2019年11月30日土曜日

映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」を観て

2017年にフランスで、 ロダンの没後100年を記念して制作された映画で、近代彫刻の父と言われたロダンの半生を描いています。サブタイトルにあるカミーユはロダンの弟子であり恋人で、物語としてロダンよりカミーユの方が面白いため、過去にも映画化されており、このブログでも紹介しました。「映画「カミーユ・クローデル」を観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2017/08/blog-post_19.html)。ただし、この映画ではカミーユとの関係だけが描かれているわけではありません。

ロダンは、労働者の子としてパリで生まれ、独学で彫刻を学び、装飾職人として働きながら、彫刻家としての道を模索しました。24歳の時に縫製職人のローズと結婚します。彼女は苦しい時代をロダンとともに生き、長男を生み、家庭生活を支えますが、ロダンは彼女と正式な結婚をしませんでした。しかし1917年、ロダンは死期の迫ったローズと結婚の手続きをしました。ロダン77歳、ローズ73歳で、その16日後にローズは死去し、さらに9ヵ月後にロダンも死去しました。ローズは、物語的にはカミーユほど面白い女性ではありませんでしたが、ロダンにとって最も重要な女性だったと言えるでしょう。
この間、ロダンは少しずつ才能を認められ、1880年、ロダンが40歳の時、初めて国から依頼を受け、彼の代表作となる「地獄の門」の制作を開始します。「地獄の門」はダンテの「神曲 地獄編」に登場する地獄への入り口の門で、そこには「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と刻まれています。この「地獄の門」の一部として、日本で「考える人」として知られる彫像が配置されていますが、これは「考える人」ではなく地獄を覗き込んで恐怖に慄いている人間の姿です。ロダンが近代彫刻の祖と言われる理由はここにあります。従来の彫刻は古代ギリシアを模範として、美しい曲線や肉感を描くことを追求しており、ロダンもそれを否定するつもりはありませんでしたが、彼はリアルな人間像と内面を描こうとしました。映画は、この「地獄の門」の制作開始時期から始まり、この頃カミーユも弟子入りし、ロダンに大きな影響を与えたとされます。しかしこの作品は不評で、結局政府は政策の中止を命じたため、彼が作品を引き取って完成させました。

国立西洋美術館前

その後映画では、ロダンが次と作品を制作し、次々と女性関係を重ねていく様が描かれています。当時の彼の作品の中でも特に重要なのは、フランスの文豪バルザックの像です。すでに40年も前に死んだバルザックを、ロダンは徹底的に研究し、多くの習作を造り、7年の歳月をかけて制作しましたが、制作の過程から大変不評でした。彼の作品は、それが人々から認められようになった頃には、彼自身ははるかに先に進んでいたため、彼自身はいつも理解されず、苦しんでいました。結局ロダンはこの作品を自分のアトリエに置くことにしました。

この頃日本で白樺派の人々がロダンを高く評価し、雑誌で紹介したり、ロダンと文通したりしていました。それはロダンにとって大変心強い味方だったでしょう。こうしたことをきっかけに、ロダンは日本でもよく知られるようになり、ロダンの多くの作品が購入されました。この映画の最後は、箱根彫刻の森美術館に置かれたバルザックの銅像の前で、日本の子供たちが遊んでいる場面でした。

箱根彫刻の森美術館

2019年11月27日水曜日

「「イタリア」誕生の物語」を読んで

藤澤房俊著 2012年 講談社新書メツエ
 日本の高校世界史や入試問題は、やたらに「イタリア統一」や「ドイツ統一」が好きです。「ドイツ統一」が好きな理由は、日本がドイツ憲法をモデルとして明治憲法を制定し、ドイツをモデルに国造りに励んできたからでしょう。一方、本書によると、実は明治時代の日本でイタリア史ブームがあったそうです。イタリアがイタリア王国として国民国家を樹立したのが1861年で、日本の明治維新の7年前ですから、イタリアは日本の国民国家の先輩に当たり、そういうことから日本はイタリアに親近感をもっていたそうです。また同じ頃、イタリアではガリバルディが英雄的な活躍でイタリア統一に貢献し、ガリバルディについては、当時の日本でも盛んに報道されたそうです。
私は、かつてドイツ史やイタリア史に関する本を多数所有し、ドイツ統一に関する本も多数読みましたが、イタリア統一に関するほんを読んだことがありません。もちろん通史などでイタリア統一について読みますが、イタリア統一をテーマとした本に出合ったのは、本書が初めてです。個々の点ですでに知っていることは沢山ありますが、それらの具体的な動きについては、何もしりませんでした。マッツィーニの動向、若いガリバルディの活動、そしてその周囲でサルデーニャ王国やフランスやオーストリア帝国などの大国が蠢きます。それは日本の幕末期を観ているようでした。
政治的な目的のためなら、いかなるものも犠牲にするカヴ―ルは、サルデーニャ王からもガリバルディからも、マッツィーニにからも憎しみを買います。これらのことが本書では生き生きと描かれており、大変興味深く読むことが出来ました。

2019年11月23日土曜日

映画「ソハの地下水道」を観て

2011年のポーランド・ドイツ・カナダ合作の映画で、第二次世界大戦中におけるポーランドでのユダヤ人迫害を描いた、事実に基づいた映画です。ポーランドにおけるユダヤ人問題については、「ポーランド映画「国家の女 リトルローズ」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2019/06/blog-post_5.html)を参照して下さい。








映画の舞台はポーランドのルブウ(現在のウクライナ領)で、かつてはソ連領でしたが、独ソ戦争が始まってドイツ領となります。したがって映画では、ポーランド語、ウクライナ語、ロシア語、ドイツ語、イディッシュ語(東欧系ヘブライ語)が飛び交っています。主人公のソハは地下水道の保守管理を仕事としていましたが、生活の足しに空き巣も働いているという小悪党です。その彼に、ある時奇妙な仕事が転がり込みます。つまり、強制収容所に送られそうなユダヤ人を地下水道に匿ってくれというのです。このような行為は、もしドイツ軍に見つかれば処刑されるというリスクがありましたが、毎日一定額の礼金をもらえますので、ソハはユダヤ人から金を搾り取るつもりで引き受けました。
ソハは、匿うのは数人だと思っていましたが、やってきたのは子供を含む20数人の男女でした。ソハは今さら断れず、彼らを地下水道に匿うのですが、その後の地下水道での日々は地獄でした。地下水道は真っ暗であり、外に光が漏れないように明かりは最小限度しか使えず、下水が流れる臭くて不潔な場所で20数人が寝起きするわけです。時には子供たちが外に出たいといって泣きじゃくり、時には大人たちが罵りあって喧嘩をします。また、真っ暗な中での雑魚寝であるため、セックスをする男女もおり、その結果ある女性が妊娠し、出産し、そしてその子を絞め殺します。まさに地獄です。人間の生きることへの逞しさと醜さを、思いきり見せつけられる思いです。
 20数人いたユダヤ人は、途中で逃げ出したり、洪水で地下水道が満水となって死んだりして、今や10人ほどになっていました。しかもユダヤ人たちには、もうソハに払う金はありませんでした。ソハは決して善人というわけではありませんでしたが、今更ユダヤ人たちを見捨てるわけにはいかず、自腹を切って援助し続けました。そして1945512日にソ連軍が到着し、ドイツ軍が追い出されます。実に14カ月ぶりにユダヤ人は日の当たる場所にでるとができ、皆大喜びして抱き合い、ソハは自分のことのように喜ぶのてすが、それを見ていた町の人たちは、なぜユダヤ人なんかを助けたのだ、というような眼をして、冷ややかに見つめていたのが印象的でした。
最後にテロップで次の言葉が流されます。

「ソハは、ソ連軍の暴走車から娘を守り死にました。この時、彼がユダヤ人を助けたから天罰が下ったという者もいました。人間は神を利用してまでお互いを罰したがる。成長したグリシャは、2008年に体験記を出版しました。生き残った彼らはその後イスラエルなどに移住しました。ソハ夫人など6000名のポーランド人が表彰されました。本作は、彼ら全員に捧げるものです。」 なお、グリシャは、写真の上部のマンホールから少しだけ顔を出している少女です。

2019年11月20日水曜日

「殿様は明治をどう生きたのか」を読んで


河合敦著 2014年 洋泉社
 日本が明治維新を迎えた頃、日本には260以上の藩があり、当初は旧大名は知藩事として従来通り領地を統治しましたが、明治4年に廃藩置県が断行されました。その結果、旧大名たちはどうなったのか。従来、大名は前世紀の遺物として、その帰趨についてはあまり語られなかったように思いますので、本書を大変興味深く読みました。
 ただ本書で扱われているのは14人だけであり、どれも一般によく知られている人物であるとともに、しかも内容は個々の人物のエピソードが中心でした。もちろんそうしたエピソードにも関心を抱けるものはありましたが、私としては、明治におけるこうした殿様たちの類型を知りたかったと思います。また小藩の大名がどのようになっていったのか、それでも殿様は何とか生きていくことができたかも知れませんが、家臣たちはどのように生きていったのか、そういったことを知りたいと思います。
 元殿様たちの中には、故郷に農業や産業を興し、家臣たちが生きて行けていくのに努力した人もいたでしょう。また明治政府の役人として、明治政府の樹立に貢献したひともいたでしょう。一方、身を持ち崩し、家臣たちの世話をすることもなく消えていった殿様もいたでしょう。そうした人たちを類型化し、明治という時代の中に位置づけて欲しかったと思います。
 もっとも私が知らないだけで、こうした本は沢山出版されているのかもしれません。

2019年11月16日土曜日

ラトビア映画「バルト・キングダム」を観て


2018年にイギリスとラトビアの合作で制作された映画で、まだキリスト教を受容していなかった13世紀のラトビアを扱っています。邦題の「バルト・キングダム」は意味不明ですが、英題の「異教の王」はこのことを意味しています。原題は「ナメイスの指輪」で、伝説の王ナメイスがキリスト教徒の非道な侵略を食い止めたという話で、ある程度史実に基づいているようです。銀でできた「ナメイスの指輪」はラトビア王の象徴だそうで、映画では、この指輪の争奪が描かれます。今日では、現地の伝統的な装身具で、字幕の説明によれば身につけた人の「誠意と勇気、自由」を表すとされ、土産物として売られているそうです。
バルト三国の地域は、ヨーロッパでは最もキリスト教の布教が遅れ、13世紀にはヨーロッパで最後に残った異教の地といわれました。この頃、十字軍遠征にも関わったドイツ騎士団が、新しい領土を求め、異教徒の改宗を旗印に北方十字軍を開始しました。ドイツ騎士団はバルト海沿岸を北上してプロイセンを征服し、さらに北上してバルト三国地域に侵入します。これが、この映画の背景です。ラトビア人は勇猛で知られていましたが、政治的結束もなく、武器も十字軍に比べたら前近代で、それでも君主ナメイスは人々を統合し、術策を駆使して十字軍に勝利します。映画で描かれているのはこの過程で、確かに一時的に十字軍の侵入を撃退できたとしても、遠からずこの地域もキリスト教化されていく運命にあります。
バルト三国に関する映画は非常に少なく、以前にリトアニアの映画「ファイヤーハート 怒れる戦士」を観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2017/10/blog-post_7.html)を紹介しましたが、この映画は19世紀後半扱ったもので、13世紀のラトビアを扱った映画は、私にとっては大変珍しく、大変興味深い映画でした。ただ、映画のラトビア人はまるでヴァイキングのように見えたし、また多量のナメイスの指輪を作って民衆に配り、指輪は民衆のもの、ラトビア人は自由であると叫んだりしますが、本当にこんなことがあったのでしょうか。
 いずれにしても、バルト三国は、一時リトアニアがポーランドと連合して大帝国を樹立しますが、それ以外は常に周辺の大国の支配下におかれていました。ロシア革命後の1918年に三国は独立しますが、1941年にドイツに占領され、戦後はソ連邦に編入されます。そしてソ連邦が崩壊した後、1991年にバルト三国は独立を達成します。ヨーロッパの片隅の、小さくて歴史の浅い国について知識をえることは、大切なことだと思います。なぜなら、これもまたヨーロッパの、さらに世界の一部だからです。












2019年11月13日水曜日

「大人の探検「古墳」」を読んで

大塚初重著 2014年 実業之日本社
 古墳についての本を始めて読みました。なにしろ古墳についての基礎知識が不足しているため、なるべく簡単そうな本を選びました。本書は日本の考古学の大御所が、編集者と旅をしつつ、古墳について語るという構成になっており、大変分かりやすく書かれています。そして何よりも、著者が古墳をこの上もなく愛しているのがいいですね。
 本書を読んでいて、興味深く感じたのは、編集者が神話の面白さを語ったとき、著者は神話について否定的な反応を示したことです。著者は戦前に神話教育を受け、それに影響されて海軍に入隊し、出陣直前に終戦して捕虜となり、廃墟となった日本に帰ってきたそうです。そしてたまたまの出会いから、「古き」を科学的に「考える」考古学を学ぶことになったそうです。もちろん筆者も神話の重要性を否定するわけではないでしょうが、何よりも筆者は神話を否定することで科学的な考古学を確立してきた人ですから、それ程安易に神話を受け入れることはできないのだと思います。
 私自身は戦後生まれであり、神話をタブーとする教育を受けてきましたので、逆に神話を復権させる必要があると考えています。しかしそれは、過去の苦い経験を踏まえて、慎重に行われなければなりません。
 なお、私の家の近くに志多見古墳群というのがあり、最近世界遺産になった古墳群を含め、日本各地に相当たくさんの古墳群があります。今日残っている、あるいは発見されているだけでこれだけあるのですから、古墳時代の末期には、そこら中古墳だらけだったかもしれません。

2019年11月9日土曜日

映画「リベレイター」を観て















2013年、ベネズエラ・スペインの合作による映画で、南米の独立の英雄シモン・ボリバルの生涯を描いた映画です。「リベレイター」とは「解放者」という意味で、ここでは南米をスペインの支配から解放したシモン・ボリバルのことです。

中南米については、これまでも何度も触れてきましたし、全体像については「入試に出る現代史 第7章ラテン・アメリカ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/06/7.html)を参照して下さい。シモン・ボリバルについて私が知っていることは非常に少なく、とりあえずここでは、私がかつてよく使用した山川出版「世界史用語集」でのシモン・ボリバルについての解説を引用しておきます。

1783~1830年 ベネズエラ出身のラテンアメリカ独立運動の指導者。1810年からの自国の独立革命に参加し、亡命後、19年に大コロンビア共和国を樹立して大統領となる。25年にはボリビアの完全独立を達成したが、30年に大コロンビア共和国を解体し、ラテンアメリカの統一という彼の理念は挫折した。
 私がボリバルついて知っているのはこの程度のことです。ウイキペディアでは相当詳しく書かれていますが、詳しすぎてかえって分かりませんでした。映画は、シモン・バリバルの恋と新妻の死から始まりますが、なぜボリバルが独立運動に邁進したのか、はっきりしません。これは中南米の人々にとって自明のことなのでしょうか。また、多くの戦いが描かれますが、私にはほとん知らない戦いばかりです。これも中南米の人々には自明のことなのでしょうか。ただ不思議思ったのは、ボリバルの軍隊には先住民インディオも混血のメスティーソも黒人も、さらに女子供に至るまで多数参加しています。だからこそ、ボリバルの戦いは、あらゆる人々にとっての解放のための戦いということになるのでしょう。
 しかし、現実は異なりました。中南米の社会は、植民地統治のためにスペインから来たスペイン人、中南米生まれの富裕なスペイン人であるクリオーリョ、白人とインディオの混血であるメスティーソ、そして先住民のインディオなどからなります。このうちスペインからの独立を最も望んだのはクリオーリョで、彼らはインディオを酷使することにより豊かになろうとしますが、スペイン本国は啓蒙思想の影響もあったインディオに対して寛大な扱いを要求しており、クリオーリョにとってスペイン人は邪魔な存在となりつつありました。そしてクリオーリョにとって最悪のシナリオは、インディオが中心となって独立国家を形成することで、すでにハイチで黒人国家が成立するという前例がありました。
 ボリバルは相当理想主義的な人物だったようで、巨大な共和制国家のもとに、すべての人が自由で平等な生活を送れるよう夢見ていたとされます。事実映画では、ボリバルの軍隊にはインディオやメスティーソ、さらに女子供まで参加していました。しかしこの夢は最初から破綻していました。クリオーリョが望んだことは、インディオを抑え、彼らの利益を守ってくれる小規模な地域国家でした。こうした中で、ボリバルの側近たちはしだいにボリバルから離れ、1830年に47歳で死亡します。病死とも暗殺ともいわれています。
 この映画を分かりにくくしている原因の一つは、映画制作当時のベネズエラ大統領チャベスの存在にあります。ベネズエラの歴史は、他の中南米諸国の歴史と同じで、クリオーリョによる土地支配、インディオを農奴として酷使、クリオーリョ支配体制維持のための軍事独裁体制、英米資本との癒着という特色を持ちます。ベネズエラは石油などの資源が豊富であるにも関わらず、貧富の差が大きく、改革への動きが高まると、アメリカの介入によって潰されてきました。1999年、シモン・ボリバルを尊敬するチャベスが大統領に当選すると、彼は国名をベネズエラ・ボリバル共和国と改名し、社会主義的な改革を進めます。2002年、アメリカのCIAの支援を受けた軍部のクーデタが失敗に終わると、チャベスは反米を鮮明にし、国内の保守派を徹底的に弾圧しました。しかしアメリカや保守派の妨害工作もあって経済が低迷し、そうした中で2013年チャベスは癌で死亡します。この年に、この映画が制作されたわけですから、チャベスのボリバル崇拝の影響がなかったとは言えず、そのため、この映画を客観的に見ることができません。
 現在、ベネズエラでは経済が破綻し、大量の難民が流出していることが伝えられています。マスコミはこの混乱の責任をチャベスとその後継者にあるかのように伝えており、それも事実ですが、このような事態をもたらした真の原因はアメリカと保守派にあることを知らねばならないと思います。こうしたことは、中南米においては珍しいことではないからです。
















2019年11月6日水曜日

「邪馬台国の滅亡」を読んで


若井敏明著 2010年 吉川弘文館
 邪馬台国に関する本を読んだのは、ほとんど半世紀ぶりです。邪馬台国が存在したのは九州か機内かという論争は、江戸時代の新井白石・本居宣長の論争に始まり、20世紀初頭の白鳥庫吉・内藤湖南の論争が有名で、今日に至るまでも続けられています。今日では、邪馬台国論争を扱うのはマニアやジャーナリストで、まっとうな歴史家は扱うべきではない、とさえ思われているようです。というのは、新しい決定的な資料が出てこないため、何を論じても、推測の域を出ないからです。
 邪馬台国に関する文字史料は、「記紀」と中国側の史料くらいで、「記紀」に関しては戦後徹底的に否定されたため、主として中国側の資料や発掘の成果に基づいて議論が行われてきましたが、やがてその議論も下火になります。本書の著者は「記紀」の中にこそ答えがあると考え、「記紀」の記述を再検討し、邪馬台国の所在地を福岡県(筑後国)山門郡であると断定します。そしてクマソを討伐したとされるヤマトタケルの息子仲哀天皇と皇后の神功皇后が邪馬台国の討伐に出征し、仲哀天皇の死後は神功皇后が夫の遺志を受け継ぎ、邪馬台国を滅ぼします。
 従来これらの人物については実在が疑われており、著者はその実在をさまざまな角度から論証するのですが、私には、その論証が正しいかどうか判断する術もありません。ただ、大胆な仮説というのは、それが正しいかどうかは別として、それなりに楽しいものです。また、久しぶりに邪馬台国論争を思い出して、本書を楽しく読むことができました。


2019年11月2日土曜日

映画「リベリアの白い血」を観て

 2015年にアメリカ・リベリア合作で制作された映画で、監督はニューヨークで活動中の日本人です。映画は、一人のリベリア人労働者を通して、我々が何も知らないリベリア人の生活が、我々の日常生活にいかに関わっているかを描きます。












リベリアについては、「入試に出る現代史 第8章アフリカ (2)アフリカ諸国の独立 独立を維持したリベリアとエチオピア」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/06/8.html)で、ある程度述べていますので、まずその部分を引用しておきます。
  リベリアは,アメリカで解放された黒人たちが1821年に現在のリベリアの一部を買い取って生まれた国で,「自由」という意味からリベリアと名づけられ,これに協力した米大統領モンローにちなんで首都をモンロビアとし, 1847年に独立宣言を行なってアフリカ最初の共和国となった。アメリカがリベリア建国を援助したのは,アメリカがアフリカ進出の足掛かりを得たかったからで,事実20世紀に入るとアメリカのタイヤ・メーカーが大規模な天然ゴムのプランテーションを開発することになる。
  移民の子孫はほんのわずかだが,彼らが政治・経済の実権を握っており,現地人との争いが絶えなかったが,1980年には現地人軍人による軍事クーデターが起こった。
以後,ドウ政権はアメリカ系支配層の排除を図ったが,1989年には反政府組織との間で内戦がおこった(1990年ドウ大統領は死亡)。
アメリカの白人が解放奴隷をアフリカに「帰した」理由の一つは、奴隷所有者にとって、解放奴隷の存在が目障りだったからです。この頃アメリカで奴隷制度が急速に発展し、それを支えるイデオロギーとして黒人が白人より劣っているという思想が形成されました。その際問題なのは自由黒人で、彼らはどこから見ても白人より劣っておらず、彼らの存在は黒人劣等説を脅かすものでした。そこで生まれてきたのが、「可哀そうな」黒人を「故郷のアフリカ」に帰してあげようという運動で、この運動を推進したのは黒人奴隷所有者であり、多くの自由黒人はこの運動に冷ややかでした。第一、彼らはアメリカ生まれであり、アフリカは彼らの故郷ではありません。
 それでも一部の黒人はリベリアに移住しますが、その数は僅かで、先住民の2.5%にすぎず、かれらは先住民を「文明化されていない黒人」として軽蔑しました。それに対して先住民は移住者(アメリコ・ライベリアン)を「アフリカを知らない黒い白人」と呼んで、敵意を剥き出しにしました。1980年のクーデタでアメリコ・ライベリアンの支配は終わりますが、部族間の抗争が激化し、1989年から2003年にかけて2度も起きた内戦により、リベリアは戦争一色の無秩序な国と化していきました。現在もその影響で、リベリアは世界最貧国の一つとなっています。
 主人公のシスコは、かつて内戦で多数の敵の兵士を残酷に虐殺しましたが、今は妻子をもち、農園でゴムの採取を行って暮らしています。ゴムは、ゴムの木に傷をつけ、そこから垂れる白い樹液を採取して、それを業者が集めて加工します。この樹液がタイトルの「白い血」で、労働者は低賃金で食べていくのがやっとです。そこでシスコは、友人を頼ってニューヨークに行き、そこでタクシー・ドライバーになります。突然ニューヨークへ来てタクシー・ドライバーになれるのかどうか知りませんが、ニューヨークにはリトル・リベリアという互助組織があり、多分彼は以前にニューヨークで暮らしていたことがあるのでしょう。言葉さえ異なる部族同士が敵対するリベリアにあっては、アメリカの方がより身近に感じるのかもしれません。

 最後に彼はタクシーのタイヤの交換を黙々と行います。タイヤの原料はゴムで、結局彼はゴムから離れて暮らすことは出来ませんでした。そしてゴムはあらゆる人々の日常生活で用いられており、ゴムを通して我々はリベリア人の困難な生活と悲惨な歴史を垣間見ることができるのです。