イエスを扱った映画には、必ずマグダラのマリアの改心の場面が出てきます。マリアは、娼婦か、あるいは情欲に身を任せた金持の女性か分かりませんが、いずれにせよ不義を働いたという理由で、石打の刑にされようとしていました。そこに通りかかったイエスが、石をなげようとしていた群衆に、「罪を犯したことがないと思う者は、最初に石をなげよ」と言い、結局誰も石を投げずに群衆は立ち去りました。そしてイエスはマリアに、「あなたの罪は許された」と言って去って行きます。それ以来マリアはイエスの熱烈な崇拝者となり、生涯彼に付き従います。最後の晩餐にも付添ったし、イエスの処刑にも立ち会い、イエスの復活を最初に目撃し、その後南フランスに布教に行ったとも伝えられています。
ただ、例によってイエスに関わる話は不確かことが多いのが問題です。そもそもマリアという名前は、非常にありふれた名前で、聖書だけでも5~6人のマリアが登場するそうです。第一、母の名がマリアです。ヨセフという名も多く、イエスの父がヨセフであり、イエスの遺体を引き取ったのも別のヨセフです。したがって、名前に出身地をつけて区別するわけで、イエスは「ナザレのイエス」と呼ばれます。そして、先に述べたエピソードのマリアが、マグダラのマリアだとされていますが、はっきりしないようです。
イエスには女性の崇拝者が多く、イエスの行く先々に多数の女性が付き従い、イエスの身の回りの世話をしていたようです。当時は、宗教は形骸化し、道徳は退廃していましたので、心を病む女性が多かったようで、イエスはそうした人々に生きる指針を示したようです。イエスが処刑された時、弟子たちは連座を恐れて逃げてしまいましたが、女性たちの多くは処刑に立ち会いました。そうした女性たちの中に何人ものマリアがおり、聖書に記述されているマリアをそれぞれ特定することが難しいようです。
ところで、マリア(どのマリアかが問題ですが)は、イエスから弟子たちが聞いていない話まで聞いていたようで、イエスの死後弟子たちが、イエスが女であるマリアにそこまで話すのか、マリアは噓を言っているのではないかと疑いました。完全に男尊女卑の世界ですが、当時はそういう時代でした。そうした中で、弟子たちはマリアを排除し、彼女を通じて伝えられたイエスの言葉も排除し、その結果彼女は南フランスに渡り、そこでイエスの言葉を伝えたとも言われます。そして新約聖書では、「罪の人」として位置づけられたとも言われます。事実、新約聖書が編纂される過程で、多くの文書や証言が正統教義に反するとして、排除されていきました。この映画が描こうとしているのは、この点なのではないかと思います。「もう一人のマリア」とは、「罪の人」と呼ばれたマリアではなく、実はイエスの最も重要な弟子であった、ということではないかと思います。つまり、イエスの真の教えは、マリアを排除したことによって、隠蔽されてしまったということです。この点については、正統聖書からはずされた聖書外典の研究により、ある程度支持する人がいるようです。1945年にエジプトで発見された「フィリポの福音書」も、マリアをイエスの伴侶で、最も愛する人と述べています。
ちなみに欧米では、聖書に因んだ名前を付けることが多いようです。英語読みすると、マリアはメアリー・マリー、ペトロはピーター、ヨセフはジョセフ、ヨハネはジョン、パウロはポールです。なお、マグダラはフランス語ではマドレーヌといい、フランスではマドレーヌの名の付いた教会・修道院が沢山あります。また、マドレーヌというお菓子は、18世紀にマドレーヌという女性が初めて作ったお菓子だそうで、いかにマドレーヌ=マグダラという女性が人々に親しまれていたかが分かります。聖母マリアがあまりに高くにありすぎるのに対し、「罪の人」といわれたマリアは親しみやすく、また娼婦の守護聖人ともなっています。
ローマ教会は、16世紀末にマグダラのマリアを「罪の人」と断じ、それがその後西方教会に決定的な影響を及ぼしました。ローマ教会によるこのような宣言には何か恣意的なものを感じます。東方教会は彼女を「罪の人」とは呼んでおらず、西方教会のみが彼女を「罪の人」と呼び、彼女が「使徒」であることを認めませんでした。しかしその後聖書の外典が多数発見され、その中には「マリアによる福音書」も含まれていました。こうした事実を背景に、ローマ教会は2016年に、マグダラのマリアは「罪の人」とは別人であること、そして彼女を「使徒」であることを認めました。この映画は、こうしたことを背景に制作されたと思われますが、我々から見れば、「今さら!」という感じがします。