2016年7月9日土曜日

映画「水滸伝」を観て


2011年に中国で制作された連続テレビ・ドラマで、全86話からなります。北宋末期(12世紀初頭)に、山東省の梁山泊に集まった108人の英雄たちの物語で、中国で最も人気のある小説の一つです。「水滸伝」は、明代初頭(14世紀後半頃)に施耐庵か羅貫中によって編纂されたとされますが、はっきりしません。すでに、講談などでひろく知られていた内容を編纂したものとされ、初めは36人の盗賊集団の物語でしたが、やがて皇帝への忠義を掲げ、腐敗を正す義賊の集団という話になっていったようです。



























「滸」は「ほとり」の意味で、「水滸伝」とは「水のほとりの物語」という意味です。ここでいう「水のほとり」とは、「水滸伝」の舞台である梁山泊のことで、日本でも浪曲や講談の出し物に「天保水滸伝」というのがありますが、これは利根川流域における侠客たちの物語です。梁山泊は、海抜0メートル以下の土地で、周りを山で囲まれた沼沢地です。宋代に黄河が氾濫を繰り返して川筋が変化し、この地域に黄河が流れ込んで大きな沼となりましたが、その後再び川筋が変化して、現在では沼はほとんど消滅しており、観光施設が残っているのみです。梁山泊の名は日本でもよく知られており、この名をとった商店も多く、また「有志の連合」の代名詞のように用いられることがあります。例えば、大隈重信の私邸には若手官僚が集まり、築地梁山泊と呼ばれましたし、手塚治虫などが住んでいたトキワ荘が「マンガ家の梁山泊」と呼ばれました。
物語の始まりは、昔々天界を追放された108の魔星が、ある伏魔殿に封印されていましたが、宋代になってから、ある人物が封印を解き、その結果108の魔星が天空に飛び散りました。こうした物語の設定は、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」でも用いられています。なお、108とは仏教で言う煩悩の数でもあり、除夜の鐘で突かれる数でもあります。そして、この108の魔星が、梁山泊に集う108人の英雄・豪傑たちとなって不正と戦うことになるわけです。
当時の中国は、第8代皇帝徽宗(11001126)の時代で、彼は名君として知られた第6代皇帝神宗の六男でしたが、成り行き上彼が皇帝になってしまいました。これは中国にとっては不幸なことでした。徽宗は政治にあまり関心がなく、芸術に強い関心をもっていましたが、なまじ権力者が芸術に関心をもつとどうなるかという、見本のようなものでした。まず立派な庭園を造り、そのための珍しい石や木や動物を全国各地から集め、さらに立派な宮殿を立て、高価な書画・骨董を買い集めます。見識のある官僚は、当然こうした散財を批判しますが、徽宗はそうした人々を退け、皇帝にすり寄る奸臣たちを重用しました。その結果、政治は腐敗の極みに達していきます。

「水滸伝」では、政治腐敗の元凶として4人の奸臣があげられます。高俅(こうきゅう)は、「水滸伝」で最大の悪役に位置づけられています。彼は、大した能力もなかったのですが、蹴鞠が得意で、蹴鞠が好きな徽宗に気に入られて、軍隊を統括する大尉にまで出世しました。彼と彼の一族は私利私欲のために権力を濫用し、近衛軍である禁軍の師範林冲(りんちゅう)を流刑とします。ただし彼は、「水滸伝」で言われる程の悪党ではなかったようです。蔡京(さいけい) は、朝廷の最高権力者である宰相で、収賄で私腹を肥やします。彼は権力欲が強く、主義主張に節操がなく、皇帝に取り入って権力の頂点を極めます。童貫(どうかん)は宦官だったにも関わらず禁軍の総統となり、皇帝に媚を売って権勢をふるいます。楊戩(ようせん)は、四奸の中では一番影が薄い人物です。

こうした人々が権力をふるう時代にあって、正義心溢れる人々は、彼らに抑圧され、追い詰められ、やがて梁山泊に集まってきます。後に梁山泊の指導者となる宋江は、押司(おうし)という下級官僚でしたが、義侠心に富み、多くの人々から尊敬されていました。中国の地方統治では、高級官僚は中央から派遣されてきますが、それぞれの地方の実務は胥吏と呼ばれる小役人が担当していました。彼らには、一般的には給料が支払われていませんでした。彼らの収入は様々な手続きなどに対する民衆からの手数料収入で賄われていました。そしてこの手数料収入を統括し、胥吏に分配するのが押司でしたから、押司は地元の顔役的存在であり、日本風に言えば、少し違うかも知れませんが、十手を預かるヤクザの親分のようなものです。手数料を幾らにし、胥吏に幾ら分配するかは、押司の胸三寸であり、まさにこの制度は腐敗の温床であり、押司は民衆の怨嗟の的でした。宋江は、「押司なのに公明正大だった」と言われていましたから、逆に腐敗していない押司などは、ほとんどいなかったということです。
 映画の前半では、全国の様々な所で、正義感と義侠心に溢れる人々が、不当な扱いを受け、追い詰められて梁山泊に集まってくる様子が描かれています。まず、禁軍(近衛軍)80万の師範であった林冲(りんちゅう)が無実の罪で流罪とされ、脱走して梁山泊に身を寄せました。また、宋江の同郷人である晁蓋(ちょうがい)は、政府が民衆から搾取した財物を強奪し、梁山泊に逃れてきました。当時、梁山泊を支配していたのは王倫(おうりん)という科挙の落第生で、非常に狭量な人物でした。そこで、林冲や晁蓋がクーデタを起こし、王倫を殺して梁山泊を乗っ取ってしまいます。ここに、忠義と正義を旗印とする梁山泊が誕生することになります。
 一方、梁山泊の近くに二龍山という天然の要塞があり、ここにも英雄たちが集まっていました。梁山泊は二龍山との統合を企図し、統合に際して宋江を棟梁として迎え入れようとします。宋江は、長い遍歴と苦しみを経験してきましたが、賊になることには抵抗がありました。しかし、追い詰められた宋江は、第41話でついに梁山泊に入ります。それとともに多くの好漢(英雄)たちも続々と集まり、梁山泊は一大勢力に発展します。そうした中で梁山泊は、「替天行道」(たいてんこうどう)をスローガンとして掲げます。つまり「天に替わって道を行う」ということで、それはまさに反乱でした。
 その後、梁山泊は周辺地域とも争って勢力を拡大し、梁山泊を制圧するために派遣された政府軍にも勝利します。そうした中で、内部対立も起こってきます。宋江たちは、自分たちの存在を朝廷に認めてもらい、奸臣を廃して国のために忠義をつくしたいと望んでおり、自分たちが「賊」であることに甘んじるべきではないいと考えていました。これに対して、もともと朝廷に反発して梁山泊に集まってきた人々が多く、さらに朝廷に組み込まれれば、梁山泊の自由がなくなるとして、宋江たちの考えに反対する人たちもいました。しかし宋江たちは、朝廷による承認を求め続け、映画の79話でようやく皇帝によって承認されることになります。こうした宋江たちの態度は、私たちには分かりにくく、中国でも文化大革命時代に、宋江たちの態度は裏切り行為だと批判されました。
 いずれにしても、朝廷による公認は、梁山泊の破滅につながっていきます。当時、江南で方臘(ほうろう)という人物を中心とした賊集団が、1120年には一大勢力に発展していました。そして朝廷は、1121年に梁山泊にその鎮圧を命じます。私たちの目から見れば、梁山泊も方臘も似たような賊集団に見えますが、宋江たちは方臘を国家に害をなす集団として鎮圧に向かいます。この戦いは相当凄まじい戦いで、結局鎮圧に成功しますが、108人いた梁山泊の英雄たちの内、都に帰れたのは27人しかいませんでした。さらに、残った27人に対して、朝廷は恩賞として官職を与え、地方に赴任させますので、梁山泊の人々はばらばらに分散し、集団としての梁山泊勢力は、事実上消滅することになります。
 その後、宋江は奸臣たちの策略で、毒酒を仰いで死にますが、このあたりの事情は、宋江について史実として知られていることとは異なるようで、あくまでも「水滸伝」での話です。結局、宋江たちは官職を得ることはできましたが、奸臣を廃することはできませんでした。しかし、北宋王朝も奸臣たちも、これより5年後の1126年に滅びることになります。この年に異民族が華北に侵入し、都を占領して徽宗らを拉致し、北宋は滅亡します。いわゆる靖康の変の勃発です。これ以降、中国は長い異民族支配の時代を迎えることになります。そうした苦難の時代に、民衆の間に「水滸伝」の伝説が形成されていくことになります。

 非常に長い連続テレビ・ドラマで、しかも全体の半分くらいが戦っている場面か酒を飲んでいる場面でしたので、途中からかなり飛ばして観ました。でも、「水滸伝」で語られている多くのエピソードが描かれており、非常に面白く観ることができました。おそらく、こうしたエピソードは独立して語り継がれてきたもので、それらが「水滸伝」の中に組み入れられていったものと思われます。


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