2014年12月23日火曜日

映画で中国―清朝を観て

中国の清朝に関する映画(連続テレビドラマ)4本観ました。清の創生期を扱った「大清風雲」と以下三人の皇帝を扱った「康熙王朝」「雍正王朝」「乾隆王朝」です。つまり、このブログの「映画で中国史を観る」
(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4967.html)の続編ということになります。比較的面白かったのは「大清風雲」で、あとの3本はあまり出来のよい映画ではありませんでした。その他に明の滅亡を描いた「江山風雨情」という連続テレビドラマがあるようで、是非観たいと思ったのですが、残念ながら手に入りませんでした。

満州(中国東北部)



















清朝は、1616年に満州(中国東北部)で建国され、1644年に明を滅ぼし、やがて全中国を征服し、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代130年間に、中国史上稀にみる繁栄の時代を築きます。清を建国した女真人は、中国東北部で半農半牧の生活をし、古くからしばしば中国の歴史に関与してきましたが、明代には明による離間策もあって、女真人は多くの勢力に分立し、互いに武力抗争を繰り返していました。その中から建州女直のヌルハチが台頭し、この頃からヌルハチは自らの勢力を満州と呼ぶようになります。1616年にヌルハチはハンに即位し、国名を後金とします。ヌルハチは1618年に明との戦いで大勝しますが、1626年の戦いで大敗し、その数日後に死にます。



山海関
ウイキペディア













ヌルハチの後を継いだホンタイジは、1636年に国号を大清とし、皇帝に即位します。ヌルハチの戦いは明からの自立を目指したもので、明を征服しようとするものではありませんでしたが、ホンタイジは明らかに、明に代わる中華王朝の建設を目指していました。彼は明への侵攻を目指しますが、明との境界にある要塞山海関の守りを堅固であり、1643年に志半ばで急死しました。なお、山海関は長城の東の端にあり、そこから長城が海に突き出て終わっています。


大清風雲


 2005年に制作された大河ドラマで、全42回からなります。このドラマは、ホンタイジの妃である荘妃(大玉児)を主人公とします。彼女は、ホンタイジ、順治帝、康熙帝の三代の皇帝に仕え、清の繁栄の基礎を築いた女性とされます。その点で、このブログの「映画で中国史を観る 北魏馮太后(ふうたいこう)
 ドラマではもう一人重要な人物が登場します。ヌルハチの第14子、ホンタイジの弟ドルゴンです。彼は兄のホンタイジより19歳若く、この頃まだ二十歳代半ばでした。彼は、軍事的にも政治的にも有能で、信望の厚い人物でした。ドラマでは、彼は荘妃とは少年時代からの恋仲でしたが、ホンタイジに彼女をとられてしまいます。ホンタイジの死後二人は結婚しますが、これはレビラト婚といい、遊牧社会にはよくあることです(映画で観る中国の四人の女性 王昭君http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1111.htmlを参照して下さい)が、儒学では姦淫に当たります。ただし、この話は史実とはいえないようです。
 ホンタイジは後継者を指名せず死んだため、彼の弟のドルゴンとホンタイジの長子との間で後継者をめぐって対立が起きました。しかし中国征服の目前で内乱が起きれば、今までの努力は水の泡です。そして、ここで奇策が飛び出しました。つまり二人とも皇位継承争いから身を引いて、晩年のホンタイジが最も寵愛した荘妃の子を後継者にするということでした。ここに第三代皇帝順治帝が誕生することになりますが、彼はまだ6歳でしたので、14歳になるまでドルゴンが摂政王として後見するということになりました。

当時の明は、腐敗堕落して民衆は苦しみ、大規模な農民反乱が起きていました。明朝最後の皇帝崇禎帝は教養があり、改革の意欲に燃えていましたが、もはや手遅れでした。1644年に反乱軍は北京を陥落し、崇禎帝が自殺します。その結果清は、中国を征服するための絶好の大義名分を得ます。つまり、今や清は、殺された崇禎帝を弔問し、反乱を鎮圧し、秩序を再建して民に平安をもたらし、中華の伝統を復活するという大義名分を得たわけです。中国は、過去に何度も異民族の支配を受けており、そうした経験を通じて、中国では支配者の民族が何であれ、中華の伝統を守るならば正統である、という考えが形成されてきました。そのため、清軍は比較的平穏に紫禁城に入城し、民衆からも歓迎されました。
 とはいえ、清はまだ中国全土を統一した分けではなく、各地にさまざまな反抗勢力が存在していました。また宮廷内部にもさまざまな対立が存在しました。漢人と満人との対立、ドルゴンと順治帝の対立などです。とくに順治帝は威圧的なドルゴンを憎んでいました。こうした中で、清では女性が政治に介入することは禁じられていましたが、ドラマでは荘妃がさまざまな対立を仲裁するために腐心します。ドラマは、宮廷内の権力闘争、ドルゴンと荘妃との愛などを中心に展開されます。こうした話には私は興味がないのですが、辮髪(べんばつ)令の発布前後の話は、大変興味深く観ました。

 辮髪とは、主にモンゴル周辺の男性の髪型で、頭髪の一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らすもので、兜を被った時に頭が蒸れるのを避けるためだそうです。日本の武士が月代(さかやき)を剃るのも、同じ理由だそうです。そして清は中国を征服すると、中国のすべての男性に辮髪を強制します。それは違反した場合には斬首という厳しい命令でした。このため当時、「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」と言われました。このようなつまらない風俗を強制するとは、何という悪政かと思いますが、清には清の事情がありました。
清は、漢人官僚を多く登用し、漢人・満人の差別なく統治し、漢文化を受け入れ、中華思想も受け入れました。しかし、ここまで中国文明を尊重すると、満人は人口において漢人より圧倒的に少数派であるため、中国に同化されてしまう可能性があります。また、実際には清が北京に入城すると、多くの漢人が進んで辮髪を行い、清への服従の意志を示しますが、そうなると逆に辮髪をしない者には反清の意志があるのではないか、という疑念が生まれます。つまり、清が満人の王朝であることを明確にするために、一見どうでもよいような満人の風俗を強制する必要があったようです。
 一方、漢人にとっては、たとえ髪の毛といえども体の一部を損なうことは、祖先への冒涜と見做されます。したがって、たとえ斬首されても辮髪を拒否した人も多く、辮髪の強行にあたっては相当の混乱がありました。しかし、結局ほとんどの人々が辮髪を受け入れ、辮髪は清人の風俗として定着していきます。20世紀初頭に清朝が滅亡した後、多くの人が辮髪をきるようになりますが、辮髪を切るくらいなら死んだ方がましだとして、辮髪を守った人も沢山いましたので、辮髪は清人のアイデンティティの証しとしてしっかりと定着していたわけです。

 順治帝は、14歳になったら親政を開始する約束になっていました。問題は、その時ドルゴンが政権を手放すかどうかだったのですが、1650年、順治帝が13歳の時にドルゴンは狩りの途中で死亡します。46歳でした。まさに、暗殺されたのではないかと疑いたくなるような、絶妙のタイミングでした。もしドルゴンが生きていれば、内乱に発展し、その後の清の繁栄はなかったかもしれません。ところが、ドラマでは、順治帝が17歳のときにドルゴンがまだ生きており、両者が決定的に対立した時、荘妃が仲裁し、二人は和解し、その直後にドルゴンが死亡して、ドラマは終わります。しかし、実際には順治帝は、ドルゴンの死後彼の爵位を剥奪し、墓を暴いて斬首に処したとのことですから、ドラマのようなハッピー・エンドは信じられません。
 このドラマは、荘妃とドルゴンとの愛をテーマにしているように思います。実際に二人がそのような関係だったかどうか分かりませんが、ドラマではドルゴンが荘妃への愛のために皇帝になることを諦めたことになっています。確かにドルゴンはきわめて有能で、清による中国支配の基盤は彼によって確立され、その気になれば皇帝になることも可能だったかもしれません。しかし、その前に彼は不慮の事故で死んでしまいました。
 順治帝は、幼少の時から漢人たちの間で育ったため、漢文化への理解があり、実際彼は相当の読書家だったようです。彼は「民のための政治」を目指す理想主義者で、つぎつぎと大胆な改革を行い、各地で起きる反乱も鎮圧しました。もちろんそこには母である荘妃の助力があったと思われますが、清朝では女性が政治の表舞台に立つことは許されていません。唯一の例外は清朝末期の西太后ですが、彼女もまた簾の背後に隠れての睡蓮政治でした。清朝では、その創成期と終末期に、女性が大きな役割を果たしたわけです。西太后については、このブログ「映画で観る中国の四人の女性」 

を参照して下さい。


ところで、清が中国を征服したのは1644年、この頃日本では江戸幕府が成立していましたが、寛永の飢饉などがあってまだ安定していませんでした。また当時、ヨーロッパでは混乱が続き、この時代は一般に「17世紀 危機の時代」といわれています。この点については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第18章危機の17世紀」

http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/1817.html)を参照して下さい。清が安定するには17世紀末まで待たねばなりません。





康熙王朝


2001年の大河ドラマで、全40回からなります。清朝全盛期を築いた康熙帝の一生を描いたテレビドラマで、中国では非常に視聴率が高かったそうですが、私にはそれほど引きつけられるような場面はなく、概ね想定内の内容でした。ただ、大国への道を歩き始めた当時の中国の人々は、まさに大国清朝を築き上げた康熙帝に共感を抱いたのではないでしょう。
先に述べた順治帝は、1661年に24歳の若さで天然痘のため死んでしまいます。ところが、「順治帝は生きている」という俗説があり、このドラマはこの俗説に基づいて作られています。ドラマによれば、順治帝は急進的な改革が行き詰まり、政治に嫌気がさし、仏教と一人の愛妃にのめり込みます。ところがその愛妃が天然痘で死亡してしまったので、絶望した順治帝は退位して僧侶になってしまいます。ここで再び荘妃が登場してきます。彼女は、順治帝が天然痘で死亡したことにして、順治帝の第3子を康熙帝として即位させます。彼は当時まだ8歳でした。もちろん順治帝は6歳で即位しますが、彼の場合ドルゴンという絶対的な実力者がいたのに対し、康熙帝はほとんど一人で重荷を背負うことになり、以後61年間という最長不倒の在位期間を記録します。
康熙帝は16歳から親政を開始することになっており、その間8年、大臣たちは康熙帝を思いのままに操ろうとします。この8年間は、康熙帝にとって忍耐の時代でした。1669年、彼は周到な準備をして宮中クーデタを起こし、奸臣たちを排除して、15歳で親政を開始します。ドラマは、この親政に至るまでの時期、三藩の乱、鄭氏台湾の討伐、モンゴルでの戦い、そしてその後の宮廷の権力闘争や皇位継承争いといった順で展開されていきます。
清が中国を征服するに当たって清に協力した呉三桂らの漢人がおり、彼らは南方地方で藩王として特別な地位が与えられました。しかし藩王たちはしだいに自立化し、これを抑えようとする朝廷と対立し、1673年に三藩の乱が起きます。康熙帝が親政を開始してから、まだ4年目のことでした。一方、明の復興を目指す鄭成功が台湾に依拠し、三藩の乱に呼応して中国南部の沿岸部を荒らしまわります。その結果、一時は長江以南のすべてを奪われるなど、清朝は滅亡の危機にまで追い詰められました。しかし康熙帝は不屈の精神を見せて、8年の歳月をかけて、1681年に反乱を鎮圧します。
次は鄭氏台湾の問題です。以前には、台湾は中国にとってあまり関心のない地域でしたが、海上貿易が発展すると、台湾が重要な意味をもつようになります。特に鄭氏台湾は、中国南部の沿岸地帯との密貿易で富を蓄え、中国の海上貿易を妨害していました。そこで清は、遷界令を発し、南部の沿岸地帯の住民をすべて内陸部に移動させ、鄭氏台湾の密貿易を封鎖しようとします。しかしこれは大変な事業で、移住する住民には新たな土地を与え、金も与えたのですが、それらの土地も金も役人が横領し、移住者の手にはほとんど渡りませんでした。しかも、もともと中国には海軍と呼べるようなものは存在せず、海軍の創設から始めねばなりませんでした。しかし、これも康熙帝は不屈の精神でやりとげ、三藩の乱鎮圧の2年後の1683年に台湾を中国の領土に加えます。
当時モンゴルで不穏な動きが生まれつつありました。ジュンガルのガルダン・ハンは、チベットやロシアの動きとも連動して、モンゴルで強大な勢力となっていました。そこで、1690年と1696年に康熙帝は自らモンゴルに親征しでガルダン軍を破り、モンゴル全土を制圧します。ここに中国は、かつてない広大な領土を支配することになり、その大部分が今日の中国に受け継がれています。この間、ロシアとの間でネルチンスク条約が締結されますが、ほんの一言述べられただけで終わりました。当時の中国にとって、ネルチンスク条約などは大した問題ではなかったのでしょう。
 この間にも荘妃はしばしば登場します。彼女はほとんど政治に介入しませんでしたが、康熙帝が危機に陥った時、彼の窮地を何度か救いました。そして1688年に死去しました。享年75歳でした。この間にも、朝廷での権力闘争、皇妃間の争い、後継者を巡る争いが起きます。康熙帝は早くから第2皇子を皇太子と定めていましたが、彼には品行上問題があったため廃位され、以後皇太子はおきませんでした。後継者の問題は大変厄介で、皇帝が早逝した場合に備えて早めに皇太子を建てておくと、周囲の人々が彼にいいより、甘やかされて育つ危険性があります。逆に皇太子を決めないと、皇子間で血みどろの闘争が展開されます。そして、独裁君主は一般に後継者を決めるのを嫌う傾向があります。なぜかというと、側近が後継者に向かい、自分の権力が空洞化するからです。
 話が変わりますが、アメリカの大統領にはもともと再選規定がなかったのですが、F.ローズヴェルト大統領が4期務めたことがあり、その後憲法が修正されて2期までとなりました。ところが、2期目の後半になると、側近は次期大統領候補か再就職の方に向かってしまい、いわゆるレームダック=権力の空洞化が起き、政権運営が非常に難しくなります。いつの時代でも、権力の継承の問題は、なかなか難しいようです。
 内政面でも、康熙帝は自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用とし、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らしたとされ、さらに度々減税をおこないました。文化的にも、「康熙字典」や「古今図書集成」の編纂なども行います。「康熙字典」には、全42巻に5万字近くが収録され、「古今図書集成」は1万巻に及ぶ百科事典です。さらに宣教師を通じてヨーロッパの文化を積極的に導入しました。ただ、これらの点についてはドラマではほとんど触れられていないのが残念です。


 1721年に在位60年を祝って盛大な宴会が催されました。この60年の間に数えきれない程の人が彼の前に現れ、そして消えていきました。彼は多くの人々から祝福され、賞賛されましたが、独裁者の常として孤独でした。そして翌1722年末に、69歳で死去しました。あらゆるものとの戦いの連続の生涯でした。

雍正王朝


 1999年に制作されたテレビドラマで、全44回からなります。ここにあげた4本の映画の中では、これが最初のものとなります。このドラマも、前の「康熙王朝」同様に、中国で高い視聴率を得たそうです。「康熙王朝」が対外関係を中心に描かれたのに対し、「雍正王朝」は内政問題をじっくりと描いており、私にはこちらの方に関心があるのですが、内容がかなり濃密で、飛ばして観ると話が分からなくなってしまいます。
 雍正帝は、康熙17(1678)に第4皇子として生まれ、胤禛(いんしん)と名付けられます。そしてドラマは、康熙46(1707)の黄河の氾濫から始まります。胤禛は皇帝の命で避難民の救済事業を見事にやり遂げ、その手腕を評価されます。そこで次の仕事を命じられますが、これはかなり厄介な仕事でした。当時国庫は空で、救済事業に充てる金もありませんでした。理由は二つあります。一つは、官僚は免税特権をもっているため、農民の土地を買いあさり、しかも税を支払う必要がなく、これが税収入の減少の原因となっていました。もう一つは、官僚が国庫から借金をし、これを返済しないということでした。そして胤禛に与えられた役目は、この借金を回収することです。この役割にも、胤禛は辣腕を発揮しますが、同時に多方面から怨みを買いました。
 ところで、中国の官僚は地位がかなり高くても、俸給は家族が生活するのにやっとという程度の金額でした。そのため多くの官僚は賄賂を受け取ったり、荘園を所有して収入の足しにしており、それらは度を超さなければ大目に見られていました。というより、そうしたことを前提とした俸給体系だったといえるかもしれません。今日の中国の官僚の腐敗は、こうした伝統を背景にしているように思われます。この「雍正王朝」と次の「乾隆王朝」は、官僚の腐敗に関する話が多く、現在の官僚腐敗に対する批判が込められているように思います。

 この年、皇太子はその不行跡により廃位され、新しい皇太子を選ぶことになったのですが、これを巡って兄弟間の激しい闘争が展開されます。これ以降第20回までは、後継者を巡る闘争が描かれます。この間に、胤禛の幼い息子弘暦が康熙帝の寵愛を受け、康熙帝が自ら手元において教育します。この弘暦が後の乾隆帝であり、まさに彼は康熙帝から直接帝王学を学んだわけです。結局、康熙帝は皇太子を選ぶことを避けたため、皇子たちは疑心暗鬼に陥り、ライバルの蹴落としに躍起となります。康熙帝には皇子が36人いたとされ、その内9人が後継者の地位を求めて15年にわたって争ったわけですから、相当陰険な争いが展開されました。そして1722年、結局康熙帝は死の直前に胤禛を後継者として指名しますが、この遺書は胤禛の捏造ではないかという噂が残りました。その時雍正帝はすでに45歳となっていました。
 康熙・雍正・乾隆の三代130余年間は、清朝の全盛期とされますが、その内康熙帝が61年間、乾隆帝が60年間ですので、雍正帝の在位期間は13年間です。即位後の雍正帝は、皇位を狙う兄弟たちから嫌がらせを受け、さらに各地で不正事件がおき、苦境に立たされますが、徐々に腹心の部下を養成し、改革事業を推進していきます。
 雍正帝は極めて勤勉な皇帝で、毎晩夜遅くまで働き、一日の睡眠時間は4時間程度だったそうです。また質素倹約に努め、さらに重要事項を決定する軍機処を設置しますが、小さな部屋の入口に「軍機処」という看板があるだけで、皇帝を含めて6人が椅子を並べて座って協議するというものでした。緊急を要する重要案件を朝議で協議していると、なかなか決まらないため、こうした制度を設けた分けです。そして雍正帝の時代に軍機処を通じて独裁的な支配体制が形成されていきます。
 彼の13年の治世において、康熙帝のような華々しい業績はありませんが、後世に重要な役割を果たす税制改革が行われました。当時の税制は地税と人頭税からなっており、多くの農民が地主の支配下に入ってしまったため、地税を徴することが困難となっていました。そこで、原則として人頭税を廃止し、地主から地税を徴収するという地丁銀制を実施します。これには地主から猛烈な反対がありましたが、結果的に農民には減税となり、税収は大幅に増えることになりました。
 一方、雍正帝は密告政治を行い、厳しい思想弾圧も行っています。このドラマでは、この点についてほとんど触れていませんが、この点が雍正帝に暗いイメージを与えてきたのも事実でした。ドラマにおける雍正帝は、ひたすら大清と民のために骨身を削って働き、反対勢力と激しく戦いながら、しだいに痩せ細っていきます。そして1735年に雍正帝は58歳で死亡します。いわば過労死でした。

雍正帝は、在位期間が短かったこともあって、康熙帝と乾隆帝の間の皇帝というイメージしかなく、本人が寡黙だったこともあり、暗いイメージで捕らえられることが多いようです。康熙帝は、大局を捕らえ、要所を抑えるといった政治手法を用いましたが、その結果細部で大きな矛盾が生まれていました。逆に雍正帝は、あらゆる問題に介入し、細部の矛盾点を矯正する役割を果たし、それを乾隆帝に引き渡しました。どのような独裁権力も、さまざまな勢力や利害のバランスの上に成立しており、康熙帝はこうしたバランスをとることが巧みでした。康熙帝はこのようなバランスの間に歪が生じていることを感じていましたが、この問題については放置し、問題の解決を雍正帝に委ねたわけです。そして雍正帝の改革は、このバランスを破壊することになりましたので、猛烈な反発を受けたわけです。そして国家に一定の方向性を与えて、それを乾隆帝に譲り、乾隆帝のもとで大輪の花を咲かせることになります。


乾隆王朝
2003年に制作された大河ドラマで、全40回からなります。乾隆帝は、1735年に24歳で即位し、1796年に在位60年を期して退位します。そのまま在位を続ければ、康熙帝の在位期間である61年間を抜く可能性があるため、その前に嘉慶帝に譲位しました。そしてその3年後の1799年に88歳で死亡します。乾隆帝の時代は清王朝だけではなく、中国史上でも最も栄えた時代といえると思いますが、同時に晩年には多くの矛盾が表面化してきた時代でもあります。日本でも、ほぼ享保の改革から寛政の改革の時期にあたり、比較的安定した時代であるとともに、矛盾もまた表面化しつつあった時代でした。
この時代の世界を俯瞰すると、インドではムガル帝国が衰退し、イスラーム世界でもサファヴィー朝ペルシアやオスマン帝国が衰退に向かっており、中国のみが空前の繁栄を享受していました。ヨーロッパではスペインの衰退が決定的となり、イギリスとフランスが第二次百年戦争を展開し、やがてナポレオンが登場してきます。一方、ロシアはシベリアに進出し、中国と接触するようになりますが、まだ両者の力の差は歴然としていました。また、この頃アメリカ合衆国がイギリスから独立し、イギリスはオーストラリアに囚人植民地を築きますが、まだ問題となるような勢力ではありませんでした。しかし、この間にヨーロッパは力をつけ、世界が近代世界システムに包み込まれ、中国もまたこれに飲み込まれていくことになります。そして、乾隆帝が退位してからおよそ50年後に清はアヘン戦争に敗北し、およそ100年後に日清戦争に敗北することになります。
物語は、若い和珅が登場するところから始まります。和珅は、もともと乾隆帝の輿の担ぎ手だったとされていますが、ドラマでは兵士だったことになっています。彼は1772年ごろ乾隆帝に見い出され、その後わずか4年で軍機大臣にまで登りつめます。異常な出世です。ドラマで描かれた和珅は、ちょうど織田信長に仕える木下藤吉郎のようで、常に主の考えを推し量り、頭の回転が速く、あらゆる問題を主の望みどおりに解決していきます。このドラマの主人公は、乾隆帝なのか和珅なのかよく分かりませんが、退廃期に入った乾隆年間の後半を、和珅を通して描いているのかもしれません。

ドラマは、乾隆帝が50歳代半ば頃から始まります。物語の多くは官僚の腐敗と乾隆帝の散財に関するものです。和珅は高官による大規模な汚職を暴いて乾隆帝の信頼を得ます。しかし汚職事件は次から次へと起き、まるでモグラ叩きのようで、きりがありません。また財政面では、このドラマが始まった頃には国庫は満杯でしたが、乾隆帝の派手好みもあって、宮殿や庭園が次々と建てられ、さらに南部への巡行がしばしば行われ、財政はしだいに厳しくなっていきます。また人口が100年前と比べて2倍に増大し、もはや従来の体制を維持することが困難となりつつあり、各地で反乱が起きるようになります。
 乾隆帝は退位後も実権を握り続けたため、和珅も権力を持ち続けます。彼の不正については多くの訴えがありましたが、乾隆帝が生きている限り嘉慶帝には和珅に手を出すことはできませんでした。1799年に乾隆帝が死去すると、嘉慶帝は和珅を弾劾し、すべての財産を没収した上、自殺させます。彼が残した財産は、15年分の国家歳入に匹敵するもので、その豪華な邸宅は、現在では観光名所となっているそうです。ドラマでは、和珅は役人の腐敗を追及し、一貫して乾隆帝に忠実で、不正蓄財も濡れ衣だったことになっていますが、いかに高級官僚とはいえ、俸給だけでこれほどの富を築けるとは思えません。
 ドラマで語られるエピソードとして多少関心を抱いたのは、マカートニーの来訪と「四庫全書」の編纂です。1792年にイギリスは乾隆帝の80歳の誕生日を祝うためにマカートニーを使節として派遣し、通商の拡大を求めます。そのさい使節は皇帝の前で三度膝を屈指、その度に三度お辞儀をする三跪九叩頭の儀礼をしなければいけないのですが、マカートニーはそれを拒否します。いろいろ議論の末、結局イギリス風の儀礼でよいことになりましたが、乾隆帝は「中国には何でもあり、輸入の必要性がない」として通商の拡大を拒否します。英明な乾隆帝にも、清の繁栄の真っ只中にあって、世界情勢の変化を見抜くことはできませんでした。なお、マカートニーが持参した贈物の中に蒸気機関車の模型がありましたが、この時代にはまだ蒸気機関車は存在しません。
 「四庫全書」は、古今の書籍を集めた中国最大の叢書です。全体が四分に分類されているため、「四庫全書」といいます。全体で36000冊、230万ページに及び、筆写だけで4000人が従事したそうです。正本が7部制作され、各地に保管されます。所蔵する図書館の前には防火と消火のため池まで作られました。その後3部が失われ、4部が現存しています。このような国家による編纂事業は、正史と同様に国家の恣意によって選択・排除・改竄が行われますが、それでもその資料的価値は計り知れません。ドラマでは、本の蒐集・筆写・改竄の場面が一部映し出されており、大変興味深いものでした。

 ドラマでは、うんざりする程、次々と程汚職事件が出てきます。これは清王朝に限らず、どの王朝でも同じことです。1911年の辛亥革命により、中国最後の専制王朝である清王朝は滅び、その後40年程後に共産党一党独裁体制が成立しますが、2000年に及ぶ中国の長い歴史から見ると、この政権は共産党王朝といえるのかもしれません。その後文化大革命など粛清の時代はありましたが、今日の腐敗の蔓延は国家の存立そのものを脅かすほどです。現政権は腐敗との戦いを宣言していますが、これらの映画を見ていると不可能なのではないかと思われてきます。


  清朝に関する大河ドラマを4作品観ましたが、苦労して観た割には、最初の「大清風雲」以外はほとんど得るものがありませんでした。内容的には概ね想定の範囲内で、中国史についての発想の転換を迫るようなものではありませんでした。このブログの「映画で中国史を観る」を含めると、かなり大量の中国大河ドラマを観ましたが、もう当分観ることはないでしよう。



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