2018年11月21日水曜日

お知らせ


またしばらく休みたいと思います。



ミカンが沢山なりましたが、相当酸っぱいミカンです。










久しぶりにカメラを買いました。わたしはかつて全自動一眼レフのミノルタαを長く使い、その後ミノルタのデジタル一眼レフを使い、これが壊れた後は、しばらくコンパクトカメラを使っていてたのですが、今回ソニーのミラーレスカメラαを購入しました。ソニーの一眼レフカメラはミノルタの技術を継承しているため、今回のカメラもミノルタのαシリーズの継承ということになります。
 私は今までカメラで家族を撮り続けてきました。今は妻と二人だけで過ごしており、私はカメラで何を撮ったらよいのでしょうか。

2018年11月17日土曜日

連続テレビドラマ「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」を観て


「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」は、2012年からアメリカで放映されているテレビ・ドラマで、名探偵シャーロック・ホームズを題材としています。このドラマは相当異色で、まず時代は現代、場所はニューヨーク、相棒のワトソンは元外科医の中国系の女性です。最初は奇をてらった内容に思われ、ほとんど見ていなかったのですが、時々観ている内に、ホームズとワトソンとの軽妙な会話に引かれて、観るようになりました。CATVは、何度も繰り返し放映しているため、ある程度見逃しなく観ることができました。なお、このドラマはDVD化が進んでいるようです。
このドラマでのホームズは、原作通りロンドン警察(スコットランドヤード)の捜査顧問探偵をしていました。「捜査顧問探偵」というのは、世界に一人しかいない職業だそうで、無報酬で仕事をしていました。このドラマでの彼の父は大富豪だったので、お金には困らなかったようですが、彼は父を激しく憎んでいました。彼は、原作と同様、時々麻薬を使用していましたが、彼が唯一愛した女性の死をきっかけに麻薬を常用するようになり、まさに彼の心と体は壊れてしまいます。そうした中で、彼はロンドンを離れてニューヨークに移り、そこで荒んだ生活を続けますが、父が彼をリハビリ施設に入所させます。ドラマは、彼が施設から退院した日から始まります。
「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」とほぼ同じ時期に、イギリスで「SHERLOOK」というテレビドラマが放映されました。このドラマも、時代を現代に設定し、パソコンなど最新の機器を駆使して事件を解決するという話で、大変評判になっているそうで、CATVでも放映していましたが、私は観ていません。いずれにしてもシャーロック・ホームズは、いろいろな想像力を掻き立てる作品のようです。







シャーロック・ホームズの生みの親であるコナン・ドイルは、1859年に生まれ、医学部を卒業して開業医となりますが、患者が集まらず、暇に任せて小説を書いて、こちらが本業をなりました。1884年に「シャーロック・ホームズ」の第一作が出版され、小説家としての彼の名声は次第に高まっていきます。しかし彼は自らの本職は歴史小説にあると信じ、「シャーロック・ホームズ」はあくまで余興と考えていました。また彼は帝国主義者であり、熱烈な愛国者でしたので、世紀末に起きた悪名高い帝国主義戦争である南ア戦争(ブール戦争)を熱烈に支持し、従軍記者として参加したチャーチルさえ批判したイギリスの残虐行為を擁護しました。晩年には、彼は心霊学に傾倒し、その普及のために私財を投じました。しかし結局後世に残ったのは「シャーロック・ホームズ」だけであり、彼は最後まで己を知ることなく終わりました。
では、彼の推理小説家としての能力は、どのようにして形成されたのでしょう。もちろん文学作品としては、エドガー・アランポー(「映画「アッシャー家の末裔」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2017/09/blog-post_9.html))の影響を受けたことは間違いありませんが、それより医学生時代の経験が大きかったようです。ホームズのモデルは、作者の医学部時代の恩師で外科医であるジョセフ・ベルとされています。ドイルは1877年にベルに出会い、エジンバラ王立病院でベルの下で働きますが、ベルは、病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて、学生らを驚かせたそうです。コナン・ドイルは、学生時代にベルの助手を務め、その行動を日頃から目の当たりにしていました。こうしたことを背景に「シャーロック・ホームズ」が生まれたわけですが、それは単に推理小説に新しい扉を開いたというだけでなく、近代的な犯罪捜査の手法を示しました。そして実際にコナン・ドイルは、2件の冤罪事件を解決します。それは、あまりにもお粗末な警察の捜査に警鐘を鳴らすものでした。しかし残念ながら、本人はそのことの意味を必ずしも認識していなかったようです。

 次に、コナン・ドイルが生み出したシャーロック・ホームズという人物について考えてみたいと思います。コナン・ドイルはシャーロック・ホームズを書くことにあまり積極的ではなく、一度シャーロックを殺してしまい、物語を終わらせてしまい、その後復活させたりしていますので、シャーロック・ホームズの人物像を描き出すのは容易ではありません。とはいえ、多くの研究者やホームジアンとかシャーロキアンと呼ばれる愛好家たちの努力によってホームズ像が形成されています。まず彼の過去や家族については、ほとんど分かりません。1850年代に生まれ、1881年にベーカー街でワトソンと共同生活を始めますので、彼は著者のコナン・ドイルと同様、ヴィクトリア朝時代に活躍した人です。
体格は痩身で、身長は少なくとも約183センチメートル以上、鷲鼻で角張った顎が目立つそうで、1985年から10年近くイギリスで放映されたジェレミー・ブレットのシャーロック・ホームズが、最もイメージに近いとされています。性格は極めて冷静沈着。行動力に富み、いざ現場に行けば地面を這ってでも事件の一端を逃すまいと活動し、徹底した現場観察によって得た手掛かりを、過去の犯罪事例に関する膨大な知識、物的証拠に関する化学的知見、犯罪界の事情通から得た情報などと照らし合わせて分析し、事件現場で何が起きたかを推測します。彼はしばしば消去法を用い、「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」と主張します。(ウイキペディア)なお、イギリスで制作された「シャーロック・ホームズの冒険」での、ジェレミー・ブレットが演じるホームズが、最もホームズのイメージに近いとの評判です。
さてここで話を、「エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY」に戻します。このドラマのバックボーンとなっているのは、薬物依存症の克服です。依存症患者は、まず施設で強制的に薬物を断ち切りますが、施設を出た後、経験を積んだ付添人が四六時中彼を監視して薬物に手を出さないようにします。さらに依存症患者を復帰させる上で大切なのは、依存症患者のミーティングに参加することです。依存症患者とって回復の第一歩は、自分が依存症であることを認めることですが、これはプライドの高い人にとっては高いハードルです。自分が依存症であることを認め、ミーティングで体験者の話を聞き、自らも人前で自分の恥を語ることは容易でありません。ドラマでは、毎回のようにこの問題が取り上げられ、まるで依存症回復のマニュアルのようでした。もちろん私には薬物は関係ありませんが、ほぼ1年前に50年以上吸ってきたタバコを止めました。これはそれ程大変なことではありませんが、それでもこのドラマの教訓は役に立ちました。
ホームズが出所した日、付添人ワトソンが彼の前に現れます。彼女は優れた外科医でしたが、手術ミスで患者を死なせたため外科医を辞め、今は付添人をしていました。彼女もまた、心に傷を負っていました。彼女にとって、ホームズは面食らうことばかりでした。ホームズはずば抜けて頭がよく、人を小ばかにし、平気で人を傷つけます。彼はニューヨーク市警の捜査顧問探偵となり、面会初日に殺人現場に連れ行かれます。こうしてホームズとワトソンとの奇妙な関係が始まります。ホームズには自閉症の傾向が見られ、一方的に自己の正当性を主張し、他者を思いやる気持ちに欠け、常に人と対立し、対人関係をうまく構築できませんでした。
二人は毎日激しい口論を行いますが、ワトソンはしだいにホームズのずば抜けた才能と純粋さに魅かれ、やがて彼女は探偵業に転身していきます。一方ホームズは、ワトソンとのやり取りを通じて他者への思いやりを学び、成長していきます。そして毎回複雑な事件が起き、二人はパソコンやスマホなど最先端の機器を駆使して事件を解決していきます。したがって、このドラマの柱は、依存症からの回復、ホームズの人間的成長、個々の事件の解決が柱となり、原作とはかけ離れていますが、かなりユニークな作品に仕上がっていると思います。
ホームズは、最も多くの俳優に演じられた架空人物の一人に数えられ、ギネスブックによれば、「最も多く映画化された主人公」として記録されているそうです。最初にホームズを演じたのは、アメリカの舞台俳優ウィリアム・ジレットで、彼は1300回ホームズ役を演じました。彼が舞台で使った「Elementary, my dear Watson. (初歩的なことだよ、ワトソン君)」というのは名セリフとして知られ、このドラマのタイトルになりました。なお、ジレットの舞台でホームズの給仕であるビリー少年を演じたのは、チャールズ・チャップリンという名の子役俳優でした。








2018年11月14日水曜日

「オーストラリア歴史物語」を読んで


ジェフリー・ブレイニー著、1994年、加藤めぐみ・鎌田真弓訳 明石書店、2000
 本書はオーストリアの通史を扱ったもので、私もかつてオーストラリアに関する本を随分読みましたが、通史を読んだのは初めてです。本書の解説によれば、オーストラリアの通史は、本書を含めて2冊くらいしかないようです。なお映画については、「映画でオーストラリアを観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/10/blog-post_31.html)を参照して下さい。
 私はずいぶん前に、本書の著者が著した「距離の暴虐」という本を以前読んだことがあります。この本は、オーストラリアを研究している友人から紹介されたもので、オーストラリアと本国との距離、オーストラリア大陸内部の距離、これがオーストリアに大きな影響を与えたことを論じています。確かに面白い本ではありましたが、私はあまり感銘を受けませんでした。なぜかというと、本書はイギリスからの移民の視点で書かれており、先住民(アボリジニー)の視点が欠けているように思われたからです。
 今回読んだ「オーストラリア歴史物語」は、非常にバランスよく書かれた通史で、エピソードも豊富で、面白く読むことができましたが、それでも先住民の視点が欠けていることが不満です。

2018年11月10日土曜日

連続テレビドラマ「ザ・プラクティス」を観て


 1997年から2004年までアメリカで放映されたテレビドラマで、ボストンのある弁護士事務所を舞台とした物語です。このシリーズは第8シリーズまであるのですが、日本でDVD化されているのは、第2シリーズまでのようです。
 アメリカでは陪審員制度が定着しており、多くの人が陪審員を経験しますので、裁判物の映画やテレビドラマが非常に多く、このブログでも「映画でアメリカを観る(6)(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/02/6.html)で、こうした映画を紹介しています。このドラマと並行して、「LAW  ORDER」というドラマが放映されており、これは実に20年も続きました。「LAW  ORDER」は、検察と警察の物語ですが、「The Practice」は主に刑事訴訟を扱う小さな法律事務所の物語で、「LAW  ORDER」に比べると幾分内容が雑ですが、それでも放映期間中に何度も賞を得ています。残念ながらどちらのドラマも、日本ではDVD化があまり進んでいません。内容が重すぎることと、司法制度が日本人には馴染みにくいからではないかと思います。
 主人公のボビー・ドネルは一流の弁護士事務所に勤めていましたが、企業や金持ち相手の仕事に嫌気がさし、刑事事件を中心とする小さな弁護士事務所を開きます。彼の理想は、富や社会的地位に関係なく、法が公正に適用されることです。多くの被告人が無実を主張し、実際にはそのほとんどが有罪で、彼らの多くは司法取引で減刑されて服役します。そして、彼らの中には釈放されると再び罪を犯すこともあるでしょう。ただ稀に、そういった人々の中に本当に無実の人がいることがあります。こうよう人々のために、法を公正に適用し、えん罪を生み出さないようにすることが大切です。
 こういう言い方をすると綺麗事に聞こえますが、日々の活動で行っていることの多くは、ボビーの言葉を借りるなら「ルールを曲げ、規則をかいくぐるのをモットー」としていました。その手法は、時には反吐が出そうなほど汚いやり方で、彼ら自身も自己嫌悪に陥ることもしばしばでした。また刑事裁判の弁護料は安いため、麻薬の売人の顧問をしたり、つまらない訴えを引き受けたりして、事務所の経営を維持しています。彼らが日々行っていることは、理想とは程遠いのですが、それでも事務所を維持していけば、時には彼らが本当にやりたいと思っている裁判に出会うこともあります。この事務所には5人の弁護士と1人の女性事務員がいますが、彼らはこのような価値観でほぼ一致しています。
 アメリカの裁判物の映画を観ていると、アメリカの司法制度は日本のそれと相当異なっていると感じます。もちろんどの国の司法制度も、それぞれ長い歴史をもっていますので、異なっているのは当然なのですが、それにしてもアメリカと日本のそれは根本的に異なっているように感じます。アメリカでは12人の陪審員が評決を下しますが、それは有罪か無罪かだけで、中間はありません。もし検察官がある被告を第一級の殺人で起訴し、陪審員が有罪と判断すれば、被告はほぼ自動的に終身刑(州によって異なる)です。もちろんそこに至るまでに、例えば「罪をみとめれば懲役20年」といった具合に司法取引が行われますが、もし被告が本当に無罪で陪審員による評決を望んだとしても、有罪の評決がでる可能性があります。もし被告が有罪評決を恐れて司法取引に応じれば、被告は無実のまま20年の懲役を務めることになります。もちろん、日本にも冤罪は相当あると思われますが。
 日本の司法制度に馴染んだ人にとっては、こうしたアメリカの司法制度には容易に馴染めないように思いますが、アメリカではこれが最も優れた制度だと思っている人が多いようです。陪審員制度の原型はヨーロッパ中世に生まれ、イギリスを通じて北米植民地にも伝えられました。18世紀後半にイギリス本国に対する反発が強まると、イギリスから派遣された裁判官や検事に対して、植民地人である陪審員がことごとく反発しました。つまり陪審員制度は、アメリカ合衆国独立の核となったのです。そのため、陪審員制度はアメリカの司法制度の根幹となり、アメリカ人の文化として定着していったのだと思います。それは人民による統治を確立するための重要な方法であり、参加型民主主義の典型的な例です。
 陪審員制度にあっては、検察官や弁護士が陪審員をどう説得するかが重要になってきますので、裁判では検察官も弁護士もあらゆる手をつくして陪審員の説得を試みます。そのため裁判ドラマはスリリングで知的ゲームのような面白さがあり、この映画でも、手練手管を駆使した裁判闘争を見ることができます。ただ、ドラマでは日本ではありえないような法廷闘争が展開されますので、少し馴染みにくいかもしれません。
 ドラマではさまざまに問題が取り扱われ、単に法廷闘争だけでなく、深刻な問題についても議論されます。例えば第2シリーズの最終回では、13歳の少年が母を銃で撃ち殺すという事件がありました。アメリカでは、殺人の場合こどもでも成人として裁かれる傾向があります。ではこの少年は成人として裁かれるべきか。もし成人として裁かれて有罪となれば終身刑です。このことについて検察官と弁護士が激しく議論しますが、結局判事は成人として裁くことを決定します。判事は、毎日嫌になるほど醜い事件と向き合い、それでも子供たちに希望を見出していました。だから子供が母親を殺すなどということはあってはならないことです。だからこそ、この13歳の少年を成人として裁くしかないということです。大変厳しい選択です。


2018年11月7日水曜日

「イランとイスラム」を読んで


森茂男編、2010年、春風社
本書は、イランとイスラムをテーマにした国際セミナーが開催され、参加者のうち8人のイラン人を含む18人の研究者の執筆により出版されました。このように言うと、本書は専門家による高度な専門書のように思われますが、表紙にあるように、イランにおけるファッションなど意外に分かりやすいテーマを扱っています。
 イラン人は、紀元前8世紀に成立したメディア王国以来、2700年以上の歴史をもち、7世紀にイスラーム化するまでに、アケメネス朝ペルシアとササン朝ペルシアという世界史上でもずば抜けた文明を形成ました。そして、その後千年近くの間に、イランは多くの民族の支配を受けつつ、イスラーム教を自らの宗教として受容していきます。私は、この間のイランにおける政治的変動についてはある程度知っていますが、イラン人がイスラーム教を受け入れていく過程については、何も知りませんでした。
 本書はこうした疑問について、さまざまな角度から説明しています。この過程は、イランのイスラーム化であると同時に、イスラーム教のイラン化の過程でもありました。要するに「習合」が起きたのです。ヨーロッパでも、キリスト教が普及していく過程でゲルマンの宗教との習合があったし、日本でも神仏習合が起きました。この過程は、どこでも千年単位の長い時間を必要としました。
 本書は、その具体的な例を多数あげていますが、その内容は多岐にわたっているため、ここでは触れません。ただ、例えばペルシアにとって悪魔だったアレクサンドロスが、イスラーム世界で英雄に変貌していく過程や、旧約聖書に依拠するイスラーム教の創世神話がペルシア的(ゾロアスター教的)創世神話に置き換えられ、それがイスラーム教に影響を与えていく過程などは、大変興味深く読むことができました。


2018年11月3日土曜日

映画「マリ・アントワネットに別れをつげて」を観て」


2012年のフランスとスペイン合作による映画で、フランス革命が勃発して混乱する中で、ヴェルサイユ宮殿の混乱を一人の下女の眼を通して描いています。
ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世によって建造された壮大な宮殿ですが、あまりに壮大すぎて、この時代になるとメンテナンスが行き届かず、雨漏りはするし、運河にボウフラが沸き、蚊が発生し、さらに鼠が走り回っています。主人公のシドニーは孤児の下女で、どういう経緯で宮殿に入ったか分かりませんが、マリー・アントワネットの朗読役で、常に王妃の傍にいて、王妃の気まぐれに応じて朗読する役割でした。彼女は王妃のお気に入りですが、王妃の気まぐれに対応するのは大変でした。それでも彼女は王妃の傍で使えることが幸福であり、もしかするとレスピアン的感情を抱いていたかもしれません。
マリー・アントワネットについては、「映画でフランス革命を観て マリー・アントワネット」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/11/blog-post_14.html)を参照して下さい。この時のマリー・アントワネットはまだ14歳でしたが、今回の映画ではすでに34歳になっており、3年後に彼女は刑死することになります。彼女は若くて美しいポリニャック夫人に恋をしており、シドニーはポリニャック夫人に嫉妬していました。
そんな中、1789714日にパリでバスティーユ牢獄襲撃事件が起き、また首を切るべき286人の名を記したパンフレットが市中に出回り、ヴェルサイユ宮殿はパニックに陥り、貴族たちは王を捨てて逃げ出し始めました。そんな中で王妃は、民衆の憎悪の対象となっていたポリニャック夫人を国外に逃がそうとします。その際、王妃はシドニーに、ポリニャック夫人の衣装を着て夫人の身代わりになれと命じたのです。言い換えれば敬愛する王妃から、彼女にとってはライバルであるポリニャック夫人の身代わりになれと命じられたのです。彼女はショックを受けますが、彼女には命令を拒否する術はありません。結局彼女は夫人の衣装を着て、夫人が下女の衣装を着て出立し、結局検問を無事にパスして亡命に成功します。そして最後はシドニーの独白で終わります。
「私の名はシドニー・ラボルト。身寄りのない孤児。元王妃の朗読役で、王妃の命令通り、ヴェルサイユから去る。そして誰でもなくなる。」
この映画のストーリーをどのように解釈してよいのか分かりませんが、この映画は従来喧伝された絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿の小汚い部分や狭苦しい部分を描いており、私自身は大変興味深く観ることができました。私の世代は「革命」に特別な思い入れがあり、フランス革命を革命の典型として美化してきました。しかし今日ではこのような革命観は跡形もなく崩壊し、さまざまな角度からの研究が行われています。この映画は、革命そのものについて描いているわけではなく、バスティーユ牢獄襲撃事件が起きた1789714日から17日までの4日間のヴェルサイユ宮殿を、一人の下女の眼を通して描いており、それはまさにヴェルサイユ宮殿崩壊の姿だったと思います。そしてこれも革命の一つの局面でした。

2018年10月31日水曜日

「動的平衡」を読んで


福岡伸一著、2009年、2011年、木楽舎
本書は、生命とは何か、人間とは何かという問題を生物学的観点から論じたもので、大変評価の高い本で、娘の蔵書のなかにありました。
基本的には、私は人間を生物学的に分析することには、あまり好感を持っていませんでした。もちろん生物学的側面は、人間にとって重要な要素ですが、それがすべてではありません。とくに、人間という生き物を細胞レベルまで分解して分析することは、人間の本来の姿を否定することになります。人間は、生物学的だけではなく、哲学的、文学的、社会的、歴史的な側面をもっています。そして、著者自身がそのことをよく理解しており、生物学的な分析は人間の一つの側面にすぎないこと、さらに細胞レベルまで分解して人間を論じることが不適切であることを主張します。
細胞は絶えず消滅し生成し続け、同じ細胞が静止しているわけではありません。そしてさまざまな細胞が相互に作用しあいながら、激しく動き、その動きの中で一定の均衡を保っています。それが生命であり、それが動的平衡ということです。著者は、次のように言います。「水の流れには不思議な秩序がある。ねじれのようでもあり、らせんのようでもある。少しずつ形をかえつつ、ある種の平衡を保っている。しかも二度と同じ水ではない。しかし流れは常にそこにある。」
まるで仏陀をモデルとしたヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を読んでいるようです。(「映画で仏教を観る」https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/01/blog-post.html)つまり、人間とは何か、生命とは何か、ということについては、すでに古代に答えが出ていたのです。科学は、ようやく古代の賢人たちのレベルに近づいてきたと言うべきかもしれません。

2018年10月27日土曜日

映画「オスマン帝国外伝」を観て

2011年から2014年までトルコで放映されたテレビドラマ・シリーズで、第1シーズンから第4シーズンまであり、私が観たのは第1シーズン(48話)のみです。このドラマは大変に評判が高く、80か国以上で翻訳・放映されたそうです。何しろ、オスマン帝国の全盛期を築いたスレイマン大帝についてのドラマをトルコが制作したわけですから、私も大変注目してこのドラマを見ました。何しろ、スレイマン1世は「壮麗王」と呼ばれ、この映画の原題は「壮麗なる世紀」です。
ところが、観ているうちに、このドラマはハレムでの女の戦いであることが判明し、邦題を見ると「外伝」となっており、サブタイトルが「愛と欲望のハレム」となっていました。今回は、邦題の方が内容を正しく伝えていました。私は、目を皿のようにして観ていたのですが、第7話あたりから飛ばして見るようになり、その内1を話10分で通過、最後の方では1話5分で見てしまいました。それでも話の内容はちゃんと繋がっていましたので、いかにだらだらしたドラマだったか、想像がつくかと思います。
なお、このドラマは映画見放題のhuluで見ましたが、結局この映画だけを見て、無料お試し期間中に終わってしまいました。
 ドラマでは政治上の問題はあまり出てきませんが、それでも一応オスマン帝国とスレイマン1世についての概略を述べておきたいと思います。北アジアや内陸アジアで活動していた遊牧騎馬民族であるトルコ人は、長い時間をかけてイスラーム世界に進出し、13世紀の末にアナトリア半島で台頭した勢力が、やがてオスマン帝国を樹立します。オスマン帝国は15世紀に、一千年以上にわたって繁栄してきたコンスタンティノープルを占領し、これをイスタンブルと改名して帝国の都とします。オスマン帝国は、16世紀のスレイマン1世の時代に全盛期を迎え、その後ゆっくりと衰退の道をたどって、1922年に消滅します。このトルコ人の歴史については、「テュルクを知るための61章」も参照して下さい。私が観たドラマの第一シリーズが扱っている時代は、スレイマンの46年間の治世の内、彼が即位した1520年から1525年までで、この間に彼はハンガリーに侵攻してヨーロッパを恐怖に陥れ、さらにロードス島を占領して地中海に進出しました。
 舞台は、イスタンブルのボスフォラス海峡に面する位置に建てられたトプカプ宮殿です。トプカプ宮殿はオスマン帝国によるコンスタンティノープル占領後建設され、スレイマン1世がいたころには、完成されてから半世紀ほどしかたっていませんでした。この宮殿は三方を海に囲まれた岬の先端に建てられ、壮大な建築物はありませんが、広大な土地に多くの庭園が造営され、多くの建築物が建設されました。この宮殿は、もともと「新しい宮殿」と呼ばれていましたが、19世紀の半ばに皇帝が宮殿を去ってから、「トプカプ宮殿」と呼ばれるようになりました。この名称は、この岬にあった「大砲の門(トプカプ)」に由来するそうです。なお、今日この宮殿は一般に開放され、600年間に集められた至宝が展示されています。そしてハレムも、この宮殿内にあります。

ハレムとは、「性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならない」という性倫理に基づくそうで、こうした倫理は他の世界でもしばしば見られます。儒学なども、そうした傾向をもっています。ただアッバース朝やオスマン帝国のように規模の大きな帝国の宮廷では、規模の大きなハレムが置かれますが、それは日本の江戸時代の大奥や中国の後宮と同じようなものです。決してハレムを擁護するわけではありませんが、上の写真にあるような淫靡な世界としてのハレムは、19世紀のヨーロッパ人の妄想が生み出したものです。今日では、東洋についての事実と異なったこのような空想は「オリエンタリズム」と呼ばれ、厳しく批判されています。しかし、ハレムについてのこうしたイメージは、今日でも広く浸透していることも事実です。
ハレムを含めて宮廷には、帝国の内外から多くの人が集まっています。しかし、そこでは民族や宗教や言語の違いは問題にはなりません。映画ではスルタンの眼はブルーに見えましたが、ハレムにはヨーロッパ出身の女性も多数おり、金髪のスルタンがいたとしても、何の不思議もないでしょう。またハレムにはキリスト教やユダヤ教など「異教徒」の女性もたくさんいましたが、改宗は強制されませんでした。また、帝国内には多様な言語を話す人々がいますが、統治機構内では、本来のトルコ語に多くのペルシア語やアラビア語の語彙が入り込んだオスマン語ともいうべき言語が共通語として存在しており、これが広大な帝国と多様な人々が入り混じる宮廷の統一に大きな役割を果たしていました。中国の広大な帝国には多くの民族や言語が存在しましたが、漢字という共通の文字が中華帝国の維持に大きな役割を果たしたのと同じだと思います。
スレイマン1世は、1520年に26歳でスルタンに即位します。オスマン帝国では珍しく、後継者を巡る血みどろの争いなしに、彼は平和的にオスマン帝国の独裁者となり、その帝国は、すでに彼の祖先たちにより三大陸にまたがる大帝国に発展していました。そして彼が即位する前年の1519年に、ハプスブルク家のカールが、神聖ローマ皇帝カール5世として即位し、オスマン帝国の拡大に抵抗します。カール5世は、内部で宗教改革に苦しめられていたこともあって、スレイマン1世には押され気味でしたが、それでも何とか耐えることができたのは、彼がスペイン国王として新大陸の富を手に入れたからです。新しい時代が始まりつつありました。新大陸からの富はスペインをインフレに陥れましたが、同じくオスマン帝国もインフレに陥れ、それが帝国の財政難を引き起こしたのです。

スレイマン1世は、早くも1521年に、彼の祖先たちが果たせなかったハンガリーの征服に乗り出します。ハンガリーはハプスブルク家の保護下にあるため、スレイマン1世による侵攻はカール5世への挑戦でした。1522年にはロドス島を征服して東地中海の制海権を確保し、1525年にはエジプトで起きていた反乱を制圧して、帝国の支配を固めます。そして、この第1シリーズの48回分が扱っているのはここまでで、後はハレムでの女の闘争が描かれています。さしずめ大奥物語です。なお、スレイマンというのは旧約聖書のソロモンのトルコ語であり、彼の側近イブラヒムというのはアブラハムのことです。旧約聖書はユダヤ教の聖典であるだけでなく、キリスト教・イスラーム教の聖典でもあることが、よく分かります。
 さて、ドラマはウクライナのある村が奴隷狩りの集団に襲われたところから始まります。この時、ギリシア正教の司祭の娘だったアレクサンドラは捕らえられ、奴隷としてオスマン帝国の宮廷に売られ、ハレムに入れられます。はじめ彼女は反抗的でしたが、やがてここから出ることは不可能であること、スルタンの寵愛を受け、子を産めば宮殿を支配できることを知ります。まず、自らイスラーム教に改宗し、名前をトルコ風にヒュッレムと改め、ライバルを次々と蹴落とし、スルタンの子を産み、壮絶な女の戦いを開始します。そのため彼女は「ロシアの魔女(ロクセラーナ)」とも呼ばれました。彼女については、当時からヨーロッパでも有名で、彼女の行動についてはゴシップネタとして噂されました。
 結局彼女は六人の子供を産みました。オスマン帝国では、ハレムの女性は一人子供を産むと身を引く慣例があったようですが、彼女は異例でした。さらに美人の女性をハレムから追放して事実上一夫一婦制にし、さらに奴隷身分から解放されてスルタンの生活区域で生活しましたので、事実上正夫人でした。彼女について、あるイタリア人は次のようにかたったそうです。「スレイマンのロクゼラナに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての臣民があきれかえるほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」(ウイキペディア)。結局、1558年に彼女が死にますが、後継者を巡る血みどろの戦いと宮廷で母后が実権をにぎるという悪しき慣習が残ることになりました。
 この間スレイマン1世は、ウィーンを包囲し、プレヴェザの海戦に勝利して地中海の制海権を掌握し、さらに東方での支配も確立し、国内体制も整備しました。宿敵カール5世は、1556年に引退し、もはやスレイマン1世に対抗できる勢力はありませんでした。しかし、時代は地中海から大西洋の時代に移りつつあり、それがオスマン帝国を空洞化させていくことになります。そしてスレイマン1世は1566年、死去します。

2018年10月24日水曜日

池田晶子を読んで


 麻実は大量の本を読んでいました。いつも図書館から大量の本を借り、さらに自分でも買っていました。麻実がもっていた本の種類は多岐にわたり、哲学・文学・ミステリーなど、さまざまです。私は麻実が残したこれらの本を読んでみて、彼女がどのようなことを考えていたかを掘り起こしてみたいと思います。
 私と麻実には大きな違いがあります。まず私は、文学青年だったころには文学や哲学書を多く読みましたが、方角を歴史に変えてから、歴史書以外はほとんど読まなくなりました。哲学は絶対的なものを求めますが、歴史学はあらゆる事象を歴史の俎上に乗せ、相対化してしまいます。また麻実は本を一字一句熟読するタイプでしたが、私は乱読するタイプでしたので、私は決して真に麻実を理解することはできないと思われますが、それでも少しでも彼女に近づきたいと思い、こうした作業を開始しました。
 麻実は自分の内面を語ることはほとんどありませんでしたが、かなり前から哲学に関心を抱いていたようです。中学1年の頃、麻実は私に「哲学って何?」と尋ねました。この問いに私がどのように答えたのか記憶していませんが、この問いについて私は今でも答えられないので、大した回答はしていないと思います。その後麻実は、時々哲学書を読んだり、忘れた頃に私に哲学的な議論を吹っかけてきましたが、彼女と哲学との関係について私が知っているのは、その程度です。

 麻実の死後、彼女の本の中から、池田晶子の本を4冊発見しました。麻実の本はあちこちに雑然と置かれており、それらの中でたまたまこれらの4冊を発見したというだけで、他にもあるかも知れませんが、とりあえずこの4冊を読んでみました。
池田晶子
 「人生のほんとう」 トランスビュー 2007
 「暮らしの哲学」 毎日新聞社 2007
 「魂とは何か さて死んだのは誰なのか」 トランスビュー 2009
 「君自身に還れ 知と信を巡る対話」大峯 顕との対話 本願寺出版社 2007
 後に「ロゴスに訊け」(2002年、角川書店)、「私とは何か」(2009年、講談社)を発見しましたが、もう読みませんでした。
 著者は、哲学を難しい言葉を使わず語ることを得意とし、それによって多くの人々の支持を得ました。彼女は存在というものを問い続けたように思われ、麻実も時々私に「存在」について問いかけたことがありましたが、それは著者の影響によるものかもしれません。著者は晩年には仏教に傾倒していったようで、その点を含めて、私は著者の考え方に大枠では共感しています。ただ三冊目を読み始めたあたりから少し飽きてきて、飛ばし読みになってしまいました。最近は、読書においても根気がなくなりました。
 どの本だったか忘れましたが、著者は14歳のころから哲学的な問題を考え始め、かなり成長してから、ある時ふとしたかとから、自分の周りの人たちの多くが、自分と同じように哲学的な問題を考えているわけではない、ということに気づいて衝撃を受けたそうです。そして以前に麻実も同じような疑問を私に投げかけたことがありますが、今から思うと、それは彼女の著書の影響だったかもしれません。
 実は私も過去に同じ様な経験をしたことがあります。ある時、自分のような考え方をする人は、むしろ例外的などということに気づきました。著者は、こうしたことを考えない人々を、幾分軽蔑的に見ているように思われますが、私は違います。体育を得意とする人々がいれば、思索を得意とする人々もおり、どちらが優れているわけでもない、と私は思います。第一、私の思索など、人に語れる程のものではありません。ただ、この点において私は、娘との数少ない接点をもつことができました。

 ここで取り上げた四冊の本は、いずれも2007年から2009年にかけて出版され、この間の2007年に著者池田晶子は肝臓癌で、46歳の若さで死亡します。したがってこれらの本を執筆している時、彼女は自分の死が近いことを知っていたと思われますが、彼女は死ということに特別の意味を感じていなかったようです。そして娘の麻実も、この本を読んで、自分の死について考えたに違いありません。彼女は、2018年に36歳で死亡ました。
その後、麻実の本箱を整理していたら、さらにたくさんの池田晶子の著書が発見されました。
「メタフィジカル・パンチ 形而上より愛をこめて」「2001年哲学の旅」
14歳からの哲学 考えるための教科書」「死とは」「リマーク 19972007
「帰ってきたソクラテス」「さよならソクラテス」「人生は愉快だ」「考える日々」
「人間自身 考えることに終わりなく」「魂を考える」「事象そのものへ!
「睥睨するヘーゲル」など
 もはやこれらの本をすべて読む気力は、私にはありません。麻実は、よほど池田晶子に心酔していたようですが、麻実の初期の小説に見られる哲学的思弁は、池田晶子とはかなり異なっているように思えます。














(この絵は本文とは関係ありません。麻実が描いた不思議な絵です。)

2018年10月20日土曜日

映画「ドン・ジュアン」を観て


1998年にスペイン/フランス/ドイツによって制作された映画で、1665年に上演されたモリエールの喜劇「ドン・ジュアン」を映画化したものです。モリエールについては、このブログの「映画「モリエール 恋こそ喜劇」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_31.html)を参照して下さい。
 ドン・ジュアンとはスペイン語でドン・ファンであり、彼は17世紀スペインの伝説上の放蕩児として知られ、プレイボーイの代名詞として使用される人物です。モリエールは、この放蕩児を題材として、当時の教会を痛烈に批判します。ドン・ジュアンは女性を口説き落とすことに生甲斐を感じ、多くの女性と交わり、その結果多くの人を傷つけ苦しめても、何の罪悪感も抱きませんでした。彼は神も悪魔も信じず、教会の偽善を批判します。彼にとって、悪党として非難されて生きるか、それとも偽善者として称賛されて生きるかという問題であり、彼によれば偽善者こそが正真正銘の悪党ですが、その彼がやがて偽善者として生きることを決意します。しかし、死の直前に、彼は自分の行くべき道を見いだせないまま死んでいきます。「ドン・ジュアン」の物語は、喜劇というより悲劇というべきでしょう。
 「ドン・ジョアン」の内容はあまりに過激であり、民衆には大人気でしたが教会によって上演が禁止され、本作が完全な形で上演されるのは、これより200年後のことになります。「ドン・ジョアン」が上演されてから20年ほど後の1682年、江戸時代初期の日本で井原西鶴が「好色一代男」を発表し、一人の男性(世之介)の好色で自由気ままな人生を描き出しました。「好色一代男」は、庶民社会の幕開けを示すものでしたが、「ドン・ジョアン」は信仰が動揺する中で、自我を求める近代人の苦悩を示しているように思います。

2018年10月17日水曜日

おわりに(麻実)


 この一か月近く、毎日ブログを更新して麻実の原稿を公開してきましたが、それは私にとっては大変つらい作業でした。私の望みはただ一つです。かつて大塚麻実という女性が存在したことの証を、残したいということでした。このブログで公表した内容がすべてではありませんが、これによって一定の目的は達成されたと思いますので、麻実に関するブログは一旦ここで終了し、従来のブログに復帰したいと思います。












2018年10月15日月曜日

詩(7)(麻実)


光は何時も脇役だ。
 「何か」を照らす為に在る。
僕は光になって、
君を照らしたい。

逃げるのは疲れる。
嫌いな物から逃げ切る為に
全力を注ぐだなんて馬鹿ら
しい。
嫌いな物を好きになりさえ
すれば、
逃げる必要は無くなる。
逃げ切る努力をするか、
受け入れる努力をするか。
得る物が在るのは、
後者だけ。
鬼ごっこは、終わりだよ。

君の嫌いな君にだけ、
僕は心奪われる。

ああ、喉が渇いた。
水が欲しい。
無いなら、君の涙でも良い。

僕は君に飲み込まれたし

良い日でも特別な日でもな
かったけれど、
ありがとうを言いたい気分
でした。

君の言葉に傷付かない為の
鎧よりも、
傷付いた事を君に悟られな
い為の
笑顔の仮面を手に入れたい。

待たなくても、
探さなくても、
未来は勝手にやって来る。
来なくて良いよ。

もしも僕が、
大気の重さに堪え切れずに
砕け散ってしまったら、
破片を集めて繋ぎ合わせて。
僕は、まだ生きたい。

僕は弱過ぎて泣けない。

「私は弱くて構わない。
誰にも勝てなくたって良

い」。
強がりではなく、諦めでも
なく、
言い切る君の強さが好きだ。

魂と魂が直接触れ合ってし
まうと
余りにも痛過ぎるから、
此の肉体が存在してる。

君を傷付ける事が出来るく
らい、
君にとっての大きな存在に
なりたい。
君を傷付けてみたい。

君と僕にだけ通じる言葉で
話そう。
君を好きだと叫ぶ為に、
周りの目を気にする必要な
んて無い。
僕の言葉は君にだけ届く。
君にだけ届け。

全てが大吉だけのおみくじ
のような、
そんな優しさだけの神様は
要らない。
叶わない夢を、
叶うかもしれない、
なんて言わなくていい。
叶わない夢は、
叶わない、
と言えばいい。
そして、
それでも諦め切れずに歌い
続ける僕を、
馬鹿な奴だ、
と笑いながら見守って。
欲しいのは、
そういう神様。

生き急ぐ君の歩みを止める
野に咲く一輪の花に、
僕はなりたい。

信じて欲しい
信じてみたい

此処で追えない夢ならば、
何処へ行こうと叶わない。