2017年4月30日日曜日

シャクナゲ

シャクナゲ(石楠花)は、ツツジの花を寄せ集めたような花で、ツツジ科に属します。とても華やかな花です。










雪が溶けだした頃に頃に咲くことから、スノー・フリークというそうですが、はっきりしません。毎年この時期に雑草のように咲きます。

2017年4月29日土曜日

映画「エリザベート 愛と悲しみの皇妃」を観て


2009年にドイツ、イタリア、オーストリアの合作で、テレビ用に制作された映画で、19世紀後半のオーストリア帝国の皇后エリザベートの半生を描いています。
 ナポレオン戦争後のオーストリア-ハプスブルク帝国は、もはや神聖ローマ帝国を名乗らなくなったとはいえ、北イタリアやハンガリー、チェコなどを支配する帝国であり、多くの民族によって構成される複合民族国家であると同時に、専制君主国でもありました。そのため、独立を求める民族運動や、自由を求める市民運動が頻発していました。そうした中で、1848年にウィーンで三月革命が起き、皇帝が退位し、まだ18歳のフランツ・ヨーゼフ2世が皇帝に即位します。そして、彼の68年におよぶ治世の間に、サルデーニャ王国との戦いに敗れて北イタリアを失い、プロイセン王国との戦いに敗れてドイツでの主導権を失い、第一次世界大戦に突入してオーストリア帝国は滅亡していきます。この間に弟のマクシミリアンがメキシコ皇帝となって処刑され、皇太子が自殺し、皇后が暗殺され、さらに皇太子がサライェヴォで暗殺されます。
 エリザベートは、バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家に生まれ、愛称がシシィで、この映画のタイトルも「シシィ」です。バイエルンについては、この当時のバイエルン王を扱った「映画「ルートヴィヒ」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/02/blog-post_27.html)を参照して下さい。この映画ではエリザベートが何度も登場しますが、映画「シシィ」では、ルートヴィヒはほとんど登場しません。1853年にシシィは姉がフランツとお見合いした時に付き添ったのですが、フランツが姉よりも妹のシシィを気に入り、反対を押し切って、翌年結婚します。シシィはまだ16歳でした。
 彼女は、ヨーロッパ第一の美女と称えられ、身長172cm、ウエスト50センチ、体重50キロという驚異的な体形の持ち主でした。映画では、彼女は自由主義思想に共鳴し、皇帝にも改革を求めますが、これはかなり美化して描かれているように思われます。ウイキペディアは彼女について、次のように述べています。「皇后でありながら君主制を否定した「進歩的な女性」と評されることもあるエリーザベトだが、一方で尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。」
 もしかすると、この映画の主題はシシィではなく、ハンガリー問題なのかもしれません。ハンガリーは、17世紀以来オーストリアよって支配されており、これに対する不満からしばしば独立運動が起きていました。そしてシシィは、教育係のハンガリー人に影響されてハンガリーを愛し、勉強嫌いな彼女が短期間でハンガリー語を習得します。映画では、しばしばハンガリー貴族であるアンドラーシ伯爵が、シシィとハンガリー独立について話し合います。そしてオーストラリアがプロイセンとの戦いに敗北すると、もはやオーストリア帝国を維持することは困難となり、1867年にオーストリアとハンガリーを対等として自治を認め、フランツが両国の君主となり、ここにオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立することになります。 
 映画はここで終わりますが、この二重帝国の成立はオーストリアを東方帝国へと変えて行きます。オーストリアはハンガリーを先兵としてバルカン半島に進出し、1878年のベルリン会議でボスニア・ヘルツェゴヴィナを獲得します。このベルリン会議でのオーストリア全権代表はアンドラーシでした。オーストリアは、西方で失った勢力を東方・バルカンへの進出で補ったわけです。そして、結果的には、このボスニア・ヘルツェゴヴィナへの進出が第一次世界大戦の原因となり、オーストリア・ハプスブルク帝国の滅亡につながっていくわけです。
 映画は、オーストリアハンガリー二重帝国の成立をもって終わりますが、シシィとフランツの物語は、まだ続きます。1889年には皇太子が、女性問題で自殺し、1898年にはシシィが、スイス旅行中に無政府主義者によって暗殺されます。皇太子の自殺については暗殺説もあり、謎に包まれています。またシシィを暗殺した犯人は、王侯を暗殺することだけを目的としており、たまたまそこにシシィがいたという理由だけで犯行に及びました。一方、フランツはなお生き続け、第一次世界大戦のさ中の1916年に86歳で死亡します。

 映画では、イタリア統一戦争やプロイセン・オーストリア戦争、さらにハンガリー問題が具体的に描かれており、それなりに興味深い場面がありましたが、全体としては、あまり出来の良い映画とは思えませんでした。

2017年4月28日金曜日

レタス

レタスを沢山栽培しました。当分、レタスを買う必要はなさそうです。でも、苗に千円近くかかっているかもしれません。

2017年4月26日水曜日

「馬車の歴史」を読んで

ラスロー・タール著、1969年、野中邦子訳、平凡社(1991)
 本書は、古代オリエントから現代に至るまでの馬車を、200枚を超す図版と綿密な考証によって記述しており、500ページに近い大著です。
 すでに先史時代に、人々が荷物を橇に乗せて紐で引っ張って運ぶことは、どこでも行われていたようですが、やがてこれに車輪をつけるという革新が起きます。車輪が、いつどこで発明されたのかはっきりしませんが、オリエントでもインドでも中国でも、ほぼ同じ頃に登場しますので、それぞれ別個に発明された可能性があります。車輪の原型は、丸太棒のようなコロのように思われがちですが、実際にはそれ程単純ではなく、宗教儀式で太陽を象徴するものとして用いられたのではないか、という意見もあります。実際インドでは、その宗教思想の根幹に輪廻という考え方があります。
 次に、荷車を曳かせるために家畜を用いる分けですが、馬が用いられるようになるのは、かなり遅れるようです。牛の場合、肩にベルトをかけることができるのですが、馬の場合首にベルトがかかるため、容易ではなかったようです。色々な工夫がなされ、やがて馬が用いられ、馬車が登場するわけですが、馬車は横揺れや縦揺れ、さらに下からの突き上げで、極めて乗り心地が悪かったようです。また、道路事情が悪く、馬車はよく転倒しました。そのため、古くから馬車は戦車としては用いられましたが、人間の日常的な乗り物としては普及しませんでした。魏晋南北朝時代の中国では、貴族たちには牛車でゆっくり進むのが上品とされ、日本の平安時代にも貴族たちは牛車を用いました。なお、騎馬は馬車よりさらに遅れます。騎馬については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第10 遊牧騎馬民族の活動と内陸ユーラシア」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/10.html)を参照して下さい。
 16世紀のヨーロッパで色々な技術的改良がなされ、馬車が急速に普及し、18世紀から19世紀前半にかけて馬車の普及は頂点に達します。スプリングなど多くの技術的な改良がなされ、何よりも道路が少なくとも町では舗装されるようになります。こうして、個人の馬車だけでなく、辻馬車、駅馬車、郵便馬車など、公共の乗り物としても普及していきます。スタイルも非常に美しくなり、19世紀末期の馬車は、これにエンジンを搭載すれば、自動車になるような形の馬車も登場します。
 しかし19世紀前半に鉄道が普及すると、長距離移動用としての馬車は廃れ、そして20世紀に自動車が登場すると、馬車はもはや無用の長物となっていきます。日本でも明治時代に、欧米の影響で馬車が用いられるようになりますが、もはや馬車の時代は終焉に向かっている時代で、結局日本では馬車が定着することはありませんでした。
 最後に著者は次のように述べています。「本来、馬車の歴史に関しては壮大な文化史的展望でパノラマを描き出すことが可能であるはずであるが、本書は馬車の歴史をざっと通観したものにすぎない。とはいえ、ここに並べたような細々とした絵を連続して見ることによって、はかり知れない魅力に富んだこの技術的、歴史的かつ社会学的な主題の本質的な部分に一条の光があてられるなら、本書の目指した目的に一歩近づけたといっていいだろう。」しかし私には、本書は充分「壮大な文化史的展望でパノラマ」を描き出しているように思えました。

2017年4月22日土曜日

映画「ランジェ公爵夫人」を観て

2008年にフランス・イタリアで制作された映画で、19世紀のフランスの文豪バルザックの小説を映画化したものです。 
バルザックについては、ウイキペディアの説明をそのまま引用します。「バルザックの小説の特性は、社会全体を俯瞰する巨大な視点と同時に、人間の精神の内部を精密に描き、その双方を鮮烈な形で対応させていくというところにある。そうした社会と個人の関係の他に、芸術と人生、欲望と理性、男と女、聖と俗、霊肉といった様々な二元論をもとに、時に諧謔的に、時に幻想的に、時にサスペンスフルにと、様々な種類の人間を描くにあたって豊かな趣向を凝らして書かれた諸作品は、深刻で根源的なテーマを扱いながらもすぐれて娯楽的でもある。高潔な善人が物語に登場することも少なくなく、かれらは偽善的な社会のなかで生きることに苦しみながら、ほぼ例外なく苦悩のうちに死んでいく(『ゴリオ爺さん』、『谷間のゆり』など)。長くはない一生において実に多彩な傾向の物語を著しつづけた天才的な才能の持ち主であり、その多作・速筆にも関わらずアイデアが尽きることはなかった。社会におよそ存在しうるあらゆる人物・場面を描くことによってフランス社会史を形成する壮大な試み『人間喜劇』を構想したが、その死によって中絶。」
 物語の舞台は、19世紀初頭のパリです。この時代には、すでにナポレオンが没落し、ブルボン王朝が復活し、貴族階級も復活していましたが、さすがに貴族は革命以前のような力はなく、映画で観るかぎり、邸宅もそれ程豪華なものではありませんでした。もちろん、彼らは地方に領地をもち、そちらにも邸宅があるのでしょうが、もはやかつてのような力はありませんでした。ただ、連日のように舞踏会が開かれ、社交界では恋愛ゲームが行われ、貴族たちは無為に時を過ごしていました。
 主人公のランジェ公爵夫人(アントワネット)もまた、このような生活を送っていました。当時の貴族は、前に観た「ある公爵夫人の生涯」(「映画「ある公爵夫人の生涯」を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/04/blog-post_8.html)のように、双方の打算で結婚することが多く、愛情のない生活を送っていました。映画でも、彼女の夫がどこにいるのか知りませんが、まったく登場しません。そして当時社交界で噂の的となっていたのは、モリヴァー将軍でした。彼はナポレオン軍の英雄であり、またアフリカでも戦い、その武勇伝が喧伝されていました。彼に興味をもったアントワネットは、恋愛ゲームを仕掛けます。無骨な軍人だったモリヴァー将軍は、真剣にアントワネットを愛するようになりますが、彼女はのらりくらりと将軍を弄びます。ついに耐えかねた将軍は彼女を誘拐しますが、結局彼女を殺すことができず、彼女を解放します。ところが、今度はアントワネットがモリヴァーを真剣に愛するようになりますが、モリヴァーは相手にせず、結局彼女は突然行方をくらまします。そして5年後に、モリヴァーは地中海のマヨルカ島の修道院で彼女が修道女になっているのを発見します。
 映画は、ここから始まります。モリヴァーは修道院で彼女に面会し、修道院を出るように説得しますが、彼女は応じませんでした。そして話は5年前に遡り、上で述べたことが語られ、最後にモリヴァーはアントワネットを修道院から誘拐しようとして修道院に忍び込みますが、その時すでにアントワネットは死んでいました。まさに心のすれ違いドラマですが、一体なぜアントワネットが死んだのかについては、映画でも原作でも語られていません。
 実は彼女は、社交界での虚飾に満ちた生活を嫌悪していました。そして、初めて本当の恋をし、その恋が自分のせいで果たされなかったとき、彼女はすべてを捨ててしまいます。5年後にモリヴァーに再会した時、明らかに彼女は動揺していましたが、すでに彼女は心身ともにボロボロになっており、モリヴァーが彼女を誘拐するために修道院に忍び込む直前に息を引き取ったようです。これが、バルザックが語る「人間喜劇」です。


2017年4月19日水曜日

入試改革について思うこと

最近入試改革案がいろいろ出てきています。私自身、予備校で長く働いてきたため、共通一次試験の開始以来何度も入試改革に遭遇してきました。今回の入試改革の目玉は、従来のマークシート方式を減らして、記述式の試験を増やすのだそうです。「記述式」とは、多分受験用語なのだと思いますが、この言葉の反対語は「マーク式」です。つまり答案用紙に自ら回答を書くのか、マークシートにマークするのかということだと思いますが、この場合、記述式でも回答がすべて記号であっても「記述式」ということになるわけですから、もう少し表現方法を考える必要があります。ただ、文科省が言っている「記述式」とは、単語を直接書かせたり、文章を書かせたりする試験を想定しているようですが、もちろん解答を選択して記号を記述する問題も存在するでしょう。
 こうした形式の試験の場合、最大の問題は採点方法だろうと思います。文科省は、当面民間の業者に委託するというようなことを言っているようですが、民間の業者とは具体的にどういう業者なのでしょうか。新しく業者を組織するということでしょうか、それとも模擬試験を行っている予備校などのことなのでしょうか。もし後者であるとするなら、文科省は予備校での採点がどのように行われているのか、知っているのでしょうか。
私がいた予備校では、現役の先生や退職した先生などに採点を依頼します。こうした採点者たちが予備校に問題をとりにきて、家で採点して再び予備校に持ってきます。もしかすると家では、記号問題は奥さんが採点するなど家庭内分業が行われているかもしれません。もちろん複数の採点者が採点することはありませんので、ミスが発生する可能性は常にあります。ミスが発生したら、予備校はお客様に率直に謝罪します。一番恐ろしいのは、採点者が答案を紛失することです。私自身、電車の網棚に答案を忘れて慌てたことがあります。また、ある人はバイクの荷台に答案を縛り付けて走行していた時、紐が外れて答案をあちこちにばらまいたことがあります。もちろんこんなことが日常的に起きているわけではなく、予備校も厳重な管理を行っていますが(今は宅配郵送しているかもしれません)、それにしても国家的な規模で行われるテストが、こんなことで良いのでしょうか。なお、予備校では実行していませんが、共通テストでは複数の採点者が採点する必要があり、これを短期間で実施するには、かなり大規模な仕事となり、予備校にとってはビジネス・チャンスとなるかもしれません。
 また、記述式の問題では、多様な解答の可能性があり、予備校でも模擬試験のたびに、採点基準を巡ってかんかんがくがくの議論が行われ、さらに試験終了後、日本中から問い合わせがあります。これを国家的な規模で行うとしたら、想像するだけでも発狂しそうです。採点基準の作成に際しては、あらゆる可能性を考慮し、細心の注意を払って行われますが、それでも多くのクレームが届きます。全国共通の試験では、可能な限り客観性が求められ、そのためにはますます採点基準が詳細となります。その結果、採点者は手足をガチガチに縛られて採点することになり、「記述式」とはいえ、問題の本質は限りなくマーク式に似通ったものになっていきます。

 私が思うことは、記述式の試験では絶対的な客観性を求めず、ある程度採点者の裁量に委ねるしかない、ということです。その結果発生するであろう若干の不公平はやむを得ないことだと思います。絶対的な客観性を追求するマーク式の試験の弊害と、記述式での採点による不公平を天秤にかけた場合、なお記述式の方が優れていると思います。マーク式の場合、受験生は何が正しいかではなく、どれが答えかを追求しますので、学習態度が歪んでしまいます。記述式でも、ただ単語をかかせるだけとか、1020字程度の論述問題では、似たような弊害を生み出すでしょう。むしろ思い切った長文の論述を出題し、採点はある程度採点者(複数必要)の裁量に委ねるというのはどうでしょうか。この方法では、試験のたびに激論が起こることは明白ですが、こうした議論を通じて、より良い問題の作成と採点方式が生み出されていくのではないでしょうか。


庭のサクランボの木に花が咲きました。実がなるには、まだ2~3年かかりそうです。














2017年4月15日土曜日

映画「ロイヤル・アフェア」を観て

2012年にデンマークで制作された映画で、18世紀の後半にデーマークの王宮で起きた事件が描かれています。私は、この事件について知りませんでしたが、デンマークでは教科書にも記載されている事件だそうです。映画では、冒頭に、「1700年代末 教会の力を背景に貴族が圧政をしいていた。だがその流れが変わり、知識人や思想家が改革と自由を求め始める、これが啓蒙時代である」というテロップが流されています。
中世においては、デンマークは北欧の覇者でしたが、近代に入ると次々と戦争に敗れ、18世紀になると、周辺でイギリス、フランス、ロシア、プロイセンなどの大国が台頭するなかで、デンマークは小国へと転落し続けました。また、17世紀後半にデンマークでも絶対王政が確立しますが、社会の改革は一向に進まず、当時普及していた啓蒙思想も、デンマークでは禁止されていました。1766年に17歳で即位したクリスチャン7世は、幼い頃は非常に優秀な人物だったとされますが、教育係による暴力的な教育によって心を病み、奇行が目立つようになります。そしてこの年、イギリスの王家から、当時15歳だったキャロラインが嫁ぎますが、これが彼女の不幸の始まりとなります。2年後に彼女は、王位継承者となるフレデリクを出産しますが、以後、彼女は国王に無視され続けます。
この映画の主人公は、クリスチャン7世とキャロライン、そしてもう一人、ストルーエンセです。ストルーエンセは、プロイセンの町医者で、啓蒙思想の信奉者であり、同時に大変な野心家でした。当時彼はデンマークの改革派の貴族たちと接触していました。彼らはデンマークの宮廷から追放され、プロイセンに亡命していたのですが、再び宮廷に戻るために、ストルーエンセを国王の侍医として宮廷に送り込もうとしていました。1768年にこの企ては成功し、ストルーエンセは国王の絶大な信頼を得ます。映画では、ストルーエンセは常に貴族たちに抑圧されてきた国王に自信を取り戻させ、勇気をもって国王に改革を断行させた、と描かれています。やがて彼は国王の顧問となり、宮廷から保守的な貴族を排除し、次々と改革を行っていきますが、これは貴族の強い恨みを買うことになります。
彼の改革があまりに性急過ぎたこともありますが、ストルーエンセにとって致命的だったのは、王妃キャロラインとの不倫でした。この間にキャロラインは女の子を生みますが、この子はストルーエンセの子だとされています。いずれにしても、この不倫は保守派の貴族たちにとって絶好のスキャンダルです。これをきっかけに、1772年に貴族たちによるクーデタが起き、ストルーエンセは処刑され、キャロラインは子供を奪われてドイツに追放され、政治は従来の反動政治に戻ります。ストルーエンセの改革は、14カ月で終わりました。
映画は、追放先で死を迎えたキャロラインが、息子と娘に事件の真相を伝えるための手紙を書くところから始まります。そして、1775年にキャロラインは死にます。23歳でした。その後、1783年にフレデリクが15歳でクーデタを起こして摂政王太子となり、保守派を追放し、ストルーエンセが進めた改革を推進し、1806年にクリスチャン7世の死亡後は、王として長くデンマークを統治します。こうして、デンマークは、小国として、また民主的で平和的な国家へと変貌していくことになります。
ストルーエンセをどのように理解するのかについて判断するには、私には知識が不足しています。彼は、啓蒙思想に基づく改革に情熱を燃やしていたのか、またキャロラインを本当に愛していたのか、あるいは単なる野心家だったのか、キャロラインもまた彼にとって野心のための手段にすぎなかったのか、私には分かりません。映画は前者の立場をとり、ストルーエンの14カ月は、デンマークの民主主義の出発点ととらえているようです。


2017年4月12日水曜日

「バルバリア海賊盛衰記」を読んで

スタンリー・レーン・プール著(1890)、前嶋信次訳、1981年、リブロポート












 アフリカ北西海岸に住む人々はベルベル人と呼ばれ、ベルベルとは古代ギリシアにおけるバルバロイ(分かりにくい言葉を話す人・野蛮人)に由来し、したがってバーバリーです。このアフリカ北西岸は海岸線が複雑に入り組んでおり、従って天然の良港が多く、古くから貿易港が発展しました。チュニスは、かつてカルタゴが栄えた都市として有名です。そして16世紀から、この地域の海賊の活動が活発になり、彼らはバルバリア海賊と呼ばれました。
 本書は、「3世紀あまりもヨーロッパの通商諸国は海賊どもの御意のままに、貿易を続けることに難渋したり、金もうけを断念させられねばならなかった。」という文章で始まります。この時代の海賊は、単に船を襲うだけではなく、沿岸に上陸し、町や村を掠奪しますので、当時のヨーロッパにとって海賊は脅威でした。特に、オスマン帝国が東地中海を支配するようになると、バルバリア海賊はオスマン帝国の支配を受け入れ、帝国の保護のもとに活動したため、海賊は統制のとれた強大な勢力に発展します。彼らは海賊であると同時に、海軍力の脆弱なオスマン帝国の海軍も担ったわけです。
 本書は、バルバリア海賊をさまざまに角度から述べています。本来、私自身が知らないことばかりですので、難解で読みづらいはずですが、非常に軽快なタッチで面白く記述しており、退屈せずに読み通すことができました。あまりに面白すぎて、信じていいのかどうか分からない所があり、また本書が今から100年以上前に書かれたものであることは、割り引いて考える必要はあります。

 なお、本書が執筆される少し前の1881年にフランスがチュニジアを占領し、かつてのバルバリア海賊の領域は、ほぼフランスの植民地となっていきますが、こうした植民地支配に対して、著者は否定的に記述しています。

2017年4月8日土曜日

映画「ある公爵夫人の生涯」を観て

2008年にイギリスで制作された映画で、18世紀後半に実在したあるイギリス貴族の夫人の半生を描いています。原題は「公爵夫人」です。映画では、特に大きな事件が起きる分けではなく、この時代の貴族社会の複雑さが淡々と描かれています。なお、この貴族はダイアナ妃の祖先に当たるそうですが、そのことは、この映画の内容とは直接関係ありません。
 この時代のイギリスは、産業革命が進み、インドの植民地化が進むなど、大英帝国への道を突き進んだ時代でしたが、同時にアメリカの独立、フランス革命、ナポレオン戦争などが続き、困難な時代でもありました。政治的には、ブルジョワ階級が成長し、議会制度も発展していきますが、貴族はなお大きな力をもっていました。
 主人公のスペンサー伯爵令嬢ジョージアナは、17歳の時に、イギリスでも屈指の大貴族であるウィリアム・デヴォンシャー公爵に嫁ぎ、デヴォンシャー公爵夫人となります。彼女は美しく、また機知に富んでいたので、社交界の華となります。しかし、この結婚で夫が望んだことはただ一つ、つまり彼女が後継者となる男子を生むことで、二人の間にはほとんど会話もありませんでした。彼女は数回男児を流産した後、二人の女児を出産、この間夫はメイドに手をだし、さらに彼女の親友にまで手を出します。しかしやがて男児が生まれ、彼女は妻としての義務を果たしました。その後彼女は、チャールズ・グレイという若い野心的な青年政治家に恋をし、子供まで生みますが、結局彼とは別れ、今まで通りの生活を続け、1806年に48歳で死亡します。
 貴族の夫人としての彼女の一生は、それ程特別なものではなかったでしょう。貴族は皆後継者を望み、体面を重んじます。社交界でのきらびやかな生活とは裏腹に、家庭では単調で愛のない生活が続きます。それがほとんどの貴族の夫人の一生でした。しかし実は、ウィリアムはジョージアナを愛していました。彼は堅苦しい貴族の家に生まれ育ち、愛情を表現する術を知らなかったのです。その意味で、彼もまた不幸でした。この映画で一番存在感があったのは、ジョージアナよりウィリアムだったように思えました。そして結局、長男が目出度く公爵家を継ぎますが、なぜか彼は生涯結婚せず、彼の代で名誉あるデヴォンシャー公爵家の直系は絶えることになります。
 なお、ジョージアナの浮気相手だったチャールズ・グレイは、後に首相となり、1832年に第一回選挙法改正を実施しました。また、映画でしばしば登場するバースは、温泉のある保養地で、当時多くの貴族がここに別荘を建てていました。そのため、ここには18世紀の建造物が多く残っており、今日世界遺産となっています。なお、バースという地名は、風呂―bathに由来します。
 何だかよく分からない映画でしたが、それでも何と無く面白い映画でした。


2017年4月5日水曜日

「ゴッホとロートレック」を読んで

嘉門安雄著、1986年、朝日選書
 著者は美術史家で、特にレンブラントを専攻しているようですが、それとは別に、ゴッホとロートレックの絵画をこよなく愛し、二人の作品の解説を通して、二人の画家の足跡を追っています。なお、ゴッホについては、このブログの「映画で三人の画家を観て 炎の人 ゴッホ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_16.html)、ロートレックについては映画「ムーラン・ルージュ」を観て(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/03/blog-post_19.html)を参照して下さい。
 ゴッホとロートレックについては、どちらも37歳の若さで死んだこと、1886年から2年ほど二人はパリで暮らし、友人であったという共通点がありますが、当時パリでは多くの画家が絵を学び、お互いに親交がありますので、この程度の共通点は珍しくもありません。
「性格も生活環境も、そして絵画の出発点も結実も、全く異なるゴッホとロートレックである。しかし二人とも、とにかく描く。呼吸そのもののように描き続ける、描くことによって自己を確認し、主張しようとするゴッホ。それに対して、描くことによって自己を忘れ、解放しようとするロートレック。その手段、方法に違いはあるにしても、生理的にも精神的にも、所詮、絵を描くしか生きられぬ二人である。」
 「ゴッホは絵画を哲学するのに対し、ロートレックは絵画を生きている証しにする。かれは自己を投影するかわりに、むしろそこから自己を離そうとするかのようである。それは、孤独の中へ引き込まれるゴッホと、孤独を恐れ、避けようとするロートレックである。」
 「二人とも、浮世絵の美を見出し、理解し、教えられる。だが、ゴッホは観念にまで高めようとする。心の問題にまで昇華しようとする。ロートレックは「うん、素晴らしい」「面白いね」「なるほど、こうすればいいんだ。直観的だ」である。つまり、より感覚的であり、それを活用する方法を素早く見出すのである。北斎漫画に手を打ち、北斎の異様とも見える画面構成に喜び、ポスターに浮世絵版画の平塗りと色面の単純化を小気味よく活用するロートレックである。」
 二人の作品に対する著者の情熱が伝わってきます。


2017年4月1日土曜日

映画「ポンパドゥール夫人」を観て

2006年にフランスでテレビ用に制作された映画で、18世紀半ばのフランス国王ルイ15世の公式の愛妾だったポンパドゥール夫人の半生を描いています。18世紀半ばのフランスは、ルイ14世時代の全盛期は過ぎたとはいえ、まだ十分繁栄しており、ルイ14世時代と異なり戦争が少なかったため、比較的平穏な時代であり、啓蒙思想が盛んになった時代でもありました。同じ頃、日本でも中国でも平和な繁栄の時代を迎えており、庶民文化も大いに発展していましたが、フランスも中国も日本も時代の曲がり角にきていました。
ルイ15世は、曽祖父ルイ14世の死により、1715年にわずか5歳で国王に即位します。1725年、15歳になったルイはポルトガル王女と結婚し、彼女は毎年のように11人の子を産みますが、男子は2人だけで、その内の一人は早世します。この間に、そしてその後も、ルイは、数えきれない程の愛妾を持ち、さらに多くの庶子をもうけます。また、特に寵愛したシャトールー夫人を公妾としますが、1744年に死亡します。一方、後のポンパドゥール夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソンは、ブルジョワ階級の家に生まれて十分な教育を受け、男爵と結婚して貴族の仲間入りをし、1745年にルイ15世に出会います。そしてこの年、ルイ15世は彼女にポンパドゥールの領地を与えて侯爵とし、彼女は夫と別居して、ヴェルサイユ宮殿に住むことになります。
ヴェルサイユ宮殿は、異常な空間です。もともとルイ14世が、若かったころに起きた貴族の反乱に懲りて、ヴェルサイユ宮殿に貴族たちを強制移住させ、貴族たちを骨抜きにしてしまいます。宮殿では馬鹿馬鹿しいような儀式が繰り返され、国王といえどもこの儀式から自由ではありませんでした。ポンパドゥール夫人は、見事にこの異常な空間に溶け込み、宮廷で力をもつようになります。特に、ルイ15世が政治にあまり関心がなかったため、政治的にも大きな影響力をもちます。また、彼女の読書量は半端ではなく、啓蒙思想に理解を示して、彼らの活動を保護したりもします。当時の彼女は、フランスで最も影響力のある女性だったといえるでしょう。映画は、ポンパドゥール夫人のこうした日常生活を淡々と描いています。
しかし一方で、その散財ぶりも半端ではありませんでした。化粧品や衣裳・装飾品のみならず、各地に多くの宮殿を建てました。今日、フランスの大統領官邸となっているエリゼ宮殿は、ルイ15世が彼女のために買い与えたものです。王の寵愛に依存して宮廷で登りつめ、贅沢の限りを尽くしたポンパドゥール夫人と、啓蒙思想を擁護するポンパドゥール夫人とが、今一つ結びつきません。映画では、ルイ15世への愛がポンパドゥール夫人の支えだったとして描かれていますが、逆にルイの寵愛を失えば、彼女はたちまち吹き飛ばされてしまう存在でした。宮廷は異常な世界であり、また当時の貴族はサロンを開いて文芸を保護しますので、彼女の活動も当時の時代を反映していたのかもしれません。
いずれにしても、1764年に夫人は42歳で病死します。しかしルイは、1770年にはデュ・バリー夫人を公妾とし、この年オーストリアの王女マリ・アントワネットを王太子の妃として迎え入れ、1774年に死亡します。それとともに、ルイ16世とマリ・アントワネットが玉座につきますが、フランス革命は目前に迫っていました。

 映画は、ヴェルサイユ宮殿でのポンパドゥール夫人の生活を描き出しており、それなりに興味深く観ることができましたが、結局、ポンパドゥール夫人をどのような女性として描きたかったのか、よく分かりませんでした。