2014年3月8日土曜日

映画で核兵器・原子力を観て

「渚にて」


 この映画は、1957年に書かれた同名の小説が、1959年にアメリカで映画化されたもので、第三次世界大戦の勃発による核戦争で、地球が放射能で汚染されて、人類が絶滅するという物語です。

 第二次世界大戦が終わった後、米ソの冷戦が始まり、両国は核兵器の開発競走を展開しました。ここで、核兵器の歴史のおさらいをしておきたいと思います。1945年にアメリカが原爆実験に成功し、広島と長崎に投下します。これが核兵器を実戦で使用した最初にして最後の例です。1949年にソ連が原爆実験に成功、1952年にアメリカが水爆実験、1953年にソ連が水爆実験に成功します。原爆と水爆との違いは、前者が核分裂、後者が核融合によるもので、水爆の方がはるかに規模を拡大できます。一時、水爆は放射能を出さないきれいな核兵器といわれましたが、それは間違いです。水爆は起爆装置に原爆を用いますので、十分に汚い核兵器です。1954年にアメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船第五福竜丸が死の灰を被りました。また核融合はきれいなエネルギー源とされていますが、核分裂とは異なる別の放射能を出しますので、一概にきれいとは言えません。

 このように、米ソによる核兵器開発競争が展開される中で、別の問題が発生してきました。つまり運搬手段です。アメリカとソ連が相互に相手を攻撃する場合、爆撃機で運搬することになりますが、帰るための燃料が足りません。そこで考案されたのが、大陸間弾道ミサイルです。ミサイルを一旦大気圏外に出せば、空気抵抗がないのでそのまま軌道に沿って飛んでいきますし、帰りの燃料は必要ありません。そしてこの大陸間弾道ミサイルを先に開発したのはソ連でした。1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功します。人工衛星と弾道ミサイルは同じ技術であり、近年北朝鮮が弾道ミサイルの実験を行って、これは人口衛星であると主張していますが、基本的に両者は同じものです。
 弾道ミサイルは、世界中どこへでも短時間で飛んで行き、目標めがけて正確に落下し、しかも弾頭には一瞬にして数百万人を殺傷できる核兵器が搭載されていたとすれば、それはもはや最終兵器です。アメリカ国民はパニックに陥り、自宅にシェルターを造る人まで出てきました。そして当面、米ソによる人工衛星=弾道ミサイルの開発競争が展開されることになります。この小説が出版されたのが1957年であり、まさに核戦争が現実味を帯びてきた時代でした。

 映画では、すでに第三次世界大戦が起き、米ソが「弾み」で核兵器を使用してしまい、北半球は放射能で全滅してしまいます。生き残った人はオーストラリアに移りましたが、やがてオーストラリアも放射能に覆われることは明らかでした。まさに、渚に波が打ち寄せるように、放射能はオーストラリアに迫り、人々はそこで死を迎えることになります。とりあえず、アメリカの原子力潜水艦が北半球への偵察に行くことになりますが、その艦長がこの映画の主人公です。結局、この偵察は北半球で人類が滅亡していることを確認しただけでした。

 非常に奇妙に思われたのは、サンフランシスコに立ち寄った際、人がいないというだけで、町は見事に整然としていたことです。本来なら、あちこちに死体が転がっていたり、車が放置されていたりするはずです。また犬や猫の死体が転がっているはずです。あたかも全員が死を覚悟してベッドに横たわって死んでいったかのようです。広島や長崎の惨状を知っている我々には、納得できません。仮に、核兵器による直接攻撃を受けていなかったとしても、放射能汚染によって人は即死することは滅多にありません。皮膚はただれ、髪の毛が抜け、あちこちに腫瘍ができ、何日も、あるいは何か月も苦しみながら死んでいきます。人々はパニックに陥り、町中が大混乱に陥ったはずです。

 しかし、これが作者の意図なのかもしれません。いたずらに混乱した醜い世界を描くより、むしろ静寂の死の世界を描くことによって、人間の愚かさを伝えたかったのかもしれません。誰もが、一体なぜこんなことになってしまったのだ、と尋ねます。これに対して、潜水艦に同乗していたある科学者が呟きました。「平和を保つために武器を持とうと考える。使えば人類が絶滅する兵器を争ってつくる。自分もそれに手を貸した。そして、どこかで誰かがレーダーに何かを見た。千分の1秒遅れたら自国の滅亡だと思い、ボタンを押す。そして世界が狂った」と。


 オーストラリアでは、政府が全員に安楽死できる毒薬を配ります。そして誰もが、「その日」が到来するまで粛々と日常生活を続け、「その日」がきたら、皆粛々と死んでいきます。それはかなり不自然で、現実にはありえないことのように思われますが、作者は、愚かなことを仕出かした人類が神の懲罰をうけるために、死に臨んでいく姿を描きたかったのではないかと思います。

13デイズ」

 2000年にアメリカで制作された、キューバ危機を題材とした映画で、196210月に起こった米ソの核戦争を孕んだ対立を描いています。この年の10月にキューバでソ連のミサイル基地が発見され、それに対する大統領と側近たちの13日間の対応を描いているため、「13デイズ」というタイトルになっています。

 キューバは、15世紀末以来スペインの植民地でしたが、20世紀初頭に事実上アメリカの植民地となり、1930年代に一応独立を果たしますが、独裁政権の下で経済はアメリカ資本主義によって支配されていました。それに対して、カストロやアルゼンチン出身のゲバラなどが反乱を起こし、1959年に独裁政権を倒します。もともとカストロは社会主義者ではなく、アメリカとの友好を維持したいと大統領との会談を求めますが、アイゼンハウアー大統領はこれを相手にせず、アメリカによる経済支配を維持しようとしました。こうした中で、カストロはソ連に接近し、1960年には農地改革やアメリカ資本の接収など、社会主義的な政策を打ち出していきました。アイゼンハウアーは、革命政権の打倒計画を推進しますが、ここで大統領がケネディに代わります。

 ケネディは、アイゼンハウアーの計画を継承して実行しますが、惨めな失敗に終わります。その後もケネディ政権は、新たなキューバ侵攻計画を進めており、196210月に準備が完了する予定でした。この計画の準備と同じ時期に、ソ連によるキューバへの核ミサイル配備の計画が進行しており、アメリカの偵察機がキューバでソ連製のミサイルを発見します。「アメリカの裏庭」ともいうべきカリブ海に、ソ連のミサイル基地が設置されることは、アメリカには到底容認できません。この時から13日間にわたって、アメリカは核戦争を覚悟の上で、あらゆる手を打ちます。とはいえ、核戦争は避けねばならず、ソ連の首脳にとっても同じです。

 この映画はドキュメンタリーではなくドラマですので、事実と異なる部分があるかもしれませんが、双方とも核兵器の発射命令ボタンに手を置いた上でのやり取りだったことに変わりありません。1027日は最悪の一日でした。アメリカの偵察機がソ連製ミサイルで撃墜され、さらにアメリカ海軍がソ連の潜水艦に、核魚雷を搭載しているかどうか確認もせず爆雷を投下します。後でわかったことですが、ソ連の潜水艦は核魚雷の発射直前までいったのですが、副官の一人が反対したため、発射しませんでした。ここで発射していれば、間違いなく全面核戦争に発展していました。こうしたことから、この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれています。

 この間、裏ルートでの工作が進められ、ソ連がキューバから核ミサイルを撤去する代わりに、アメリカはキューバを攻撃しないことを保証するという合意が成立し、結局核戦争は回避されました。まさに、これは核兵器という切り札を振りかざした瀬戸際作戦であり、両国とも核戦争の深淵を覗き込むことになりましたが、「渚にて」のような破局は避けられたわけです。このことの反省から、米ソ首脳間の直接の電話回線であるホットラインが設置され、さらに翌年部分的核実験停止条約が締結されます。この条約は、やらないよりはましという程度の内容ですが、米ソ間の初の核軍縮条約となりました。
 なお、ケネディは1963年に暗殺され、フルシチョフは翌年解任されました。

「未知への飛行」

キューバ危機から2年後の1964年に、アメリカで制作された映画で、システム上のミスのため核戦争に至る危機を描いたものです。原題は「フェイル・セーフ(Fail-Safe)」です。フェイル・セーフとは、さまざまな装置における安全装置のことをいいますが、ここでは軍事的な意味で用いられます。

米ソの大陸間弾道ミサイルは、それぞれが相手の国を狙って配備されており、万が一どちらかが先制攻撃をかければ、もはやこれを防ぐ手段はなく、一方の国が滅びます。そこで、一方の国が先制攻撃をかけ、それによって他方の国が滅びたとしても、必ず相手も滅ぼすという体制をつくります。そうすれば、どちらの国も先制攻撃をかけられなくなるということで、これを相互抑止戦略といいます。

仮に、ソ連がアメリカに対して先制攻撃を開始したとします。これでアメリカの滅亡は確実です。この先制攻撃をさせないための抑止戦略には色々ありますが、要するに先制攻撃すれば自分も滅びると思わせることです。例えば、核兵器を搭載した原子力潜水艦を全世界の海に配備します。通常の潜水艦の場合、燃料が酸素を消費するため、あまり長時間潜水していることができませんが、原子力潜水艦の場合、人間が消費する酸素があればいいので、長時間潜水が可能です。そこで核兵器を搭載した原子力潜水艦が、敵に位置を知られないように、海中深く移動し続けます。そして、敵が先制攻撃を開始して本国が滅びても、原子力潜水艦は生き残りますので、そこから核兵器を発射します。

また、爆撃機による常時警戒態勢という方法があります。核兵器を搭載した爆撃機が、空中給油を続けながら24時間飛び続けます。そして、敵が先制攻撃を開始したら、報復攻撃を行うというものです。この際、出撃命令が出た場合、爆撃機は予め設定された帰還可能ポイントで待機し、次の命令を待ちます。この帰還可能ポイントをフェィル・セーフと言います。このラインを越えたら、パイロットはいかなる命令があっても爆撃に向かわねばなりません。なぜかというと、このポイントを超えると敵からの妨害工作が行われる可能性があるからです。例えば、敵が大統領の声を真似て、「帰還せよ」という命令を出すかもしれませんので、パイロットは「いかなる命令にも従うな」と厳命されています。先の原子力潜水艦も爆撃機の常時警戒体制も、どちらも結局人類を滅ぼしてしまう体制であり、われわれは、長くこうした脆い体制の下で生きてきたのです。

映画では、アメリカのレーダーに不審な影が映ったため、とりあえず爆撃機に出撃命令が出されます。ここまではよくあることですが、システム上のミスから6機の爆撃機がフェイル・セーフを越えてしまいました。ここから、まさに「未知への飛行」が始まります。政府は、パイロットの家族を連れてきて、帰還を要請させます。パイロットも、帰りの燃料がないので、死以外にない飛行ですから苦しみますが、「いかなる命令にも従うな」という命令を受けているため、そのまま飛行を続けるしかありません。そこで大統領は、ホットラインでソ連首脳と直接交渉し、ソ連の方で爆撃機を撃墜してくれるよう依頼します。

 ソ連にとっても、大きな問題がありました。この攻撃が本当にミスなのか、それともミスと思わせてアメリカが全面攻撃をするつもりなのか、ということです。安全策をとるためには、即時全面攻撃を開始することであり、躊躇している時間的な余裕はありません。しかし、そう決断すれば、現実にはソ連の安全どころか、人類が滅亡することは確実です。とはいえ、アメリカの全面攻撃を座視して、ただ滅亡するのを待つことはできません。しかし、とりあえずソ連はアメリカを信じ、アメリカから情報を得て爆撃機を撃墜していきますが、一機だけ生き残りました。
 一方、アメリカも全面戦争になれば、勝者も敗者もないということを認識していました。人類の破滅を避けるためには、アメリカの側にミスがあったことを証明する義務があります。ここで大統領は驚くべき決断をします。もしモスクワに核兵器が落とされたら、アメリカも同時にニューヨークに核兵器を落とすということです。そしてモスクワに核兵器が落とされました。当時ニューヨークには大統領夫人が滞在していましたが、夫人にも知らせず、大統領はニューヨークに核兵器を落とします。こうして二つの都市は滅びましたが、人類の滅亡はさけられました。

 この映画が公開されたのは、キューバ危機の2年後だっただけに、現実味がありました。キューバ危機以来、米ソが一方的に先制攻撃を開始する可能性はいくぶん低くなりましたが、むしろ問題なのは、機械化の進歩により起こる偶発戦争です。人間は機械に頼りすぎ、パイロットは、大統領の肉声の命令より機械に誘導されて爆撃に突き進みました。人類は常に、「より強力な武器を造れば、敵は怖くて攻撃できず、平和が維持される」と考えてきました。特に科学者がこうした発想をもつ傾向があります。過去にも、こうした発想で武器を造り、結局平和どころか破滅的な戦争を何度も繰り返してきました。そして、第二次世界大戦後に発展した機械化は、人間による制御能力をはるかに超えてしまったため、機械上のミスによる偶発戦争の可能性が高まり、この状況は現在でも本質的に変わりがありません。

ところで、命令に従ってユダヤ人の強制移送を行ったアイヒマン(「映画でヒトラーを観て―ヒトラーの審判」参照)と、命令に従ってモスクワに核兵器を落としたパイロットと、どこが違うのでしょうか。確かに、アイヒマンと異なり、このパイロットは、死を覚悟していました。そして、死を覚悟していたなら、命令に背くこともできたはずです。彼は軍人としての義務を重視したのだと思いますが、それにしても軍人の義務が、500万の人命を犠牲にする程重要だったのでしょうか。もちろん、この場合パイロットの責任を問うのは酷だと思います。最も責任を負うべきは、そのような体制を作りだした政治家であり、またそのような時代を生み出したすべての人々にあるのではないでしょうか。これを避ける方法は、機械に頼ることではなく、絶え間のない対話と意志の疎通以外にはないのではないかと思います。

「チャイナ・シンドローム」

1979年にアメリカで制作された映画で、原子力発電所での事故を扱った映画です。「チャイナ・シンドローム」とは、もしアメリカの原子力発電所で炉心が溶融(メルトダウン)すると、溶けた燃料は地面を溶かし、地球の中心を通過して、反対側の中国にまで達するというブラック・ジョークで、この映画での造語です。このようなことは現実にはありえないとのことですが、炉心の溶融とはそれ程危険なことだということで、東京電力の福島発電所で炉心が溶融したというニュースを聞いたとき、私は愕然としました。

この映画は、原子力発電所の不正を暴くというサスペンス映画として制作されたのですが、この映画が公開されてから12日後に、スリーマイル島で炉心が溶融する原発事故が発生し、大変話題となりました。シンドローム=症候群という言葉は、本来医学用語として用いられていたそうですが、これをきっかけに、一連のよくない事態の発生という意味で、幅広く用いられるようになりました。また、スリーマイル原発事故が映画の公開後あまりにタイミングよく起きたため、映画関係者が観客動員のために起こした事故ではないか、ということまで取沙汰されました。

地方テレビ局の女性リポーターであるキンバリーは、たまたま原子力発電所の取材中に重大なトラブルに遭遇しますが、電力会社からの圧力により、その報道が禁止されてしまいます。一方、発電所の制御室長ゴルデは、トラブルの原因に疑念を抱き、調査する内に手抜き工事があることが判明しました。上司に話しても相手にされないため、彼は証拠となる資料を公表しようとしますが、その資料を運ぶはずの人物が殺害され、彼自身も命を狙われます。そこで彼は最後の手段に訴えます。彼は制御室に立てこもり、キンバリーに事実を報道させようとします。しかし報道直前に武装警官隊が制御室に突入してゴルデは射殺され、会社からはゴルデが酒によって暴れたとだけ説明されます。そして、キンバリーがテレビを通じて真相を話そうとしますが、画面は電子レンジのコマーシャルに切り替わります。

 原子力の危険性や関連会社の安全管理のずさんさについては、ずいぶん前から指摘され、警告されていました。ところが、1999年に茨城県東海村の核燃料加工施設で起きた臨界事故では、正規のマニュアルの他に裏マニュアルが存在し、当日はその裏マニュアルがさらに改悪されて作業が実施されました。原子力発電が安全か否かについて、私には判断する術がありませんが、少なくとも設計上のミス、手抜き工事、ずさん管理などによる事故は、あってはならないことです。また、福島原発の事故後、東京電力の関係者は、想定外の事故だったと繰り返し述べていましたが、私はその無神経さに驚きました。原子力事故に、想定外などということが許されるのでしょうか。あらゆることを想定して安全性を確保し、なおかつ想定外があるなら、原子力の使用は無理なのではないかと思います。
































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