2019年2月27日水曜日

映画「さよなら、アドルフ」を観て

2012年にオーストラリア・ドイツの合作で制作された映画で、第二次世界大戦終結直後のドイツにおけるナチス幹部の家族の苦悩を描いています。
ローレは14歳の少女で、父母ともナチスの幹部で、父は強制収容所に勤務し、母は遺伝病子孫予防法(強制断種法)に関わっており、さらにナチスの理想どおりゲルマン人の純血種を5人も産んでいました。ドイツの敗北が決定的となると、両親は大量の書類を焼却し、連合軍に自首するため家を出て行きました。後に残されたのはローレと、2歳年下の妹、双子の兄弟、乳児で、ローレは母にハンブルクの祖母の家に行くように言われていました。今やすべてが、14歳の少女の肩に背負わされることになりました。

彼女たちはナチスの家族であるため身分証がなく、汽車の切符を買えず、徒歩で行くしかありません。また、当時のドイツは、イギリス・フランス・アメリカ・ソ連の四か国で分割占領されていたため、検問を通る度に身分証が必要です。さらに自分たちの食料や乳児のミルクを調達せねばなりません。そんな中で、たまたまナチスがユダヤ人に何をしたのか、そして父がそこでどんな役割を果たしたのかを知ります。今までの愛情にあふれた家族は、すべて虚構だったのです。しかし今の彼女には、感傷に耽っている暇はありませんでした。4人の弟や妹をハンブルクまで連れて行かねばなりませんでした。時には体を売ろうとしたことさえあり、殺人に関わることさえありました。そして双子の兄弟の一人が死にました。
ハンブルクに着いた時、祖母は孫たちを温かく迎えてくれました。兄弟はようやく安らぎの場に着いたのです。祖母は相変わらずナチスの思想を信じ、父母が行ったことは正しかったと力説していました。しかしローレはもはや家を出た時の少女ではありませんでした。ナチス党員の家族として、多くの苦しみを味わってきました。この苦しみは彼女だけのものではなく、ナチスだった人やその家族の多くが味わった苦しみです。多くの人が身を隠し、ひっそりと生きてきましたが、ドイツ政府は今でもナチスの生き残りを探しています。

ただ、この映画のテーマは多分ナチスの家族の苦しみではないと思います。ナチスの家族としての苦しみを通して、あどけない一人の少女が大人の女性に変貌していく過程がえがかれているのだと思います。この映画の原題は「ローレ」であり、「さよなら、アドルフ」という邦題は幾分誤解を招くテーマです。ただし、邦題が「ローレ」だったら、私がこの映画に出会うことはなかったでしょう。

2019年2月23日土曜日

映画「ナイト・オブ・ゴッド」を観て

2001にイタリアとフランスにより制作された映画で、「聖骸布(せいがいふ)」と呼ばれる聖遺物を強奪するという一種の冒険物語です。この映画を理解するためには、ヨーロッパ人とっては当たり前の、しかし日本人の多くには当たり前でない、いくつかの歴史的な背景を知る必要があります。








10世紀ころに、ヨーロッパではようやくキリスト教が民衆レベルで定着し、11世紀に各地で教会が建設されるようになります。そうした中で、教会のシンボルとなるべき聖遺物への需要が高まり、聖遺物が高値で取引されるようになります。とはいえ、この時代から見ても、イエスの死後すでに千年以上もたっており、しかもイエスが活動した場所ではないヨーロッパに、聖遺物なるものがそれ程あるとは思えません。そこで考え出されたのが、聖遺物のねつ造と強奪で、その最たるものが十字軍遠征でした。聖地へ行けば、聖遺物はごろごろ転がっているだろう、という分けです。当時、イエスが磔にされた際に使用された釘が何十本ももたらされましたが、ほとんど偽物でしょう。パリのノートルダム大聖堂には、イエスがかぶせられた茨の冠が安置されているそうですが、これはかつてコンスタンティノープルにあったものですが、それが強奪されてヨーロッパにもたらされたそうです。

もちろん強奪は犯罪行為ですが、それが許されざる行為なら、聖遺物=聖人が抵抗したに違いない。ゆえに強奪の成功は、聖人が従来の墓所管理や対応に不満だった証左である。よって強奪による移葬は聖人の意志にかなっていた。当時このような正当化のロジックが普及していた、とのことです(ウイキペディア)。恐るべき欺瞞です。かつて大英博物館は、世界中から強奪した歴史遺物を保管しましたが、それには野蛮な地域に放置したら貴重の歴史遺物が失われてしまうからで、すべての歴史遺物は大英博物館で保管されるべきだ、と主張しますが、どうもこのようなロジックはヨーロッパ人の遺伝子に組み込まれているようです。

図1                                図2
 

















図3

この映画で問題となった聖遺物は、「聖骸布(せいがいふ)」です。図116世紀に描かれた絵ですが、イエスを磔から降ろしたのち、絵の下にあるように遺骸を布で覆います。図2の写真は、イタリアのトリノの聖ヨハネ大聖堂で保管されている実物とされる「聖骸布」で、縦4.41m、横1.13mあり、布の中央から、対照的にイエスの顔と頭が映し出され、図3がイエスの顔です。つまり一枚の布にイエスの風貌が転写されており、身長は180センチほど、血液型はAB型ということが判明しています。もしこの布が本物だとするなら、それは驚くべき聖遺物ですが、この布の真贋については延々と議論が繰り返されており、私が立ち入る隙などありません。
この「聖骸布」を熱心に求めたのが、13世紀後半のフランス王ルイ9世だとされます。彼は名君として知られ、国内の安定と国際関係の調停に努めます。また彼は信仰心が篤く、十字軍に二度参加し、二度目の遠征中に彼は死亡します。ルイ9世は聖遺物の蒐集にも熱心で、ノートルダム大聖堂の「茨の冠」も彼が入手したものです。そして彼は「聖骸布」を入手したがっていたようですが、結局それを果たせず死亡しました。この「聖骸布」がどのような経緯でトリノにもたらされたのかは知りませんが、14世紀にフランスの貴族シャルニー卿が所蔵していることが判明し、それがサヴォイア家の手を経てトリノに至ったとのことです。
映画では、5人の若い騎士たちが、故ルイ9世のために「聖骸布」を手に入れようとします。彼らは身分が高いわけでも、強いわけでもなく、ただ何となく「選ばれしもの」として「聖骸布」を得るためのたびに出ます。「聖骸布」はギリシアの僧院にあるらしく、彼らはその僧院に忍び込んで強奪し、フランスに持ち帰ります。しかしフランスでは異端の悪徳貴族シャルニー卿に布を奪われ、5人の騎士たちも殺されてしまいます。そしてそれより80年後に、シャルニー家により「聖骸布」が公開されることになります。公開直後から、この「聖骸布」が偽物ではないかという議論がありましたが、真偽について私には答えようがありません。1353年に布の存在が公開されるまでの来歴については、一切不明です。したがって5人の騎士たちの物語は創作です。今日ヨーロッパに存在する多くの聖遺物についても、その来歴は似たようなものでしょう。

この映画は、軽い内容の映画か、それとも重い内容の映画化なのか、よく分かりませんでした。騎士たちはずいぶん簡単に聖遺物強奪の旅に出発し、ずいぶん簡単に強奪に成功し、ずいぶん簡単に殺されて映画は終わりました。ただ見方によっては、「聖骸布」などというものは、その程度のものでしかないのだ、ということかもしれません。それでも、この文章を書くために「聖骸布」なるものを調べ、大変興味をそそられ、映画も興味深く観ることができました。私は、この映画は名画だと思います。

2019年2月20日水曜日

映画「戦場のブラックボード」を観て



2015年に制作されたフランス・ベルギーによる合作映画で、第二次世界大戦におけるドイツ軍のフランス侵入を描いていますので、前に観た「ダンケルク」と同じ時代です。ドイツ軍が侵入した北フランスは、第二次世界大戦でも戦場となったため、この地方の住民には政府から、ドイツ軍が侵攻した場合南へ移動するよう指示されていたようです。その結果800万人もの人が故郷を捨て、この映画によれば「20世紀最大規模の民族移動だった」そうです。映画は、この移動の数日間を描いています。なお、この時代のフランスについては、「映画でヒトラーを観て」の「禁じられた遊び」「黄色い星の子供たち」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/02/blog-post_24.html)を参照して下さい。
 舞台は、北フランスのレブッキエールという小さな村で、そこの農場でハンスとマックスという父子が働いていました。ハンスはドイツで反ナチ運動をして弾圧され、息子マックスとともにフランスへ亡命していました。しかしハンスはスパイと疑われて逮捕され、その後まもなくドイツ軍が侵攻して村人たちは村を出ることを決意します。マックスも女性教師ブロンデル先生に守られて村を出ます。一方ハンスは刑務所を脱獄してマックスを追います。ブロンデル先生とマックスは、通りすがりの村の学校の黒板に自分たちの行き先を記し、それを見たハンスがあらゆる障害を乗り越えてマックスを探し出し、二人は再開します。これがこの映画のストーリーで、英語版のタイトルは“Come what may”「どんなことがあっても」です。

 映画は、この二人の親子の物語と並行して、村人たちの旅の様子を描き出します。私は、多くのフランス人がドイツ軍に追われて南へ移動した事実は知っていましたが、その具体的な様子については想像したこともありませんでした。映画では、さまざまな家族が僅かな荷物をもって、徒歩や馬車で移動します。行き先はノルマンディーの港町ディエップですが、そこについてどうするかということは分かりません。ただ、予め覚悟していたことなので、移動は意外に整然と行われ、あちこちで移動の集団と出くわします。また、あちこちにドイツ軍の攻撃で殺された死体が転がっていました。そしてついにドイツ軍が彼らを追い越していきます。こうなると、さらに先へ進んでも、結局ドイツの占領地内を進むだけで、ディエップもすでに占領されているはずです。そのため、村人たちは話し合い、このまま進む人と、故郷に帰る人に分かれることになりました。

 この映画は、「すべてを捨てて旅をした人たちの証言をもとにしています」ということで、ことさら悲惨に描かれているわけではありまさせん。むしろ戦争におけるさまざまな人の顔が、淡々と描かれているように思います。

2019年2月16日土曜日

映画「ダンケルク」を観て

 2004年にイギリスで制作されたテレビ用のドキュメンタリーで、三部からなり、合計で180分あります。内容は、第二次世界大戦初期の1940年、イギリス軍のダンケルクからの撤退を描いています。

 193991日にドイツ軍がポーランドに侵攻すると、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、ドイツとフランスの国境に建設されたマジノ線と呼ばれる巨大な地下要塞に立てこもります。その後ドイツは、ポーランド、バルト諸国、北欧諸国に侵攻しますが、英仏軍は何もせず、マジノ線でドイツ軍の侵攻を待っていただけでした。この状態は「いかさま戦争」とか「奇妙な戦争」などと呼ばれます。1940年春、東部戦線で優勢となったドイツ軍は西部戦線に方向転換し、マジノ線など見向きもせずにベルギーに侵攻し、さらに526日にフランスに侵入しました。これによりマジノ線はまったく無意味となり、英仏軍はドイツ軍の攻撃を逃れてダンケルクへと撤退します。

 当時イギリスでは、510日にドイツに宥和的なネヴィル・チェンバレン首相が退陣し、強硬派のチャーチルが首相となると、彼はダンケルクに次々と集まる兵士たちの救出を決定します。これが524日から64日までのダンケルク撤退作戦で、10日間で35万人の兵士が脱出しました。映画は、この10日間を克明に描いています。兵士たちは、戦争の全体像が見えず、ただドイツ軍に追われるように、一秒一秒を不眠不休で生きているだけです。そしてその過程で、多くの兵士が殺されます。一方、政府は大きな方針を決めるだけで、個々の兵士の顔を見ることはありません。チャーチルの撤退命令は兵士を思ってではなく、ドイツとの戦争を継続するために人的資源が必要だったからです。35万人の人的資源を、今失うことはできません。また作戦の司令部は、輸送のための船を調達するためにてんてこ舞いです。軍艦から民間船まであらゆる船を調達し、多くの船がドイツ空軍の攻撃で沈没しまたます。
 ドキュメンタリーは、こうした事態の推移を180分にわたって克明に再現していますので、さすがにうんざりしてきました。そしてこの戦争の馬鹿馬鹿しさを痛感しました。この戦争はイギリスの勝利の出発点になったと言われますが、初期の誤った戦略の尻拭いをしただけでした。この戦争は多くの兵士の命を救ったといわれますが、それは次の戦争で死ぬためでしかありませんでした。このドキュメンタリーは、こうした視点を若干もちつつも、基本的にはこの作戦の成功とそれに続く戦争の勝利を謳うものでした。
 


2019年2月13日水曜日

韓国映画「おばあちゃんの家」を観て


2002年に韓国で制作された映画で、都会育ちの七歳の少年サンウと過疎地に住む聾唖の祖母との心温まる交流の物語です。
 日本の東京には日本の人口の1割が住んでいますが、韓国のソウルには韓国の人口の2割近くが住んでいます。その背景には、日本の江戸時代では幕府の力が強かったものの、多くの藩がほぼ自立して藩の経営に当たっていたため、独自の産業構造や文化が地方に形成されたのに対し、李氏朝鮮では両班を基盤とした一極支配が500年以上も続いたということがあります。その結果、山村・農村の超過疎化は深刻な問題となっているようです。日本でも過疎化は深刻な問題ですが、韓国の場合「超」をつけるのが普通なのだそうです。
 映画では、おばあちゃんの娘は、17歳の時村を出てソウルに行き、男と同棲して子供を生み、男と別れた後、仕事を探すため夏の間だけ、子供をおばあちゃんにあずかってもらうことになりました。サンウは初め田舎を馬鹿にし、おばあちゃんを馬鹿にし、一日中ゲームに明け暮れ、母がもってきた缶詰ばかり食べていました。ところがやがて電池がなくなり、缶詰がなくなり、サンウは都会生活から切り離されていきます。一方おばあちゃんは、サンウがどんなに我儘な態度をとっても、ただ黙々と孫のために働き続け、サンウもまたおばあちゃんの誠意に心を打たれるようになり、帰るころにはお互いに心を通わせるようになります。
 ストーリー全体は誰もが考えつきそうな在りがちな内容です。それにも関わらず、多くの人々がこの映画に感動したのはなぜかと問われれば、この映画を観てもらうしかないということです。主人公の一人であるおばあちゃんは映画に出たことがないだけでなく、映画を観たことさえなかったそうです。サンウは23回コマーシャルにでたことがあるだけです。そしてこの映画の出演者は事実上この二人だけなので、恐ろしく低予算の映画でした。多くのお金を使い、一流の俳優を使うことだけが、良い映画を作ることではないということを、この映画は示しているようにおもいます。
 なお、この映画の最後に次の字幕が流れます。「すべてのおばあちゃんにこの映画を捧げます。」もしかするとこの映画は、監督自身の体験に基づくものなのかもしれません。

2019年2月9日土曜日

韓国映画「哀しき獣」を観て

2010年に韓国で制作されたサスペンス映画で、原題は「黄海」です。この映画は歴史を扱っているわけではありませんが、朝鮮族の問題を扱っているので、ここではその点だけに触れておきたいと思います。











朝鮮族とは何か、朝鮮民族とは何が違うのでしょうか。朝鮮民族とは、朝鮮半島に住み、朝鮮語を共有する人たちですが、朝鮮族というのは、中国に56ある少数民族の一つ中で、彼らは中国語と朝鮮語を話すバイリンガルが多いようです。彼らは主に東北部(吉林省、遼寧省、黒竜江省)に多く住み、なかでもこの映画の舞台になった吉林省の延辺(えんぺん)朝鮮族自治州には80万人の朝鮮族が住んでいるそうです。
ではなぜこの地域に朝鮮族が住んでいるのでしょうか。もともとこの地方は朝鮮民族の発祥地だったこともありますが、そこまで遡る必要はありません。まず清朝の時代に、この地域は満州人の聖地として移住が禁止されていたため、この地域は人口密度が希薄で、朝鮮民族が非合法に移住していました。そして決定的だったのは、20世紀に入って朝鮮が日本の支配下に入り、さらに日本が満州に進出すると、日本の移民政策もあって、朝鮮から多くの人々が移住しました。これが現在の朝鮮族の直接的なルーツです。
 なぜか韓国人は朝鮮族を軽蔑する傾向があるようで、この映画でも、延辺が貧困と無秩序の地域として描かれていますが、延辺は木材資源や鉱物資源が豊富で、さらに韓国企業も投資していますので、決して貧困で無秩序な社会ではなく、教育水準も高い地域です。ただ、この地域から韓国に出稼ぎに来ている人も多いため、そうしたイメージが形成されたのかもしれません。
 映画では、主人公が借金返済のため殺人を依頼されて、韓国に行きます。まず列車で大連まで行き、そこから船で黄海を渡って韓国に行きます。韓国で色々あって彼は重傷を負い、漁船で黄海を渡って大連に向かいますが、途中で死亡します。黄海には黄河が流れ込んで一部が茶色く濁っているため黄海と呼ばれますが、この映画で何か特別な意味があるのかどうか分かりません。ただ、朝鮮族が黄海を通って韓国に行くのは最も通常のルートのようで、主人公は黄海を通って韓国に行き、そして帰りに黄海上で死亡しました。

2019年2月6日水曜日

「鴨緑江は流れる」を読んで


李弥勒(イ・ミルク)著、1946年、平井敏春訳 草風館 2010
 著者は、1899年に地方の両班階級に生まれ、1918年に京城医学専門学校に入学しますが、1919年に万歳独立運動に関わって、鴨緑江を越え中国を経由してドイツに亡命します。その後ドイツで医学研究者となり、同時にドイツを中心に文筆活動を行うようになり、世界的にも知られる文筆家となり、1950年に死亡しました。彼の作品はドイツ語で書かれており、したがって本書もドイツ語からの訳です。
 本書は、著者がドイツへ行くまでの半生を語っています。話は、幸せだった5歳の頃から始まり、かなり優秀だったようで、10歳のころには「中庸」「孟子」など中国の古典をかなり暗記していたようです。これが当時の上流階級の教育だったようで、かつても日本もおなじようなものでした。このころ朝鮮が日本に併合されますが、彼の生活には何の影響もありませんでした。ただ、この頃から「学校」なるものが各地に設立され、父は子供に最新の教育を与えるべきと考えて、息子を「学校」に通わせることになりました。当初弥勒は、初めて学ぶ化学、物理、数学などがまったく理解できず苦労しますが、やがて優秀な生徒に成長し、医学専門学校の入試に挑戦します。
 医学専門学校の試験科目は、数学、化学、物理のほかに、日本語の古文と古典漢文を現代日本語にする問題があり、当時の朝鮮の教育事情の一端を垣間見るようでした。弥勒は合格し、充実した学生生活を送ります。当時、彼は日本による朝鮮統治について不快に思っていたことは確かでしたが、特に政治活動を行ったわけではありません。ただ、たまたま友人に誘われて三・一(万歳)運動の会合に出席し、事件の後関係者は厳しく弾圧され、弥勒は外国に亡命することになります。夜中に小舟で鴨緑江を渡って出国し、ドイツに亡命し、狭い部屋にこもって難しいドイツ語の勉強に励みます。彼にとって鴨緑江は、彼と故郷を隔てる永遠の壁となります。
 本書はここで終わりますが、全体に穏やかで抑制された文章でかかれ、一人の人間が日本との関りで、どのように人生を変えていったのかが、淡々と描かれています。


2019年2月2日土曜日

映画で朝鮮戦争を観て

朝鮮戦争について
 1945年、第二次世界大戦で日本が降伏した後、朝鮮半島は38度線を境に米ソにより分割占領され、統一についての話し合いが進められましたが、米ソの冷戦が激化していく中で、1948年に李承晩による大韓民国(韓国)と金日成による朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが独立し、分裂は不可避となっていきます。さらに1949年に中華人民共和国が成立し、アメリカが支援する中国国民党が台湾に亡命政府を建てると、東アジアの国際関係は一気に緊張します。朝鮮戦争の原因は繰り返し論じられてきましたので、ここでは深入りしません。ただ、3年間の戦争で、民間人を含めて何百万人もの人が死亡したとされます。
 1950625日に北朝鮮軍が38度線を突破し、戦争が勃発します。戦争準備をしていなかった韓国軍は総崩れとなり、早くも628日は首都ソウルが陥落、国連軍も敗退を重ねて釜山にまで追い詰められ、韓国政府は一時日本の山口県に亡命政府を建てることを検討したほどです。しかし、915日にアメリカ軍が仁川に上陸して北朝鮮軍を分断すると、北朝鮮軍は敗走し、928日にはソウルを奪還、107日に38度線を突破し、まもなく鴨緑江付近に達します。ところが、1019日中国軍が鴨緑江を渡り、以後「アメリカ陸軍史上最大の敗走が始まり、195114日には再度ソウルを奪われます。しかしアメリカ軍は体勢を立て直し、2月には再びソウルを奪還、北朝鮮・中国軍を38度線まで押し戻し、ここで戦争は膠着状態となります。

 この戦争は、短期間で戦線が南北に激しく移動したため、アコーディオン戦争とも呼ばれましたが、数百万人が死亡した悲惨な戦争についてこうした呼び方をするのは不謹慎かもしれません。なお死者の数については、民間人の死者についてははっきりせず、さらに両軍とも一般住民を何十万人も虐殺しており、この数がどの程度反映されているかがわかりませんので、かなりいい加減の数字となっています。また、中国軍はアメリカの近代兵器に対して人海戦術で戦いましたので、その死者の数は膨大だったと思われます。

戦火の中へ
 2010年に韓国で制作された映画で、朝鮮戦争初期の一つの戦闘を扱っています。映画は、韓国軍によって学徒動員された少年が、母に送ったという手紙を元にして制作されたそうで、史実に基づいているそうです。











 映画の舞台になったのは、1950811に起きた浦項(ポハン)女子中学校で起きた戦闘です。開戦後1カ月余りで韓国軍は釜山にまで追い詰められますが、ここで韓国軍は反撃にでるため分散した兵力を終結させます。しかしそのことで戦略上の拠点である浦項に駐留していた部隊も移動することになり、部隊本部を置いていた女学校の校舎の防衛には71名の学徒兵を充てることとなりました。360名来るはずだった学徒兵は71名しか来ず、ほとんどが戦闘経験もなく、小銃の打ち方も知りませんでした。その中でリーダーに任命されたのはオ・ジャンボムで、彼は無口でおとなしい少年でしたが、唯一戦闘経験があったため選ばれました。そして映画はジャンボムの母への手紙を朗読する形で進められます。
 少年兵たちは統率された軍隊の経験がないため、喧嘩し仲間割れを繰り返しながら、戦闘の準備を進めていきます。周囲の偵察の過程で、北朝鮮軍の少年兵を殺害しました。これを観たジャンボムは、母に書きます。「北の軍人を殺しました。北の軍人には角がはえていると思っていましたが、北の軍人の最後の言葉は、僕と同じ、「母さん」でした」と。やがて北朝鮮軍が校舎の攻撃を開始し、8時間にわたって校舎を守り、撤退する時には47人が戦死していました。その結果、一時浦項は北朝鮮軍によって占領されますが、翌日米軍の爆撃と艦砲射撃で廃墟となります。

この映画をどのように捉えたらよいのでしょうか。北朝鮮の残虐性を強調すべきか、学徒兵たちの英雄的戦いを賛美すべきか。残虐性という点では韓国も似たようものである、学徒兵については、このような少年たちが銃をもって戦わねばならない状況そのものに嫌悪します。結局は、一部の権力者の野心が、多くの人々を巻き添えにした、ということでしかないように思います。

西部戦線1953
2015年に韓国よって制作された映画で、休戦協定成立直前の、一人の韓国兵と一人の北朝鮮兵の出会いを描いています。邦題の「西部戦線」は意味不明で、出会った場所が西部戦線だったというだけのことだと思います。原題は、「家に帰ろう」です。
朝鮮戦争は、連合軍がソウルを奪回した19512月ころから、38度線を境に膠着状態になっていました。北朝鮮も韓国も、相変わらず自国による半島統一を主張していましたが、人的物的損失があまりに膨大だったため、少しずつ休戦会談開催の機運が生まれ、同年6月には北朝鮮のスローガンが、「敵を海に追い落とせ」から「敵を38度線に追い払え」に変更されます。その結果休戦会談が開催され、その後ゆっくりと断続的に会談が開催され、1953727日に休戦協定が締結されます。そして映画は、その19537月における38度線近辺を舞台としていました。この当たりでは、当時まだ各地で断続的に戦闘が続いていました。
韓国軍伝令隊のナムボクは、40歳代の貧しい農民で、妻が子を出産する直前に、子の顔を観ることなく、徴兵で駆り出されます。そしてある機密書類を届ける任務を与えられますが、途中で敵の攻撃を受け、機密書類をなくしてしまいます。一方、北朝鮮戦車部隊ヨングァンは、まだ10代の学徒兵で、彼は7人兄弟の末っ子で、上の6人の兄がすべて戦死していました。彼の舞台は韓国軍の爆撃で全滅し、ただ一人生き残ったヨングァンは上官から必ず戦車を守れと命令され、戦車で北へ戻ろうとしていました。そして彼はたまたまナムボクが失った重要機密書類を拾います、
それを知ったナムボクはヨングァンにつきまとい、書類の返却を要求します。こうして南北の親子ほど歳の違う二人の兵士が、ぼろぼろの戦車で美しい田園地帯を右往左往します。ドラマはコメディタッチで、二人は喧嘩したり仲直りしたりしながら、進行していきます。この間どのくらいの日数がたっているのか分かりませんが、いよいよ727日を迎えます。この日、二人は「家に帰ろう」と言って別れます。ところが韓国の部隊は北の戦車がうろうろしているのを発見し、ちょうど休戦協定が発効する頃、大砲で戦車を破壊し、ヨングァンは死亡します。そしてナムボクは、自分の子供にヨングァンという名前を付けることを誓って、故郷に帰って行きます。
映画は、美しい映像で戦争をコミカルに描いており、それはこの戦争に対する痛烈な批判でした。映画では、美しい映像とともに、笑い転げるような場面と、もの悲しい場面が共存し、大変よい映画だったと思います。

高地戦
2011年に韓国で制作された映画で、原題は“The Front Line”です。この映画は、休戦協定直前の陣地戦を描いており、おそらく休戦協定の第5条63「本停戦協定のすべての規定は、1953年7月27日の22時に効力を生ずる」という一文から生まれたものと思われます。休戦協定が調印されたのは午前10、協定が発効するのが午後10時で、この12時間の間にすさまじい陣地戦が展開され、悲惨な結末を迎えることになります。
休戦会談が開催されてからすでに2年がたっており、なかなか協定が成立しませんでしたが、両陣営とも分割ラインを有利にするため、38度線近辺で領土の奪い合いをしていました。この映画では、東部戦線におけるエロック高地という架空の高地が舞台となっています。この高地を巡っては、両軍が何十回も占領したり、されたりを繰り返していました。映画では、その過程でさまざまなエピソードが語られますが、その中で印象に残ったエピソードを二つだけ述べておきたいと思います。
一つは、北朝鮮軍に「凄腕の狙撃手がおり、韓国兵に2秒」と呼ばれて恐れられていました。「2秒」というのは、680メートルの距離から狙撃し、弾が届いてから2秒後に音がするのだそうです。そして、実はこの狙撃手は女性でした。映画では語られませんでしたが、おそらく彼女にも辛い過去があったのでしょう。もう一つは、韓国軍の中に、前に観た「戦火の中へ」の舞台となった浦項(ポハン)の戦いの生き残りがいました。「戦火の中へ」では、兵士たちが幾分英雄的に描かれていましたが、実際には相当凄惨な戦いだったようで、精神錯乱を起こす兵士がいたり、中には味方の兵士を射殺する兵士もいたそうです。こういうトラウマをもつ兵士は、危機的状況に置かれると、何をするか分かりません。もっとも、長い戦いで、北にも南にもトラウマを負う兵士は沢山いたでしょう。
北と南の兵士は互いに殺し合い、陣地を占領したり占領されたりしていましたが、そんななかでも彼らの間に奇妙な共感が生まれていました。そして1953727日午前10時に休戦協定が調印され、両軍の兵士たちは大喜びしました。ところがまもなく補足条項が明らかになり、それによれば協定の発効は12時間後の午後10時ということになっていました。もちろんこうした補足条項は、すべての戦線で同時に戦争をやめることは困難ですから、ある程度猶予をおいて、周知徹底させてから発行するという意図があったのだと思いますが、実際に起きたことは、まったく逆でした。

両軍とも、この12時間の間にできる限り陣地を増やし、領土を増やして休戦したいため、総攻撃の命令がでたのです。兵士たちはうんざりしていましたが、命令に従うほかありません。戦争が終わった後、高地には死骸の山が累々と築かれていました。この高地自体は架空の存在ですが、多分38度線近辺のあちこちで、似たような戦いが行われ、多くの人々が無駄に命を失っていったことでしょう。何という馬鹿々々しい戦争だったのでしょうか。

黒水仙
2001年に韓国で制作された映画で、朝鮮戦争からおよそ50年後に起きた二件の殺人事件をきっかけに、朝鮮戦争中に巨済(コジュ)島で起きた出来事が暴かれていく、という話です。

























巨済島は、韓国では済州(チェジュ)島に次ぐ二番目に大きな島で、朝鮮戦争中にここには北朝鮮軍の捕虜収容所があり、最大で15万人以上の捕虜が収容されていたそうですが、休戦とともに収容所は閉鎖され、現在は記念公園になっているそうです。この収容所では、捕虜同志の乱闘や大規模な脱獄事件があったそうです。映画では、脱獄者を助けるために北朝鮮から派遣されたスパイがジヘという名の女性で、暗号名が黒水仙です。以前にチベットの修道女を扱った映画「黒水仙」を紹介しましたが、彼女の暗号名はそれに因んだものと思われます。「映画で観る二人の尼僧 黒水仙」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/03/blog-post_14.html) 
 ジヘはソクという名の小作人に助けられ、脱走者の救済活動を行っていましたが、ソクは命をかけて献身的にジヘを守り、やがて二人の間に愛が芽生えます。二人が軍隊に追い詰められた時、ソクは囮となってジヘを逃がし、自らは捕らえられます。そして50年後ようやくソクは釈放されますが、その直後にソクを捕らえた二人の元看守が殺害されます。映画は、その犯人が誰かということを追求するミステリー映画ですが、これは歴史とは関係ないので触れません。
 この映画が制作されたのは、金大中(キムデジュン)が大統領だった時代で、ようやく韓国に民主化が定着した時代でした。また金大中は初めて北朝鮮を訪問し、北朝鮮との緊張緩和に努めました。そうした時代に、韓国の人々は、北朝鮮や朝鮮戦争をある程度客観的に見つめようになったのではないかと思います。
 なお、映画で犯人捜査のため刑事が日本の宮崎を訪問し、一通り宮崎の観光案内をしていますが、なぜか宮崎の町の中を舞妓さんが歩いていました。