2016年3月30日水曜日

春の芽生え




ほうれん草
















じゃがいも
















グリンピースの花
















インゲン豆の芽
















菜の花
















赤芽
















梅ノ木の新芽
















雑草







2016年3月26日土曜日

映画でヨーロッパの音楽家を見て

はじめに

 18世紀末か20世紀初頭にかけて、ヨーロッパで活躍した5人の音楽家をとりあげました。モーツァルト、ショパン、シューマン、チャイコフスキー、プッチーニです。この5人を取り上げた理由は、たまたま私が、この5人の映画を観たという以外には何もありませんが、この時代にヨーロッパの古典音楽と呼ばれるものが形成されていきました。また、5人とも「天才」と呼ばれるに相応しい音楽家であり、「天才」というのは、音楽を除けば、いつまでたっても子供のようだと思いました。ただ、彼らは、19世紀というヨーロッパが最も繁栄した時代に、古典音楽と呼ばれるヨーロッパ音楽の基盤を形成しました。
 私は、音楽に関しては、無知・無理解・音痴であり、音楽について語る資格はありません。したがって、ここでは以上の5人を扱った映画の紹介に留めたいと思います。


 こうした優れた音楽家は、ヨーロッパに限らず、いつの時代でも、どんな地域にもいたはずです。私が以前に読んだ「中国奇人伝」(陳舜臣著、1987年、新潮社)に万宝常という音楽家について書かれていました。彼は、中国の伝統音楽や西域音楽を集め、色々楽器を造り、斬新な音楽理論を書き残したそうです。「体に音楽を覚えさせようとした彼は、しだいに奇行が目につくようになった。どこにいても、音を集め、それをリズム化して、体にそれを同調させる。その作業をしている間は、他のことはすべて忘れている」のだそうです。したがっていつも体をゆらゆらと揺らせ、周りからは奇人と見られていました。彼の音楽理論について、私にはまったく分かりませんが、万宝常のような傾向は、ここで述べる音楽家たちについても当てはまるのではないかと思います。

アマデウス

 1984年アメリカ制作の映画で、モーツァルトの半生を描いた映画です。全編にモーツァルトの曲が流れ、大変感動的な映画です。
モーツァルトの父も音楽家で、息子の異常な才能に気づき、3歳の時から音楽を学ばせ、神童と呼ばれた息子を連れて、就職活動のためヨーロッパ各地を旅します。当時の芸術家は職人にすぎず、芸術家として安定した生活を得るには、宮廷などのお抱え芸術家になる必要がありましたが、就職活動は失敗に終わります。音楽家がフリーで食べていける時代ではありませんでした。特に作曲はあまり金になりませんでしたが、当時ピアノが普及し始めたため、多くの音楽家はピアノの家庭教師で生計を立てますが、その収入は僅かなものでした。
 彼は、どこでも常に賞賛されましたが、それでも安定した地位を得ることができませんでした。そうした中で、1781年、25歳のモーツァルトはウィーンに定住することを決意し、フリーの音楽家として、演奏会の開催やオペラの作曲で生計を立てるようになりました。彼の活動はかなりの評価を得ますが、それでもフリーでの活動には限界があり、彼自身に贅沢癖があったこともあり、結局借金を重ね、体を崩し、1891年に死去します。
 映画は、サリエリという宮廷楽団長の回想という形で進められます。彼はモーツァルトの才能を妬み、密かにモーツァルトの活動を妨害し、彼を破滅させるという話です。彼は思います。神は何故あのような軽薄な男にこれ程の才能を与えたのか、これ程神の栄光を讃える自分に対して、神は何故自分には、せいぜいモーツァルトの才能を理解できる程度の才能しか与えてくれなかったのか。サリエリは、誰よりもモーツァルトの才能を理解できたが故に、許せませんでした。モーツァルトの作品には心底感動しますが、それだけ自分の凡庸さが際立ってくるのです。
 天才とは何かということについては、凡才である私には答える術がありません。ただ、映画で観るモーツァルトは、人間のもつすべての能力が音楽という一点に集中してしまい、音楽を除いたら子供同然でした。映画を観ていると、不幸なのはむしろモーツァルトの方ではないか、と思えてくるほどです。いずれにしても、サリエリは、モーツァルトを滅ぼすための最期の仕掛けにかかります。彼は、匿名で体調を崩したモーツァルトに「レクイエム(鎮魂歌)」の作曲を依頼します。そしてモーツァルトは、「レクイエム」の作曲中に死亡しました。まさにモーツァルトは、自分のために「レクイエム」を書いた分けです。
 サリエリは実在した人物ですが、映画で描かれているようなサリエリ像については、19世紀に噂されたこともありましたが、それは事実無根です。彼がモーツァルトについて実際にどの様に考えていたについては知りませんが、少なくとも彼はベートーヴェン・シューマン・リストなど、才能のある音楽家たちを育てた、優れた教師でした。また、モーツァルトに「レクイエム」の作曲を依頼した人物は、今日判明しており、サリエリではありません。とはいえ、サリエリが作曲した作品はまもなく忘れ去られ、モーツァルトの曲は今日まで広く愛されているのは事実です。ただ、「アマデウス」の公開で、サリエリという人物が注目され、今日ではサリエリの再評価が進んでいるようです。

ところで、ドイツのテレビ局が、「史上最も偉大なドイツ人は誰か」というアンケートをしたところ、モーツァルトの名があげられましたが、これに対してオーストリアがモーツァルトはオーストリア人であるとして抗議しました。これに対してドイツは、当時は神聖ローマ帝国であってオーストリアなどという国はなかったと反論しましたが、オーストリアはドイツという国もなかったと反論しました。たしかに、ドイツという表現が公式に用いられるようになったのは19世紀になってからで、ドイツ・オーストリアの歴史の複雑さを反映するエピソードですが、どうでもよい議論でした。

ショパン

2002年にポーランドで制作された映画で、ポーランドが生んだ天才ピアニスト・ショパンの生涯を描いています。ショパンの父はフランスからの移住者ですが、ショパンも父もポーランドへの強い愛国心を持ち、ショパンはパリで死にますが、彼の遺言により彼の心臓はポーランドに埋葬されました。
当時のポーランドはロシアの支配下にあり、ポーランドの独立運動は厳しい弾圧を受けていました。そのため、ショパンは1830年にポーランドを離れ、翌年パリに向かいます。ショパン、21歳の時でした。初めは、彼の曲は受け入れられませんでしたが、リストが彼の曲を演奏して、好評を得ます。リストは、ハンガリー生まれのドイツ系移民で、ハンガリーに対する強い愛国心を持ち続けていました。彼のピアノ演奏の技量はショパンを凌ぎ、「指が6本ある」とさえ言われた程です。
ピアノが歴史に登場するのは1700年頃だそうですので、ピアノは意外に新しい楽器です。ピアノは、鍵と連動したハンマーで絃を叩いて音を出す楽器で、音域が広く、汎用性が高いため、急速に普及しました。すでにモーツァルトの時代には広く使用されており、19世紀に入ると次々と改良が重ねられました。その結果、ピアノを使ってどのように演奏するのか、またどのような曲がピアノの演奏に相応しいのか、こうしたことが追及されるようになります。ショパンが登場するのは、こうした時代でした。したがって、ショパンの作品には、ピアノ練習曲や独奏曲が多く、彼はピアノの詩人と呼ばれました。
 映画は、ショパンとジョルジュ・サンドとの交際を中心に描かれます。ジョルジュ・サンド(ペンネーム)は、当時フランスで高名な女流作家であり、フェミニストとしても知られていました。彼女は、当時すでに夫とは別れ、二人の子がいましたが、何人もの男性と交際していました。そして彼女はショパンに一目惚れし、1837年から二人の交際が始まります。二人は、地中海のマヨルカ島や彼女の別荘で過ごし、サンドは、病弱で子供のようなところのあるショパンを甲斐甲斐しく世話し、10年間一緒に暮らします。そしてこの10年間は、ショパンにとって最も実り多い時代で、多くの傑作が生みだされます。
結局、サンドの子供たちとショパンとの関係がこじれ、1847年に二人は分かれることになります。その後ショパンの病状が悪化したため、ポーランドからショパンの姉が看病のため訪れ、彼女が見守る中で、1849年にショパンは死亡します。39歳でした。

 この映画が何を描きたかったのかは、よく分かりませんでしたが、全編を通じてショパンの曲が流れ、大変美しい映画でした。

クララ・シューマン 愛の協奏曲

2008年にドイツ・フランス・ハンガリーによって制作された映画で、主人公はシューマンの妻クララで、クララと若い作曲家ブラームスとの恋を描いています。サブタイトルの「愛の協奏曲」というのは、ブラームス作曲の「ピアノ協奏曲」を暗示しているのでしょうか、私にはよく分かりませんでした。
シューマンは、1810年にドイツで生まれ、183020歳の時音楽家になることを決意し、高名なピアノ教師だったヴィーク家に下宿しますが、そこにヴィークの娘クララがいました。彼女は当時10歳でしたが、すでに天才ピアニストとして名が知られていました。これに対してシューマンは、1年後に右腕を痛めたため、作曲家になることを決意します。やがて二人は愛し合うようになり、1840年に、クララの父ヴィークの反対を押し切って結婚します。シューマンが30歳、クララが20歳の時でした。
二人の結婚生活は、厳しいものでした。シューマンの稼ぎが少なかったため、シューマンとともに全国で演奏旅行を行い、しかもその間に8人もの子を出産します。そのためクララの生活は、妊娠、出産、育児、演奏旅行の連続でした。演奏のためにはピアノの練習が必要ですが、夫の作曲の邪魔にならないように、気を使わなければなりませんでした。シューマンも、家計を支えるために作曲に励みますが、苦労して大作を作曲しても、得られる収入は僅かでした。そうした中で、シューマンの心は次第に病に蝕まれていきました。
 1853年に、まだ二十歳のブラームスがシューマンのもとを訪れます。ブラームスは、レストランや酒場でピアノを演奏して生計を支えていましたが、シューマンが音楽評論雑誌でブラームスを絶賛したこともあって、急速に名声を高めていきます。これに対してシューマンの病状はますます悪化し、翌年ライン川に飛び込んで自殺を図ったため、療養所に収容され、1856年に死亡しました。46歳でした。
その後クララは、夫の作品を整理して出版したり、世界各地で演奏旅行を行い、その度にシューマンの曲を紹介し、最高の女性ピアニストとしての名声を築いて、1896年に死亡します。77歳でした。一方、その後ブラームスは作曲に専念し、大きな成功を収めました。シューマンは、すでに生前からベートーヴェンの後継者と言われていましたが、シューマンはブラームスこそベートーヴェンの後継者だと言い、事実ブラームスの交響曲第1番をベートーヴェンの交響曲第10番という人もいるそうです。そしてブラームスは、生涯クララを支援し、クララの死の翌年に死亡しました。63歳でした。

映画は、クララとブラームスの恋愛関係を描いていますが、クララは14歳も年上であり、実際にそうした関係があったかどうか不明です。確かにブラームスは生涯クララを援助しますが、彼は親戚にも惜しげもなく金を与え、才能ある無名の音楽家には匿名で寄付をしており、もともと面倒見の良い人物だったようです。この映画は、シューマンとクララの苦しくても音楽に包まれた生活を描いている範囲内では良かったのですが、ブラームスとの恋愛関係が生まれると、話が陳腐になってきます。「愛の協奏曲」というサブタイトルも、どこかこじつけのような気がします。

チャイコフスキー

1970年にソ連が、バレー界・音楽会の最高の人材を投入して制作した、チャイコフスキーの伝記映画で、154分に及ぶ長編です。チャイコフスキーと言えば、日本では、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」などのバレー曲で知られており、哀愁に満ちたやさしいメロディは日本でも大変愛されています。
彼はウラル地方で生まれましたが、ウクライナ・コサックの血を引いており、彼自身しばしばウクライナを訪問しています。今まで述べてきた音楽家たちと同様、彼も幼少の頃から、音楽家としての天性の能力をもっていたようで、映画では、少年時代に突然、頭の中に音楽が流れてきた様が描かれています。音楽家になった後も、突然頭の中で音楽が聞こえてきたようですが、絶え間なく頭の中で音楽が流れている生活というのは、幸福なのか不幸なのか、よく分かりません。彼は、社会の動きにはほとんど関心がなく、この時代のロシアでは専制君主制に対する激しい不満が渦を巻いていましたが、映画でもそうした社会の動きは直接的には扱われていません。
1875年、25歳の時に彼はピアノ協奏曲第1番を作曲し、作曲家としての名声を得ますが、生活は決して楽ではありませんでした。そうした中で、富豪の未亡人、メック夫人から相当額の資金援助の申し出を受け、以後15年間資金援助が続けられ、この間二人の間で頻繁に手紙が交わされましたが、二人が出会うことは一度もありませんでした。婦人がなぜ彼に援助したか分かりませんが、映画では、彼の曲が自分苦しかった人生を慰めてくれ、彼と彼の曲にほのかな恋をしていた、という描き方がされています。
 後半は、チャイコフスキーとメック夫人とのプラトニック・ラブが中心となります。映画では、チャイコフスキーが資金提供を断ったため、二人の関係が破たんしたとしていますが、実際にはメック夫人が破産したと勘違いして資金提供を打ち切ったようで、以後二人の関係は疎遠となっていきます。この間にも、次々と新しい曲が生れてきます。映画では、風景、声、感情の変化に応じて、彼の頭の中に次々と音楽が流れます。彼は、作曲しているというより、送られてくる音楽を楽譜に書きとめている、といった感じです。やがて、彼は、ロシア音楽界の頂点を極め、多くの人々に賞讃されつつ、1893年に死亡します。死因はコレラだったそうです。53歳でした。そして翌年、メック夫人も死亡します。

 この映画は、音楽会・バレー界など、ソ連の総力を結集して制作され、全編にチャイコフスキーの曲が流れています。まさに、チャイコフスキーはソ連が誇る偉大な音楽家でした。同時にこの時代には、トゥルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキーなど偉大な文学者が活躍しました。政治体制も社会も無茶苦茶な時代に、ロシアの文化に一体何が起こったのでしょうか。もちろん、これについては、様々な解説が行われていると思いますが、残念ながら、私は知りません。そしてチャイコフスキーの死より四半世紀ほど後にロシア革命が起き、ロシアは長い苦難の時代を迎えることになります。

プッチーニの愛人

2009年にイタリアで制作された映画で、イタリアを代表するオペラの作曲家の一人プッチーニの家で起こった「ドーリア・マンフレーディ事件」呼ばれる事件を扱っています。
 19世紀後半のイタリアでは、「椿姫」や「アイーダ」などのオペラ作曲で知られるヴェルディが活躍していました。ヴェルディの時代は、イタリア統一の時代であり、彼自身は政治に関心がありませんでしたが、イタリア統一の中心人物であるカヴールの友人であったことから、彼の曲はイタリア民族運動を鼓舞する曲として、人々に愛されました。ただ、彼自身は政治に関心がなく、晩年は慈善活動に携わっていました。そして、イタリアのオペラ界で、彼の後を継いだのがプッチーニです。
 彼は宗教音楽家の家系に生まれ、ヴェルディの「アイーダ」に接してオペラの作曲家になることを決意します。そして1890年代には、「蝶々夫人」など次々と傑作を発表し、その曲の劇的な展開と繊細な描写、女性の心理描写の巧みさなどから、彼の曲は多くの人々に愛されるようになります。実生活では、土地を買って多くの小作人を雇い、いわば荘園領主として、経済的に安定した生活をするようになります。この時代になると、フリーの音楽家も、富を得ることができるようになった分けです。
 映画では、別荘での物憂い、かつ家族間の微妙な緊張を孕んだ生活が淡々と描かれます。そして、1908年から1909年にかけて、「ドーリア・マンフレーディ事件」が起きることになります。プッチーニという人は、相当な女たらしで、数えきれない程の女性を相手にしてきました。一方彼の夫人は嫉妬深く、二人の間にはいつも緊張関係がありました。そして彼女は、家政婦のドーリアが夫と関係をもったと思い込み、彼女を追い出し、さらに人前で彼女を淫乱と罵ります。信仰深い彼女は服毒自殺し、自分を解剖して処女であることを確かめるよう遺言しました。そして彼女は処女でした。プッチーニが彼女に手をだしていなかったのは、むしろ奇跡というべきでした。ドーリアの家族は裁判所に訴えましたが、結局プッチーニが示談金を払って、事件は終わりました。これが事件の顛末ですが、手がけていた新作の完成が1年ほど遅れた、ということ以外には何の影響も及ぼしませんでした。

 映画では、台詞がほとんどなく、時々出演者の独白と手紙が映し出されて、かろうじて事件の推移が分かる程度です。映像は美しいのですが、プッチーニの音楽が流れるわけでもなく、結局、この映画は何を訴えようとしているのか、全然分かりませんでした。プッチーニは1924年に喉頭癌で死亡しました。66歳でした。彼は当時「トゥーランドット」を作曲中でしたが、未完成におわりました。この曲は、荒川静香が冬期オリンピックで金メダルをとった時に使った曲として有名です。

2016年3月23日水曜日

「三国志外伝」を読んで

 本書は、1986年に湖北省群集芸術館が編纂した、今なお語り継がれる三国志の伝承を集めたもので、立間翔介・岡崎由美訳、徳間書店出版(1990)です。サブタイトルは、「民間説話にみる素顔の英雄たち」です。
 漢が衰退した後、3世紀前半に魏・呉・蜀という3国が鼎立して争い、この争いについて、3世紀の後半に晋の陳寿が「三国志」を著します。ただ、陳寿は、面白い歴史を書こうとしたのではなく、あくまで正しい歴史を記録しようとしたのです。だから、荒唐無稽な伝説は極力排除をしています。しかし、この「三国志」には記録されなかった、民間伝承が伝えられており、講釈師などを通して人々に伝えられていました。元代にはこれに曲を付けて伝えられ、さらに「三国志」講談のタネ本が絵入りで刊行されます。そして、14世紀半ばの明朝の時代に、羅貫中という文学者が「三国志演義」を編纂したとされます。「三国志演義」では多くの説話が取り入れられ、これが一般に知られている「三国志」です。ただしこれは歴史書ではなく、歴史小説です。
 ただ、「三国志演義」にも取り入れられなかった説話があり、中国各地に民話として伝承されている説話があります。本書はこうした説話を集めたもので、千人近い人々からの聞き取りによって集められたそうです。まさに、「おららが村の英雄たち」の物語です。原書は500ページを越えるそうですが、本書はその一部を抄訳したものです。
 「三国志演義」は蜀を中心に語られているため、当然本書でも蜀に関する説話が多く、とくに関羽・張飛・諸葛孔明に関する説話が多く採用されています。諸葛孔明の結婚に関する異なる説話が3話あり、こうした重複する説話は他にも多数あるのだと思います。全体として荒唐無稽な話が多いのですが、それでも楽しく読むことができました。




2016年3月19日土曜日

映画「ムーラン・ルージュ」を観て

2001年にアメリカで制作された映画で、19世紀末におけるパリのムーラン・ルージュでのダンサー・娼婦と青年との恋を描いたミュージカル映画です。19世紀末から第一次世界大戦が始まる1914年頃までの時代は「ベル・エポック(良き時代)」と呼ばれ、一般に享楽的で退廃的な都市文化が花開いた時代でした。その象徴的な存在の一つが、パリのモンマルトルの丘にあるムーラン・ルージュというキャバレーでした。













http://www.air-travel-corp.co.jp/search03.html フランス旅行専門店「空の旅」



モンマルトルの丘は、19世紀までは農村でしたが、19世紀後半にナポレオン3世によりパリの大改造が行われた結果、路地裏の貧民たちは追い出され、モンマルトルなどに移住し、貧民街として発展していきました。そこへ貧しい芸術家たちが集まり、既成の価値観に縛られない新しい気風が形成され、彼らはボヘミアンと呼ばれました。ボヘミアンとは本来チェコ人のことですが、15世紀にボヘミアにいたジプシー(ロマ)たちがフランスにやってきて、放浪者という意味でボヘミアンと呼ばれるようになりました。これはヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダムのせむし男」の時代で、これについては、このブログの「映画でユーゴーを観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/01/v.html)を参照して下さい。やがて、既成の価値観に反発する人々はボヘミアンと呼ばれるようになり、そういう人たちが集まる場所はボヘミアと呼ばれるようになります。そしてモンマルトルは、パリのボヘミアとなっていきます。

このモンマルトルに、1889年にムーラン・ルージュという高級キャバレーが出現しました。ムーラン・ルージュとは、「赤い風車」という意味で、内部にも外部にも大量の電球をつけて、さながら不夜城のように輝いていました。ここへ来る客は、高級住宅地に住む金持であり、ここで働く女性たちはダンスや歌や簡単な演劇で男性たちをもてなしますが、彼女たちは基本的には娼婦です。要するに、ムーラン・ルージュは、金と力がある男たちが、日陰の女性たちをもてあそぶ場所でした。そして、ここに一人の奇妙な人物が入り浸っていました。画家のロートレックです。

ロートレックは名門貴族の家に生まれましたが、13歳と14歳の時に左右の大腿骨を骨折し、以後両足の発育が止まり、成人しても身長が152センチしかありませんでした。しかも上半身は大人として成長しましたので、かなりバランスの悪い体形となってしまいました。やがて彼は画家になることを目指してパリで修行し、ムーラン・ルージュなどに入り浸るようになります。彼自身が障害者であったため、日陰で生きる女性たちに共感し、彼女たちを愛情に満ちたタッチで描いています。また彼は、ムーラン・ルージュのためにポスターを描き、ポスターを芸術の域にまで高めました。しかし、彼は過度の飲酒のため健康を害し、1901年に36歳で死亡しました。
 映画の舞台は、1899年のムーラン・ルージュです。この時代のパリは、べル・エポック(良き時代)と呼ばれ、華やかな時代であると同時に、世紀末の退廃=デカダンスの時代でもあり、映画は、こうした当時のパリの雰囲気を、ムーラン・ルージュを通して描いています。映画は、ムーラン・ルージュの花形サティーンが、小説家志望の貧乏な青年に恋をし、やがて結核のために死んでいくという話しで、デュマの「椿姫」のストーリーと似ています。要するに、娼婦にも真実の愛があるという話で、ロートレックも映画で二人の恋を愛情を込めて見つめています。
 映画は、最初から最後までダンスと歌で満たされており、あまり私の好みではりませんが、映画を通じて、ベル・エポックと呼ばれた当時のパリの華やかさと退廃を、垣間見ることができました。

2016年3月16日水曜日

「匪賊 近代中国の辺境と中央」を読んで

フィル・ビリングズリー著(1988) 山田潤訳 筑摩書房 1994
原題は「バンディット」で、「義賊」というような意味です。中国語の「匪賊」に該当する英語がないため、バンディットが用いられたのだと思います。なお、バンディットについては、このブログの「映画で近世東欧を観て バンディット」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_10.html)、「「義賊マンドラン」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/03/blog-post_9.html)を参照して下さい。
 「賊」とは、「他人に危害を加えたり、他人の財物を奪ったりする者。国家・社会の秩序を乱す者」で、盗賊、山賊、海賊などです。一方、「義賊」とは「権力者からは犯罪人と目され、無法者とされながらも、大衆から支持される人々」で、ホブズボームはこれを「社会派盗賊」と呼んでいます。では匪賊とは何でしょうか。「匪」とは、「非」と同じで、「……ではない」「悪」といった否定的な意味をもちます。本書によれば、匪賊という言葉が使用されるようになったのは、18世紀半ば以降だそうです。清朝の社会矛盾の増大の中で、各地で賊が反乱を起こし、義賊と呼ばれる集団が多数出現するようになりますが、政権の側からこれを義賊と呼ぶことはできませんので、匪賊という侮蔑的な呼び方をするようになったのだそうです。そして、1920年代から30年代にかけて、匪賊が大量に出現するようになります。この時代には、国民党も共産党も、互いに相手を匪賊と呼んでいたそうですから、この時代は、まさに匪賊の時代でした。そして本書が扱うのは、この時代の匪賊です。
 こうした匪賊は、世界中どこにでもいましたが、地域的には経済的に自立しにくい辺境に、時代的には社会が変動して権力の空白が生まれた時代に出現するようです。彼らは、かならずしも伝説で伝えられるような「正義の味方」「貧乏人の味方」ではありませんでしたし、単なる盗賊集団・殺戮集団でしかない場合もありましたが、地域社会の価値観と結びつき、国家の価値観と対立することが多かったため、民衆の共感を得ることが多かったようです。考えて見れば、中国の王朝交替の動乱期には、必ず多くの匪賊が出現しますし、何よりも「水滸伝」の物語は匪賊の物語です。そして、毛沢東が「水滸伝」の愛読者だったことは皮肉なことです。
 また、中国には歴史上多くの秘密結社が存在し、これが匪賊と混同されがちです。ただし、多くの秘密結社は、政府の調査能力不足のため政府が知らなかったというだけで、秘密でも何でもない結社が多かったとのことです。そして秘密結社は、一定の信条と規律をもっていたのに対し、匪賊はただ生きるために行動したのであり、頭目が死んだり政情が変化すると消滅するものが多かったようです。その意味で、匪賊は秘密結社より結束力も永続性も乏しかったようです。
 本書は400ページを越える大作であり、こうした匪賊の定義に始まり、1920年代から30年代の匪賊の動向を、非常に詳細に論じており、非常に興味深く読むことができました。



2016年3月12日土曜日

映画「80日間世界一周」を観て

1956年にアメリカで制作された冒険映画で、フランスのヴェルヌが1872年に発表した小説を映画化したものです。ヴェルヌは、「SFの父」とも呼ばれる作家で、「気球に乗って五週間」「月世界旅行」「海底二万里」など多数の作品が残こしました。
















「月世界旅行」については、すでに1902年に映画化されており、この映画の冒頭で、その一部が紹介されています。南北戦争中のアメリカで、巨大な大砲によって月に向けて、人間の乗った弾丸を撃ち込むという話で、写真は弾丸が月に命中した場面です。考えて見れば、今日のロケットも弾丸のようなものだし、帰りはパラシュートでカプセルだけ落ちてくるわけですから、今日もヴェルヌの空想と大して変わらないように思えます。
80日間世界一周」では、イギリス人資産家フィリアス・フォッグが、社交クラブで80日間で世界を一周してみせると主張し、そのために全資産を賭けます。フォッグは極めて厳格で、特に時間に関しては1分の狂いも許しません。お供は、雇ったばかりのパスパトゥで、彼はいいかげんな性格で、特に女好きのためいつも騒動を起こしますが、サーカス団など色々な職業を転々としていたため、身軽で器用な人物でした。こうして、1872年、この二人の珍妙な旅が始まる分けですが、それはドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅のようでした。

この時代の交通事情は、劇的に変化していました。まず、蒸気船の普及により海上航海が風に左右されなくなり、さらに1868年にスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道が開通し、世界の距離は一気に短縮されます。なお、交通機関の発達については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第26章 自由貿易帝国主義と世界の一体化」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/26.html)を参照し下さい。また、1871年にトーマス・クック社という旅行会社が設立され、翌年には西回りでの世界一周の団体旅行を始めました。ヴェルヌがこの小説を書いたのには、こうした背景があった分けです。














映画では、フォッグは東廻りでの世界一周を試みます。まずドーバー海峡を渡ってパリへ行き、そこから列車でマルセイユに行く予定でしたが、列車が雪崩で不通になってしまったため、熱気球で行くことにしました。熱気球は、すでに18世紀の末に有人飛行(浮上)に成功しており、その後は金持の趣味として使用されていました。二人は、この熱気球を使って、多少遠回りしましたが、マルセイユに到達し、船でスエズ運河を越えて、インドのボンベイ(ムンバイ)に達します。そこから列車でカルカッタ(コルカタ)に向かいます。途中線路上で像がのんびり歩いていて停車したり、線路がカルカッタの80キロ手前までしか敷設せれておらず、残りを象で移動したりします。この間、インドの風習で殉死を強制されそうになっていた若い女性(アウーダ姫)を助け、彼女も連れて行くことになり、これで三人旅となります。
一方、フォッグがロンドンを立つ前に、ロンドンで銀行強盗事件が起き、フォッグを犯人と考えた刑事が、フォッグたちの後をつけていきますので、これで四人旅となりました。その後、一行は船で香港を経て日本の横浜に立ち寄り、そこから船でアメリカのサンフランシスコに向かいます。当時のサンフランシスコは、ゴールド・ラッシュで人が集まり、無秩序で活気ある町に成長していました。サンフランシスコから列車でニューヨークに向かい、途中で先住民の襲撃を受けたりしますが、なんとかニューヨークに到着し、その後色々あって期日前にイギリスに到着します。しかし、到着直後にフォッグは銀行強盗犯として逮捕されてしまい、その後釈放されますが、もはや約束の時間までに約束の場所に行けなくなり、彼は賭けに負けて破産することになります。ところが、彼は東から日付変更線を通っているため、1日儲けたことに気づき、結局賭けは彼の勝利ということになりました。
 なお、ウイキペディアに掲載されていたフォッグの予定表を下に転載しておきます。
地名
手段
滞在期間
合計
ロンドン/スエズ
鉄道・蒸気船
7(日)
スエズ/ボンベイ
蒸気船
13
20(日)
ボンベイ/カルカッタ
鉄道
3
23
カルカッタ/香港
蒸気船
13
36
香港/横浜
蒸気船
6
42
横浜/サンフランシスコ
蒸気船
22
64
サンフランシスコ/ニューヨーク
鉄道
7
71
ニューヨーク/ロンドン
蒸気船・鉄道
9
80

 当時、大英帝国は全盛期を迎えており、この物語は世界中を我が物顔で闊歩するイギリス人の姿を描いています。そして、この映画は、アメリカが世界の覇者となった時代に制作されました。したがって、イギリス人フォッグをアメリカ人に置き換えても良いわけです。ただ、この映画は非常に丁寧に制作されており、堅苦しいことを考えなくても、十分に楽しめる映画でした。

2016年3月9日水曜日

「義賊マンドラン」を読んで

千葉治男著 1987年 平凡社 サブタイトル「伝説と近世フランス社会」
 本書は、18世紀半ばのフランスに出現したマンドランという盗賊を題材として、彼が「義賊」と呼ばれるようになった近世フランス社会を論じています。
 義賊とは、ウイキペディアによれば、「国家や領主などの権力者からは犯罪人と目され、無法者とされながらも、大衆から支持される個人及びその集団」だそうです。また、義賊は資本主義の発展過程で現れるという説もありますが、義賊はヨーロッパだけではなく、日本にも石川五右衛門とか鼠小僧といった義賊がおり、またこのブログの「映画で近世東欧を観て バンディット」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_10.html)も、資本主義の発展とはあまり関係がないように思われます。
 マンドランは、アルプス山地を根城とした大武装密輸団で、フランスに何回も大密輸遠征を繰り返した人物で、当時のフランス政府を震撼させました。マンドランの父は商売で繁盛していましたか、戦争や徴税請負制度の非情さの故に没落しました。そしてマンドランは、この徴税請負制度をあざ笑うかのごとく、大武装密輸団を率いて密輸を行っていたわけです。本書は、徴税請負制度や密輸について詳しく説明し、民衆に憎まれていた徴税請負制度を愚弄するマンドランは、悪を懲らしめ正義を行う義賊という、マンドラン伝説を生み出しました。
 また、密輸が行われる時期は、農閑期に集中していますが、このことは農民が密輸に深く関わっていることを意味します。農業だけでは生活を維持できない農民が、密輸に関わって生活の足しにしていたようで、これもマンドデランが人々に人気があった理由の一つと思われます。ただ、マンドランを職業的密輸人と見ることはできません。密輸人は密かに行うものですが、彼は白昼堂々と大密輸団を率い、人々の怨嗟の的である徴税請負人を襲います。つまり彼は、密輸人を装った反逆者だったのです。
 そして、1755年に彼が処刑された後、マンドランに関する大衆向けの本が多数出版され、実際には彼は民衆のために戦ったわけではないのですが、義賊として人々の人気を博し、こうしてマンドラン伝説なるものが形成されていった分けです。一般に義賊と呼ばれる人々の伝説は、同じような形で形成されていったものと思われます。



2016年3月5日土曜日

映画で浮世絵師を観て

写楽Sharaku

 1995年制作の映画で、写楽(東洲斎 写楽)とは誰かという長年の問いに、一つの仮説を提示した映画です。写楽は江戸時代中期の浮世絵師で、寛政6年(1794年)5月に突然出出現し、翌年の3月にかけての約10か月の間に、145点余の役者絵を版行し、忽然と姿を消した人物です。その絵は、大胆なデフォルメによって役者の個性を巧みに描き出し、当時大評判となるとともに、日本の開国後欧米で高い評価を受けました。写楽の正体については、今日では、様々な傍証から、阿波徳島藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛という説が有力ですが、その特異なキャリアと画風から、様々な想像がなされてきました。この映画も、そうした想像の一つです。
 時代は寛政3(1891)年です。この頃、ヨーロッパではフランス革命が激化し、中国ではまもなく白蓮教徒の乱が起きようとしていました。日本でも、これより少し前に天明の大飢饉が起き、世の中は少しずつ変化しつつありました。1767年から約20年間続いた田沼時代には、重商主義政策が採られ、その結果町人が大きな力を持つようになり、同時に町人文化も繁栄しました。しかし、1786年に田沼は失脚し、松平定信が老中首座となると、田沼政治は否定され、緊縮財政や風紀取締など寛政の改革が進められるようになります。その結果、世の中はしだいに窮屈な時代となっていました。
 映画は、こうした時代を二人の人物を通して対比して表現します。一人は、寛政の改革の推進者松平定信であり、もう一人は蔦屋(つたや)重三郎です。蔦谷は江戸の版元(出版人)の一人でしたが、彼はそれに留まらず、有能な狂歌師や絵師たちを発掘して売り出し、斬新な企画を次々と打ち出していました。いわば彼は、町人文化の総合的なプロデューサーでした。そして、その蔦谷が、寛政3年に風紀取締りに違反したとして捕縛され、財産の半分を没収されるなどの処罰を受けます。彼にとって痛手だったのは、人気絶頂の戯作者だった山東京伝も捕縛され、さらに美人画の浮世絵師喜多川歌麿が他の版元に鞍替えしたことでした。特に歌麿を失ったことは大きく、これに代わる絵師を見つける必要がありました。
 その頃、中村座で歌舞伎の脇役をしていた十郎兵衛という若者がいました。彼は名役者になることを夢見ていたようですが、舞台で怪我をし、その後無頼な生活をしていました。彼の母親は大道の砂絵師をしていたようで、その影響で彼は暇さえあれば、戯れに絵を描いていました。この人物自体は架空の人物で、映画では、今日写楽だと推定されている阿波徳島藩の能役者斎藤十郎兵衛と重ね合わせているのだと思います。そして、まだ無名の葛飾北斎が、十郎兵衛の絵を見て腰を抜かしてしまいます。さすがに北斎には、絵の本質を見抜く眼力がありました。北斎はこの絵を蔦谷に見せ、これを見た蔦谷は大芝居をうつことを考え出します。重郎米に役者の首絵を描かせ、彼を写楽という謎の人物として売り出そうというのです。
 この企画は大当たりで、写楽の絵は大評判となりますが、営業的には失敗に終わりました。役者絵というのは、今日のスターのブロマイドのようなもので、買う側からすれば嘘でも美しい絵が欲しいし、描かれる側からすれば美しく描いて欲しいわけです。それに対して写楽の絵は、役者の個性を醜いまでに大胆に描いていました。結局、絵の売れ行きは振るわず、写楽自身がプロの絵描きではなかったため、創作に行き詰まり、さらに写楽の絵に脅威を感じた歌麿が写楽の追い出しを図り、写楽は消えていきます。さすがに歌麿も、写楽の絵が尋常でないことに気づいていたわけです。そして蔦谷は、1897年に48歳で病死します。

 映画では、吉原の風俗や花魁、そして花魁と十郎兵衛との恋などが描かれ、当時の江戸の町民文化が華やかに描かれています。また、上にあげた人々以外にも、今日にも名を知られる多くの芸術家が、ほんのちょっとですが、顔を出します。『東海道中膝栗毛』の十返舎 一九、武士出身で『南総里見八犬伝』を著した曲亭馬琴、彼は当時蔦谷の手代として働いていました。また、今日写楽と推測されている斎藤十郎兵衛が、芝居小屋に入り浸って絵を描いています。また、歌舞伎狂言の作者である鶴屋南北、武士の狂歌師である大田南畝なども出てきます。あまりに内容が多く、消化不良になってしまいそうでしたが、この映画は写楽が誰かということよりも、写楽が出現した時代の爛熟する町人文化を描いた群像映画のように思われます。

写楽考

矢代静一原作の「写楽考」が、2007年に舞台化されて劇場公開されたものが、DVD化されました。これも、写楽とは誰か、どのようにして1年の間にあれ程多くの作品を残したかを問う内容です。
 江戸八丁堀の長屋で、伊之(後の写楽)と勇助(後の歌麿)という二人の若者が住んでいました。二人は絵師の修行中で、伊之は地獄絵を、勇助は極楽絵を描くことを目指していました。そこへ世直しを志すという幾五郎という浪人(後の十返舎一九)が転がり込んできて同居するようになります。そして、一人の女性の死をきっかけに、伊之は犯人と疑われて逃亡し、幾五郎は旅に出ます。
 10年の歳月が流れた後、今や勇助は喜多川歌麿として名をなし、幾五郎は武士を捨てて、蔦谷のもとで働いていました。そこへ落ちぶれた伊之が、何枚かの絵を携えてやってきます。蔦谷は、その絵に人を驚かすような斬新さがあることを見抜き、伊之は自首することを望んでいましたが、蔦谷は捕まって処刑されるまで絵を描き続けるよう、伊之を説得します。それから10カ月、伊之は何かに取りつかれたように絵を描き続け、やがて捕縛され、処刑されます。

 最後の10カ月間の写楽には鬼気迫るものがあり、彼の絵が生まれた背景の説明にはなっていると思います。最後に蔦谷は「一人の絵師の一生の間に、たたった一度だけ、もそれもほんの束の間にだけやってくる、凄まじい気力と、よく見える眼と、踊るような筆遣いが生まれた絵なんです。見事に咲いた狂い咲きの、大輪の花でした」と独白します。それにしても、前の映画と同様、この映画でも歌麿は、冷酷で現実的な人物として描かれています。歌麿は晩年に、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたため、当代の将軍・徳川家斉を揶揄するものとして捕縛され、手鎖50日の処分を受けていますので、彼にも絵師としての熱い心があったのだろうと思います。

北斎漫画

1981年に制作された映画で、葛飾北斎の生涯を描いています。北斎の実名は鉄蔵といい、1860年に貧しい農民の子として生まれ、幼い頃鏡磨師の養子となりますが、その後家を出て、貸本屋の丁稚や木版彫刻師の徒弟などを経て、絵師となることを決意します。多くの絵師の弟子になりますが、どれにも満足せず、絵師としても認められませんでした。1805年に葛飾北斎という号に改め、1814年に「北斎漫画」を刊行して大評判となります。すでに50代半ばでした。1820年に「富獄三十六景」、1836年に「富獄百景」を刊行して、絵師としての名声は不動のものとなります。この時すでに70代半ばでした。その後数々の名作を残し、1849年に90歳で死にます。死に際して、あと10年足りないと言ったそうです。
北斎の奇行やエピソードについては、数えきれない程伝えられています。改号すること30回、転居すること93回、衣食に関心をもたず、部屋は散らかり放題だったそうです。彼は、森羅万象あらゆるものに関心を持つという点で、レオナルド・ダ・ヴィンチに似ており、風体に無関心なことと長寿だったことでミケランジェロに似ているように思います。また、彼の三女お栄(葛飾応為)は、映画でも重要な役割を果たしますが、北斎と性格が似ており、片付けが嫌いで男のような性格だったそうです。彼女は、夫と離縁した後北斎とともに住み、父の手伝いをします。彼女の絵師としての技量は相当なものだったようで、北斎作と言われる作品の中には、彼女が描いたものが含まれている、ともいわれています。
映画に登場するもう一人の重要人物として、滝沢(曲亭)馬琴がおり、当時は左七と呼ばれていました。彼は武士の家に生まれ、武家奉公をしたこともありますが、長続きせず、放蕩無頼な生活を送っていましたが、読本作者になることを決意して、1790年に山東京伝に弟子入りを申し込みました。山東京伝は弟子とすることは断りましたが、彼を蔦谷に紹介し、以後彼は武士を捨て、手代として蔦谷に奉公することになります。この時代には、武士に見切りをつけて町人になる者が増えてきたようで、十返舎一九も武士の出でした。27歳の時、馬琴は生活のために、履物屋の入婿となりますが、30歳頃から本格的に読本の創作活動に入り、少しずつ名が知られるようになっていきます。そして、1814年に「南総里見八犬伝」が刊行されることになります。
北斎は馬琴とは刎頸(ふんけい)の友だったそうで、映画は、北斎と娘のお栄が、履物屋時代の馬琴の2階に間借りした所から始まります。非常に几帳面だった馬琴とは対照的に、北斎は自由奔放な人物で、しばしば馬琴の読本の挿絵を描いてやりますが、作者の意図に合わない絵を描くため、しばしば喧嘩になったそうです。映画は、履物屋に居候していた時代から始まり、北斎・お栄・馬琴のコミカルなやり取りが描かれます。北斎は人の度肝を抜くことが好きだったようで、縁日で120畳の紙に大きな達磨を描いたり、逆に米粒に絵を描いたりします。そして、突然に旅に出、「富獄36景」を描きます。
映画の後半は、北斎が89歳の時に飛びます。相変わらず気力は旺盛でしたが、体力の衰えは明白でした。そして相変わらず貧乏でした。彼は相当の画料を得ていたはずですが、金銭に全く無頓着で、すぐに使ってしまいます。そして言います。「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」

 「北斎漫画」は、「気の向くままに漫然と描いた画」だそうですが、まさに彼の人生が「漫画」だったのかもしれません。