2020年5月30日土曜日

映画「LBJ ケネディの意志を継いだ男」を観て



2016年にアメリカで制作された映画で、アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)を描いたもので、LBJというのは彼の名の略称です。暗殺された先代のジョン・F・ケネディはJFKと呼ばれていました。一般にこうした略称で呼ばれるのは特別な大統領のみとされますが、ジョンソンは自らそう名乗ったそうです。
 ジョンソンは貧しい家庭で育ちますが、政治家を志し、下院議員、上院議員を経て、上院の院内総務に上り詰めます。彼は大統領選挙に立候補する十分な資格がありましたが、民主党内の指名選挙で若いケネディに敗れ、ケネディの副大統領となります。ケネディは高邁な理想を掲げますが、それを実行する手腕に欠けていました。それに対してジョンソンは、長年議会人として生きてきた人物で、議会工作の達人でした。しかし、一般にアメリカでは副大統領というのは「飾り物」で、実質的な仕事はほとんどさせてもらえまず、ジョンソンは不満を募らせていました。こうした中で、1965年にケネディが暗殺され、黒幕がいるのかどうかについて様々な憶測がなされましたが、その黒幕はジョンソンではないかと疑う人さえいました。
 アメリカでは、大統領が死亡すると副大統領が昇格して残りの任期を全うします。この昇格の順序は厳密に定められており、先年アメリカのテレビドラマで、議場が爆破されて大統領・閣僚・銀議員の大半が死亡し、たまたま不在だった末端の閣僚が大統領に昇格するという話がありました。この話は極端ですが、アメリカでは大統領が死亡して副大統領が昇格した例は少なくありません。そしてこの時代には、アメリカ大統領は核兵器の発射命令を出せる世界最高の権力者ですから、権力の空白は許されません。ジョンソンは直ちにホワイトハウスへ飛び、その機中で大統領就任の宣誓を行いました。
 ジョンソンは、民主党内では保守派だと思われていましたが、大統領に就任すると、巧みな議会工作を通じてケネディ時代の懸案だった法案を次々と通過させます。1年余りの任期を全うした後、「偉大なる国」の建設をスローガンに掲げて大統領選挙に圧勝し、社会福祉やマイノリティの保護など、革新的な政策を次々と実現していきます。しかし、ケネディ以来のベトナム介入に深入りして財政難に陥り、反戦デモが激しくなる中で、ジョンソンは民主党内での支持を得られず、次期大統領選挙への立候補を断念しました。

 私は、ジョンソン大統領についてよく知りません。ケネディの明るいイメージに対してジョンソンには暗いイメージがつきまといます。それはベトナム戦争への介入によるものと思われますが、ベトナムへの介入はケネディ時代に始まったものであり、その意味ではジョンソンはケネディの遺志を継いだと言えるでしょう。

2020年5月27日水曜日

映画「ソーシャルネットワーク」を観て





















 2010年のアメリカ映画で、SNSサイトのFacebookを創設したマーク・ザッカーバーグらを描いた映画です。
ソーシャル・ネットワーク(social networking service, SNS)について私は何も知りません。ウイキペディアによれば、SNSとは人と人とのつながりを促進・サポートする、「コミュニティ型の会員制のサービス」と定義されるそうです。私は現在、ブログ、フェイスブック、ラインを使用しています。ただブログは、通信機能はありますが、日記のようなもので、SNSとは言えないでしょう。またアメリカの大統領が盛んに利用しているツィッターは、ツイッター社がSNSではないと言っているそうです。世の中にパソコンが登場して以来、SNSの可能性が論じられ、実際いくつものSNSが構築されていました。そうした中でフェイスブックが登場し、一気に全世界に拡大しました。
 主人公のザッカーバーグはハーバード大学の学生で、ガールフレンドに振られた腹いせに、大学のサーバにハッキングして女子学生の顔写真を集め、これをネットに公開して、美人コンテストを行いました。相当「危ないやつ」です。この技術に注目した友人が、大学内のネットワークを構築するソフトの製作を依頼し、ザッカーバーグはこのアイデアをもとに独自のソフトを開発し、2004年に「The Facebook」として公表します。まさに「裏切り者」です。The Facebookはたちまち広まり、やがてTheをとってFacebookとなり、本拠地を西海岸のカリフォルニアに移して本格的な活動を開始します。当時まだ二十歳でした。そして、その年のうちに登録者数は100万人を突破しますが、今日の登録者数は241千万人、傘下のインスタグラムが10億人だそうで、圧倒的なシェアを誇っています。
Facebookがなぜこれ程支持されたのか、他のアプリを知らない私には分かりません。ただ、Facebookがこの時代が求めるものに、ぴったり合っていたからなのでしょう。そういう意味でザッカーバーグは天才だったと言えるのだと思います。映画でみる限り、彼は嫌なやつで、決して付き合いたいとは思いません。しかしこの映画を観たザッカーバーグは、自分自身だといって同意したそうです。一方、映画で観る限り、彼は富や名声にはあまり関心がないようで、いつももっと遠いところを見つめているようにおもわれました。それが何なのかは、私には分かりません。

2020年5月23日土曜日

映画「帰ってきたヒトラー」を観て


2014年にドイツで制作された、ヒトラーをパロディ化した映画で、この2年前に発表された原作は、ドイツでベストセラーとなりました。ヒトラーについては、「映画でヒトラーを観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/02/blog-post_24.html)など、このブログで何度も触れてきました。ヒトラーについては、ドイツでは称賛することが禁止されており、ヒトラーの著作「わが闘争」は、現在でもドイツでは販売されていません。したがって、ドイツではヒトラーを扱った映画は非常に少なく、2004年の「ヒトラー~最後の12日間~」が最初の映画だそうで、死の直前のヒトラーの錯乱ぶりを描いています。
 さて、1945430日に、ヒトラーは地下壕の執務室で自殺しますが、映画ではヒトラーはその直後に2011年のベルリンにタイム・スリップします。当初ヒトラーは自分が置かれた立場を理解できませんでしたが、新聞などでリサーチしている内に、この時代がヒトラーの時代と意外に似ていることに気づきます。貧富の差の大きさ、国民の不満、異人種の流入などです。一方、ヒトラーに出会ったジャーナリストは、彼が喜劇役者だと思い込み、彼をマスコミに売り込み、大評判となります。彼の言うことには一定の真実味があるとはいえ、さすがに時差ボケしており、そのボケ振りが人々の大喝采をあびます。多くの人々は彼について、少し変なやつだが、危険はないと考えていました。また、ネオナチの人々が、彼がドイツを馬鹿にしているとして暴力を振るうのもコミカルでした。
 今や何が真実で、何が嘘なのかはっきりしません。しかし、ヒトラーにははっきりしていました。彼は、自分がなぜ70年もの年をワープして、今ここにいるのかはわかりませんでしたが、70年前の時代とよく似たこの時代の社会で、自分が指導者になれることを確信し、若者たちを集めて親衛隊を組織しようとしていました。人々は、こうしたヒトラーの行動をコメディとして捉え、しかも彼が現状の矛盾を鋭くついていましたので、人々はなんとなく彼に惹きつけられていきました。しかし、ヒトラーが登場した時のドイツの人々は、彼の行為 をコメディと見ていたのではなかったでしょうか。1930年代におけるヒトラーの大言壮語を人々は信じていたのでしょうか。しかし人々はいつのまにか戦争とユダヤ人の虐殺に引き込まれていきました。
 現代の人々の多くは、現代の時代にそのようなことが起きるはずがないと考えているでしょうが、それが心の油断であり、私自身こうした罠に何時引き込まれるか分かりません。このブログを通じて、私は繰り返し「ヒトラーとは何か」について考えてきましたが、それは私の心の中にあるのかもしれません。この映画のDVDジャケットの中央に、「笑うな 危険」と書かれていますが、これこそ我々の心の油断を指摘しているのかもしれません。
映画は大変面白く観ることができましたが、実は気楽に笑っている場合ではないのです。一部の評論家から、この作品にはヒトラーを肯定的に捉えている部分があるという批判があったそうですが、実はそれこそが、この作品が主張するファシズムの罠ではないかと思うのです。
最近のコロナウイルス騒ぎに際して、大都市圏の地方自治体の首長が店舗の閉店を要請しましたが、それに従わなかったパチンコ店の店名を公表しました。私を含めて多くの人が、緊急事態だから仕方がないと考えましたが、これはファシズムの罠でした。こうした見せしめ的な店名の公表は、一般市民による個人への自警団的な介入を生み、やがてそれがファシズム的な熱狂を生み出します。公表した知事たちが、ファシストだとは言いません。ただファシズムはこうして生まれるのだと思います。ファシズムの時代には、多くの人々は違和感を感じながらも、緊急時だから仕方がないと思っていたのです。そして人々が間違いに気づいた時、もはや手遅れとなっていました。

 私はこのことについて、ニュースでのある研究者の発言で気づきました。この研究者は、店名の公表はファシズムの手法だといったのです。愚かにも私は、このことに気づきませんでした。また、人気絶頂の知事たちの政策について、これをファシズムの手法という見解に対して不快感をもった人が多かったのではないかと思います。しかし私はこれで目が覚めました。これがファシズムの罠だとうことです。

2020年5月20日水曜日

映画「太陽」を観て


ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督によりロシア・イタリア・フランス・スイス合作映画として制作された映画で、終戦直前・直後の昭和天皇の苦悩が描かれています。ロシアで制作された映画であるにも関わらず、映画で使用されている言語は、日本語と英語のみです。
映画は、戦争末期の激しい空襲と核兵器の投下により日本が廃墟となりつつあり、天皇は皇居の地下壕で生活しているところから始まります。結局、日本はポツダム宣言を受託し、194592日に降伏文書に署名します。そして927日に天皇はマッカーサーが会見し、194611日に、いわゆる「人間宣言」を発表しました。日本は明治以来、神格化された天皇を国民統合の精神的中核とする国家体制を形成してきましたが、日本でいう神は欧米でいう絶対的なGodとは異なり、例えば「誰々は野球の神」であるという程度の意味です。もちろん戦争が激しくなるにつれて、軍部が天皇の神格化を利用しようとしたとしても、昭和天皇自身はそれを嫌悪していたとされます。
「人間宣言」がどのように作成され、それをどのように解釈すべきかについては多くの議論があり、私が口をはさむことなどありません。ただ、この詔勅を「人間宣言」と呼んだのはマスコミで、詔勅の後半部分で、天皇が神の子孫であることは否定せず、「現人神」ではないことを宣言しています。このことは、天皇制についての従来の考えを否定するものではなく、天皇は今日でも神の子孫としての古い儀式を遂行しています。いわば天皇は、天皇制という日本の古い文化の継承者というべきかもしれません。
映画は、こうした難しい話には一切立ち入りません。ただこの時期の昭和天皇の日常生活を、淡々と描いているのみで、イッセー尾形は昭和天皇の所作を見事に学び演じていました。この半年の間に昭和天皇は重大な決断をいくつか行い、その度に表情が変わりますが、最も激しい表情の変化を示したのは、この映画の最後でした。それは「人間宣言」を作成するにあたって協力した若い技官が自殺したという知らせを聞いた時でした。この時の天皇の表情は映し出されませんでしたが、それを間近で見ていた皇后(桃井かおり)の表情が、見るも恐ろしい形相に変貌していく姿が映し出されていました。それは、鏡に映った天皇の姿だったのでしょう。
昭和天皇についてはタブーが多く、このような映画は日本人には制作できないでしょう。また、このような視点で昭和天皇を捉えた日本人も、あまりいないように思います。一方、史実に多くの誤りがあるとして批判する人たちもいますが、監督自身が、これはドキュメンタリーではないと述べており、事実に基づいているとはいえ、史実を忠実に再現した映画ではありません。映画は、権力の座にいながら、いかなる権力ももたず、人間でありながら、神のようにみなされた、一人の善良で孤独な人間を、いくぶんコミカルに愛情をこめて描いています。監督は、この映画の続編を是非日本人に制作して欲しいと、述べているそうです。
アレクサンドル・ソクーロフ監督は、すでに日本との合作で「エルミタージュ幻想」という映画を制作しており(「第27章 社会主義の挑戦」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/27.html))、さらにヒトラーやスターリンについての映画も制作されているそうです。この監督がヒトラーやスターリンを描いたらどのようなるのか、大変興味深く思います。


2020年5月16日土曜日

映画「ロープ 戦場の生命線」を観て

2015年にスペインで制作された映画で、この映画の冒頭の字幕によれば、「1995年バルカン諸国のどこか」ということになっていますが、多分ボスニアでしょう。ボスニアについては、このブログでも何度も触れましたので、以下の記事を参照して下さい。
「映画でユーゴスラヴィアの解体を観て」
「映画でボスニアを観て」
「映画「ユリシーズの瞳」を観て」
戦争が始まる以前には、イスラム人とボスニア人が隣同士であろうと、セルビア人とボスニア人が夫婦であろうと、何の問題もありませんでしたが、一旦民族・宗教対立が起きると、人々はバラバラに引き裂かれ、互いに激しく殺し合いました。このようなことが何故起きるのか、私にはどうしても理解できませんが、同じようなことが今日でも世界各地で起きているのが現実です。
1995年一応戦争は終結しましたが、まだあちこちで戦闘が起きているボスニアで、平和維持のための国連軍や各種NPOが再建のための作業にはいっており、映画は、「国境なき水と衛生の管理団」というNPOの活動を描いています。ある村で井戸に死体が投げ込まれて生活用水が汚染されたため、「国境なき水と衛生の管理団」が現地に赴いて死体を引き上げようとしますが、ロープが切れてしまいます。そこで彼らはロープを求めて、何十キロはなれた駐屯地に向かい、二日がかりでロープを手に入れ、死体の引き上げに成功します。
映画は、この二日間を多少コミカルに描いています。プエルトリコから来たボランティアの男性、「国境なき水と衛生の管理団」の現場責任者の女性、ロシア出身の国連職員、通訳などが、一本のロープを求めて、右往左往します。その過程で、地雷の問題、国連職員の官僚主義、親と離れ離れになった子供、弾痕だらけの廃墟となった家、そして馬鹿馬鹿しいほどゆっくりとした動き。あの内戦中の激しい憎しみが嘘のようです。休戦処理とはこのようなものなのかもしれません。こうした地道な活動が、やがて真の平和をもたらすのでしょう。死体の浮いた井戸という深淵が、こうした活動を見守っているかのようです。


2020年5月13日水曜日

映画「女王陛下のお気に入り」を観て






















 2018年にアイルランド・アメリカ・イギリスによる合作で制作された映画で、18世紀初頭におけるアン女王の宮廷における女官同士の争いを描いています。
17世紀のイギリスは、内乱や革命に明け暮れ、不安定でした。1688年の名誉革命では、カトリックを復興させようとしたジェームズ2世が議会によって追放され、代わってジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王位に即位しました。このメアリー2世の妹がアンで、メアリーとウィリアムには子供がなく、1692年にメアリーが死に、1702年にウィリアムが死ぬと、その結果アンが女王に即位することになりました。
 アンはデンマーク王の次男ジョージと結婚し、夫婦仲はよく、毎年のように妊娠しましたが(合計17回)、双子を含め6回の流産、6回の死産を経験し、他の子も幼くして死亡しました。その原因は、今日では抗リン脂質抗体症候群と呼ばれる難病を患っていたためと推測されています。彼女の治世には、イングランドがスコットランドを併合して、彼女が初めて大ブリテン王国の君主となり、またフランスとスペイン継承戦争(植民地ではアン女王戦争)を有利に導くなど、その後のイギリスの繁栄の出発点のように見えますが、精神的にも肉体的にも不安定だった彼女は、親友である側近のマールバラ公爵夫人サラに公私にわたって依存していました。
 サラとアンは若いころからの友人で、名誉革命の際には二人で宮殿を脱出し、ウィリアム3世とメアリー2世に投降しました。以来サラは常にアンの相談役で、アンの国王即位後は事実上サラが政治問題を決定していました。また、映画で観る限り、二人は同性愛の関係でもあったようです。こうした二人の間に、もう一人の女性が登場します。没落貴族の娘アビゲイル・メイシャムです。彼女は野心家で、巧みにサラを女王から引き離し、女王の信頼と愛を勝ち取っていきます。
 映画は、アンを巡るサラとアビゲイルとの宮廷闘争として描かれますが、同時に政治闘争とも関わります。当時イギリスはフランスと戦争をしていましたが、議会内に戦争支持派と反対派が対立していました。進歩派のホイッグ派はブルジョワ階級に支持され、戦争は利益になるし、商業でフランスに優位に立ちたいため、戦争の継続を支持し、サラの夫は軍人でしたので、サラは戦争継続を支持します。一方、保守派のトーリー派は地主を基盤としますので、戦争の継続は負担が重いため、フランスとの和平を求め、アビゲイルはサラと対立するトーリー派を支持します。

 こうした中で、サラは宮廷から追放され、1714年にはフランスとの和平が成立しますが、この年にアンは死亡し、アンには子がなかったためステュアート朝は断絶し、アビゲイルも宮廷を去りました。サラとアビゲイルとの戦いは、宮廷での虚しい戦いであり、結局不幸なアンの孤独な姿のみが際立った映画でした。




2020年5月9日土曜日

映画「レヴェナント 蘇りし者」を観て

















 
 
 2015年にアメリカで制作された映画で、19世紀前半における西部への体験を描いたものです。主人公のヒュー・グラスは実在の人物で、西部開拓史上における伝説的英雄です。



 アメリカの西部開拓は、いくつかの段階を経て進められます。まず、1783年に東部の13植民地が独立し、その際イギリスはミシシッピー川以東の土地をアメリカに割譲します。さらに1803年にフランスからアメリカはミシシッピー川以西のルイジアナを獲得し、今やアメリカは広大な未開拓の西部を手に入れることになりました。この広大な西部にまず入ったのは猟師で、彼らはビーバーなどの毛皮を取り、定期的に集まってくる商人に売って生計を立てていました。この時代が、この映画の舞台です。次に、猟師たちの情報によって住みやすい土地についての情報が入ると、農民がやってきて土地を耕し、家を建て、教会を建て、学校を建てて町が生まれ、それがさらに西部へ進出する拠点となります。そして本格的な西部開拓時代は、南北戦争が終わった1860年代からフロンティアが消滅する1890年代までで、かつて流行った西部劇も、この時代を背景としたものです。

 映画の舞台となったのは、ミシシッピー川の最大で支流であるミズーリ川で、この川はロッキー山脈を発し、4130キロ流れてミシシッピー川に流れ込み、その流域面積はアメリカ合衆国本土の6分の1に達するそうです。今日ではこの川には多数の水力発電所が建設され、世界恐慌時代にフランクリン・ローズヴェルト大統領のニューディール政策の一環として、この川は北アメリカ最大の貯水システムを形成しています。
 映画の発端は、1822年の新聞にアシュレー将軍の名で「毛皮貿易を目指しミズーリ川を船でさかのぼる探検隊の参加者100名公募」という募集広告が出されたことです。これはアシュレーなどが創設したロッキー山脈毛皮会社の仕事を請け負う罠猟師を集めるためで、この会社は1822年から1825年にわたり当時の北アメリカ西部の未開地でなんどか大掛かりな罠猟をしています。主人公のヒュー・グラスについては伝説が多く、探検隊に参加する以前には海賊だったとか、先住民(インディアン)の女性と結婚したとか、いろいろな説がありますが、事実かどうかは分かりません。
 グラスは1823年にこの探検隊に参加しますが、途中でクマに襲われて瀕死の重傷を負い、仲間たちから見捨てられます。ところがグラスはしぶとく生き残り、重傷を負っているにもかかわらず、さまざまなサバイバル技術を駆使して、ミズーリ川沿いに320キロ、6週間かけて拠点にたどり着きます。死んだと思われていたグラスが戻ると、人々は彼を「蘇ったもの(reverant)」と呼びました。結局グラスは10年後に先住民によって殺害されますが、彼の物語は伝説となって伝えられ、それに鼓舞されて多くの人々が西部に向かって行きました。
 なお、グラスを演じたのはデカプリオですが、デカプリオといえば「タイタニック」で純粋な青年を演じた俳優です。その彼が、この映画では野獣のような逞しい猟師を演じていました。

2020年5月6日水曜日

映画「アンデルセン」を観て

















2001年にアメリカで制作された映画で、デンマークの童話作家アルデンセンの生涯を、彼の作品を織り交ぜながら、ファンタスティックに描いています。
 アンデルセンについて知らない人は少ないと思います。グーグルでアンデルセンを検索すると、アンデルセン本人よりも、アンデルセンという名のついた商店や公園などが沢山出ており、日本でもいかにアンデルセンという名が定着しているかが分かります。「親指姫」「人魚姫」「みにくいアヒルの子」「雪の女王」「マッチ売りの少女」などは、日本でも広く知られた作品です。なお、彼と同じ時代のドイツのグリム兄弟は、文献学者であり言語学者で、ドイツの古い民話を集めたのが「グリム童話集」で、彼らは童話作家ではありません。
 アンデルセンは、1805年にデンマークで靴職人の子として生まれました。彼は想像力豊かな少年だったようですが、10代で両親をなくして十分な教育を受けられず、コペンハーゲンに出ますが、生活には困窮しました。この間彼はオペラ歌手やバレーを目指したりしますが、どれも挫折します。しかしその後の彼は、信じられない程幸運に恵まれます。デンマーク王などの助力で教育を受けさせてもらうことになり、大学卒業後はヨーロッパ各地を旅し、多くの作品を発表し、多くの著名人と知己を得ます。
 デンマークはかつて北欧の覇者でしたが、ナポレオン戦争後、ノルウェーやフィンランドなどを失い、アンデルセンが生きた時代には、デンマークは衰退に向かっていました。そうした中で、アンデルセンは人々に夢と希望を与えたのではないかと思います。

映画では、彼の人生は幸運そのもののように思われますが、彼にはよほど人々を惹きつける才能があったのでしょう。アンデルセンの実像について私は何も知りませんが、映画ではモーツァルトを描いた「アマデウス」のような無垢な人物として描かれており、途中で彼が創作した多くの童話が、アンデルセンの想像力からあふれ出るように描かれています。

2020年5月2日土曜日

映画「サルバドル」を観て

1986年にアメリカで制作された映画で、アメリカ人のフォト・ジャーナリストのリチャード・ボイルが、エルサルバドル内戦を取材した際の自らの実体験を描いた小説を映画化したものです。











中央アメリカの歴史と社会は、どの国も似たような経過をたどります。構造的には、一握りの地主による寡頭支配とその利益を守るための独裁政権の存在、それに対する勢力との内戦が繰り返されます。20世紀になるとアメリカ資本が本格的に進出して、多くの国がその温暖の気候に適したフルーツを生産し、ますますアメリカ資本への従属が強まっていきます。こうした中にあっても、各国の内部で改革を行おうとする動きもありましたが、ことごとくアメリカの介入によって潰されてきました。今日多くの国では失業者の増大と貧富の差の拡大、犯罪者の跋扈による無秩序状態が蔓延しています。ホンジュラスから多くの難民がアメリカに向かうという事件がありましたが、それはこうした情勢を背景としています。そしてエルサルバドルも似たような状態にあります。
 「サルバドル」とは「救世主」を意味し、それに定冠詞「エル」がついて「エルサルバドル」となります。また首都は、聖なる救世主という意味で「サンサルバドル」となりました。かつてスペインがアメリカ大陸を征服した時、キリスト教に関連する地名をつけることが多く、例えばかつてスペイン領だったカリフォルニアのサンフランシスコやロスアンジェルスなどがよく知られています。
 第二次世界大戦後のエルサルバドルは比較的安定していましたが、1979年に隣国のニカラグアで革命政権が樹立されると、その影響を受けてエルサルバドルでも革命評議会による暫定政権が成立しました。これに対して極右勢力によるテロ活動が激化し、1980年にはサンサルバドル大司教が殺害され、これに対して左翼ゲリラが抵抗運動を起こします。これが、1992年まで続くエルサルバドル内戦で、この内戦で75000人を超える犠牲者が出たとされます。この間、1980年にアメリカ大統領に当選したレーガンは、中米の共産化を阻止するために「エルサルバドル死守」を掲げ、本格的に介入を始めたため、内戦は泥沼化していきました。
こうした中で、1980年、アメリカのフォト・ジャーナリストのリチャード・ボイルがエルサルバドルにやって来ます。彼はベトナム戦争でも取材し、すぐれたジャーナリストとして認められていましたが、日常生活は滅茶苦茶で、奥さんには逃げられ、借金に追われ、恋人のいるエルサルバドルに行くことにしました。まさにその時エルサルバドル内戦が勃発し、彼のジャーナリストとしての本能が目覚めます。彼は、どうやら理性より本能で行動するタイプで、いかなる危険も顧みず現場で写真をとり、また一方でその時その時の恋人を真剣に愛します。

 映画はテンポがはやすぎて中々ついていけませんでしたが、されでも面白く観ることが出来ました。中米については長い間勉強していなかったので、勉強するよい機会となりました。最近の中米さらに南米も、内部で何かが崩壊しかかっているように思えてなりません。