はじめに
18世紀末か20世紀初頭にかけて、ヨーロッパで活躍した5人の音楽家をとりあげました。モーツァルト、ショパン、シューマン、チャイコフスキー、プッチーニです。この5人を取り上げた理由は、たまたま私が、この5人の映画を観たという以外には何もありませんが、この時代にヨーロッパの古典音楽と呼ばれるものが形成されていきました。また、5人とも「天才」と呼ばれるに相応しい音楽家であり、「天才」というのは、音楽を除けば、いつまでたっても子供のようだと思いました。ただ、彼らは、19世紀というヨーロッパが最も繁栄した時代に、古典音楽と呼ばれるヨーロッパ音楽の基盤を形成しました。
私は、音楽に関しては、無知・無理解・音痴であり、音楽について語る資格はありません。したがって、ここでは以上の5人を扱った映画の紹介に留めたいと思います。
こうした優れた音楽家は、ヨーロッパに限らず、いつの時代でも、どんな地域にもいたはずです。私が以前に読んだ「中国奇人伝」(陳舜臣著、1987年、新潮社)に万宝常という音楽家について書かれていました。彼は、中国の伝統音楽や西域音楽を集め、色々楽器を造り、斬新な音楽理論を書き残したそうです。「体に音楽を覚えさせようとした彼は、しだいに奇行が目につくようになった。どこにいても、音を集め、それをリズム化して、体にそれを同調させる。その作業をしている間は、他のことはすべて忘れている」のだそうです。したがっていつも体をゆらゆらと揺らせ、周りからは奇人と見られていました。彼の音楽理論について、私にはまったく分かりませんが、万宝常のような傾向は、ここで述べる音楽家たちについても当てはまるのではないかと思います。
アマデウス
1984年アメリカ制作の映画で、モーツァルトの半生を描いた映画です。全編にモーツァルトの曲が流れ、大変感動的な映画です。
モーツァルトの父も音楽家で、息子の異常な才能に気づき、3歳の時から音楽を学ばせ、神童と呼ばれた息子を連れて、就職活動のためヨーロッパ各地を旅します。当時の芸術家は職人にすぎず、芸術家として安定した生活を得るには、宮廷などのお抱え芸術家になる必要がありましたが、就職活動は失敗に終わります。音楽家がフリーで食べていける時代ではありませんでした。特に作曲はあまり金になりませんでしたが、当時ピアノが普及し始めたため、多くの音楽家はピアノの家庭教師で生計を立てますが、その収入は僅かなものでした。
彼は、どこでも常に賞賛されましたが、それでも安定した地位を得ることができませんでした。そうした中で、1781年、25歳のモーツァルトはウィーンに定住することを決意し、フリーの音楽家として、演奏会の開催やオペラの作曲で生計を立てるようになりました。彼の活動はかなりの評価を得ますが、それでもフリーでの活動には限界があり、彼自身に贅沢癖があったこともあり、結局借金を重ね、体を崩し、1891年に死去します。
映画は、サリエリという宮廷楽団長の回想という形で進められます。彼はモーツァルトの才能を妬み、密かにモーツァルトの活動を妨害し、彼を破滅させるという話です。彼は思います。神は何故あのような軽薄な男にこれ程の才能を与えたのか、これ程神の栄光を讃える自分に対して、神は何故自分には、せいぜいモーツァルトの才能を理解できる程度の才能しか与えてくれなかったのか。サリエリは、誰よりもモーツァルトの才能を理解できたが故に、許せませんでした。モーツァルトの作品には心底感動しますが、それだけ自分の凡庸さが際立ってくるのです。
天才とは何かということについては、凡才である私には答える術がありません。ただ、映画で観るモーツァルトは、人間のもつすべての能力が音楽という一点に集中してしまい、音楽を除いたら子供同然でした。映画を観ていると、不幸なのはむしろモーツァルトの方ではないか、と思えてくるほどです。いずれにしても、サリエリは、モーツァルトを滅ぼすための最期の仕掛けにかかります。彼は、匿名で体調を崩したモーツァルトに「レクイエム(鎮魂歌)」の作曲を依頼します。そしてモーツァルトは、「レクイエム」の作曲中に死亡しました。まさにモーツァルトは、自分のために「レクイエム」を書いた分けです。
サリエリは実在した人物ですが、映画で描かれているようなサリエリ像については、19世紀に噂されたこともありましたが、それは事実無根です。彼がモーツァルトについて実際にどの様に考えていたについては知りませんが、少なくとも彼はベートーヴェン・シューマン・リストなど、才能のある音楽家たちを育てた、優れた教師でした。また、モーツァルトに「レクイエム」の作曲を依頼した人物は、今日判明しており、サリエリではありません。とはいえ、サリエリが作曲した作品はまもなく忘れ去られ、モーツァルトの曲は今日まで広く愛されているのは事実です。ただ、「アマデウス」の公開で、サリエリという人物が注目され、今日ではサリエリの再評価が進んでいるようです。
ところで、ドイツのテレビ局が、「史上最も偉大なドイツ人は誰か」というアンケートをしたところ、モーツァルトの名があげられましたが、これに対してオーストリアがモーツァルトはオーストリア人であるとして抗議しました。これに対してドイツは、当時は神聖ローマ帝国であってオーストリアなどという国はなかったと反論しましたが、オーストリアはドイツという国もなかったと反論しました。たしかに、ドイツという表現が公式に用いられるようになったのは19世紀になってからで、ドイツ・オーストリアの歴史の複雑さを反映するエピソードですが、どうでもよい議論でした。
ショパン
2002年にポーランドで制作された映画で、ポーランドが生んだ天才ピアニスト・ショパンの生涯を描いています。ショパンの父はフランスからの移住者ですが、ショパンも父もポーランドへの強い愛国心を持ち、ショパンはパリで死にますが、彼の遺言により彼の心臓はポーランドに埋葬されました。
当時のポーランドはロシアの支配下にあり、ポーランドの独立運動は厳しい弾圧を受けていました。そのため、ショパンは1830年にポーランドを離れ、翌年パリに向かいます。ショパン、21歳の時でした。初めは、彼の曲は受け入れられませんでしたが、リストが彼の曲を演奏して、好評を得ます。リストは、ハンガリー生まれのドイツ系移民で、ハンガリーに対する強い愛国心を持ち続けていました。彼のピアノ演奏の技量はショパンを凌ぎ、「指が6本ある」とさえ言われた程です。
ピアノが歴史に登場するのは1700年頃だそうですので、ピアノは意外に新しい楽器です。ピアノは、鍵と連動したハンマーで絃を叩いて音を出す楽器で、音域が広く、汎用性が高いため、急速に普及しました。すでにモーツァルトの時代には広く使用されており、19世紀に入ると次々と改良が重ねられました。その結果、ピアノを使ってどのように演奏するのか、またどのような曲がピアノの演奏に相応しいのか、こうしたことが追及されるようになります。ショパンが登場するのは、こうした時代でした。したがって、ショパンの作品には、ピアノ練習曲や独奏曲が多く、彼はピアノの詩人と呼ばれました。
映画は、ショパンとジョルジュ・サンドとの交際を中心に描かれます。ジョルジュ・サンド(ペンネーム)は、当時フランスで高名な女流作家であり、フェミニストとしても知られていました。彼女は、当時すでに夫とは別れ、二人の子がいましたが、何人もの男性と交際していました。そして彼女はショパンに一目惚れし、1837年から二人の交際が始まります。二人は、地中海のマヨルカ島や彼女の別荘で過ごし、サンドは、病弱で子供のようなところのあるショパンを甲斐甲斐しく世話し、10年間一緒に暮らします。そしてこの10年間は、ショパンにとって最も実り多い時代で、多くの傑作が生みだされます。
結局、サンドの子供たちとショパンとの関係がこじれ、1847年に二人は分かれることになります。その後ショパンの病状が悪化したため、ポーランドからショパンの姉が看病のため訪れ、彼女が見守る中で、1849年にショパンは死亡します。39歳でした。
この映画が何を描きたかったのかは、よく分かりませんでしたが、全編を通じてショパンの曲が流れ、大変美しい映画でした。
クララ・シューマン 愛の協奏曲
2008年にドイツ・フランス・ハンガリーによって制作された映画で、主人公はシューマンの妻クララで、クララと若い作曲家ブラームスとの恋を描いています。サブタイトルの「愛の協奏曲」というのは、ブラームス作曲の「ピアノ協奏曲」を暗示しているのでしょうか、私にはよく分かりませんでした。
シューマンは、1810年にドイツで生まれ、1830年20歳の時音楽家になることを決意し、高名なピアノ教師だったヴィーク家に下宿しますが、そこにヴィークの娘クララがいました。彼女は当時10歳でしたが、すでに天才ピアニストとして名が知られていました。これに対してシューマンは、1年後に右腕を痛めたため、作曲家になることを決意します。やがて二人は愛し合うようになり、1840年に、クララの父ヴィークの反対を押し切って結婚します。シューマンが30歳、クララが20歳の時でした。
二人の結婚生活は、厳しいものでした。シューマンの稼ぎが少なかったため、シューマンとともに全国で演奏旅行を行い、しかもその間に8人もの子を出産します。そのためクララの生活は、妊娠、出産、育児、演奏旅行の連続でした。演奏のためにはピアノの練習が必要ですが、夫の作曲の邪魔にならないように、気を使わなければなりませんでした。シューマンも、家計を支えるために作曲に励みますが、苦労して大作を作曲しても、得られる収入は僅かでした。そうした中で、シューマンの心は次第に病に蝕まれていきました。
1853年に、まだ二十歳のブラームスがシューマンのもとを訪れます。ブラームスは、レストランや酒場でピアノを演奏して生計を支えていましたが、シューマンが音楽評論雑誌でブラームスを絶賛したこともあって、急速に名声を高めていきます。これに対してシューマンの病状はますます悪化し、翌年ライン川に飛び込んで自殺を図ったため、療養所に収容され、1856年に死亡しました。46歳でした。
その後クララは、夫の作品を整理して出版したり、世界各地で演奏旅行を行い、その度にシューマンの曲を紹介し、最高の女性ピアニストとしての名声を築いて、1896年に死亡します。77歳でした。一方、その後ブラームスは作曲に専念し、大きな成功を収めました。シューマンは、すでに生前からベートーヴェンの後継者と言われていましたが、シューマンはブラームスこそベートーヴェンの後継者だと言い、事実ブラームスの交響曲第1番をベートーヴェンの交響曲第10番という人もいるそうです。そしてブラームスは、生涯クララを支援し、クララの死の翌年に死亡しました。63歳でした。
映画は、クララとブラームスの恋愛関係を描いていますが、クララは14歳も年上であり、実際にそうした関係があったかどうか不明です。確かにブラームスは生涯クララを援助しますが、彼は親戚にも惜しげもなく金を与え、才能ある無名の音楽家には匿名で寄付をしており、もともと面倒見の良い人物だったようです。この映画は、シューマンとクララの苦しくても音楽に包まれた生活を描いている範囲内では良かったのですが、ブラームスとの恋愛関係が生まれると、話が陳腐になってきます。「愛の協奏曲」というサブタイトルも、どこかこじつけのような気がします。
チャイコフスキー
1970年にソ連が、バレー界・音楽会の最高の人材を投入して制作した、チャイコフスキーの伝記映画で、154分に及ぶ長編です。チャイコフスキーと言えば、日本では、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」などのバレー曲で知られており、哀愁に満ちたやさしいメロディは日本でも大変愛されています。
彼はウラル地方で生まれましたが、ウクライナ・コサックの血を引いており、彼自身しばしばウクライナを訪問しています。今まで述べてきた音楽家たちと同様、彼も幼少の頃から、音楽家としての天性の能力をもっていたようで、映画では、少年時代に突然、頭の中に音楽が流れてきた様が描かれています。音楽家になった後も、突然頭の中で音楽が聞こえてきたようですが、絶え間なく頭の中で音楽が流れている生活というのは、幸福なのか不幸なのか、よく分かりません。彼は、社会の動きにはほとんど関心がなく、この時代のロシアでは専制君主制に対する激しい不満が渦を巻いていましたが、映画でもそうした社会の動きは直接的には扱われていません。
1875年、25歳の時に彼はピアノ協奏曲第1番を作曲し、作曲家としての名声を得ますが、生活は決して楽ではありませんでした。そうした中で、富豪の未亡人、メック夫人から相当額の資金援助の申し出を受け、以後15年間資金援助が続けられ、この間二人の間で頻繁に手紙が交わされましたが、二人が出会うことは一度もありませんでした。婦人がなぜ彼に援助したか分かりませんが、映画では、彼の曲が自分苦しかった人生を慰めてくれ、彼と彼の曲にほのかな恋をしていた、という描き方がされています。
後半は、チャイコフスキーとメック夫人とのプラトニック・ラブが中心となります。映画では、チャイコフスキーが資金提供を断ったため、二人の関係が破たんしたとしていますが、実際にはメック夫人が破産したと勘違いして資金提供を打ち切ったようで、以後二人の関係は疎遠となっていきます。この間にも、次々と新しい曲が生れてきます。映画では、風景、声、感情の変化に応じて、彼の頭の中に次々と音楽が流れます。彼は、作曲しているというより、送られてくる音楽を楽譜に書きとめている、といった感じです。やがて、彼は、ロシア音楽界の頂点を極め、多くの人々に賞讃されつつ、1893年に死亡します。死因はコレラだったそうです。53歳でした。そして翌年、メック夫人も死亡します。
この映画は、音楽会・バレー界など、ソ連の総力を結集して制作され、全編にチャイコフスキーの曲が流れています。まさに、チャイコフスキーはソ連が誇る偉大な音楽家でした。同時にこの時代には、トゥルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキーなど偉大な文学者が活躍しました。政治体制も社会も無茶苦茶な時代に、ロシアの文化に一体何が起こったのでしょうか。もちろん、これについては、様々な解説が行われていると思いますが、残念ながら、私は知りません。そしてチャイコフスキーの死より四半世紀ほど後にロシア革命が起き、ロシアは長い苦難の時代を迎えることになります。
プッチーニの愛人
2009年にイタリアで制作された映画で、イタリアを代表するオペラの作曲家の一人プッチーニの家で起こった「ドーリア・マンフレーディ事件」呼ばれる事件を扱っています。
19世紀後半のイタリアでは、「椿姫」や「アイーダ」などのオペラ作曲で知られるヴェルディが活躍していました。ヴェルディの時代は、イタリア統一の時代であり、彼自身は政治に関心がありませんでしたが、イタリア統一の中心人物であるカヴールの友人であったことから、彼の曲はイタリア民族運動を鼓舞する曲として、人々に愛されました。ただ、彼自身は政治に関心がなく、晩年は慈善活動に携わっていました。そして、イタリアのオペラ界で、彼の後を継いだのがプッチーニです。
彼は宗教音楽家の家系に生まれ、ヴェルディの「アイーダ」に接してオペラの作曲家になることを決意します。そして1890年代には、「蝶々夫人」など次々と傑作を発表し、その曲の劇的な展開と繊細な描写、女性の心理描写の巧みさなどから、彼の曲は多くの人々に愛されるようになります。実生活では、土地を買って多くの小作人を雇い、いわば荘園領主として、経済的に安定した生活をするようになります。この時代になると、フリーの音楽家も、富を得ることができるようになった分けです。
映画では、別荘での物憂い、かつ家族間の微妙な緊張を孕んだ生活が淡々と描かれます。そして、1908年から1909年にかけて、「ドーリア・マンフレーディ事件」が起きることになります。プッチーニという人は、相当な女たらしで、数えきれない程の女性を相手にしてきました。一方彼の夫人は嫉妬深く、二人の間にはいつも緊張関係がありました。そして彼女は、家政婦のドーリアが夫と関係をもったと思い込み、彼女を追い出し、さらに人前で彼女を淫乱と罵ります。信仰深い彼女は服毒自殺し、自分を解剖して処女であることを確かめるよう遺言しました。そして彼女は処女でした。プッチーニが彼女に手をだしていなかったのは、むしろ奇跡というべきでした。ドーリアの家族は裁判所に訴えましたが、結局プッチーニが示談金を払って、事件は終わりました。これが事件の顛末ですが、手がけていた新作の完成が1年ほど遅れた、ということ以外には何の影響も及ぼしませんでした。
映画では、台詞がほとんどなく、時々出演者の独白と手紙が映し出されて、かろうじて事件の推移が分かる程度です。映像は美しいのですが、プッチーニの音楽が流れるわけでもなく、結局、この映画は何を訴えようとしているのか、全然分かりませんでした。プッチーニは1924年に喉頭癌で死亡しました。66歳でした。彼は当時「トゥーランドット」を作曲中でしたが、未完成におわりました。この曲は、荒川静香が冬期オリンピックで金メダルをとった時に使った曲として有名です。
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