2017年3月29日水曜日

「フットボールの社会史」を読んで

F.P.マグーン、Jr.著、忍足欣四郎訳、岩波新書、1985
 本書は、1938年出版されたもので、1966年に復刻されたものです。また著者は英文学者であり、英文学研究の傍らで、フットボールに関する資料を集め、本書を執筆しました。したがって、本書に書かれていることが、どこまで正しいのか分かりませんが、私にとっては、面白ければそれでよい、ということです。
 いわゆる蹴球(しゅうきゅう)と呼ばれるボールを蹴って遊ぶ競技は、古くから世界中の多くの地域で親しまれ、日本でも中国から伝わった蹴鞠(けまり・しゅうきく)という遊びがありました。ヨーロッパでは何時頃フットボールが始まったのかについて、本書は多くの断片的な資料を駆使して、フットボールの痕跡を探しますが、イギリスに関しては13世紀以前には遡れないようです。
 フットボールは農民や都市の労働者の遊びで、貴族たちからは下品な遊びと考えられていました。何しろ、数百人の男たちが、ボールを追って村中・町中を駆け回り、時には川に飛び込んでボールを追い、乱闘あり、破壊ありの、相当過激な競技だったようで、死者が出ることもあったようです。そのため、権力者はしばしばこれを禁止しますが、一向に効果がなかったようです。また、何時の頃からか、キリスト教の祭日である告解の火曜日に競技が行われるようになったようです。
 「告解火曜日の蹴球は異教的儀式ないし慣習の幾分衰えた名残であろうか、それとも比較的近代になって普通の競技が祝祭日に移された一事例にすぎないのだろうか。少なくとも世界の二、三の地域では蹴球は紛れもなく儀式的なものであり、われわれの知る限り、ブリテン島で蹴られた最初の蹴球ボールは戦いに敗れた領主の生首であったかも知れない。これらの有史以前の蹴球ボールの一つが、多産性を賦与する太陽を象徴ていたかも知れないとか、この競技がかつては峻烈を極めた部族間の抗争を表わしていたかも知れないとかいう可能性を否定したくても、否定することはできない。だが、このことが証明可能だとしても、それは、普通の民衆的な蹴球や今でもイングランドで行われている告解火曜日の競技の起源にごくわずかな開明の光を投げかけることにしかならないだろう。その理由は正にこうだ―有史以前ないしは異教的過去と、今ここで検討している初めて記録に現れる蹴球技との連続性を示す証拠は何もないのである。」

 要するにはっきり分からないということですが、いずれにしても、19世紀後半のイギリスで少しずつゲームのルールが形成されるようになり、やがてそこからサッカーやラグビーが生れてくることになります。

2017年3月25日土曜日

映画「オルド 黄金の国の魔術師」を観て

2012年にロシアで制作された映画で、キプチャク・ハン国の衰退を描いています。「オルド」とは、本来モンゴル人のハンなどの宿営地を指しており、ゲルやパオと同じ意味です。モンゴル帝国は、広大な領地を支配した後も、天幕の方が居心地がよかったようで、長く天幕で暮らしていましたが、さすがにこの時代には石造りの立派な宮殿を建てていました。この宮殿が金で飾られていたため、「黄金のオルド」と呼ばれました。なお、日本語版の「黄金の国の魔術師」というサブタイトルは、意味不明です。このサブタイトルやDVDのカバー写真から、ファンタジックな映画を予想していたのですが、実際には大変シビアな内容の映画でした。
















 キプチャク・ハン国について、私はほとんど何も知りません。チンギス・ハンの長子ジュチがこの土地を封じられたので、ジュチ・ウルス(ウルスは国家を意味します)と呼ばれ、キプチャク草原を支配したことからキプチャク・ハン国とも呼ばれ、日本では黄金のオルドが金帳汗国とも訳されました。なお、「カン」「ハン」「ハーン」は微妙に意味が異なるようですが、ここではその相違は一切無視します。
 キプチャク・ハン国は、13世紀半ばに建国され、ジュチの死後バトゥが後を継ぎます。その領土は、ヨーロッパ・イスラーム世界・ロシア・中国の接点にあり、その領土にはモスクワも含まれていました。モスクワ大公は、キプチャク・ハン国の徴税を請け負うことによって力をつけてきます。モンゴルの支配下でロシアの人々は重税に苦しめられたと言われますが、実は、税を徴収していたのはモスクワ大公でした。
 一方、キプチャク・ハン国の首都サライは東西交易の要衝として繁栄し、人口60万人を超える屈指の大都市でした。映画では、立派な建物が立ち並び、多くの人々が行き交うサライと、ほとんど大きな村という程度のモスクワが、しばしば映し出されます。14世紀の前半にキプチャク・ハン国は全盛期を迎えますが、14世紀後半に急速に衰退していきます。そして映画は、ここから始まります。なお、当時すでにキプチャク・ハン国はイスラーム教を受け入れていましたが、宗教的には寛大で、サライには様々な宗教を信じる人々がいました。
 1341年にティーニー・ベクがハンとなりますが、彼は翌年弟のジャニー・ベクによって暗殺され、弟がハンとなります。映画では、理由がよく分かりませんし、これが史実なのかどうかも、私は知りません。映画では、支配層はまだ遊牧民の気風を残してはいましたが、享楽的な生活や奴隷の悲惨な生活が描かれます。そんな中で、母のタイ・ドゥラが突然失明し、モスクワの大主教アレクシスに治療を依頼し、治療できなければモスクワを滅ぼすという達しが届きました。アレクシスにはどうすることもできません、ただ祈るのみです。結局、色々あって母の視力は回復したのですが、それはアレクシスの祈りによってというより、時期がきて回復すべくして回復した、とう感じです。いずれにしても、モスクワの弱い立場を象徴する事件でした。
 1357年、ジャニー・ベクの息子ベルディ・ベクが父を暗殺し、彼がハンとなりますが、彼も1年後に殺され、その後20年の間に21人のハンが交替するという混乱状態になります。ちなみに、1368年に中国で元が滅び、明が成立します。そしてこの頃、中央アジアで、チンギス・ハンの子孫を自称するティムールが台頭し、ティムール軍によってキプチャク・ハン国は蹂躙されることになります。
 映画は、主題がどこにあるのか分かりづらかったのですが、それでもサライの宮廷や街並みが再現されており、大変興味深く観ることができました。結局、この映画は滅亡に向かう直前のサライを描いており、まさに主題は「オルド」でした。ロシアで制作された映画であり、後にこの地域はロシアの支配下に入りますが、決してロシアがキプチャク・ハン国を滅ぼしたというのではなく、キプチャク・ハン国が自滅していく姿が描かれています。

2017年3月22日水曜日

「歴史家たち」を読んで

 本書は、「ラディスル・ヒストリー・レヴュー」誌に掲載された、ラディカルな歴史家たちのインタヴューを掲載したもので(1984)、近藤和彦・野村達郎編訳です。名古屋大学出版会。1990年。
 本書では、13名の高名な歴史家がインタヴューに応じ、彼らがなぜ歴史家となり、なぜそれぞれの分野を専門分野として選び、またどのような課題を抱えているのかを述べています。ここで言う「ラディカル」とは、訳者によれば、「ものごとの根源に立ちかえる」「根本的な問いをたてる」あるいは「徹底的・急進的」、とうような意味だそうです。ここで取り上げられている歴史家の多くはマルクス主義者で、研究の対象も、労働問題やフェミニズムに関するものが大部分です。
 その中で異色なのは、「チーズとうじ虫」の著者として有名なギンスブルグです。彼は次のように述べています。「私が関心をもっているのは歴史における死せるものであって、生き続けているものではない。……私は現在に結び付けられない色んなこと、つまり本当に死せるものに魅惑されてきました。」これは、「すべての歴史は現代史である」と述べたクローチェの対極であろうと思います。 なお、「チーズとうじ虫」については、このブログの「チーズとうじ虫」を参照して下さいhttp://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_8234.html

 いずれにせよ、本書を通じて、一人の人間が歴史を学ぶことを決意し、分野を選択する過程を知ることは、私自身の過去を振り返って、大変興味深いことでした。

2017年3月18日土曜日

映画「ライジング・ロード 男たちの戦記」を観て

2009年にサハ(ロシア)・モンゴル・アメリカにより制作された映画で、チンギス・ハンの生涯を扱っています。原題は「チンギス・ハンの秘密」で、タイトルの由来は「元朝秘史」にあるようです。「元朝秘史」は、13世紀から14世紀に書かれたものとされますが、作者は不明で、チンギス・ハンの英雄物語を描いた歴史小説に近いものですが、躍動感溢れる内容のようです。













この映画が大変興味深いのは、ロシア連邦内のサハ共和国が制作しているという点です。サハ人はヤクートとも呼ばれ、テュルク系とモンゴル系の混血で、13世紀頃中央アジアからこの地に移動したそうです。彼らがどのような理由で移動したのか、またチンギス・ハンについてどのように思っているのかは知りません。ただ、社会主義国ソ連は、チンギス・ハンを侵略者として崇拝することを禁止し、モンゴル人民共和国でも禁止されていました。ソ連が崩壊後、モンゴルではチンギス・ハン崇拝が復活し、そうした中でサハ人がチンギス・ハンの映画を制作したということは、やはり彼らの間でもチンギス・ハンに対する思い入れがあるのではないでしょうか。なお、広大なサハ共和国の人口は百万人足らずで、その内半分弱がサハ人です。
今までに、チンギス・ハンを扱った映画を何本も観ましたが、この映画はまったく趣が異なっています。従来の映画は、分かりやすくするために、いろいろ説明が入るのですが、この映画では筋立てについての説明はほとんどありません。また、登場人物についての説明もないため、どれかが誰なのかもよく分かりません。ただ、チンギス・ハンについてのよく知られたエピソードが、断片的に淡々と語られているだけです。彼の誕生、父の死、苦しかった少年時代、結婚と妻の略奪、周辺部族との戦い、最大の敵ナイマンの滅亡、そして少年時代に盟約を誓い合った友ジャムカとの友情と決別などです。
 映画全体を貫いているのは、テングリと呼ばれる神によって定められた運命です。「テングリ」は北方遊牧民の間に古くからある宗教で、中国の「天」の思想と似ており、中国の天の支配者は「天帝」ですが、遊歩民にとっては「澄み切った青空」であり、創造神でもあり、運命神でもあります。サハ共和国は、ロシアによる支配の時代に多くがギリシア正教に改宗しましたが、一部にテングリ信仰が残り、今日ではテングリ信仰復活の動きがあるそうです。この映画がサハ共和国で制作されたのは、こうした背景があるのかもしれません。映画は皆既日食から始まり、やがてチンギス・ハンが誕生します。それはテングリの意志を示しているように思われました。
 映画では、運命に導かれ、チンギカ・はンが次々と戦争を行ない、多くの血が流されます。母は、こうした息子の行動に不安を感じていましたが、これもテングリの意志ならば、しかたがありません。映画は、宿敵ナイマンを滅ぼしたところで終わりますが、彼の大征服事業が始まるのは、これからです。彼が生きた時代は、ユーラシア大陸のネットワークが極限にまで発達した時代であり、農耕民、商業民、遊牧民が錯綜していた時代でした。これを一つの政治勢力の下に置くことは時代の要請であり、それがテングリの意志だったのかも知れません。人類の歴史は、モンゴル帝国の成立とともに、まったく新しい時代に入って行きます。チンギス・ハンの途方もない業績をみると、そこに何か運命のようなものを感じざるをえません。
映画では、なぜかキリスト教宣教師(多分ギリシア正教)が時代の目撃者として、また語り部の一人として登場します。さらにチンギス・ハンの息子の家庭教師として、中国の知識人がチンギス・ハンの行動を監察し、「元朝秘史」を著したことになっています。彼は言います。「歴史には二つの物語がある。戦争や国王の物語とある人物の人生にまつわる物語だ。後者は謎のものが多い。それを書き記すのが自分の役目だ」と。さらに、何故か日本刀を持った日本の武士も登場します。当時の日本は鎌倉時代ですので、武士がモンゴルに紛れ込んでいたとしても、不思議ではないでしょう。いずれにしても、多くの人々が入り乱れる世界において、やがてそれらが一つの政治的世界に吸収されていくことになるのでしょう。
 映画は、ストーリーは読み取りにくかったのですが、大変に詩的で美しい映画でした。なお、モンゴル帝国については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第13章 パックス・モンゴリカ(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/13.html)を参照して下さい。



2017年3月15日水曜日

「ニュートン」を読んで

島尾永康著、1994年、岩波書店 (1979年岩波新書版の復刻)
 ニュートンについては、万有引力の法則により、今日の物理学的世界の基盤を形成した人物として、あまりにもよく知られていますが、私はニュートン自身についてはほとんど知りませんでした。この本を読んで分かったのですが、彼の生き方はあまりに俗物的で、はっきり言って彼の伝記は、あまり面白くありません。「リンゴが落ちるのを見て……」という話も、事実かどうかはっきりしません。
 彼は、1642年、つまりイギリスでピューリタン革命が始まった時に生まれ、その後王政復古や名誉革命、さらにペストの流行など、かなり困難な時代に生きました。未熟児として生まれ、長生きできないと言われましたが、結局84歳まで生きました。すでに22歳の時に万有引力の法則を発見し、1687(名誉革命の直前)に主著「プリンキピア」を刊行します。その後、下院議員、王立造幣局長、さらに1703年には王立協会会長となり、1727年に死ぬまで、この地位にいました。まさに、栄光に包まれた後半生を送ったわけですが、この間に精神を患ったり、ライバルを蹴落としたりするなど、あまり愉快な話がありません。
 本書は、ニュートン自身の人生が面白くないためか、あまり面白い本とは言えませんでした。ただ、ニュートンに関わった当時一流の思想家たち、ロックやライプニッツなどとの関係は、面白く読むことができました。また、ニュートンの一生があまり面白くないからといって、彼が近代科学の発展に遺した巨大な役割が減じる分けではありません。



2017年3月11日土曜日

映画「ノー」を観て

2012年にチリで制作された映画で、1973年から17年間続いた軍事独裁政権の崩壊を、コマーシャル映像の制作という視点から描いています。
チリは、すでに16世紀の前半にスペイン人が進出し、先住民と戦いながら、比較的安定した農場経営が行われてきました。19世紀前半にスペインから独立し、胴と硝石が豊富に産出したことから、経済的にも安定し、中南米の他の国と比べて、比較的民主政治が発展し、他の国に比べて軍事クーデタもあまりありませんでした。ただ、他の中南米諸国と同様に、一次産品の輸出に依存していたため、国際価格の影響を受けやすく、経済構造が脆弱でした。また、また地主による土地支配や、外国資本による鉱山の支配にも、不満が高まっていました。
 そうした中で、1970年に人民連合のアジェンデが大統領に当選し、チリに社会主義政権が成立します。それは、世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権ということです。アジェンデは帝国主義による従属からの独立を掲げ、キューバとの国交を回復、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による大土地所有制の解体などを行いますが、稚拙な経済政策のため経済は混乱します。また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカは、CIAを使って反政府活動を支援したため、社会は一層混乱しました。
 そうした中で、1973911日に、アメリカの支援を受けたピノチェト将軍がクーデタを起こし、銃撃戦の末にアジェンデは自殺します。9.11といえばアメリカでは同時多発テロを想起しますが、チリではピノチェトのクーデタを想起するのが普通だそうです。ピノチェトは反対派を徹底的に弾圧し、彼が支配する17年間に、数千から数万人の人が殺され、数十万人が強制収容所に送られ、さらに国民の10分の1に当たる100万人が国外亡命したとのことです(ウイキペディア)。そして、これらの弾圧は、同じ頃独裁政権が成立していたアルゼンチンなどの「汚い戦争」と連動していました。
 しかし、1980年代に、周辺諸国で民主化が進む一方で、チリでは相変わらず人権侵害が続けられており、ピノチェトに対する国際世論の批判が高まってきました。そこでピノチェトは、国際的な批判を逸らすために、1988年に国民投票で自らの政権の信任を問うことにしました。その投票とは、ピノチェトの任期を8年延長することに対する「イエス」か「ノー」というものでした。かなりいい加減な国民投票であり、しかも国民は長く続いた独裁政治に対して諦めおり、どうせ最後は政府が投票結果を操作すると思っていました。したがって、政府も国民を、当然、結果は「イエス」が多数を占めると考えていました。しかしこれだけでは国際世論を納得させられないので、投票日までの27日間、イエス派とノー派がそれぞれ深夜に15分だけTVコマーシャルを流すことが認められました。深夜にテレビを観る人はいないだろう、という考えでした。
 映画は、ここから始まります。広告会社に勤めるレネにノー派からの広告の制作依頼がきますが、同時に彼の上司にイエス派からの制作依頼もきます。つまり同じ会社の中で、両派の広告を制作することになったわけです。政府からすれば、同じ会社の上司がイエス派の広告を制作すれば、同時にノー派の広告内容も知ることができるというメリットがありました。総じてイエス派は甘くみており、イエス派のために制作された広告は、北朝鮮の国営放送のようで、ピノチェトを称賛するだけの映像でした。
 これに対して、レネの周囲の人々はピノチェトを非難する広告を期待していましたが、レネは広告は明るいものでなければならないと確信しており、楽しい家族のピクニックの場面や、美女たちを勢揃いさせる場面などをおり込み、時にはユーモアを交えつつ、人々に明るい未来を予感させるような広告を制作します。この広告は、諦めていた人々を目覚めさせ、自分の一票の大切さを自覚させます。政府は危機感を感じ、レネにいろいろな嫌がらせをしますが、結局投票では「ノー」が多数となります。もちろん、ピノチェトは結果を無視することもできたでしょうが、ピノチェト政権の生みの親ともいうべきアメリカもピノチェトを批判しており、退陣するしかありませんでした。1988年は、冷戦終結の前年であり、もはやアメリカにとってピノチェトは無用の存在となっていたのです。
映画で観る限り、レネには政治的な関心はあまりなく、純粋にコマーシャル制作者の視点で、このコマーシャルの制作にあたりました。そしてそれが歴史を動かしたのです。しかし、コマーシャルが歴史を動かすということが良いことなのでしょうか。ヒトラーの独裁権力は政治宣伝によって生み出されたものであり、コマーシャルによって民衆を動かすということは、決して好ましいとはいえません。このことについては、この映画の制作者も理解しているようで、最後に、依頼された仕事を終えたレネの姿を淡々と描いています。彼は、コマーシャル制作者としての仕事をしただけなのです。そしてそれは、結果的にチリを独裁から救ったのです。
その後のチリの歩みは、決して平坦ではありませんでした。相変わらず、経済不況に見舞われると政権が不安定になるという構造的な問題を抱えていますが、しかし独裁政治にもどることはありませんでした。一方、ピノチェトは、退陣後も終身上院議員として隠然たる影響力を持ち続けますが、やがて「人道に対する罪」で訴えられ、さらに巨額の不正蓄財が明るみに出ますが、高齢と病気のため罪状は棄却され、2006年に病没しました。91歳でした。



2017年3月8日水曜日

「太陽よ、汝は動かず」を読んで

A.アーミティジ著、1947年、奥住喜重訳、岩波新書(1961)
 随分古い本ですが、本箱の片隅で眠っていた本を、何十年ぶりかで発見しました。本書のサブタイトルは「コペルニクスの世界」です。言うまでもなく、コペルニクスは地動説を唱えたことで知られ、この発想の転換を、後にドイツの哲学者カントが「コペルニクス的転回」と呼んだことで有名です。
 本書は、コペルニクスだけでなく、コペルニクスに至る天文学の歴史を大変分かりやすく述べており、大変参考になります。人類が誕生し、人々が空を見上げ、太陽や月や星の動き見つめる時、まず天が動いており、その動きは神々の意志を表すと考えることは、自然のことです。本書は、古代バビロニアの占星術から古代ギリシアの天文学やプトレマイオスの天文学について分かりやすく説明しています。そしてその後千年以上、ほとんど天文学に変化はありません。
 コペルニクスは、まず何よりも聖職者で、教会法と医学の専門家であり、実務において極めて有能であり、その合間に天文学を研究していました。中世を通じて天文学はほとんど進歩しなかったとはいえ、観察を通じて新しい発見があり、説明困難な現象が多く発見されていました。そうした中で、コペルニクスは太陽を中心とするという仮説の下に、地動説を主張するようになります。コペルニクスの主張については、天文学者たちの間では広く知られており、ローマ教皇の耳にも入っていましたが、彼は宇宙が球体であるというプトレマイオスの主張を信じていたこともあって、コペルニクスの主張は数学上の仮説としてあまり問題にされませんでした。それどころか、この時代に今日われわれが使用しているグリゴリウス暦が制作されますが、コペルニクスはその制作にも協力しています。
それでも、彼は自説の出版についてはかなり慎重で、1542年にようやく草稿が完成し、翌年死亡します。1543年にこの本をローマ教皇に献本していますが、特に問題とはされませんでした。むしろ、ルターがコペルニクス説を聖書に反するとして批判し、カトリック教会にもこれに対応する理論武装が必要となりました。そうした中で、ケプラーやガリレオ・ガリレイが地動説を主張して教会により咎められ、そうした中でコペルニクスも批判されるようになります。そして、ガリレイが死んだ1642年にニュートンが誕生します。彼らを通じて地動説は、もはや遊星の軌道の問題だけではなく、宇宙の力学の問題に発展し、コペルニクスの死後150年近くたって彼の説は否定しがたい事実として確立されます。

本書は、興味深いというだけでなく、感動的でさえありました。おそらく、コペルニクスの時代にヨーロッパの天文学は、技術的には中国より劣っていたかもしれませんが、しかし中国ではついに「コペルニクス的転回」が起きることはありませんでした。そしてヨーロッパで起きた「コペルニクス的転回」が、ヨーロッパに近代科学を生み出すことを可能にしたものと思われます。


2017年3月4日土曜日

映画「ジャスティス 闇の迷宮」を観て

2003年のアメリカ・アルゼンチン・スペイン・イギリスの合作映画で、1976年から1983年までのアルゼンチンの独裁政権による失踪事件を描いています。
スペイン人は、早くも1516年にアルゼンチンに入り、先住民から銀の山があるという噂を聞きつけて、多くのスペイン人が殺到します。アルゼンチンという国名は、ラテン語で「銀」を意味します。結局銀山はありませんでしたが、多くのスペイン人が農場や牧場を経営するようになります。19世紀初頭にアルゼンチンは独立しますが、その後は、他の多くの中南米諸国と同様に、地主による寡頭支配や軍事政権が続きます。特にアルゼンチンは、周辺諸国と国境を巡ってしばしば戦争をしたため、軍部が強力で、しばしばクーデタによって権力を握りました。1946年にペロンがポピュリスト的手法で人気を集めましたが、その後、1955年、1962年、1966年、1976年に相次いで軍部がクーデタを起こします。そしてこの映画は、1976に成立した軍事政権を背景としています。なおペロンについては、このブログの「映画でラテンアメリカの女性を観る エビータ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/09/blog-post_28.html)、「映画でゲバラを観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/10/blog-post_17.html)を参照して下さい。
1960年代から70年代にかけての中南米では、各国で軍事独裁政権が成立する傾向がありました。この点については、このブログの「入試に出る現代史 第7章 ラテン・アメリカ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/7.html)を参照して下さい。アルゼンチンでは、1976年にビデラ将軍によるクーデタで成立した軍事政権は、最悪でした。反政府的な活動をする人々や邪魔者を次々と逮捕=拉致し、密かに拷問し殺害しました。これは当時「失踪」と呼ばれ、1983年に軍事政権が崩壊するまでに3万人もの人々が失踪したとされます。この一連の失踪事件は、「汚い戦争」と呼ばれています。
 当時、失踪が政府の秘密機関によるものであることは誰でも知っていたようで、映画では夫や子供を「失踪」させられた女性たちが、夫や子供を返せとデモをしている場面がしばしば映し出されます。児童劇団を主宰するカルロスは政治には関心がありませんでしたが、ジャーナリストである妻のセシリアは失踪事件を取材し、それを記事にして公表しようとしていました。そしてセシリアは失踪します。彼女は監禁され、拷問され、レイプされ続けます。カルロスは必死に妻を捜しますが、その過程で、彼は自分の不思議な能力に気づきます。家族を拉致された人に触れると、その家族の現在の状態が、映像のように彼の頭に浮かぶのです。本当にそんな能力が存在するのかどうかは知りませんが、双方の強い思いが、そうした能力を生み出すのかもしれません。ところが、セシリアについてだけは、何も見ることができませんでした。
 そんな中で、今度は娘のテレサが失踪します。彼女はまだ15~6歳の少女でしたが、彼女もまた拷問され、レイプされ、処刑されます。一体、このような少女から何を聞き出そうというのでしょうか。犯人は、単なるサディストとしか思えません。やがてセシリアは脱走し、人ごみの中でカルロスと出会い、二人が抱き合って映画は終わります。しかし娘は帰ってきません。最後に、「悲劇を繰り返すな」という字幕が流れますが、何か虚しさを感じます。映画に登場する人物は架空の人物であり、映画もサスペンス風に描かれてはいますが、「失踪」は事実であり、あまりに非道で悲惨な事件でした。
 1982年フォークランド諸島(マルビナス諸島)の領有を巡って、アルゼンチンはサッチャー首相時代のイギリスと戦い、敗北します。その結果、軍は威信を失い、1983年に軍事政権は崩壊します。当時、サッチャー首相の行動は、あまりに植民地主義的で時代錯誤な行動として批判され、事実そうだとは思いますが、結果的には彼女の行動はアルゼンチンを軍事政権から救ったわけです。そしてビデラ将軍は、「人道に対する罪」によって終身刑を宣告されました。


2017年3月1日水曜日

「コレラの世界史」を読んで

見市雅俊著 1994年 晶文社
 本書は、コレラという疫病を通して、世界の動向や、特に当時のイギリス社会の動向を描き出しています。その点で本書は、先に述べた「シラミとトスカナ大公」の手法と似ています。
 ペストや天然痘やチフスは、古くから知られた疫病ですが、コレラの流行は19世紀になってからです。もともと疫病は風土病であり、人間の移動などによって世界中に拡大しますが、コレラもインドの風土病でした。ところが、インドにイギリス人が進出し、彼らの移動とともにコレラ菌が世界中に拡散した分けです。コレラには、死亡率が高いこと、発病後死に至る期間が短いこと、などの特色があります。幕末期の日本でコレラが流行した時には、発病してから三日で死んでしまうということから、「三日ころり」などとも呼ばれました。
 19世紀の前半にロンドンでコレラの大流行が発生しますが、コレラ菌が発見されるのは19世紀の末であり、治療法が確立するのは20世紀になってからですから、対処法は「シラミとトスカナ大公」の17世紀と大して変わりませんでした。今日から見れば、コレラは経口感染で飲料水などから感染しますので、衛生管理が何よりも大切なのですが、当時のロンドンにはまだ上下水道が整備されておらず、排泄物はテムズ川に流され、飲料水はテムズ川の水を用いていましたから、コレラの流行を防ぎようがありません。この時代のロンドンの衛生状態と比べれば、江戸時代の江戸の方がはるかに清潔だったようです。
 本書では、コレラの流行、イギリスへの上陸、それへの対処、医療の在り方の変化、政治や社会への影響などが、相当詳しく述べられています。あまり詳しい部分は飛ばし読みしましたが、それでも大変興味深い内容でした。