻撃を行い、イギリス軍は全滅しました。
 映画はここで終わりますが、結局何を言いたいのかよく分からない映画でした。植民地主義を批判しているのは確かで、この映画が制作される少し前にアメリカはヴェトナム戦争で敗北していますので、それへの反省が込められているのかもしれません。大国アメリカは小国ヴェトナムを侮って押しつぶそうとしましたが、結局アメリカはゲリラとの戦いで屈辱的な敗北を喫することになります。ただ、ズールー戦争の場合、まだ続きがあり、結局ズールー王国はイギリスに征服されることになります。
 映画の戦争場面はよくできており、兵士の展開や戦闘が丁寧に描かれて、かなり迫力のある映画でした。

ズール戦争

1964年制作のイギリス映画で、前の「ズールー戦争/野望の大陸」でのイサンドルワナの戦いの直後に起こったロルクズ・ドリフトの戦いを扱っています。原題は「ズールー」です。
1979122日にイサンドルワナの戦いでズールー軍がイギリス軍を全滅させると、その勢いで、翌23日に4000人のズールー軍がロルクズ・ドリフトというイギリス軍の小さな要塞を攻撃します。要塞には139名のイギリス兵しかおらず、すでに彼らはイサンドルワナでの「虐殺」の報に接していました。「虐殺」という表現はイギリス側の表現で、一方的にズールー領に侵入したイギリス軍をズールー軍が破っただけのことです。イギリス軍が敵軍を全滅させれば大勝利、イギリス軍が敵軍により全滅させられれば、野蛮な大虐殺ということになるようです。
映画では、前の映画同様、後半はほとんど戦闘場面です。両軍とも死力を尽くして戦い、2日目に入ってイギリス軍は精も根も尽き果てましたが、突如ズールー軍はイギリス軍の勇気を讃えて撤退しました。まだズールー軍が圧倒的に優勢でしたが、あまりにも被害が大きかったことと、イギリスの援軍が近づいていたためだったとされます。そして、何とか耐え抜いたイギリス軍は、到底勝利したという気持ちにはなれませんでした。映画はズールー軍が勇敢に戦ったことを称賛し、彼らを「勇気ある野蛮人」として描くことで、イギリスの偉大さを示そうとしているように思われました。
イサンドルワナとロルクズ・ドリフトでの戦いがズールー戦争の第一幕です。その後両軍は一進一退を繰り返しますが、7月にイギリス軍が王都を攻略し、これによりズールーランドはイギリスの植民地として併合されることになります。

 1960年代には、イギリスのヴィクトリア時代の植民地を扱った映画がたくさん制作されました。ここで観た「ズールー戦争(ズールー)」、後で観る「カーツーム」、その他「北京の55日」やクリミア戦争を扱った「遥かなる戦場」などがあります。こうした背景には、この時代がヴィクトリア黄金時代の最盛期の百周年に当たっていたこと、「イギリス病」とまで言われた衰退したイギリスの過去への郷愁、そしてアメリカがかつてのイギリスの繁栄を自己に投影したこと、などがあるのではないでしょうか。これらの映画は、ほとんどパターンが決まっています。世界中に侵略したイギリス軍が敵の大軍に対峙し、絶望的な状況で戦い抜くという、いわば英雄物語です。
 しかし、幾らなんでも侵略軍が敵に包囲されて戦ったというだけでは、イギリス側に道理というものがありません。したがって、これらの映画では他国の侵略や暴君から現地人を救出するという大義名分が与えられることになります。このような筋書きは、この時代にアメリカで隆盛した西部劇についても言えることで、要するに野蛮に対する文明の戦いという話です。しかし1970年代になると、もう少し現地人の視点が入るようになります。

 ここでは、ズールー王国に関する三本の映画を観ました。知識以外に得るものはあまりありませんでしたが、それぞれの映画が制作された時代に興味を持ちました。ここでは、事件が起こった年代順に映画を配列しましたが、制作の年代は逆です。最後の「ズールー戦争(ズールー)」はイギリスが勝利した戦いで、1960年代のヴィクトリア朝植民地主義への郷愁が残っている映画でした。二番目の「ズールー戦争/野望の大陸」は、イギリスが敗北した戦いで、ヴェトナム戦争敗北への半生が込められているように思われました。最初の「ズールー大戦争(シャカ・ズールー)」は21世紀初頭で、すでに黒人政権が成立しており、シャカ・ズールーを幾分賛美する映画でした。この様に、制作された時代によって、映画の内容が微妙に変化してきています。これらの地域の歴史を客観的に見つめるには、まだ少し時間がかかりそうです。

2015年3月28日土曜日

映画でガイディとマザー・テレサを観て

ガンディー

1982年公開のイギリスとインドとの合作映画で、ガンディーを演じた役者は新人ですが、非常にガンディーに似ていたため、インド人の中にはガンディーの再来だと信じて、お参り来る人が絶えなかったとのことです。ガンディーについては、このブログの「第28章 帝国の崩壊とナショナリズム 」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/28.html)を参照して下さい。ただ、彼は非常に複雑な人物で、一言で述べるのは難しいように思います。
映画は、1948年のガンディー暗殺と葬儀から始まります。地位も金もない一人の人間の葬儀のために、世界中から政治家や思想家が参列しました。そして話は1893年の南アフリカに戻ります。この年24歳のガンディーは、イギリスで弁護士資格をとった後、南アフリカに向かいました。インド人は大英帝国の領域の至る所に進出し、南アフリカでは有色人種として差別されていました。彼は一等車に乗っていたのですが、有色人種であったため、列車から放り出されます。そしてこの時から彼の運動が始まります。
ここで大変興味深いのは、彼がインド人を大英帝国の臣民だと主張している点です。つまりヴィクトリア女王の臣民であり、女王の下にすべて平等だとしている点です。イギリスは多様な植民地をヴィクトリア女王の臣下とすることで、その維持を図ってきたのですが、ここでその矛盾が露呈されたわけです。(「映画で三人の女王を観る ヴィクトリア女王」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html)
彼は南アフリカで25年以上活動した後、1915年に46歳の時インドに帰ってきます。南アフリカにいた時は、彼はイギリス紳士風のスタイルをしていましたが、インドに上陸した時はヒンドゥー教の聖者のようでした。彼は非暴力・不服従運動を開始しますが、まもなく暴力事件が起こったため、運動の停止を命じます。その後彼が逮捕されたこともあって、運動は停滞しましが、彼は国民に非暴力の精神が侵透するのを待っていたように思います。
ガンディーは、ヒンドゥー教の聖者のような姿をし、糸巻で糸を紡ぎ、原始的生活をしているように思われましたが、同時に彼は優れた戦略家でもありました。まず彼はマスコミを巧みに使います。彼の周りには常にマスコミが張り付き、彼の行動は全世界に報道され、イギリスに圧力をかけていました。さらに彼は「塩の後進」と呼ばれる運動を演出します。海まで何百キロも歩いていき、海の水で塩を作り、それを販売するのです。たかが塩なのですが、多くのインド人がこの運動に参加したため、もはやイギリスも無視できず、10万人を超える人々を逮捕し、さらに無抵抗で前進するインド人を棒で殴り倒しますが、インド人は全くひるむことなく前進します。そしてこの情景が、マスコミを通じで全世界に報道されました。もはやイギリスに打つ手はなくなります。
第二次世界大戦後の1947年にイギリスはインドの独立を認めます。しかし今度はインド内部で問題が発生しました。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立です。もともと両者は共存していたのですが、イギリスによる離間策により、修復不能なまでに対立し、インドはほとんど内乱状態になります。ここでガンディーは伝家の宝刀を抜きました。対立が収まるまで断食すると宣言したのです。まさに死の断食です。その結果内乱はとりあえず収束に向かいますが、根本的な解決には至らず、1948年彼はヒンドゥー教の過激派によって暗殺されます。
その後ネルーが国造りに励みますが、それはおそらくガンディーが思い描いていた国とは異なるでしょう。また、インドはパキスタンとの間で何度も戦争を行い、今も両国の対立はつづいています。

ガンディーは、この程度の言葉では語りつくせない程複雑な人物ですが、ここでは映画の紹介という範囲に留めておきたいと思います。この映画で用いられたエキストラは延30万人を超え、ガンディーを演じたベン・キングズレーは新人でしたが、徹底的にガンディーの外見や仕草を模倣し、アカデミー賞主演男優賞を獲得しました。とくに男たちが無抵抗で警官たちに棍棒で殴り倒されていく場面は圧巻で、まさにイギリスの敗北を象徴する場面でした。

なお、インドについては、このブログの以下の項目も参照して下さい。
インド映画「ムトゥ」を観て 
インド映画「ボンベイ」を観て
現代史「第3章 南アジア」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/3.html


マザー・テレサ

2005年に制作されたイタリアとイギリスの合作映画で、生涯を貧困者の救済に尽くした修道女マザー・テレサの半生を描いたテレビ映画です。
マザー・テレサは、1910年にオスマン帝国領だったアルバニアに生まれました。アルバニアはイスラーム教・カトリック・ギリシア正教が混在する地域で、そうした環境が彼女の宗教観に影響を与えたかもしれません。彼女の言葉によれば、13歳の時に神の声を聴き、18歳の特に聖ロレト女子修道会に入り、インドのカルカッタ(コルカタ)に赴き、ここで1947年まで女子教育に専念します。1946年に彼女は、「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたとされます。これはガンディーの言葉でもあります。また映画では、ある年老いた乞食が「私は渇いている」と述べたとされています。これは十字架上でのイエスの言葉です。この時彼女は、貧者の中に神を見たわけですが、これはヒンドゥー教的でもあります。
こうしたことから、彼女は修道院の外へ出て、貧者への奉仕活動をしたいと思うようになりますが、尼僧は修道院の外で活動することは許されません。まして当時はインド独立前夜であり、イスラーム教とヒンドゥー教徒との対立が激化しており、カルカッタのスラム街は尼僧が一人で歩けるような場所ではありませんでした。しかし彼女は思い込んだら決して諦めない質のようで、ローマ教皇に手紙を書き、1948年についにローマ教皇から許可を得ました。38歳の時です。こうして彼女は、たたった一人でスラムでの生活を始めます。そしてこの年、ガンディーが暗殺されました。
1950年にローマ教皇から新たな修道院を設立する許可が与えられ、「神の愛の宣教者会」が設立されます。その目的は、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでした。こうしてシスター・テレサはマザー・テレサとなります。次第に彼女の活動を援助する人々が増え、やがては海外でも活動するようになります。その結果彼女の活動は世界中で知られるようになり、1977年にノーベル平和賞を受賞しました。そして1997年に87歳で逝去しました。その時、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていました。
 前に述べた「黒水仙」の尼僧たちは、圧倒的な自然と文明の重みの中で挫折し、「尼僧物語」のシスター・ルークは、従順の掟と自らの意志との葛藤から、修道院を去って行きました。それに対して、マザー・テレサは自らの意志を神の意志と信じて貫き通し、自らの修道院を造りさえしました。どれが一番正しいかということではありませんが、マザー・テレサの場合、優れてヒンドゥー教的であり、またガンディー的だったように思われます。


 なお映画では、かつてジュリエットを演じたオリヴィア・ハッセイが、マザー・テレサを演じていました。彼女も当時すでに50歳を超えていましたが、とてもチャーミングなマザー・テレサでした。

2015年3月25日水曜日

「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団」を読む

川成洋著、1989年、朝日選書
 1936年にスペインで始まった内戦において、スペインの民主主義を守るために、世界中から多くの義勇兵が集まりました。そしてその中に、一人の日系アメリカ人が加わっていました。その名をジャック白井といいます。その他にも何人か日系人が参加していたという伝聞があるのですが、はっきりしているのはジャック白井だけです。
 著者は、ジャック白井の足跡を丹念に調べ上げます。出生なついては、白井が1900年頃日本の函館で生まれたらしいこと以外は、ほとんど何も分かっていませんが、不幸な生い立ちだったようです。1929年にニューヨークで姿を現し、コックの仕事をしていたようです。この頃から、彼を知る人が現れ始めます。反戦運動で知られる石垣綾子と親しく、労働運動にも参加していたようです。そして、1936年にスペインで内戦が始まると、彼は義勇兵に志願し、スペインに渡ります。
 何故彼がスペイン内戦に参加したのか。著者によれば、不幸な生い立ちと、世界恐慌後の踏みにじられた生活への怒りから、スペインで民主主義の火を消すな、というのが義勇兵たちの共通の心情だったようです。「スペインの民衆の果敢な武力抵抗は、真暗闇の中で、消えることのない一条の光と映ったのだった。」
 著者は、スペインで白井と同じ隊にいた人を捜し出し、丹念に聞き取り調査をします。白井はコックだったので、調理班に入れられることになりましたが、白井は「自分は料理のためではなく、ファシストを殺すために来たのだ」と怒ったそうで、彼は「銃をもつコック」といわれていたそうです。しかし、現実には人民戦線政府は内部対立を繰り返し、イギリスやフランスは援助を拒否しましたので、戦いは劣勢が続き、1937年に白井は戦死します。そして39年にフランコの反乱軍が勝利し、以後1975年にフランコが死ぬまでスペインに独裁体制が続くことになります。
 ニューヨーク時代の彼は寡黙だったそうですが、スペインではいつも笑顔で話し、乏しい食材を用いて彼が造る料理は美味しいとの評判でした。「ジャック白井は、スペインで、この上なく幸せだったに違いない。彼の37(多分)の生涯は、このスペインでの半年間の生活のための、いわば助走のようなものだったとも思われる。人種差別もなく、過去の経歴も全く問題にしないスペイン。それが故に各々の能力が正当に評価され、それを十分に発揮できるスペイン。人間同士のぬくもりが肌でわかるスペイン。今までの白井にとって、このような生の充実を実感できた場所がスペイン以外にあったであろうか。生きていることを実感できるスペインで、白井はおのれの生命を十二分に燃焼できたのではあるまいか。それは失われた日々をたぐり寄せるようなものだろう。」ジャック白井に対する、著者の思い入れの深さを示す言葉です。


 なお、1937年に日本は、まだ勝敗のはっきりしないフランコ政権を承認します。それは、ドイツとイタリアによる満州承認の見返りだったようです。

2015年3月21日土曜日

映画「インドへの道」を観て

1984年に制作されたイギリスとアメリカの合作映画です。イギリスの植民地支配下にあった1920年代のインドと一人のイギリス人女性との出会いを描いたもので、非常に分かりにくい映画ですが、心に残る映画でもありました。
 イギリスの若い女性アデラが、インドで地方判事をしている婚約者に合うため、婚約者の母とともに、初めてインドを訪れます。たまたまインド総督と同じ列車だったため、インド人たちによる大歓迎を受けて町に入ります。彼女はインド人と接したいと思っていたのですが、イギリス人はインド人とほとんど接触せず、イギリス人だけの閉鎖的な社会で生活しており、インド人とは関わらない方がよいと忠告します。イギリス人は、常にインド人を侮辱的な目で見つめていました。
 たまたま知り合ったインド人医師アジズは、西欧人の服を着、西欧人にへりくだった態度をとっていました。彼はアデラを近くの洞窟に案内します。この洞窟が具体的にどの洞窟なのか分かりませんが、大きな岩山に多くの洞窟が掘られ、西欧人の観光名所となっていました。その洞窟に入るとこだまが響き、彼女はそれを聞いているうちに錯乱状態となり、一人で山から逃げ出します。そして彼女は、アジズに暴行されたと訴えたのです。その結果アジズは逮捕され、裁判が始まります。
 イギリス人は最初からアジズを有罪と決めつけており、それに対して民衆がイギリスの横暴を訴えて暴動を起こします。裁判は騒然とした中で行われアジズの有罪はほぼ確実かと思われましたが、最後にアデラが暴行はなかったと主張し、訴えを取り下げました。そしてアデラはイギリスに帰り、アジズは洋服を捨ててインド服に着替え、故郷で医師として平穏に暮らすことになります。
 以上のストーリーでは、ほとんど何のことか分かりませんが、この間にインド人とイギリス人との関係、美しい自然、都会の喧騒などが描かれます。そして何よりも、イギリス人が支配階級としてインド人に常に横柄に対応し、インドとインド人を無視し続けます。しかしインドの長い歴史と文化の持つ神秘性と重みは、圧倒的な力を持ちます。アデラが洞窟で聞いたこだまは、この歴史と文化の重みであり、彼女はそれに耐えられず逃げ出したのだろうと思います。イギリス人が来たばかりのアデラに、インドに関わるなと忠告したのは、このことだったのではないでしょうか。結局彼女は、イギリス人社会を裏切ってインド人を擁護し、さらに婚約を解消して帰国します。

 まったくの言葉足らずで、映画の内容を半分も話しきれていません。ただ、イギリス人がいかに力でインドを押さえつけようとも、悠久のインドの大地と精神にまったく太刀打ちできない様が描かれているように思います。それと同時に、人間が民族や文化の枠を超えて接しあうことの必要性を説いているように思います。
 何年かたって、アジズはアデラに手紙を書きます。「あなたの勇気がやっと分りました。

あなたのおかげで、私は子供達と幸せに暮しています。あなたに倣って、誰にも親切を心掛けます」と。

2015年3月18日水曜日

「スペイン黄金時代」を読む

著者:林屋永吉 小林一宏 佐々木孝 清水範男 大高保二郎
1992年 日本放送出版協会

スペイン史に関する本は、市民戦争以外では非常に少なく、あっても読みづらい本が多いのですが、本書はNHK文化講演の連続公演を本にしたものなので、大変読みやすい内容となっています。本書は、歴史・思想・文学・芸術という4つのテーマに分けて書かれています。











「歴史 近代スペインの誕生」では、まず「黄金時代」とは何時から何時までか、という問題が取り上げられます。諸説あるようですが、最も広く解釈すれば、1492年のコロンブスの大西洋横断から1648年のウェストファリア条約までということのようです。スペイン黄金時代の特色は、強力な貴族の力を抑えるため、教会を国家機構に取り込んだことにあるとされます。もう一つは、対抗宗教改革があります。スペインはキリスト教ヨーロッパへの復帰を願ってイスラーム教徒と戦い、ついにグラナダを陥落させたのに、まもなくヨーロッパで宗教改革が起き、ヨーロッパ・キリスト教は分裂してしまいました。スペインにとってプロテスタントは裏切り者であり、宗教改革は黄金時代のスペインの行動に決定的な影響を与えとのことです。
「思想 スペイン的「生」の思想」では、ウナムノやオルテガの思想を基に、「スペインとは何か」が問われています。スペインでは、19世紀の末以来「スペインとは何か」という問題が深刻に問われ続けてきましたが、著者は、スペイン的なものについて、「それらすべての姿勢が「黄金時代」に形成された、ある独特な「生」の捉え方に発している」と述べます。非常に複雑な内容なので詳細を省きますが、要するにスペイン的な「生」とは、本来スペインはキリスト教・イスラーム教・ユダヤ教の混血であるにも関わらず、黄金時代に純血主義に走ったことから生まれてきたものだ、ということのようです。
「文学 文学がおりなす錯綜の世界」では、この時代のスペインの文学は、「高邁さ」と「土臭さ」から成っており、セルバンテスの「ドン・キホーテ」は、それらを象徴的に統合する作品である、とします。

 「芸術 王家の芸術擁護」では、まずエスコリアルについて語られます。エスコリアルは、宮殿付修道院というべきもので、暗くて単調な建築物ですが、内部には千点を超える絵画が飾られており、これらの絵画が描かれた背景が説明されます。またその後のスペインの美術史の説明も、大変興味深いものでした。

2015年3月14日土曜日

映画で観る二人の尼僧

黒水仙

1947年にイギリスで制作された映画で、内容は分かりにくいのですが、非常に映像の美しい映画です。時代は20世紀の初め頃だと思われ、場所はインドのカルカッタにある聖マリア女子修道院から始まります。
ある時、ヒマラヤの山麓の領主からこの修道院に、学校と病院を建てたいので尼僧を送って欲しいという要請が届きました。そこで修道院は、26歳のシスター・クロードを院長として5人の尼僧を送ることにしました。赴任先の修道院は、周りをヒマラヤ山脈に囲まれた標高2400メートルの地にあり、壮大にして峻厳な美しさをもつ場所でした。そこには、一人の聖人が、一日中座って瞑想し、人々の尊敬を受けていました。さらにディーンというヨーロッパ人の男性が一人おり、領主との仲介役を果たしていました。何故彼がここで一人で暮らしているのか分かりませんが、「文明」の喧騒を逃れてきたのかもしれません。
 尼僧たちは、理想と使命感に支えられて、よく働きますが、まもなく彼女たちに変化が表れます。一人の尼僧は、このあまりに美しい自然の中で、信仰心が揺らぎ始めます。尼僧たちは野蛮な土地を「文明化」することを目標としていましたが、それが無意味に思われ、彼女はカルカッタに帰ることを願い出ます。そして院長のクロード自身にも変化が現れ、何故か捨てたはずの過去を思い出すようになります。かつて彼女は男に捨てられたため、そのプライドを守るために尼僧になったのですが、この大自然の中では、そのようなプライドは無意味に思われました。もう一人の尼僧ルースは、ただ一人のヨーロッパ人の男性に片思いをし、錯乱状態になって修道院を出ていきます。その結果、修道院の維持は困難となり、半年後に彼女たちはカルカッタへ帰って行きます。
 ところで、タイトルの「黒水仙」が何を意味するのか、よく分かりませんでした。もちろん黒水仙という植物は存在せず、これは香水のことだと思われます。黒水仙は、フランスのキャロンというブランドで発売されている香水で、正式名をナルシスノワールといい、日本では黒水仙という名で発売されています。ナルシスというのは、ギリシア神話で水鏡に写った自分自身を愛してしまった美少年のことで、自己愛を意味します。修道女たちは、現世から離れ、欲望を抑え、自分たちが絶対的に正しいと信じて生きています。こうした生き方も一種の自己愛ではないでしょうか。結局、この壮大な自然の中では、自分たちが絶対的に正しいとする自己愛は、脆くも崩れ去っていきました。官能的な香りのする黒水仙は、こうした欺瞞的な自己愛を象徴しているように思われます。
 ヨーロッパ人が異郷の地で奉仕活動を行う場合、彼らは決して現地の言葉を覚えず、ヨーロッパの言葉を教え、ヨーロッパの言葉で授業を行います。そしてそれが、「文明化」だと彼らは信じているのですが、この大自然と悠久に流れる時間の中では、このような自己陶酔的な態度は傲慢としか言いようがなく、彼らは敗北して去っていくしかなかったのだと思います。
 それにしても「黒水仙」の意味が、今一説明しきれていないように思います。ディーンに恋い焦がれるルースは、欲望を抑えられず、クロードとディーンが愛し合っていると勘違いして、阿修羅のごとき形相となって、クロードを殺そうとし、結局彼女は谷に落ちて死んでしまいます。黒水仙は、陶酔的な自己愛から官能の世界に身を任せた尼僧の姿を暗示しているのかもしれません。

 結局黒水仙の意味はよく分かりませんでしたが、大変美しく、心惹かれる映画ではありました。


尼僧物語

1959年に制作されたアメリカの映画で、ベルギーを舞台とし、時代は第二次世界大戦前後です。一人の女性がコンゴでの医療奉仕活動をしたいと願い、尼僧となってコンゴに行くのですが、祖国ベルギーがナチス・ドイツに占領されたため、修道院を出て反ナチスの地下活動を行うという物語で、実話に基づいているようです。
まず、修道院とは何かということについて考えてみたいと思います。修道院とはウイキペディアによれば、「キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設」です。戒律は修道会によって異なりますが、まず半年の志願期を経て、その後修練期間を過ぎて後、清貧・貞潔・服従の三つの誓いを立てて修道士となることが許されます。この映画でも、前半のほとんどが、この修行時代です。そして残りの人生を、沈黙と禁欲と服従の中で過ごします。もちろんこれは建て前で、長い修道院の歴史の過程では、修道院が巨大な富を蓄え、腐敗・堕落していた時期もありました。

もともと修道士は修道院から外へでることはなく、自給自足の生活を送っていましたが、16世紀にイエズス会が宣教活動を行うようになって以来、伝道・教育・医療活動などを積極的に行う修道会が生まれてきました。前の「黒水仙」の修道会も、この映画での修道会も、このような修道会でした。そして主人公のガブリエル(シスター・ルーク)は、なぜ修道女になることを望んだのかははっきりしませんが、尼僧となってベルギー領コンゴで奉仕活動を行うことを望んでいました。しかしこの様な動機は、修道女としては失格でした。コンゴへ行くことは結果であって、まず優れた修道女になることがすべての前提なのです。彼女は、この点で常に苦しみます。例えば、鐘が鳴ったらすべての仕事を中断してお祈りをあげなくてはいけないのですが、彼女はお祈りのために治療中の患者から離れることができませんでした。

ところで、彼女は何故コンゴでの活動を望んだのか、ということを考えてみたいと思います。19世紀後半に、スタンリーがコンゴ川流域を探検し、この地方の地理が明らかとなると、ベルギー国王レオポルト2世は、この広大な地域を私領とします。そして彼は悪名高い傭兵隊を組織し、現地人にゴムを採集させるようになります。このゴム採集は過酷を極め、採集したゴムが少ないと、罰として手首を切り落とし、切り落とされた手首が山積みされるという事態が発生しました。これによってレオポルト2世は巨万の富を蓄えたのです。やがてコンゴでの実情が知られるようになると、国際的な非難が高まり、その結果、1908年にコンゴ自由国の支配権はベルギー政府に移管され、ここにベルギー領コンゴが成立することになります。
ベルギー政府は、教会を中心に教育・医療の向上に努め、またコンゴは鉱物資源が豊かだったため、道路・鉄道・港湾の整備に努めました。これによってベルギーは多大の利益を得るとともに、ベルギー国内でも絶好の奉仕活動の場として注目されたわけです。ちょうどこの頃、フランスの植民地ガボンで、ドイツ人のシヴァイツァーがキリスト教精神に基づき伝道と医療活動を行っており、世界的にも有名になっていました。ただ彼の活動は、白人を兄、黒人を弟とするなど、白人優位主義に基づくもので、現地ではあまり評判がよくありません。この点においては、「黒水仙」も「尼僧物語」もまったく同じ前提に立っています。私は、彼らの献身を決して疑うものではありませんし、また白人優位主義は当時の風潮ではありましたが、それでも彼らの献身は傲慢と紙一重ではなかったかと思います。

話しが逸れましたが、その後色々あって、シスター・ルークはようやく憧れのコンゴへやってきます。彼女はここで献身的に働きますが、修道女としての絶対的な従順と自らの意志との葛藤に苦しみます。やがて彼女はベルギーに帰され、まもなく第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍がベルギーに侵入してきます。戦争中でも修道院は中立を保ち、地下運動に関わることは禁止されていましたが、ルークは見習い修道女が地下運動に関わっていることを知りながら見逃してやります。その後父がドイツ兵によって射殺されたことを知ると、彼女はドイツ人に対する憎しみを抑えきれなくなり、修道院を出ることを決意します。
修道院を出る前に、見習い修道女がルークにこっそりと地下組織の連絡先を教えてくれました。そして、彼女に欠けていたのは、この要領の良さでした。見習い修道女は規則に違反していましたが、それでも立派な修道女になることを望んでいました。これに対してルークは、少しでも従順に反すると、厳しく自らを罰して苦しみ続けましたが、それでは修道女は務まらないということです。結局苦しみ抜いた末に、彼女は従順より自らの意志を選んだわけです。

コンゴは、1960年に独立を宣言しますが、ベルギーが撤退を拒否したため、コンゴ動乱という混乱状態に陥ります。その後コンゴは長い間独裁政権の下に置かれますが、現在内乱状態にあります。結局、ルークたちがコンゴで行ったことは、何だったのでしょうか。



2015年3月10日火曜日

グリーンピースの花



















  長い冬の寒さを耐えて、ようやくグリーンピースに花が咲きました。昨年インゲマメを造った場所なので、連作障害があるのですが、落ち葉や枯草をすき込み、さらに連作障害防止剤をまいて、なんとかここまで成長しました。今年最初の収穫野菜となりそうです。その他に、ジャガイモを植え、ほうれん草とインゲンマメの種が蒔いてありますが、まだ芽も出てきていません。