2017年にフランスで制作された映画で、ポスト印象派の画家ゴーギャンの半生を描いています。ポスト印象派の画家としては、ゴーギャンの他にゴッホ、セザンヌなどがいますが、ゴッホについては、このブログの「映画で三人の画家を観て 炎の人ゴッホ」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/04/blog-post_16.html)、「ゴッホとロートレック」を読んで(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2017/04/blog-post_5.html)を参照して下さい。
ゴーギャンは、若いころ証券取引所に勤めて大金を稼ぎ、結婚して5人の子供をもうけ、また余暇に絵を書いていました。しかし1882年にパリの株式市場が大暴落し、収入が激減しため、これを機会にゴーギャンは画家になることを決意します。当時の絵画界で流行していたのは印象派でしたが、ゴーギャンはアフリカやアジアの美術の中に、神話的な象徴性と活力を感じ、世界各地を旅します。1888年にはゴーギャンは一時ゴッホと共同生活を行いますが決裂し、次の旅先としてタヒチを考えるようになります。
1891年、ゴーギャンはヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出のためタヒチに向かいます。そして映画はここから始まります。タヒチの奥地に自ら竹で小屋を建て、13歳の現地の少女を妻とし、創作活動に励みます。この映画で描かれたタヒチでのゴーギャンの生活と、ウイキペディアに書かれたゴーギャンの生活とがかなり異なっており、どちらが正しいのかよく分かりません。映画では、夢と現実の違いが描かれます。ゴーギャンは、南海の楽園ではお金などなくても生き行けると考えていましたが、現実にはタヒチはフランスの植民地に組み込まれ、フランス化され、お金なしで生きていくことはできませんでした。そのため、港で肉体労働を行ってお金を稼ぎ、そのため体を壊してフランスに帰ることになります。
ゴッホと同様、ゴーギャンの絵は生前にはあまり認められませんでした。印象派の芸術家たちが伝統的な絵画に挑戦したような、ゴーギャンも西洋と西洋絵画に深い疑問を投げかけ、20世紀の絵画に強い影響を与えることになります。
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