2016年3月5日土曜日

映画で浮世絵師を観て

写楽Sharaku

 1995年制作の映画で、写楽(東洲斎 写楽)とは誰かという長年の問いに、一つの仮説を提示した映画です。写楽は江戸時代中期の浮世絵師で、寛政6年(1794年)5月に突然出出現し、翌年の3月にかけての約10か月の間に、145点余の役者絵を版行し、忽然と姿を消した人物です。その絵は、大胆なデフォルメによって役者の個性を巧みに描き出し、当時大評判となるとともに、日本の開国後欧米で高い評価を受けました。写楽の正体については、今日では、様々な傍証から、阿波徳島藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛という説が有力ですが、その特異なキャリアと画風から、様々な想像がなされてきました。この映画も、そうした想像の一つです。
 時代は寛政3(1891)年です。この頃、ヨーロッパではフランス革命が激化し、中国ではまもなく白蓮教徒の乱が起きようとしていました。日本でも、これより少し前に天明の大飢饉が起き、世の中は少しずつ変化しつつありました。1767年から約20年間続いた田沼時代には、重商主義政策が採られ、その結果町人が大きな力を持つようになり、同時に町人文化も繁栄しました。しかし、1786年に田沼は失脚し、松平定信が老中首座となると、田沼政治は否定され、緊縮財政や風紀取締など寛政の改革が進められるようになります。その結果、世の中はしだいに窮屈な時代となっていました。
 映画は、こうした時代を二人の人物を通して対比して表現します。一人は、寛政の改革の推進者松平定信であり、もう一人は蔦屋(つたや)重三郎です。蔦谷は江戸の版元(出版人)の一人でしたが、彼はそれに留まらず、有能な狂歌師や絵師たちを発掘して売り出し、斬新な企画を次々と打ち出していました。いわば彼は、町人文化の総合的なプロデューサーでした。そして、その蔦谷が、寛政3年に風紀取締りに違反したとして捕縛され、財産の半分を没収されるなどの処罰を受けます。彼にとって痛手だったのは、人気絶頂の戯作者だった山東京伝も捕縛され、さらに美人画の浮世絵師喜多川歌麿が他の版元に鞍替えしたことでした。特に歌麿を失ったことは大きく、これに代わる絵師を見つける必要がありました。
 その頃、中村座で歌舞伎の脇役をしていた十郎兵衛という若者がいました。彼は名役者になることを夢見ていたようですが、舞台で怪我をし、その後無頼な生活をしていました。彼の母親は大道の砂絵師をしていたようで、その影響で彼は暇さえあれば、戯れに絵を描いていました。この人物自体は架空の人物で、映画では、今日写楽だと推定されている阿波徳島藩の能役者斎藤十郎兵衛と重ね合わせているのだと思います。そして、まだ無名の葛飾北斎が、十郎兵衛の絵を見て腰を抜かしてしまいます。さすがに北斎には、絵の本質を見抜く眼力がありました。北斎はこの絵を蔦谷に見せ、これを見た蔦谷は大芝居をうつことを考え出します。重郎米に役者の首絵を描かせ、彼を写楽という謎の人物として売り出そうというのです。
 この企画は大当たりで、写楽の絵は大評判となりますが、営業的には失敗に終わりました。役者絵というのは、今日のスターのブロマイドのようなもので、買う側からすれば嘘でも美しい絵が欲しいし、描かれる側からすれば美しく描いて欲しいわけです。それに対して写楽の絵は、役者の個性を醜いまでに大胆に描いていました。結局、絵の売れ行きは振るわず、写楽自身がプロの絵描きではなかったため、創作に行き詰まり、さらに写楽の絵に脅威を感じた歌麿が写楽の追い出しを図り、写楽は消えていきます。さすがに歌麿も、写楽の絵が尋常でないことに気づいていたわけです。そして蔦谷は、1897年に48歳で病死します。

 映画では、吉原の風俗や花魁、そして花魁と十郎兵衛との恋などが描かれ、当時の江戸の町民文化が華やかに描かれています。また、上にあげた人々以外にも、今日にも名を知られる多くの芸術家が、ほんのちょっとですが、顔を出します。『東海道中膝栗毛』の十返舎 一九、武士出身で『南総里見八犬伝』を著した曲亭馬琴、彼は当時蔦谷の手代として働いていました。また、今日写楽と推測されている斎藤十郎兵衛が、芝居小屋に入り浸って絵を描いています。また、歌舞伎狂言の作者である鶴屋南北、武士の狂歌師である大田南畝なども出てきます。あまりに内容が多く、消化不良になってしまいそうでしたが、この映画は写楽が誰かということよりも、写楽が出現した時代の爛熟する町人文化を描いた群像映画のように思われます。

写楽考

矢代静一原作の「写楽考」が、2007年に舞台化されて劇場公開されたものが、DVD化されました。これも、写楽とは誰か、どのようにして1年の間にあれ程多くの作品を残したかを問う内容です。
 江戸八丁堀の長屋で、伊之(後の写楽)と勇助(後の歌麿)という二人の若者が住んでいました。二人は絵師の修行中で、伊之は地獄絵を、勇助は極楽絵を描くことを目指していました。そこへ世直しを志すという幾五郎という浪人(後の十返舎一九)が転がり込んできて同居するようになります。そして、一人の女性の死をきっかけに、伊之は犯人と疑われて逃亡し、幾五郎は旅に出ます。
 10年の歳月が流れた後、今や勇助は喜多川歌麿として名をなし、幾五郎は武士を捨てて、蔦谷のもとで働いていました。そこへ落ちぶれた伊之が、何枚かの絵を携えてやってきます。蔦谷は、その絵に人を驚かすような斬新さがあることを見抜き、伊之は自首することを望んでいましたが、蔦谷は捕まって処刑されるまで絵を描き続けるよう、伊之を説得します。それから10カ月、伊之は何かに取りつかれたように絵を描き続け、やがて捕縛され、処刑されます。

 最後の10カ月間の写楽には鬼気迫るものがあり、彼の絵が生まれた背景の説明にはなっていると思います。最後に蔦谷は「一人の絵師の一生の間に、たたった一度だけ、もそれもほんの束の間にだけやってくる、凄まじい気力と、よく見える眼と、踊るような筆遣いが生まれた絵なんです。見事に咲いた狂い咲きの、大輪の花でした」と独白します。それにしても、前の映画と同様、この映画でも歌麿は、冷酷で現実的な人物として描かれています。歌麿は晩年に、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたため、当代の将軍・徳川家斉を揶揄するものとして捕縛され、手鎖50日の処分を受けていますので、彼にも絵師としての熱い心があったのだろうと思います。

北斎漫画

1981年に制作された映画で、葛飾北斎の生涯を描いています。北斎の実名は鉄蔵といい、1860年に貧しい農民の子として生まれ、幼い頃鏡磨師の養子となりますが、その後家を出て、貸本屋の丁稚や木版彫刻師の徒弟などを経て、絵師となることを決意します。多くの絵師の弟子になりますが、どれにも満足せず、絵師としても認められませんでした。1805年に葛飾北斎という号に改め、1814年に「北斎漫画」を刊行して大評判となります。すでに50代半ばでした。1820年に「富獄三十六景」、1836年に「富獄百景」を刊行して、絵師としての名声は不動のものとなります。この時すでに70代半ばでした。その後数々の名作を残し、1849年に90歳で死にます。死に際して、あと10年足りないと言ったそうです。
北斎の奇行やエピソードについては、数えきれない程伝えられています。改号すること30回、転居すること93回、衣食に関心をもたず、部屋は散らかり放題だったそうです。彼は、森羅万象あらゆるものに関心を持つという点で、レオナルド・ダ・ヴィンチに似ており、風体に無関心なことと長寿だったことでミケランジェロに似ているように思います。また、彼の三女お栄(葛飾応為)は、映画でも重要な役割を果たしますが、北斎と性格が似ており、片付けが嫌いで男のような性格だったそうです。彼女は、夫と離縁した後北斎とともに住み、父の手伝いをします。彼女の絵師としての技量は相当なものだったようで、北斎作と言われる作品の中には、彼女が描いたものが含まれている、ともいわれています。
映画に登場するもう一人の重要人物として、滝沢(曲亭)馬琴がおり、当時は左七と呼ばれていました。彼は武士の家に生まれ、武家奉公をしたこともありますが、長続きせず、放蕩無頼な生活を送っていましたが、読本作者になることを決意して、1790年に山東京伝に弟子入りを申し込みました。山東京伝は弟子とすることは断りましたが、彼を蔦谷に紹介し、以後彼は武士を捨て、手代として蔦谷に奉公することになります。この時代には、武士に見切りをつけて町人になる者が増えてきたようで、十返舎一九も武士の出でした。27歳の時、馬琴は生活のために、履物屋の入婿となりますが、30歳頃から本格的に読本の創作活動に入り、少しずつ名が知られるようになっていきます。そして、1814年に「南総里見八犬伝」が刊行されることになります。
北斎は馬琴とは刎頸(ふんけい)の友だったそうで、映画は、北斎と娘のお栄が、履物屋時代の馬琴の2階に間借りした所から始まります。非常に几帳面だった馬琴とは対照的に、北斎は自由奔放な人物で、しばしば馬琴の読本の挿絵を描いてやりますが、作者の意図に合わない絵を描くため、しばしば喧嘩になったそうです。映画は、履物屋に居候していた時代から始まり、北斎・お栄・馬琴のコミカルなやり取りが描かれます。北斎は人の度肝を抜くことが好きだったようで、縁日で120畳の紙に大きな達磨を描いたり、逆に米粒に絵を描いたりします。そして、突然に旅に出、「富獄36景」を描きます。
映画の後半は、北斎が89歳の時に飛びます。相変わらず気力は旺盛でしたが、体力の衰えは明白でした。そして相変わらず貧乏でした。彼は相当の画料を得ていたはずですが、金銭に全く無頓着で、すぐに使ってしまいます。そして言います。「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」

 「北斎漫画」は、「気の向くままに漫然と描いた画」だそうですが、まさに彼の人生が「漫画」だったのかもしれません。

0 件のコメント:

コメントを投稿