2015年2月21日土曜日

映画でアメリカを観る(6)

十二人の怒れる男

 1957年にアメリカで制作された裁判物の映画です。アメリカでは陪審制度が定着しており、年間100万人もの人が陪審員を務めますので、アメリカ人は裁判に関心をもち、そのため裁判物の映画が好きなようです。
陪審制度とは、ウイキペディアによれば「民間から無作為で選ばれた陪審員が、刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加し、裁判官の加わらない評議によって事実認定と法の適用を行う司法制度」だそうで、日本の裁判員制度は裁判官が加わるので、陪審制度とは異なります。陪審制度の起源はヨーロッパの中世にあり、封建領主=裁判官の恣意的な判決を抑止するものとして発達していきます。それがイギリスによってアメリカの13植民地に伝えられます。北米植民地においては、裁判官は本国から任命されますが、陪審員は植民地人であるため、本国と植民地との対立が激化すると、陪審員はしばしば植民地に有利な評定を出し、これが植民地人による本国に対する有力な武器となります。こうしたこともあって、1788年に制定された合衆国憲法では、陪審制度が保障されることになります。
アメリカの陪審員は原則として12名です。12という数字がどこから出てくるのか知りませんが、イエス・キリストの使徒が12人であり、アーサー王の円卓の騎士も12人という説があり、また1年は12か月なので、12というのは特別な数字なのでしょう。また評決は全員一致を原則とします。それは、神の意志は一つという中世以来の伝統があるのかも知れませんが、市民の絶対的な意志を示すものという意味もあるでしょう。ただ、一人でも反対する人がいれば審理無効となり、何度でも新たな陪審員のもとで審理をやり直すことになります。
 陪審制には多くの長所があります。まず、陪審制は歴史的に権力の乱用を阻止するものとしての役割を果たしてきました。また、法は常に過去の事例をもとに解釈されますが、時代が変わり市民感覚が変われば、法にも新しい市民感覚が適用されるべきで、陪審制はそうした市民感覚を反映させるのに役立ちます。したがって、陪審制は参加型民主主義の国アメリカにおいては、極めて重要な意味を持ちます。その他にも、司法制度に対する市民の関心を高めたり、裁判の迅速化といった効果もあります。
 一方、陪審制には短所も多くあります。まず、陪審員の判断能力の有無や偏見などが問題となりますが、これは大なり小なり裁判官についても言えることです。むしろ裁判官でも判断が難しいような微妙なケースでは、市民的感覚に従うというのも一つの方法です。また陪審員の判断が弁護士の能力やパフォーマンスに左右される危険性がありますが、一方でそれ程影響されていないという実証的研究もあるそうです。最後に、陪審員に支払うコスト、事務的負担、審理無効の場合の再審などの問題があります。ただ、アメリカの場合、刑事事件の9割が司法取引で終わっており、実際に裁判が開かれるのは1割程度とのことですが、それでも毎年9万件の裁判が行われているそうですから、かなりの負担ではあります。とはいえ、アメリカでは陪審制を廃止すべきという強い意見は少ないとのことで、この制度はアメリカ社会にしっかり根付いた制度といえるでしょう。
 前置きが大変長くなりましたが、映画は極めて単純で、映しだされる場所は、裁判後に陪審員が評議する評議室だけです。事件は、スラムに住む少年が父親をナイフで刺し殺したという事件で、もし事実なら司法取引により懲役20年程度で取引できたかも知れませんが、本人が無実を主張したため裁判となりました。そしてもし陪審員が有罪という評決を出せば、少年は死刑となります。つまり裁判を受けるということは、大きなリスクを伴うということです。裁判の過程は一切映し出されませんが、評議室での話の内容によると、検事は巧みに事実を証明し、公選弁護人も少年を信じておらず、ほとんど反論もしませんでした。普通なら、評議は1時間もあれば終わり、有罪評決がでるところです。
 場面は狭い評議室で、真夏の暑い時でした。誰もが、1週間も裁判の審理に参加してうんざりしており、早く帰りたいと思っていました。ところが一人の陪審員が疑問を投げかけたのです。陪審員は名前で呼ばれることはなく、番号で呼ばれます。そしてこの陪審員は8番でした。彼も少年が無罪だと確信していた分けではありませんが、一人の少年の生死にかかわる問題ですから、疑問点を解消したかっただけです。ところがこの一つの疑問から、次々と新しい疑問が生まれ、しだいに無罪を主張する人が増え、最後に全員一致で無罪の評決が出されます。
 そこに至る議論の過程は大変興味深いものでした。単に事実についての議論だけではなく、個々の陪審員の発言は、それぞれの人が抱える人生や社会を反映しており、何度も喧嘩になりそうでした。一人の陪審員は、ナイターを見に行きたいため、早く終わらせたいと思っていました。一人の陪審員は子供に裏切られ、少年に対する憎しみを抱いていました。そうした人たちが最終的に意見の一致を見るに至る過程が、見事に描き出されていました。場面は一部屋だけであり、セットがほとんど必要ないため、極めて安上がりにできた映画であり、まさに「密室劇の金字塔」と称される映画でした。

 アメリカ人は、学校でも陪審員としての教育を受け、こうした映画を観て学び、陪審員としての自覚を培っていくのだろうと思います。もちろん多くの間違いはあるでしょう。例えば、泥棒が侵入した家で転倒し怪我をしたが、侵入された被害者に対し泥棒が賠償を請求して勝訴した、などという突飛な例があります。ある裁判ドラマで、若い女性が電車に乗っていて、彼女の両側に黒人が座って悪戯しようとしたため、彼女は拳銃で二人を打ち殺し、正当防衛で無罪となる、という話がありました。これは非常に微妙なケースで、過剰防衛とも言えるし、黒人に対する偏見があったとも思われますが、自分の身は自分で守るという原則が優先され、それが市民感覚であったということです。

評決
1982年制作のアメリカ映画で、医療過誤訴訟を扱っています。原作は、ボストンの高名な弁護士が、自らの経験に基づいて著したものだそうです。なお、この映画では、従来英雄ばかりを演じてきたポール・ニューマンが、初めて汚れ役に挑戦し、好評を得ました。
主人公のギャルビンは、一流弁護士事務所で働くエリート弁護士でしたが、ある事件をきっかけに弁護士事務所を追放され、仕事もなく、酒におぼれ、荒んだ生活をしていました。そうした中で、医療過誤の訴えの仕事が入ります。患者は出産のためカトリック系の大病院に入院しましたが、麻酔事故で植物人間となってしまいました。家族は賠償金を得ることを求め、裁判沙汰になることを嫌った病院も20万ドルの賠償金を提示しました。弁護士は成功報酬として賠償金の3分の1を得られます。しかし患者の悲惨な状態を見たギャルビンは、家族の意志を無視して裁判を起こすことを決意します。彼にとっても、これは自分が立ち直るための最後のチャンスだと考えていました。
病院は高名な弁護士を雇い、多くのスタッフと費用を使い、反論の準備をします。病院関係者には口止めをし、さらにギャルビンに女性を近づけてスパイさせます。また、裁判官は、初めから病院を支持しており、ギャルビンが出す証拠をことごとく却下します。もはやギャルビンには、なす術がありません。最終弁論で、彼は陪審員に対し、ただ良心に従って欲しいとだけ頼みます。そして評決は有罪でした。陪審員には、法律の裏をかく高名な弁護士の欺瞞性、権力を振りかざす裁判長の不公平さが、分かっていたのです。これこそが陪審制度の長所です。


 日本の裁判員制度では、6名の民間人と3名の裁判官が協議をします。ただ、私が新聞などで知った範囲内ですが、裁判員は総じて検察寄りの判決を下すことが多いように思います。これは日本とアメリカの政治風土の違いによるものだとは思いますが、日本の裁判員制度の場合、庶民の意見も少しは聞いてやる、という程度のもののように思われます。それに対し陪審制度は、多くの短所があるとしても、権力の暴走と民主主義を守るための、ぎりぎりの歯止めとなっているような気がします。

評決のとき

1996年にアメリカで制作された映画で、人種差別問題を扱っています。私は、この映画を相当前にテレビで放映されているのは見ただけで、あまり正確に覚えていません。
人種差別がまだ強く残っている南部のある町で、黒人の少女が二人の白人の人種差別主義者に暴行され、少女の父カールが二人の犯人を射殺して逮捕されます。知事選への立候補を狙う野心家の検事がカールを起訴し、駆け出しの弁護士シェイクが弁護を依頼されます。彼は、この町の裁判では陪審員に人種主義者が入る可能性があるため、裁判地の変更を求めますが、裁判長は拒否します。裁判長もまた人種主義者でした。そして陪審員は全員白人でした。
裁判が進むにつれ、町中で白人と黒人との対立が高まり、クー・クラックス・クランは、シェイクの家族を襲ったり、家に火をつけたりします。そのため州兵が派遣され、町は厳戒態勢下に置かれます。そうした中で最終弁論を迎えますが、彼はカールから「あなたも所詮白人だ」と言われました。確かに、彼は人種的偏見を持ってはいませんでしたが、それでも自分が白人の目で黒人をも見ていたことに気づきます。最終弁論で彼は、陪審員の良心に訴えます。乱暴された少女が自分の娘だったらどうかを想像してほしいと。そして陪審員は無罪の評決を下しました。

ここでも陪審員の良心が目覚めました。しかし、こうした映画が人々に感動を与えるのは、現実には、必ずしもそうはなっていないからだということです。偏見に満ちた評決は多いし、警察は黒人というだけで逮捕します。最近も、黒人が警官に射殺されるという事件がありましたが、アメリカで人種間の対立を解消させることは、容易ではないようです。

LAW ORDER
 アメリカのテレビで放映された刑事・法廷ドラマで、実に1990年から2010年まで20年間続き、11年連続エミー賞にノミネートされたという記録破りの番組です。毎回冒頭で、「刑事法体系には等しく重要な二つの独立した組織がある。犯罪を捜査する警察、そして容疑者を起訴する検察。これは彼らの物語だ」と述べられます。舞台はニューヨークで、この20年間に9.11同時多発テロやリーマン・ショックなどが起きており、そうしたことがドラマにも反映されています。
 アメリカの司法制度は州によって異なっているため一概には言えませんが、ニューヨークの場合、地方検事は4年に1度の選挙によって選ばれます。西部劇に出てくる保安官(シェリフ)も選挙で選ばれますので、その流れを汲んでいるのかもしれません。いずれにしても、地方検事は住民の意思を反映する政治家でもあるわけです。また、犯罪の大部分が司法取引で決着しますので、ほとんど毎回司法取引の話が出てきます。そうしたやり取りを観ていると、裁判をした場合、陪審員がどのような判断をするのか予想がつかないため、たとえ無実であっても罪を軽くしてもらえるなら、取引に応じてしまう人がいるのではないか、とも思われます。ただ、それはあくまで本人が判断することなので、その点についてはアメリカ人は割り切っているのかもしれません。
 ドラマの数は膨大なので、一つ一つは思い出せませんが、ありとあらゆる犯罪が扱われており、さすがアメリカは犯罪大国・犯罪先進国だと思いました。例えば、はっきり覚えていませんが、ある男性が公園で誘拐され、数日後に再び公園に戻りますが、この男性は腎臓を一つ切り取られていました。さすがアメリカ、という犯罪でした。また、小児性愛や同性愛に関する犯罪も多く、さらにサイコパス(精神病質―反社会的人格の一種)による犯罪も見られます。こうした犯罪は、やがて日本でも起きるようになるのではないかと思っていましたが、最近若い女性が、「人を殺してみたい」という理由で殺人を犯すという事件が続きました。何か背筋が寒くなるような思いです。

 この番組は、今でもアメリカ各地のケーブルテレビなどで再放送が繰り返されているそうです。まさに刑事・法廷ドラマの金字塔とも言うべき番組でした。

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