2012年に制作された映画で、日本で初めて独自の暦を作った安井算哲(渋川春海)の生涯を描いています。原作は、冲方丁(うぶかた とう 2009年)です。
暦の歴史は苦難の歴史です。農業社会においては正確な暦は必須であり、したがって古来どこでも正確な暦を作るために多くの労力が費やされてきました。そして暦を作ることは統治者の義務であると同時に、暦を作る者は宇宙の声を聞くことができる神のように見なされることもありました。すでに古代オリエントで種々の暦が作られ、これをもとに古代ローマでカエサルがユリウス暦を作ります。この暦は、1280年で10日も誤差がでるため、16世紀にグレゴリオ暦が作られます。この暦の政策にはコペルニクスが関わり、非常に正確で、今日も広く使用されています。
中国でも独自の天文観測により暦が制作されました。中国の王朝では太史令という役職が天文・暦法や祭祀と国家の文書の起草を行い、皇帝の権威の中枢を担うわけですが、司馬遷はこの役職にあって「史記」を著したわけです。日本は中国の暦を用い、この映画の時代には800年ほど前の唐の暦を用いていましたが、すでに2日の誤差がありました。一方、11世紀のイスラーム世界にウマル・ハイヤームという数学的天才が現れました。彼は酒に酔い、詩を書き、無神論を呟く異色の人物でしたが、「ジャラリー暦」という極めて正確な暦を作りました。そしてこの「ジャラリー暦」は、中国の元代に「授時暦」として実用化されます。
日本でも江戸幕府が安定すると、正確な暦を作ることが課題となり、幕府の命で安井算哲(渋川春海)がその任に当たることになります。安井算哲は、1639年に囲碁の家元の家に生まれ、1659年に21歳で幕府の御城碁に初出仕して、その才能が世に知られますが、同時に彼は天文学、数学、暦学に通じ、「授時暦」による改暦を進言します。当時4代将軍の徳川家綱はまだ若かったため、水戸光圀や会津の保科正之ら英邁な大名が将軍を支えており、彼らの指示で算哲は若年の身で改暦の大事業は始めることになります。算哲は日夜天体の観測を続け、失敗を繰り返しながら、新しい暦の作成に努めます。
こうして彼は新しい暦を完成させますが、それを実施するには大きな抵抗がありました。古来時を支配するのは天皇であり、したがって暦を作る権限は天皇と公卿にあり、それは彼らにとって既得権益です。彼らは当然、幕府の、しかも庶民が作った暦など認めるはずはありません。映画では、算哲は従来の暦では予測できなかった日蝕の日時を予想し、それを一般に公表し、自らの暦がいかに正確かを実証します。こうして1685年に、彼の暦は貞享暦として交付されました。日本人が初めて自らの手で作った暦でした。この功績により算哲(渋川春海)は、新たに創設された天文方の初代奉行となり、250石の武士に取り立てられました。
映画では、算哲の周りに多くの数学や天文学のマニアが集まり、彼らは幾分変人ですので、こういう人々のやり取りが大変面白く描かれています。また、関孝和という数学者が登場します。彼は孤高の数学者といわれ、その後の和算の発展の出発点となったとされ、映画では春海にも大きな影響を与えたことになっています。