山本博文監修 2012年 洋泉社
歴史は、国単位で語られることが多く、そのためある歴史はその国の首都が語られるのが一般的です。したがって日本史では、まず奈良・京都を中心とした歴史が、次いで江戸・東京を中心とした歴史が語られ、尾張・三河については、その中継地としての繁栄が語られるのみです。ただ一度だけ、16世紀に信長・秀吉・家康という三英傑が登場しますが、やがて彼らも活動の拠点を西国や東国に移し、結局尾張・三河は三英傑を輩出しただけで終わります。本書も、基本的にはこうした立場で書かれてはいますが、それでも尾張・三河について、私が知らなかったことが沢山書かれており、大変興味深く読むことができました。
例えば、私自身がほとんど知らなかったのは、尾張と三河の違いでした。まず、弥生・稲作文化は急速に尾張まで伝わり、ここでかなり長期間伝播が中断してしまいます。その理由については、自然環境の相違などがあげられていまが、いずれにせよ、この過程で、尾張と三河の文化の違いが形成されてきたと思われます。また話は飛びますが、江戸時代には、尾張には御三家の筆頭である尾張徳川家という大大名が置かれていましたが、三河は1万石程度の小藩や幕領・寺社領が多数あり、領域的には統一性のない地域でした。明治政府は三河を尾張に統合させて愛知県をつくりますが、当時は三河の反発が強く、明治時代にはしばしば反乱が起きたようです。
また言葉のうえでも尾張弁と三河弁は相当違うそうです。私の近辺には、露骨に方言を使う人がいなかったため、両者の違いがほとんど分かりませんでした。名古屋市の河村市長が自称名古屋弁を話しているそうで、したがって尾張弁ということになりますが、私の近辺には、あのような名古屋弁を話す人はいません。
また、NHKで放映されていた「かぶき者」前田慶次についての記述がありました。前田慶次は尾張の出身で、やがて越前加賀藩に移り、さらに上杉家とともに米沢藩に移ります。もちろん、前田慶次にとって尾張は出身地というだけで、その後の人生には尾張はあまり関係がなかったかもしれませんが、一人の戦国武将が尾張、加賀、米沢へと移動していく過程で、地域文化が互いに影響し合いながら、新しい文化が形成されていく様を見ることができます。そして何よりも、前田慶次は優れた文化人でした。
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