2014年7月2日水曜日

ある便り

今年(2007)9月に、突然私の下に郵便が届きました。そこには一冊の写真集と手紙が入っていました。この郵便を送ってきたのは、20年以上前に私が教えた女子学生で、この子(現在では多分40歳代と思われる)については、よく覚えていました。何しろ、毎日のように私の所へやってきて、私に哲学的な議論ふっかけてきたため、20年以上前とはいえ、さすがに印象に残っていました。この手紙を受け取った後、何度か彼女とメールのやりとりをしたのですが、この手紙と、やり取りしたメールの内容を、本人に了解の上で、ここに公開したいと思います(当時大学のブログで公開しました)
 なぜ私がこれらのメールを公開する気になったのかといえば、それが「自分とは何者なのか」という問題を扱っており、若い人の心に訴えるものがあると思うからです。


送られてきた本の表紙です。写真の人物はラマナ・マハルシというインドの思想家で、この本は彼と彼の生きた場所の風景を写した写真と、彼が述べた言葉からなっています。


大塚先生、今日は~
お元気でお過ごしでしょうか。
突然のお便りとこの本を見て、いったい何ごとだ?といぶかしく思っていることでしょうね。
お送りした本は、親しい友人が監修したものです。この本ができあがって、私の手元に届いたとき、ずっと忘れていた先生のことを思い出したんですよ。ですので、いかにも唐突かと思いましたが、河合塾でまだ教えてらっしゃることが分かってそちらにお送りすることにしたという次第です。
思い返せば、私が先生のお世話になったのは、もうかれこれ25年以上前のことです。当時の年齢以上の時がすぎてしまったと思うと、本当にびっくりします。時の経つのはなんと早いことでしょうか。そんな大昔のことですので、先生はたぶん私のことはよく覚えてらっしゃらないと思います。
生きることの意味の根本を知るすべは哲学しかないと思い詰めてしまっていた私に、あの時先生はラーマクリシュナ(1)の本を下さって、西洋哲学をやっても自殺するだけだって話をしてくださったんです(2)。当時の私はものすごく深刻で大変な状態で、先生のお話の意味するところはよく分らなかったのですが、あらためて振り返ってみると、あんな状況で、あんなアドバイスをくださるなんて、なんて不思議なことか……じつにありがたい巡り合わせだと思わざるを得ません。
言葉と思考を超えた世界を指し示してくださったこと、今では本当に感謝しています。こうした無数の導きのおかげで、今こうしてありがたく生きていられると感じています。人生というのはじつに不思議なドラマですね~。
おかげさまで、今は毎日笑って、楽しく暮らしています。
本当にありがとうございました。
お送りした本、とってもすばらしい本です。
先生の興味が変わっていなければ、きっと喜んでいただけるのではないかと思います。
先生もどうぞお元気で、お幸せにお過ごしくださいね-。
                         愛と感謝をこめて~

(1) ラーマクリシュナは、19世紀後半のインドの神秘思想家で、ヒンドゥー教の復興に大きな役割を果たすとともに、ヨーロッパの思想にも影響を与えました。ラマナ・マハルシもそうした思想家の一人です。なお、私が彼女に贈った本は、ロマンロランの「ラーマクリシュナの生涯」です。
(2) 私は、「西洋哲学をやっても自殺するだけだ」と言った記憶はありませんし、その様に考えたこともありません。ただ、もし私が言ったとすれば、当時の彼女が西洋哲学の言葉の中に埋もれて抜け出せなかったと、感じたからだと思います。


大塚です。本とお手紙を送って頂き、有り難う御座いました。あまりに突然だったので、大変驚きましたが、貴女のことはよく覚えています。当時私が貴女に話したことについては、あまり覚えていませんし、当時の貴女の悩みの本質をあまり理解していたとは言えませんが、当時貴女が破滅的な方向に向かっているような予感がしたため、ラーマクリシュナの本を差し上げたのだと思います。貴女が大学を中退した後、貴女が編集した本を私に贈ってくれました。その内容はよく理解できませんでしたが、貴女がカルトの世界に傾斜しつつあるような危惧を感じていました。
さて、私は現在でも、インド思想に強い関心を持ち続けていますが(憧れといった方がよいかもしれません)、残念ながらほとんどそれについて勉強することはありませんでした。おそらく、この世界に入り込むことが怖くて、意図的に目をそらせていたのでしょう。先週貴女から贈られた本を読みましたが、残念ながら写真も文章の意味も、十分理解できませんでした。でも、何か気になり続け、何度も繰り返し読むうちに、なぜか心が激しく動揺し始めました。それでも、やはり写真と言葉の意味は理解できません。
私が僅かに知っているインド思想は、おそらく欧米人の解釈を通して得られたものであり、欧米思想のフィルターを通して学んだものだと思います。解説する欧米人が、いかに論理を超えた世界として解説しても、そのことが欧米人の論理で説明されています。しかしラマナ・マハルシの言葉は互いに矛盾しているように思われ、彼の一つ一つの言葉を全体の中で捉えることは、私にはできません。今度は、貴女が私の師となって下さい。
 これからも愉快な毎日が過ごせるように祈っています。


2007年10月
メール、ありがとうございました~。
先生の感想は意外でもあり、また理解できるものでもありました。
当時私の身に起こったことは、誰でも一度は感じたことがあるであろう実存的な疑問、私は誰で、ここでいったい何をしているのか、このすべてはいったい何なのか?
というものでした。そうした問いが突然、雷に打たれたようにやってきたため、私自身の目から見ても、自分が破滅していくような気がしたものでした。
今ではそれは祝福だったと感じられますが、当時はそれどころではありませんでしたね。
ともあれ、教授が慈悲深い人だったせいもあって、大学はめでたく中退せずに卒業することができたんですよ。ありがたいことです。
しかし人生とは不思議なものですね。今になって、先生のなかにある魂の憧れが、私を呼び戻したんでしょうか・・・。 
先生が感じる恐怖というものは、とても分かる気がします。自分の思考、名前や形という、慣れ親しんだアイデンティティを後にするわけですから。海のひとつの波、空のひとつの雲が自分だと思っていたのに、実は海そのもの、空そのものだと気づくことになるわけですから。
以前の私は死んで、今こうしてありがたく存在している、ということからすれば、破滅も悪くないですよ(笑)。とはいえ、こういったすべては全部内面的なことで、外面的には、毎日の生活をごくごく普通にありがたく、しかも楽しく送っていますが。
ご自分の魂の憧れに忠実にしたがっていけば、必要なことは起こっていくと信頼して大丈夫ですよ。
とりあえず、先生が読んでみたかったら、お勧めできる本がいくつかあります。
「不滅の意識」ラマナ・マハリシ ナチュラル・スピリット (お送りした写真集より文が多いので、理解しやすいかも)
「エンライトメント」OSHO 市民出版社 (私の直接の師はOSHOです。直接会う機会はありませんでしたが、計り知れない恩恵を受けました。これはすばらしい本ですよ~)
「悟りを得れば、人生はシンプルで楽になる」エックハルト・トール 徳間書店 (これは原題はthe Power of Nowという本で、もし英語が読めるんでしたらそちらをお勧めしま
す。いわゆるインド哲学ではありませんが、お勧めです)
OSHOは言っています。真理は言葉にはできない、月をさす指に噛みつこうとしないで、月を見るように、と。
また何かありましたら、いつでもメールくださいね。
それでは~。幸運をお祈りしています。愛をこめて



2008年2月

早速ですが、貴女に一つお願いがあります。
現在私は神戸の大学で教師をしています。週45日を神戸で過ごし、週末には名古屋に帰ってきます。河合塾には週1日行っています。この大学のホームページの私のブログで、貴女と交わしたメールを公開したいと思うのですが、いかがでしょうか。もちろん貴女の名前は決して出しません。
 なぜかというと、今の学生たちを見ていると、心に傷を負った子供たちがあまりに多いと感じているからです。貴女とのメールが直接彼らの抱える問題を解決できるとは思いませんが、直接言葉で語るより往復書簡という間接的(あるいは第三者的)な形で示せば、何かを訴えることができるように感じています。もし、承諾頂けるなら、返事を下さい。
ところで、前のメールで、当時の貴女を十分理解できなかったと書きました。誰もが、若い頃に「自分は何者なのか」と問い続けますが、貴女のようにとことん突き詰めて考える人は稀だと思います。私が貴女について理解できなかったのは、その点にあるのだろうと思います。多くの人は、答えが見つからないまま日々を過ごし、そのまま人生を終えて死んで行きます。そして私もそうした人々の一人だろうと思っています。
私は相変わらず悩み多い日々を過ごしていますが、それでも、歳をとったせいか、肩肘を張らずに、自分のあるがままの姿を晒して生きています。ところが、大変不思議なのですが、悩み苦しんでいる自分を面白そうに見つめている、「もう一人の自分」が存在しています。言い換えれば、「もう一人の自分」が「悩み苦しむ自分」を面白がって見つめているのです。どちらが本当の自分なのかは分かりませんが、この「もう一人の自分」のおかげで、私は心の均衡を保てているのではないか、と考えています。したがって私自身の心は比較的平穏です。
 ラマナ・マハルシの本を読んで動揺したのは、どちらの自分だったのかも、よく分かりません。ただ、今は、この本を読んで心が動揺することはありません。むしろこの本を読むと心が落ち着くため、いつも手元に置いています(相変わらず、あまり意味が分かっていませんが)
 結局私は、無理にインド思想の世界に入り込むのを止めました。「在るがままの自分」を維持し、時にはマハルシのような魂の世界にも入り込んでみたいと思います。また、何冊かの本を紹介してくれましたが、今は読むのを止めておきます。これ以上の言葉や文字は、かえって私を混乱させるように思われるからです。ただ、一つの言葉だけが、私の心に張り付いて離れません。「私は私であるものである」です(この言葉自体は知っていたのですが、今まで深く考えたことがありませんでした)。一瞬分かりそうになったことが何度もありましたが、その度に答えが遠のいていきます。おそらく、「言葉」に拘っているために、答えにたどり着かないのでしょう。もう少し、自分で考えてみようと思っています。
追伸
 ふと思い出したのですが、貴女のアドレスのアジータというのは、仏典に出てくる名前ではなかったでしょうか?

こんにちは、お久しぶりです。
メール、ありがとうございました。
本をお送りして、その後、どうしていらっしゃるかなーとときどき思っていました。
もう一人の自分のお話、とても興味深く拝見しました。インド哲学だろうとなんだろうと、実際生きることのなかで、人は真実を知っていくのだと思います。特定の何かが大切なのではなく、おっしゃるとおり、求める気持ち、実際に生きて学ぶことが肝心なんでしょうね。
また、最近は、あの本を見ると落ち着くとのこと、よかったなーと思っています。
さて、交換メールの公開についてですが、若い人の心に何か触れれば、そして何か私の言葉が助けになれば、とってもうれしいことですね。とりあえず、始めてみましょうか?
私はたまたま今インドに来ていまして、2月末には帰国します。
またそのころメールいただければと思います。
それと、アジータという名前ですが、はい、仏典にもでてきますし、インドでもらった名前でもありまして、今は仕事もこの名前でしています。
HPもありますので、興味がありましたら、お暇な折りにでものぞいてください。


こんにちは、先生。
 いただいたメールにインドからお返事をしたまま、半年以上なしのつぶてなので、どうなさっているかなあと思ってメールしてみました。
 お元気でお過ごしですか?
おっしゃるとおり、交換メールを公開したとしても、心に傷を負っている若い人のために、何か役に立てるかどうかはわかりませんが、何かしら社会的な働きかけをすることができるのは、とっても素晴らしいことだと思っていましたが・・・
 ただ、パタリとメールが来なくなったのは、先生が私のプロフィールをごらんになって、OSHOの弟子になったというところに引っかかっているのかもしれないなあー、と漠然と思っています。まあ、これは私の推測にすぎないのですが。
 OSHOは若い頃、バグワンという名で知られていた人で、世代的にも先生の世代は日本人の弟子も現れ始めたころと思いますので、たぶんご存じなのでしょう。
 過激な言動も多く、政治家や宗教指導者などを遠慮なく批判したこともあって、マスコミからはセックス・グル等々、社会的にひどい報道をされ、さらにその弟子たちも実際、無礼な人が多かったりしますので(笑)、伊藤さんも、なんのことはない、悪い新興宗教に捕まってたのか・・・とかなんとか、と思われたのかもしれませんね。
 そういった誤解は、一度ちゃんと彼の講話なりの書物をじっくり読んでくだされば、根も葉もないことだとわかると思いますが。
 まあ、わかる時にはわかってくださることでしょう。
 先生のおっしゃっていた「もう一人の自分」という記述は、とても興味深いものでした。
 その、あらゆることをただ見てる、ただ気づいている意識(それはいつも静かで、変わらず穏やかで、無言です)こそが、私たちの真我にとても近いものです。
 偉大な師(インド哲学であれ、禅の導師であれ、だれであれ)が共通して言っていることは、私たちはみな、悟って生まれてくる、けれども、成長の過程でそれを見失ってしまい、夢を夢と知ることなく夢遊病者のように生きているということです。 それでは確かに苦しい人生にならざるをえないでしょう。
 まあ、私自身は、目覚めたり、夢に戻ったりの繰り返しですが・・・昔の苦しさは、昔のものとなりました。ありがたいことです。
 2月にお返事したまま、その後連絡がないので、残暑お見舞いも兼ねて、一度メールしてみました。
 おひまがあれば、またいつでもメールいただければうれしいです。
 それでは、秋の気配の感じられる中、どうぞお元気でお過ごしくださいね。


2008年9月
大塚です。長い間連絡をせず、余計な心配をさせて申し訳ありません。連絡できなかったのは、貴女の問題ではなく、私自身の問題によるものです。
貴女の手紙は、大学のホームページ内の私のブログ「つぶやき」で公開されています。
このブログを通じて、学生の反応を探っていたのですが、ほとんど反応がなく、それ以上先に進めなくなってしまいました。その後、ブログを通じて色々な形で反応を探っているのですが、なかなか反応がありません。またこの間に、母が死亡し、神戸と名古屋の間を往復する生活を続けていることもあって、精神的にも肉体的にも疲労しきってしまい、ブログを更新することもできない状態でした。ようやく、少し余裕ができましたので、今後どうするかを考えてみたいと思っています。
実は、昨日、最近退学したある学生からメールが届き、退学の理由や現在の心境が述べられており、私は、先ほど返信メールを送りました。内容について触れることは出来ませんが、私はこの学生に適切なアドバイスをすることができませんでした。言葉で何を語っても、すべて空しいように思われたからです。人の心に触れることは、容易ではないことを痛感しています。
ところで、現在私はヒンドゥー教にのめりこんでいます。何冊かの本を読み、ベーダやウパニシャッドの抜粋を読んだのですが、すでにインドでは3千年も前に、「思考」あるいは「知」の極致に到達していたことに驚愕しています。またヒンドゥー教の多様性と豊かさにも驚愕しています。また、最近(といっても半年以上前ですが)、インド映画を何本か観ました。「ムトゥ」「大地のうた」「ボンベイ」「ラジュー」「ザ・テロリスト」「ディル・セ」です。「ムトゥ」「大地のうた」「ボンベイ」については、ブログで感想を書いています。私は最近沢山の映画を観ていますが、それには理由があります。その理由については、また別の機会に話したいと思います。

こんにちは。
 お久しぶりです。
 そうですか・・・ハードな日々を送られていたんですね。
その後、お元気になられましたか?
 インド映画は数は見てませんが、「ムトゥ」に代表される、あの底抜けに明るい感じが大好きです。映画館で見ている人たちが、みんな一緒に踊るんですよ。
この現象界は「リーラ」つまり遊びというか戯れであって、カルマに応じて生まれ変わっていき、結局はみんな救われる(救われている)っていうような感覚がどっかにあるんではないでしょうか。
 私もいろんな師との出会いから、真実は深刻ではないということを知るに至りました。
深刻になりがちのは思考(つまり解釈)であり、過剰な思考は病的に破滅的になりがちですよね。(その辺のことを、私は予備校で先生から教わった気がするんですが・・・)
言葉はむなしいっていうのも、ある意味真実だと思いますが、私の場合は、先生の言葉にものすごく影響を受けたし、とってもありがたいと思っている気持は昔も今も変わりません。
 ブログも、先生が自分の楽しみのためにされれば、その楽しい感じが学生にも伝わるんじゃないでしょうか。
自分が楽しまないで、人のことを何とかしようと思っても、そりゃー無理じゃないかしらと思いますが・・・
 ヒンドゥ教にのめりこんでいるというお話ですが、その情熱や喜びが一番ダイレクトに人のハートに響くと思います。
 ではでは~。
機会がありましたら、またお便りさせていただきますね。
 どうぞお元気で。
秋の美しい景色を楽しみましょう~

2009年10月
大変ご無沙汰しています。貴女のダイレクトメールを見て、久しぶりにホームページを見てみました。相変わらず、いろいろ活躍しているようで、安心しました。とはいっても、私は貴女のことを忘れていたわけではありません。実は、この秋に、私のゼミに貴女に来て頂くことを真剣に考えていました。今回のゼミでは、宗教をテーマに取り上げ、仏教、キリスト教、イスラーム教などを対象として授業をしています。その過程で、貴女にインドでの体験などを話して頂きたいと思っていたのですが、いろいろな事情が重なって、貴女に連絡する前に実施が困難となり、大変残念に思っています。また、この様な機会がありましたら、お願いすることがあるかと思いますので、その際はよろしくお願いします。
ところで、ホームページを拝見していたところ、インド体験旅行の企画が消えていました。私も人生の終わりに近づいてきたため、一度立ち止まって見たいと思い、それにはインド旅行などもいいかなと思ったりもしていました。結局行かないような気がしますが、あまりにも長く走り続けてきたため、一度何も考えない空白の期間をつくって見たいという思いが日々強くなっています。
今後の一層のご活躍をお祈りしています。


メールいただいてから、ずいぶん経ってしまいました。
このところ、大変忙しい日々が続いていまして、お返事もしないままで失礼しました。
ともあれ、メール、大変うれしく拝見しておりました。
 宗教体験というものは個人的なものですので、私の話がお役に立つかわかりませんが、そうした機会がありましたら、喜んでお伺いしたいと思います。
 ところで、私はインド体験旅行の企画をしたことはないので、別の方の案内と混同しているのではないでしょうか。
どちらにしても、インドであれ、どこであれ、空白の時を持つのはとても素晴らしいことですよね。
 私などは自然の中や温泉などで、ぼんやり無心の時を持つのが至上の楽しみです・・・^_^
 それでは、また。
 寒くなってきましたが、どうぞお元気で~。
 with Love
アジータ





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