2014年6月4日水曜日

第3章 南アジア



















1)インド・パキスタンの独立
イギリスのインド支配
 今日のインドは大変に貧しいが,本来インドは豊かな国だった。ヨーロッパ人が求める香辛料などの南方物産を産出したし,綿織物を中心とする手工業が発達していた。
 17世紀から18世紀初頭にかけてのインドは,世界の産業と交易の一大中心地であり,「インドの交易は世界の交易であり,それを制するものはヨーロッパの独裁者となる」とさえいわれた。
 もちろん,その繁栄の裏には前近代的な社会が存在しており,民衆はつねに搾取されていたが,今日のような救いがたいほどの貧困は存在していなかった。
 この貧困を生み出したのはイギリスによる植民地支配であり,逆に19世紀のイギリスの繁栄はインドからの搾取に負うところが大きかったのである。
 イギリスによる植民地支配以前は,ムガール帝国がどれほど民衆から搾取しようと,富はあくまでインド国内で循環していたが,イギリスによる搾取は,富の一方的な国外への流出を意味した。
 この間イギリスは,インドの綿織物工業を滅亡においやり,綿花・アヘンなど商品作物の生産を強制した。また穀物などは,たとえ飢餓がおきても国内には向けられず,国外に輸出された。いわゆる飢餓輸出である。
 また,商品作物の生産は,地主=小作関係をいっそう促進し,巨大な地主と悲惨な農業労働者との支配と従属の関係がいっそう強化された。
 このような中で独立運動が本格化してくるのだが,同時にこれらの問題は今日のインドが抱える問題でもあるのだ。

ガンディーの非暴力・不服従運動
 インド独立運動は、1905年のベンガル分割令を契機に国民会議派を中心に本格化し,第一次世界大戦後のガンディーによる非暴力・不服従運動により新しい段階に達した。ガンディーの提唱する非暴力とは,政治闘争における単なる暴力の不行使でなく,いっさいの世俗的欲望を断ち切ろうとする日々の自己修練に裏打ちされなければならない,というものである。
 確かにガンディーの思想と行動は偉大であり,またその東洋的神秘性のゆえに全世界から注目された。しかし,彼の実践する「貧しい生活」と「断食」の繰り返しは,本人の意思とは別に一種のショー化してきた部分もあった。この点に関しては,ベンガルの詩人タゴールも批判的であった。
 また,ガンディーは本質的には保守的であり,階級闘争や農民運動には嫌悪を示し,むしろ地主や資本家の改心に期待するところがあった。そして,インドにはイギリスに対抗するための非暴力を実践する精神的偉大さが、まだ備わっていないと判断していた。

こうしたガンディーの動きに対し,インド共産党は独自の活動を展開しており,また1929年の国民会議派ラホール大会でネルーやチャンドラ・ボースといった急進派が台頭して完全独立を要求するようになると,ガンディーは時に彼らの活動を妨害することさえあった。
 第二次世界大戦が始まると,国民会議派の多数はこれを独立の好機と考えたが,ガンディーは「イギリスの危急を私たちの好機に変えてはいけないし,戦争が続いている間要求をつきつけてはいけない」として,運動の自粛を主張した。
 その後,ボースは国民会議派を離れ,日本の軍事力に頼って独立を達成しようとしたが(インパール作戦に参加),失敗した。
 ネルーはガンディーと同じ考えではなかったが,この戦争をファシズムとの戦いと位置づけていたため,ボースには同調しなかった。

インドの独立
 第二次世界大戦はインド国民の生活を疲弊させた。イギリスは膨大な数のインド人を戦線に送り,さらに1943年には未曾有の大飢饉がベンガルを襲った。こうして独立への要求が強まる中、1945年第二次世界大戦が終結した。
 イギリスのチャーチル首相は,断固イギリス植民地帝国を維持する決意を固めていたが,終戦直前の総選挙で敗北し,労働党のアトリーが首相に就任した。
 ここに独立のチャンスが到来する。当時イギリスは,日本軍に協力したボース(すでに死亡)に対して軍事裁判で有罪判決を下そうとしたが,これに反対する大衆運動はカルカッタに端を発して各地に広がっていった。
 さらに,戦争による物価高騰・食糧不足・失業などに対する民衆の不満は暴動にまで発展し,ついには軍隊にまで波及し,ボンベイ海軍基地では水兵がストを始めた。
 こうして混乱は頂点に達し,イギリスもインドの独立を承認、1946年新憲法制定のための選挙が行なわれた。

パキスタンの独立とガンディー暗殺
 選挙では国民会議派が大勝したが,ジンナーが指導するイスラム教徒の政治団体であるムスリム連盟も躍進した。インドからの分離独立を主張するムスリム連盟はヒンドゥー教徒とことごとく衝突,暴動は全国に波及していった。
 ガンディーは,ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融和を説いて全国を巡礼したが,暴動は鎮静化せず,イギリスがマウントバッテン卿を派遣して仲裁を試み,結局,国民会議派もイギリスの分割独立案を受け入れることを決定した。ここにイスラーム教徒が主に住むパキスタンが成立することになる(1947年)。
 こうして住民の大移動が始まり,その結果約1500万人もの人がインド・パキスタンの国境を越えたといわれる。このような苦しい移動が行なわれている中で,イスラーム教徒に対するガンディーのあいまいな態度に怒ったヒンドゥー教徒によって,ガンディーは暗殺される(1948年)。
 ともかく,こうしてインド連邦とパキスタンがイギリス連邦内の自治領として独立した(1947年)。1950年,インドはカースト制度の廃止などを含む憲法を発布,プラサド大統領,ネルー首相のもとにインド共和国として完全独立を達成した。

2)独立後のインド
ネルー一族によるインド統治
 1950年,ネルーがインド共和国の初代首相に就任してから1991年までの間に,ネルーの娘インディラ・ガンディー,孫のラジブ・ガンディーが首相となった。 41年間の間に,ネルーが14年間,インディラ・ガンディーが15年間,ラジブ・ガンディーが5年間首相を務めており,ネルー一族が合計34年間首相の地位についていたわけだ。
 しかも、1991年にラジブ・ガンディーが暗殺された後は,その妻が後継者の候補としてあがっている。結局は,本人が固辞したためネルー一族の継承は実現しなかったが,はやくもその子供たちに注目が集まっている。これは,血縁によるカリスマ性を利用したほうが統治しやすいという点によるところが大きいのだろう。
 インドの名門の家に生まれたネルーは,15歳でイギリスに渡り,フェビアン的社会主義の影響を受け,イギリス的教養で身を固めた人物だった。帰国後ガンディーの独立運動に身を投じると,国民会議派きっての進歩的な国際派として台頭した。彼の身上は近代的な合理主義にあり,また,イギリス労働党との間に太いパイプを持っていたため,それがインド独立に大きな力を発揮した。
 独立達成後,ネルーはインドの社会改革に着手するが,当時のインドはあまりも多くの問題を抱えていた。まず,カースト制度だが,これは3000年にわたって形成成されたものであり,憲法の条文だけで一掃することができるという類いのものではなかった。ガンディーは,特に不可触民といわれ差別を受けてきた最下層の人々を「神の子」と呼んで解放を訴えたが,彼らの階層の存在そのものを否定したわけではなく,そのため彼らはガンディーをあまり評価していない。
 当時のインドの大きな社会的問題には,もうひとつ土地地問題がある。ネルーは,大規模な上地改革法案を議会に提出したが,審議段階で骨抜きにされ,さらに実施段階で意図的に手抜きが行なわれたため,ほとんど効果をあげなかった。
 また,インド独立を担った国民会議派は,独立とともに利権団体と化し,地主・財閥と結びつくようになり,大衆から離反していった。それでも国民会議派は,議会で圧倒的多数をしめていたが,これはイギリス譲りの小選挙区制のおかげといえる。

ネルーの非同盟外交政策
 ネルー政権の国内政策の多くは以上のように行きづまりをみせたが,外交政策には華々しいものがあった。
 ネルーは,米ソの二大軍事大国が対立する中で,非同盟政策をとり,インドの安全とアジアの安定を目指した。
 東南アジアがインドシナ戦争で混乱する中, 1954年には東南アジア諸国とともにコロンボ会議を開き,インドシナ戦争の早期解決やアジア・アフリカ会議を提唱し,さらには,中華人民共和国の周恩来首相とニューデリーで会談を行ない(ネルー・周会談),平和五原則(領土・主権の尊重,相互不侵略,内政不干渉,平等互恵,平和共存)を唱えた。
 1955年には,インドネシアのバンドンで聞かれた第一回アジア・アフリカ会議をインドネシアのスカルノ大統領とともにリードし,平和五原則にもとづいた平和十原則を決議した。ここに,フランス革命時代に市民階級が自称した第三身分に由来する「第三勢力」が形成され,核戦争の危機をはらむ米ソ二極構造に反対して,世界平和の維持に貢献した。また、1961年には,ユーゴスラヴィアのベオグラードで,チトー・ナセル・スカルノらとともに第一回非同盟諸国首脳会議を聞催した。
 さらに,ネルーは,こうした非同盟外交により,結果的に米ソ双方からの援助を引き出すことに成功する。
 また,ネルーは,フランス領ポンディシェリ(1954年)やポルトガル領ゴア(1961年)などの植民地の回収も実現した。

中印国境紛争の勃発
 独立後,インドは中国と,チベット紛争ならびに国境問題をめぐって対立した。
 1950年,チベットを自国の領土と主張する中国が,解放軍の名のもとにチベットに侵人すると,領上を接するインドとの間に国境紛争がもちあがった。
 しかし,当時のインドは国家建設を優先せねばならないため無制限に国防力を拡大できず,さらに紛争中のパキスタンに対して国防力の大部分を振り向けねばならなかった。
 そこで,ネルーは軍事力の不足を外交で補おうとし,1954年,国境紛争を解決するため中国とチベット協定を締結し,前述のネルー・周会談を行ない,バンドンの第一回アジア・アフリカ会議に周恩来を招いた。
 しかし,チベットで中国の支配に対する反乱がおき,1959年ダライ・ラマ14世がインドに亡命すると,再び国境問題が再燃した。1962年,中国軍はインドに侵入し、中国側が大勝する。
 この中印国境紛争の際,中国と対立していたソ連はインドを支持し,さらにインドはアメリカヘの接近も強めたため,中国はパキスタンに接近し,その結果,この地域での国際関係は複雑な様相を示すようになった。

国民会議派独占時代の崩壊
 1964年ネルーが死んだ後,シャストリが首相となったが,  1966年には彼の死によって,ネルーの娘インディラ・ガンディーが首相となった。彼女が首相に就任した1966年当時,インド国民は物価高騰・食糧不足・失業にあえいでおり,政治に強い反感をしめし始めていた。そのため国民会議派による政治の独占支配が碓実に崩れつつあり、1967年の総選挙ではケララ州などで左翼政権が成立するにいたった。
 このような中でインディラ・ガンディーは社会改革を実現するため,若手政治家を味方につけ,さらに下層階級やイスラーム教徒などの社会的弱者に呼びかけ,国民会議派から保守的な長老たちを追い出していった。こうして次々と社会改革を実施していったが,地主・財閥からの反発は強く,さらにブレーンを中心とした政治はやがて汚職の温床ともなっていった。
 対外的にはガンディー政権はアメリカに接近し、1974年には核実験に成功した。
 しかし国内ではガンディー政権への不満は次第に高まり、1975年には非常事態宣言を発して反対派を弾圧したが、1977年の総選挙で敗北した。
 その後人民党政権が成立し,ここに初めて国民会議派以外の政権が誕生したが,国内混乱を収拾しきれず,1980年再びガンディー政権が復活した。
 彼女は1984年に暗殺され,彼女の長男ラジブ・ガンディーが新首相となる。しかし彼もブレーン政治によって国民から遊離していったため、1989年の総選挙で敗北し,1991年再度政権獲得をめざして総選挙に臨んだが,そのさ中に暗殺された。その結果,選挙は弔い合戦の様相を帯び,一応国民会議派が勝利したが圧勝とはいえず,国民会議派の独占時代は決定的に崩壊に向かっていった。

3)南アジアを揺るがす宗教・民族の対立
ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立 1984年インディラ・ガンディー首相が暗殺され,さらにその子ラジブ・ガンディー元首相も1991年タミル人によって暗殺された。
 これらの事件は,今まで述べてきた政治的な流れとは無関係ではないが,それとは別の要素を含んでいる。すなわちインドの多様性である。
 インドは,民族・言語・宗教・カーストなど多様な要素を含んでいる。つまり,インドは古来多くの民族が流れ込み,それぞれが固有の信仰を持っていた。その最大のものの一つがアーリア人のバラモン教である。やがてバラモン教から仏教やジャイナ教が生まれるが,長い歴史の過程でバラモン教は土着の宗教を吸収して,ヒンドゥー教を形成していった。
 ヒンドゥー教には特定の教義はなく,カーストのルールさえ守ればどんな思想を持つかは関係ないし,またどんな思想でもヒンドゥー教の思想となりうる。特にヴィシュヌ神はあらゆるものに化身し,仏陀もヴィシュヌの化身とされる。要するにヒンドゥー教は,どんな宗教・思想も飲み込む大きさがあり,それは多様なインドに一体化を維持するためにインド人が生み出した知恵といえる。
 1112世紀からイスラーム教がインドに浸透してきたときにも,ヒンドゥー教徒にとっては新しい神が一つ加わったにすぎなかったであろう。事実,16世紀にナーナクはヒンドゥー教とイスラーム教を融合して,シク教を生み出している。
 ヒンドゥー教とイスラム教の対立が激化してくるのは,19世紀後半にイギリスのインド支配が確立してからであった。ヒンドゥー教徒は,キリスト教徒であるイギリス人に対してアイデンティティを獲得するため,キリスト教に対するヒンドゥー教の相違を追求したが,このことは同時にイスラーム教との相違も明確にしてきたのである。特に独立運動の過程で民衆の反英闘争を拡大するためにヒンドゥー教に基づくナショナリズムが訴えられたため,しだいにイスラム教徒は疎外感を感じるようになった。
イスラム教徒はムガール帝国時代には支配階級だったが,イギリスはインド統治にあたって被支配階級であるヒンドゥー教徒を利用したため,イスラーム教徒は一転して被支配階級の地位に転落してしまった。
 ところが,こうしてイスラームとヒンドゥーの対立が激化してくるなかで,インド総督カーゾンは,ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の反英運動を分断すべく, 1905年ベンガル分割令を公布するとともに,一転してイスラーム教徒保護の政策を開始し,イスラーム教徒もこれに応じて全インド・ムスリム連盟(ムスリム連盟)を結成した。
 その後イスラーム教徒は,イギリスの行動に不審をいだいて一時国民会議派に協力するが,再び対立の様相をしめしていく。
 そして,第一次世界大戦後から第二次世界大戦にかけて,イスラーム民族運動にアリー・ジンナーらが登場すると,イスラーム教徒による国家の建設が唱えられるようになる。イギリス留学中のイスラーム教徒の若い学生が,パンジャブ・アフガン・カシミール・シンド・バルチスタンからなるムスリム国家の建設を訴え,最初の4州の頭文字P・A・K・Sと,バルチスタンのスタン(州・国)をとってパキスタン(清浄の国・聖なる国)と呼ぼうと提案した。ジンナーも,多数派になる見込みのないムスリムをヒンドゥー支配から擁護する必要を訴え,1940年ムスリム連盟は独立を決議した。

カシミール戦争
 インドとパキスタンをめぐる問題としておさえておかなければならないのがカシミール問題だ。
 インド北西部に位置するカシミールは,住民の大部分がイスラーム教徒であるが,   1947年のインドとパキスタンの独立と同時に,両国はそれぞれカシミールの帰属を主張。武力衝突が発生した。1949年停戦となり,カシミールはインドとパキスタンに二分された。しかし,この問題は1965年再燃し,カシミール戦争となった。
 インド・パキスタン間のカシミール問題は現在もなお解決していない。

パキスタン―ベナジル・ブットの登場
 1948年にジンナーが死ぬと,ムスリム連盟はたちまち分裂してしまった。
 ジンナーは「ムスリムの国家」の建設を提唱してパキスタンを建国したが,彼がめざしたのは宗教国家ではなく,ムスリムを多数派とする近代的な議会制民主主義国家の建設だったのである。しかし明確なヴィジョンもないまま強引に分離独立し,しかも彼があまりにも早く死んだため,憲法制定作業は難航し,9年後1956年にようやく議会制民主制の憲法が成立した。しかし, 1958年,アユーブ・カーンによる軍部のクーデターによって軍政となった。
 1971年,ブットが大統領に就任。イスラーム社会主義を掲げて,議会制民主主義の実現をめざしたが, 1977年軍部のクーデターによって挫折。1985年には戒厳令が解除され.   1988年,このブットの娘ベナジル・ブットがイスラーム世界最初の女性首相として華々しく登場したが,経済困難を克服できず, 1990年に失脚した。

バングラデシュの独立
 パキスタンが抱えたもう一つの問題は東パキスタン問題である。
ジンナーは東パキスタンを共通の宗教ゆえにパキスタンに統合したが,現実には両地域の住民は民族・言語・生活習慣がまったく違い,宗教以外に共通するものは何もなく,地理的に約2000キロメートルも離れていた。
 しかも軍事政権の下で東パキスタンは西パキスタンに一方的に搾取されていたため,東パキスタンではムジル・ラーマンを党首としてアワミ連盟が結成され,独立運動が本格化した。これに対してアユーブ・カーン大統領領の後継者であるヤヒア・カーン大統領は徹底的な武力弾圧を行なったため,大量の難民がインドに流入した。
 こうした中でインドは軍事介入を行ない,ここに1971年インド・パキスタン戦争が勃発した。戦争はインドの圧勝に終わり, 1971年東パキスタンはバングラデシュ人民共和国として独立を達成する。初代首相となったラーマンは独立運動のすぐれた指導者だったが,必ずしも有能な行政官ではなく,経済困難を克服できず, 1975年クーデターで倒れた。その後もク-デターが繰り返され,しかも経済困難は克服されず,国家予算の大半を外国援助に依存するという状態が続いている。

ヒンドゥー教徒とシク教徒の対立
 南アジアをめぐる宗教問題としてはもう一つ,シク教徒の問題がある。シク教は基本的にはヒンドゥー教を基盤とした宗教であり,ヒンドゥー教徒との通婚も一般に行なわれてきた。また,彼らはインド独立運動で重要な役割を担い,独立後は勤勉な農民や兵士として国家建設に多大の貢献をしてきたという自負があり,したがってシク教徒が分離独立国家を樹立しようとしたことはなかった。
 だが,独立とともにシク教徒だけのパンジャブ州の設立を要求したにもかかわらず,   1962年まで認められなかったことから、インド政府に対して不信感を持つようになった。
 さらに,パンジャブは農業生産のモデル地区として政府による手厚い農業補助を受けてきたが, 1970年代に食糧自給を達成したことから、これが廃止されたことへの不満が,シク・アイテデンティティと結びついて,反政府運動に発展していったようだ。
 インディラ・ガンディー政権は反政府活動を抑えるため,シク教の聖地ラホールのゴールデン・テンプルを攻撃するなど強硬策をとったため,ガンディー首相は1984年に暗殺され,ヒンドゥー教徒とシク教徒の争いは激化していった。

タミル人問題とスリラン力
 インドが抱える民族問題として最近注目を浴びたのは,ラジブ・ガンディー暗殺事件を引き起こしたタミル人問題があり,この問題はスリランカの問題と密接に関係している。
 タミル人はドラヴィダ系の民族で,古くはインダス文明を築いたと考えられており,アーリア人の侵人後一部が中・南部に移動し,アーンドラ朝・テョーラ朝・パーンディア朝・ヴィジャヤナガル王朝など多くの王朝を築いた。18世紀になるとイギリス・フランスの進出に対してカルナータカ戦争やマイソール戦争を起こしたが,結局イギリスの植民地となった。
 独立後の1956年タミル語族を中心としたマドラス州が成立し,1968年にはタミル州と改称され,北部のアーリア系政権に対するドラヴィダ民族主義運動の拠点となった。
 一方,セイロン=ランカ島には,すでに紀元前にアーリア系のシンハラ人が移住し,南部にシンハラ王朝を築いていたが,同じ頃南インドからタミル人も移住し,北部に定住して南部のシンハラ王朝としばしば対立した。
 その後セイロン島はポルトガル・オランダ・イギリスに支配されたが,イギリス支配の時代にイギリス人はセイロンでのプランテーション経営のためインドから多くのタミル人を労働者として移住させ,その結果両民族の対立が深刻化していった。特に多数派であるシンハラ人が仏教徒であるのに対し,少数派のタミル人がヒンドゥー教徒であっため,両者の対立は宗教対立の側面もある。
 スリランカは1948年にイギリス連邦内自治領として独立した。ここではシンハラ語が公用語とされ,政治もシンハラ人が独占したため,タミル人の不満が高まり,しばしば暴動がおこった。バンダーラナーヤカ(バンダラナイケ)首相はタミル人との妥協を図ろうとして仏教徒に暗殺され,その夫人が1960年に世界初の女性首相となったが,その強固なシンハラ民族主義のためタミル人の反発を招いた。
 タミル人はインド南部のタミル人と連携して独立運動を過激化させていったため,インド政府もタミル人に自治を与えるようしばしば要請した。
 しかし独立運動が内乱状態に発展したため,ラジブ・ガンディー首相は1987年スリランカ政府との合意によってインド平和維特軍をスリランカに派遣した。これに対しタミル系のタミル・イーラム解放の虎などの過激派はテロ活動を活発化させ,これが1991年のラジブ・ガンディーの暗殺につながったと考えられる。



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