2016年4月6日水曜日

「義和団 中国とヨーロッパ」を読んで

G.N.スタイガー著(1927) 藤岡喜久訳 光風社選書(1990)
 本書の原題は「中国とヨーロッパ-義和団の起源とその発展」で、著者は当時上海の大学で教授を務めていた中国史の専門家です。義和団事件は、1900年から1901年にかけて中国で起きた民衆の反帝国主義運動で、この事件については、このブログの「映画で中国清朝の滅亡を観て 北京の55日」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/blog-post_15.html)を参照して下さい。
 欧米人の眼から見ると、義和団事件は突然起き、突然終わった紛争であり、事件後数年間は事件の経過についていろいろ論じられましたが、その原因について論じられることはなかった、とのことです。義和団事件が起きてから四半世紀たって、中国は国共合作から分裂に至る混乱の極みにあった時代に、著者は、中国の行く末を考える上において、当時の混乱の出発点ともなった義和団事件の原因を明らかにする必要があると考えました。そして義和団事件は、それより四半世紀前からの出来事の総決算である、という結論に達します。本書は、義和団事件に関する最初の本格的な研究書だそうで、本書が執筆されてから1世紀近くを経た今日でも、その価値を失っていないそうです。
 全体の内容は、ヨーロッパと中国との関係を中心に、事実関係が詳細に描かれており、私自身はあまり詳細な内容には関心がないため、途中から読み飛ばしました。ただ、第1章における次の文章に興味を引かれました。
「辛亥革命以前にヨーロッパを訪れたヨーロッパ人は、常にその独裁政治の外観に驚き、その多くが中国を以て東洋的専制主義の典型であると考えた。しかしそれは誤りである。この一千年の間、中国の政治は極めて民主的であった。19世紀初めの中国は、世界で唯一の民主主義が正しくしかも大規模に行われていた国である。中国程に、人民の生命財産が政府の恣意のもとになく、皇帝を含む全官僚が人民に対して直接責任を負い、その不文法に対し忠実であった国はない。皇帝の絶対権は、確かに、完璧であったが、しかしそれは一定の枠内に関してのことであった。そして、その枠は明確に規定されており、皇帝といえどもそれを逸脱するには、重大な覚悟が必要であった。……国民の生活は高度の自由を享受し、……司法関係の諸事項も、刑事訴訟以外、隣保制に基づく共同体内の問題であった。一言にしていえば、中国は自治の国であった。」

中国に関して、この様なことが言えるのかどうか分かりませんが、少なくとも皇帝の権力が人民の末端にまで及んでいたとは言えないと思います。皇帝が誰であれ、平和な時代であれば、人々は比較的自由に生活していたことでしょう。奴隷制を基盤としていた古代ギリシアと比較した場合、中国の民衆の方が不自由であったとは言えないと思います。また現在の自由主義世界が、本当に民主的であるのかどうか、そして民主主義とは何かを、考えさせられます。

2016年4月2日土曜日

映画「雨月物語」を観て


この映画は、1953年に上田秋成原作の「雨月物語」を映画化したものです。上田秋成は、江戸時代後期の読本作家で、ほぼ同じ時代に山東京伝や曲亭馬琴がいますが、この二人は江戸で活躍したのに対し、上田秋成は大阪で活躍します。江戸時代後期に流行した読み物は戯作と呼ばれ、洒落本、滑稽本、談義本、人情本、読本、草双紙などに分類されますが、その中で読本は文章中心で、中国の白話文学の影響を受け、他の戯作に比べると文学性が高いとされます。
上田秋成は商家の養子として育ち、30歳代頃から執筆活動を始め、1768年頃から1776年、43歳の頃までに「雨月物語」を執筆します。この間、彼は医療を学び、医師を続けると同時に、旺盛な執筆活動も続け、1609年に死亡します。76歳でした。同じ時代に生きた曲亭馬琴や葛飾北斎に比べると、比較的穏やかな一生だったと思います。
「雨月物語」は、中国の白話小説に日本の民話を加えつつ、日本風にアレンジしたもので、流麗な文体で書かれています。「雨月物語」というタイトルは、「雨がやんで月がおぼろに見える夜に編成したため」ということだそうです。「雨月物語」は全59編からなりますが、映画では「浅茅(あさぢ)が宿」と「蛇性の婬」という2編を組み合わせて、別の話に作り替えています。「浅茅が宿」は、夫が一旗揚げるために商売に出ますが、戦乱に巻き込まれて帰ることができず、ようやく帰った時には、荒れ果てた家で妻が亡霊となって待っていた、という話です。なお、「浅茅」とは植物の名ですが、荒涼たる風景を意味します。「蛇性の婬」は、男が蛇の化身である女につきまとわれますが、最後は道成寺の僧侶に退治されるという話です。
映画での時代は戦国時代、琵琶湖北岸のある村の貧しい農民だった源重郎は、焼物を造って売ったところ意外と儲かったので、さらに多くの焼物を造って金もうけをしようと思いました。彼の義理の弟藤兵衛は武士になることを望んで村を出、妻の阿浜もついて行きますが、途中ではぐれてしまいます。藤兵衛は何とか武士になることに成功しますが、阿浜は雑兵たちに乱暴され、その後遊女に身を落とします。一方、源重郎は町で焼物を売っていたところ、美しい高貴な女性に誘われ、彼女の屋敷に住みつくようになり、甘美な日々を過ごしますが、まもなく彼女が戦争で殺された女性の亡霊であることを知り、逃げ出して故郷に戻ります。故郷の家では妻の宮木が家を守っていましたが、夜が明けると宮木の姿が見当たりません。村の人に尋ねると、彼女は雑兵に殺されたのだと言います。彼は、妻の霊と一夜を明かしたのでした。そして藤兵衛は、妻の運命を知り、妻とともに故郷に帰ります。

 映画では、戦乱と欲望に翻弄される人々、現実の世界と空想の世界、そして生きた人間と霊との交流が、理屈を抜きにして、非常に美しい映像で描かれています。

2016年3月30日水曜日

春の芽生え




ほうれん草
















じゃがいも
















グリンピースの花
















インゲン豆の芽
















菜の花
















赤芽
















梅ノ木の新芽
















雑草







2016年3月26日土曜日

映画でヨーロッパの音楽家を見て

はじめに

 18世紀末か20世紀初頭にかけて、ヨーロッパで活躍した5人の音楽家をとりあげました。モーツァルト、ショパン、シューマン、チャイコフスキー、プッチーニです。この5人を取り上げた理由は、たまたま私が、この5人の映画を観たという以外には何もありませんが、この時代にヨーロッパの古典音楽と呼ばれるものが形成されていきました。また、5人とも「天才」と呼ばれるに相応しい音楽家であり、「天才」というのは、音楽を除けば、いつまでたっても子供のようだと思いました。ただ、彼らは、19世紀というヨーロッパが最も繁栄した時代に、古典音楽と呼ばれるヨーロッパ音楽の基盤を形成しました。
 私は、音楽に関しては、無知・無理解・音痴であり、音楽について語る資格はありません。したがって、ここでは以上の5人を扱った映画の紹介に留めたいと思います。


 こうした優れた音楽家は、ヨーロッパに限らず、いつの時代でも、どんな地域にもいたはずです。私が以前に読んだ「中国奇人伝」(陳舜臣著、1987年、新潮社)に万宝常という音楽家について書かれていました。彼は、中国の伝統音楽や西域音楽を集め、色々楽器を造り、斬新な音楽理論を書き残したそうです。「体に音楽を覚えさせようとした彼は、しだいに奇行が目につくようになった。どこにいても、音を集め、それをリズム化して、体にそれを同調させる。その作業をしている間は、他のことはすべて忘れている」のだそうです。したがっていつも体をゆらゆらと揺らせ、周りからは奇人と見られていました。彼の音楽理論について、私にはまったく分かりませんが、万宝常のような傾向は、ここで述べる音楽家たちについても当てはまるのではないかと思います。

アマデウス

 1984年アメリカ制作の映画で、モーツァルトの半生を描いた映画です。全編にモーツァルトの曲が流れ、大変感動的な映画です。
モーツァルトの父も音楽家で、息子の異常な才能に気づき、3歳の時から音楽を学ばせ、神童と呼ばれた息子を連れて、就職活動のためヨーロッパ各地を旅します。当時の芸術家は職人にすぎず、芸術家として安定した生活を得るには、宮廷などのお抱え芸術家になる必要がありましたが、就職活動は失敗に終わります。音楽家がフリーで食べていける時代ではありませんでした。特に作曲はあまり金になりませんでしたが、当時ピアノが普及し始めたため、多くの音楽家はピアノの家庭教師で生計を立てますが、その収入は僅かなものでした。
 彼は、どこでも常に賞賛されましたが、それでも安定した地位を得ることができませんでした。そうした中で、1781年、25歳のモーツァルトはウィーンに定住することを決意し、フリーの音楽家として、演奏会の開催やオペラの作曲で生計を立てるようになりました。彼の活動はかなりの評価を得ますが、それでもフリーでの活動には限界があり、彼自身に贅沢癖があったこともあり、結局借金を重ね、体を崩し、1891年に死去します。
 映画は、サリエリという宮廷楽団長の回想という形で進められます。彼はモーツァルトの才能を妬み、密かにモーツァルトの活動を妨害し、彼を破滅させるという話です。彼は思います。神は何故あのような軽薄な男にこれ程の才能を与えたのか、これ程神の栄光を讃える自分に対して、神は何故自分には、せいぜいモーツァルトの才能を理解できる程度の才能しか与えてくれなかったのか。サリエリは、誰よりもモーツァルトの才能を理解できたが故に、許せませんでした。モーツァルトの作品には心底感動しますが、それだけ自分の凡庸さが際立ってくるのです。
 天才とは何かということについては、凡才である私には答える術がありません。ただ、映画で観るモーツァルトは、人間のもつすべての能力が音楽という一点に集中してしまい、音楽を除いたら子供同然でした。映画を観ていると、不幸なのはむしろモーツァルトの方ではないか、と思えてくるほどです。いずれにしても、サリエリは、モーツァルトを滅ぼすための最期の仕掛けにかかります。彼は、匿名で体調を崩したモーツァルトに「レクイエム(鎮魂歌)」の作曲を依頼します。そしてモーツァルトは、「レクイエム」の作曲中に死亡しました。まさにモーツァルトは、自分のために「レクイエム」を書いた分けです。
 サリエリは実在した人物ですが、映画で描かれているようなサリエリ像については、19世紀に噂されたこともありましたが、それは事実無根です。彼がモーツァルトについて実際にどの様に考えていたについては知りませんが、少なくとも彼はベートーヴェン・シューマン・リストなど、才能のある音楽家たちを育てた、優れた教師でした。また、モーツァルトに「レクイエム」の作曲を依頼した人物は、今日判明しており、サリエリではありません。とはいえ、サリエリが作曲した作品はまもなく忘れ去られ、モーツァルトの曲は今日まで広く愛されているのは事実です。ただ、「アマデウス」の公開で、サリエリという人物が注目され、今日ではサリエリの再評価が進んでいるようです。

ところで、ドイツのテレビ局が、「史上最も偉大なドイツ人は誰か」というアンケートをしたところ、モーツァルトの名があげられましたが、これに対してオーストリアがモーツァルトはオーストリア人であるとして抗議しました。これに対してドイツは、当時は神聖ローマ帝国であってオーストリアなどという国はなかったと反論しましたが、オーストリアはドイツという国もなかったと反論しました。たしかに、ドイツという表現が公式に用いられるようになったのは19世紀になってからで、ドイツ・オーストリアの歴史の複雑さを反映するエピソードですが、どうでもよい議論でした。

ショパン

2002年にポーランドで制作された映画で、ポーランドが生んだ天才ピアニスト・ショパンの生涯を描いています。ショパンの父はフランスからの移住者ですが、ショパンも父もポーランドへの強い愛国心を持ち、ショパンはパリで死にますが、彼の遺言により彼の心臓はポーランドに埋葬されました。
当時のポーランドはロシアの支配下にあり、ポーランドの独立運動は厳しい弾圧を受けていました。そのため、ショパンは1830年にポーランドを離れ、翌年パリに向かいます。ショパン、21歳の時でした。初めは、彼の曲は受け入れられませんでしたが、リストが彼の曲を演奏して、好評を得ます。リストは、ハンガリー生まれのドイツ系移民で、ハンガリーに対する強い愛国心を持ち続けていました。彼のピアノ演奏の技量はショパンを凌ぎ、「指が6本ある」とさえ言われた程です。
ピアノが歴史に登場するのは1700年頃だそうですので、ピアノは意外に新しい楽器です。ピアノは、鍵と連動したハンマーで絃を叩いて音を出す楽器で、音域が広く、汎用性が高いため、急速に普及しました。すでにモーツァルトの時代には広く使用されており、19世紀に入ると次々と改良が重ねられました。その結果、ピアノを使ってどのように演奏するのか、またどのような曲がピアノの演奏に相応しいのか、こうしたことが追及されるようになります。ショパンが登場するのは、こうした時代でした。したがって、ショパンの作品には、ピアノ練習曲や独奏曲が多く、彼はピアノの詩人と呼ばれました。
 映画は、ショパンとジョルジュ・サンドとの交際を中心に描かれます。ジョルジュ・サンド(ペンネーム)は、当時フランスで高名な女流作家であり、フェミニストとしても知られていました。彼女は、当時すでに夫とは別れ、二人の子がいましたが、何人もの男性と交際していました。そして彼女はショパンに一目惚れし、1837年から二人の交際が始まります。二人は、地中海のマヨルカ島や彼女の別荘で過ごし、サンドは、病弱で子供のようなところのあるショパンを甲斐甲斐しく世話し、10年間一緒に暮らします。そしてこの10年間は、ショパンにとって最も実り多い時代で、多くの傑作が生みだされます。
結局、サンドの子供たちとショパンとの関係がこじれ、1847年に二人は分かれることになります。その後ショパンの病状が悪化したため、ポーランドからショパンの姉が看病のため訪れ、彼女が見守る中で、1849年にショパンは死亡します。39歳でした。

 この映画が何を描きたかったのかは、よく分かりませんでしたが、全編を通じてショパンの曲が流れ、大変美しい映画でした。

クララ・シューマン 愛の協奏曲

2008年にドイツ・フランス・ハンガリーによって制作された映画で、主人公はシューマンの妻クララで、クララと若い作曲家ブラームスとの恋を描いています。サブタイトルの「愛の協奏曲」というのは、ブラームス作曲の「ピアノ協奏曲」を暗示しているのでしょうか、私にはよく分かりませんでした。
シューマンは、1810年にドイツで生まれ、183020歳の時音楽家になることを決意し、高名なピアノ教師だったヴィーク家に下宿しますが、そこにヴィークの娘クララがいました。彼女は当時10歳でしたが、すでに天才ピアニストとして名が知られていました。これに対してシューマンは、1年後に右腕を痛めたため、作曲家になることを決意します。やがて二人は愛し合うようになり、1840年に、クララの父ヴィークの反対を押し切って結婚します。シューマンが30歳、クララが20歳の時でした。
二人の結婚生活は、厳しいものでした。シューマンの稼ぎが少なかったため、シューマンとともに全国で演奏旅行を行い、しかもその間に8人もの子を出産します。そのためクララの生活は、妊娠、出産、育児、演奏旅行の連続でした。演奏のためにはピアノの練習が必要ですが、夫の作曲の邪魔にならないように、気を使わなければなりませんでした。シューマンも、家計を支えるために作曲に励みますが、苦労して大作を作曲しても、得られる収入は僅かでした。そうした中で、シューマンの心は次第に病に蝕まれていきました。
 1853年に、まだ二十歳のブラームスがシューマンのもとを訪れます。ブラームスは、レストランや酒場でピアノを演奏して生計を支えていましたが、シューマンが音楽評論雑誌でブラームスを絶賛したこともあって、急速に名声を高めていきます。これに対してシューマンの病状はますます悪化し、翌年ライン川に飛び込んで自殺を図ったため、療養所に収容され、1856年に死亡しました。46歳でした。
その後クララは、夫の作品を整理して出版したり、世界各地で演奏旅行を行い、その度にシューマンの曲を紹介し、最高の女性ピアニストとしての名声を築いて、1896年に死亡します。77歳でした。一方、その後ブラームスは作曲に専念し、大きな成功を収めました。シューマンは、すでに生前からベートーヴェンの後継者と言われていましたが、シューマンはブラームスこそベートーヴェンの後継者だと言い、事実ブラームスの交響曲第1番をベートーヴェンの交響曲第10番という人もいるそうです。そしてブラームスは、生涯クララを支援し、クララの死の翌年に死亡しました。63歳でした。

映画は、クララとブラームスの恋愛関係を描いていますが、クララは14歳も年上であり、実際にそうした関係があったかどうか不明です。確かにブラームスは生涯クララを援助しますが、彼は親戚にも惜しげもなく金を与え、才能ある無名の音楽家には匿名で寄付をしており、もともと面倒見の良い人物だったようです。この映画は、シューマンとクララの苦しくても音楽に包まれた生活を描いている範囲内では良かったのですが、ブラームスとの恋愛関係が生まれると、話が陳腐になってきます。「愛の協奏曲」というサブタイトルも、どこかこじつけのような気がします。

チャイコフスキー

1970年にソ連が、バレー界・音楽会の最高の人材を投入して制作した、チャイコフスキーの伝記映画で、154分に及ぶ長編です。チャイコフスキーと言えば、日本では、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」などのバレー曲で知られており、哀愁に満ちたやさしいメロディは日本でも大変愛されています。
彼はウラル地方で生まれましたが、ウクライナ・コサックの血を引いており、彼自身しばしばウクライナを訪問しています。今まで述べてきた音楽家たちと同様、彼も幼少の頃から、音楽家としての天性の能力をもっていたようで、映画では、少年時代に突然、頭の中に音楽が流れてきた様が描かれています。音楽家になった後も、突然頭の中で音楽が聞こえてきたようですが、絶え間なく頭の中で音楽が流れている生活というのは、幸福なのか不幸なのか、よく分かりません。彼は、社会の動きにはほとんど関心がなく、この時代のロシアでは専制君主制に対する激しい不満が渦を巻いていましたが、映画でもそうした社会の動きは直接的には扱われていません。
1875年、25歳の時に彼はピアノ協奏曲第1番を作曲し、作曲家としての名声を得ますが、生活は決して楽ではありませんでした。そうした中で、富豪の未亡人、メック夫人から相当額の資金援助の申し出を受け、以後15年間資金援助が続けられ、この間二人の間で頻繁に手紙が交わされましたが、二人が出会うことは一度もありませんでした。婦人がなぜ彼に援助したか分かりませんが、映画では、彼の曲が自分苦しかった人生を慰めてくれ、彼と彼の曲にほのかな恋をしていた、という描き方がされています。
 後半は、チャイコフスキーとメック夫人とのプラトニック・ラブが中心となります。映画では、チャイコフスキーが資金提供を断ったため、二人の関係が破たんしたとしていますが、実際にはメック夫人が破産したと勘違いして資金提供を打ち切ったようで、以後二人の関係は疎遠となっていきます。この間にも、次々と新しい曲が生れてきます。映画では、風景、声、感情の変化に応じて、彼の頭の中に次々と音楽が流れます。彼は、作曲しているというより、送られてくる音楽を楽譜に書きとめている、といった感じです。やがて、彼は、ロシア音楽界の頂点を極め、多くの人々に賞讃されつつ、1893年に死亡します。死因はコレラだったそうです。53歳でした。そして翌年、メック夫人も死亡します。

 この映画は、音楽会・バレー界など、ソ連の総力を結集して制作され、全編にチャイコフスキーの曲が流れています。まさに、チャイコフスキーはソ連が誇る偉大な音楽家でした。同時にこの時代には、トゥルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキーなど偉大な文学者が活躍しました。政治体制も社会も無茶苦茶な時代に、ロシアの文化に一体何が起こったのでしょうか。もちろん、これについては、様々な解説が行われていると思いますが、残念ながら、私は知りません。そしてチャイコフスキーの死より四半世紀ほど後にロシア革命が起き、ロシアは長い苦難の時代を迎えることになります。

プッチーニの愛人

2009年にイタリアで制作された映画で、イタリアを代表するオペラの作曲家の一人プッチーニの家で起こった「ドーリア・マンフレーディ事件」呼ばれる事件を扱っています。
 19世紀後半のイタリアでは、「椿姫」や「アイーダ」などのオペラ作曲で知られるヴェルディが活躍していました。ヴェルディの時代は、イタリア統一の時代であり、彼自身は政治に関心がありませんでしたが、イタリア統一の中心人物であるカヴールの友人であったことから、彼の曲はイタリア民族運動を鼓舞する曲として、人々に愛されました。ただ、彼自身は政治に関心がなく、晩年は慈善活動に携わっていました。そして、イタリアのオペラ界で、彼の後を継いだのがプッチーニです。
 彼は宗教音楽家の家系に生まれ、ヴェルディの「アイーダ」に接してオペラの作曲家になることを決意します。そして1890年代には、「蝶々夫人」など次々と傑作を発表し、その曲の劇的な展開と繊細な描写、女性の心理描写の巧みさなどから、彼の曲は多くの人々に愛されるようになります。実生活では、土地を買って多くの小作人を雇い、いわば荘園領主として、経済的に安定した生活をするようになります。この時代になると、フリーの音楽家も、富を得ることができるようになった分けです。
 映画では、別荘での物憂い、かつ家族間の微妙な緊張を孕んだ生活が淡々と描かれます。そして、1908年から1909年にかけて、「ドーリア・マンフレーディ事件」が起きることになります。プッチーニという人は、相当な女たらしで、数えきれない程の女性を相手にしてきました。一方彼の夫人は嫉妬深く、二人の間にはいつも緊張関係がありました。そして彼女は、家政婦のドーリアが夫と関係をもったと思い込み、彼女を追い出し、さらに人前で彼女を淫乱と罵ります。信仰深い彼女は服毒自殺し、自分を解剖して処女であることを確かめるよう遺言しました。そして彼女は処女でした。プッチーニが彼女に手をだしていなかったのは、むしろ奇跡というべきでした。ドーリアの家族は裁判所に訴えましたが、結局プッチーニが示談金を払って、事件は終わりました。これが事件の顛末ですが、手がけていた新作の完成が1年ほど遅れた、ということ以外には何の影響も及ぼしませんでした。

 映画では、台詞がほとんどなく、時々出演者の独白と手紙が映し出されて、かろうじて事件の推移が分かる程度です。映像は美しいのですが、プッチーニの音楽が流れるわけでもなく、結局、この映画は何を訴えようとしているのか、全然分かりませんでした。プッチーニは1924年に喉頭癌で死亡しました。66歳でした。彼は当時「トゥーランドット」を作曲中でしたが、未完成におわりました。この曲は、荒川静香が冬期オリンピックで金メダルをとった時に使った曲として有名です。

2016年3月23日水曜日

「三国志外伝」を読んで

 本書は、1986年に湖北省群集芸術館が編纂した、今なお語り継がれる三国志の伝承を集めたもので、立間翔介・岡崎由美訳、徳間書店出版(1990)です。サブタイトルは、「民間説話にみる素顔の英雄たち」です。
 漢が衰退した後、3世紀前半に魏・呉・蜀という3国が鼎立して争い、この争いについて、3世紀の後半に晋の陳寿が「三国志」を著します。ただ、陳寿は、面白い歴史を書こうとしたのではなく、あくまで正しい歴史を記録しようとしたのです。だから、荒唐無稽な伝説は極力排除をしています。しかし、この「三国志」には記録されなかった、民間伝承が伝えられており、講釈師などを通して人々に伝えられていました。元代にはこれに曲を付けて伝えられ、さらに「三国志」講談のタネ本が絵入りで刊行されます。そして、14世紀半ばの明朝の時代に、羅貫中という文学者が「三国志演義」を編纂したとされます。「三国志演義」では多くの説話が取り入れられ、これが一般に知られている「三国志」です。ただしこれは歴史書ではなく、歴史小説です。
 ただ、「三国志演義」にも取り入れられなかった説話があり、中国各地に民話として伝承されている説話があります。本書はこうした説話を集めたもので、千人近い人々からの聞き取りによって集められたそうです。まさに、「おららが村の英雄たち」の物語です。原書は500ページを越えるそうですが、本書はその一部を抄訳したものです。
 「三国志演義」は蜀を中心に語られているため、当然本書でも蜀に関する説話が多く、とくに関羽・張飛・諸葛孔明に関する説話が多く採用されています。諸葛孔明の結婚に関する異なる説話が3話あり、こうした重複する説話は他にも多数あるのだと思います。全体として荒唐無稽な話が多いのですが、それでも楽しく読むことができました。




2016年3月19日土曜日

映画「ムーラン・ルージュ」を観て

2001年にアメリカで制作された映画で、19世紀末におけるパリのムーラン・ルージュでのダンサー・娼婦と青年との恋を描いたミュージカル映画です。19世紀末から第一次世界大戦が始まる1914年頃までの時代は「ベル・エポック(良き時代)」と呼ばれ、一般に享楽的で退廃的な都市文化が花開いた時代でした。その象徴的な存在の一つが、パリのモンマルトルの丘にあるムーラン・ルージュというキャバレーでした。













http://www.air-travel-corp.co.jp/search03.html フランス旅行専門店「空の旅」



モンマルトルの丘は、19世紀までは農村でしたが、19世紀後半にナポレオン3世によりパリの大改造が行われた結果、路地裏の貧民たちは追い出され、モンマルトルなどに移住し、貧民街として発展していきました。そこへ貧しい芸術家たちが集まり、既成の価値観に縛られない新しい気風が形成され、彼らはボヘミアンと呼ばれました。ボヘミアンとは本来チェコ人のことですが、15世紀にボヘミアにいたジプシー(ロマ)たちがフランスにやってきて、放浪者という意味でボヘミアンと呼ばれるようになりました。これはヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダムのせむし男」の時代で、これについては、このブログの「映画でユーゴーを観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/01/v.html)を参照して下さい。やがて、既成の価値観に反発する人々はボヘミアンと呼ばれるようになり、そういう人たちが集まる場所はボヘミアと呼ばれるようになります。そしてモンマルトルは、パリのボヘミアとなっていきます。

このモンマルトルに、1889年にムーラン・ルージュという高級キャバレーが出現しました。ムーラン・ルージュとは、「赤い風車」という意味で、内部にも外部にも大量の電球をつけて、さながら不夜城のように輝いていました。ここへ来る客は、高級住宅地に住む金持であり、ここで働く女性たちはダンスや歌や簡単な演劇で男性たちをもてなしますが、彼女たちは基本的には娼婦です。要するに、ムーラン・ルージュは、金と力がある男たちが、日陰の女性たちをもてあそぶ場所でした。そして、ここに一人の奇妙な人物が入り浸っていました。画家のロートレックです。

ロートレックは名門貴族の家に生まれましたが、13歳と14歳の時に左右の大腿骨を骨折し、以後両足の発育が止まり、成人しても身長が152センチしかありませんでした。しかも上半身は大人として成長しましたので、かなりバランスの悪い体形となってしまいました。やがて彼は画家になることを目指してパリで修行し、ムーラン・ルージュなどに入り浸るようになります。彼自身が障害者であったため、日陰で生きる女性たちに共感し、彼女たちを愛情に満ちたタッチで描いています。また彼は、ムーラン・ルージュのためにポスターを描き、ポスターを芸術の域にまで高めました。しかし、彼は過度の飲酒のため健康を害し、1901年に36歳で死亡しました。
 映画の舞台は、1899年のムーラン・ルージュです。この時代のパリは、べル・エポック(良き時代)と呼ばれ、華やかな時代であると同時に、世紀末の退廃=デカダンスの時代でもあり、映画は、こうした当時のパリの雰囲気を、ムーラン・ルージュを通して描いています。映画は、ムーラン・ルージュの花形サティーンが、小説家志望の貧乏な青年に恋をし、やがて結核のために死んでいくという話しで、デュマの「椿姫」のストーリーと似ています。要するに、娼婦にも真実の愛があるという話で、ロートレックも映画で二人の恋を愛情を込めて見つめています。
 映画は、最初から最後までダンスと歌で満たされており、あまり私の好みではりませんが、映画を通じて、ベル・エポックと呼ばれた当時のパリの華やかさと退廃を、垣間見ることができました。

2016年3月16日水曜日

「匪賊 近代中国の辺境と中央」を読んで

フィル・ビリングズリー著(1988) 山田潤訳 筑摩書房 1994
原題は「バンディット」で、「義賊」というような意味です。中国語の「匪賊」に該当する英語がないため、バンディットが用いられたのだと思います。なお、バンディットについては、このブログの「映画で近世東欧を観て バンディット」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_10.html)、「「義賊マンドラン」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/03/blog-post_9.html)を参照して下さい。
 「賊」とは、「他人に危害を加えたり、他人の財物を奪ったりする者。国家・社会の秩序を乱す者」で、盗賊、山賊、海賊などです。一方、「義賊」とは「権力者からは犯罪人と目され、無法者とされながらも、大衆から支持される人々」で、ホブズボームはこれを「社会派盗賊」と呼んでいます。では匪賊とは何でしょうか。「匪」とは、「非」と同じで、「……ではない」「悪」といった否定的な意味をもちます。本書によれば、匪賊という言葉が使用されるようになったのは、18世紀半ば以降だそうです。清朝の社会矛盾の増大の中で、各地で賊が反乱を起こし、義賊と呼ばれる集団が多数出現するようになりますが、政権の側からこれを義賊と呼ぶことはできませんので、匪賊という侮蔑的な呼び方をするようになったのだそうです。そして、1920年代から30年代にかけて、匪賊が大量に出現するようになります。この時代には、国民党も共産党も、互いに相手を匪賊と呼んでいたそうですから、この時代は、まさに匪賊の時代でした。そして本書が扱うのは、この時代の匪賊です。
 こうした匪賊は、世界中どこにでもいましたが、地域的には経済的に自立しにくい辺境に、時代的には社会が変動して権力の空白が生まれた時代に出現するようです。彼らは、かならずしも伝説で伝えられるような「正義の味方」「貧乏人の味方」ではありませんでしたし、単なる盗賊集団・殺戮集団でしかない場合もありましたが、地域社会の価値観と結びつき、国家の価値観と対立することが多かったため、民衆の共感を得ることが多かったようです。考えて見れば、中国の王朝交替の動乱期には、必ず多くの匪賊が出現しますし、何よりも「水滸伝」の物語は匪賊の物語です。そして、毛沢東が「水滸伝」の愛読者だったことは皮肉なことです。
 また、中国には歴史上多くの秘密結社が存在し、これが匪賊と混同されがちです。ただし、多くの秘密結社は、政府の調査能力不足のため政府が知らなかったというだけで、秘密でも何でもない結社が多かったとのことです。そして秘密結社は、一定の信条と規律をもっていたのに対し、匪賊はただ生きるために行動したのであり、頭目が死んだり政情が変化すると消滅するものが多かったようです。その意味で、匪賊は秘密結社より結束力も永続性も乏しかったようです。
 本書は400ページを越える大作であり、こうした匪賊の定義に始まり、1920年代から30年代の匪賊の動向を、非常に詳細に論じており、非常に興味深く読むことができました。