イラク戦争に関する映画を二本観ました。イラクの歴史を振り返れば、現在から5千年以上前にティグリス・ユーフラテス川流域に栄えたシュメール文明にまで遡ります。イラクという国名は、シュメール時代の都市ウルクに由来し、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」という意味だそうです。しかしここでは、この時代まで遡るのは止めます。その後この地域はイスラーム化し、アラブ化し、17世紀にオスマン帝国の支配下に入ります。
(第一次世界大戦勃発時のオスマン帝国)
第一次世界大戦後、敗戦国トルコの領土は、イギリスとフランスに分割され、その後いろいろあって現在の国が形成されていきますが、それらの国はイギリスやフランスの都合によって人為的に形成されたものでした。しかもこの頃から自動車産業が急速に発展し、石油需要が高まる中で、この地域で石油が発見され、この地域の経済的な重要性が高まります。さらに第二次世界大戦後にユダヤ人の国家イスラエル国が建国されると、問題は一層複雑になっていきました。
イラクは、1932年に王国として独立し、1958年のクーデタで共和国となりますが、その後政争が繰り返され、そうした中で、軍隊で実力をつけてきたサッダーム・フセインが、1979年に大統領となります。彼は、親族を要職につけて独裁体制を形成するとともに、当時普及していたアラブ民族主義よりもイラク・ナショナリズムを提唱し、「イラク人民とは文明の発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」として、宗教色を抑えた世俗国家の形成を目指します。そしてこの同じ年にイラン革命が起き、その結果イランで極めて宗教色が強く、かつ反欧米的な国家が形成されます。このような動向に周辺諸国や欧米が警戒感を強めると、1980年にフセインはイランのテヘランを空爆し、イラン・イラク戦争を開始します。この戦争でイラクは苦戦しますが、周辺諸国や欧米諸国の支援もあって、1988年に戦争を終結し、かろうじてイラクは戦争に勝利します。
戦争終結後、イラクは中東きっての軍事大国に成長しましたが、長い戦争により財政危機に陥ったため、フセインは石油価格の引き上げにより危機を打開しようとしました。多くの産油国がこれに同調したのに対し、クウェートが値上げを拒否したため、1990年にイラク軍がクウェートに侵攻し、クウェートをイラクの19番目の県として併合することを宣言しました。当時アメリカとイラクとの関係は極めて良好だったため、フセインは「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」と考えていたとされます。しかし、イラクのクウェート侵攻はイラクのペルシア湾への進出を意味し、アメリカの同盟国である湾岸諸国にとって脅威となります。その結果、1991年アメリカを含む多国籍軍がイラクに対する空爆を開始し、ここに湾岸戦争が勃発します。フセインはアメリカと戦っても勝てないことは分かっていましたので、軍事力を温存するため早々に撤退し、湾岸戦争はあっけなく終結します。
停戦に当たってイラクは、生物・化学兵器を含む大量破壊兵器を破棄することを約束しましたが、戦争中に反乱を起こしたシーア派やクルド人の鎮圧に化学兵器を使用し、また国連の査察も拒否するようになります。こうした中で、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロ事件が起き、ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言し、イラクをテロ支援国家と断定します。2003年3月19日に、アメリカは国連の支持のないまま開戦を宣言し、航空機とミサイルで先制攻撃を行い、たちまち首都バグダードを占領、早くも5月にブッシュ大統領は「大規模戦闘終結宣言」を行います。これでイラク戦争は終結したかに見えましたが、結局オバマ大統領が戦争終結宣言を出したのは、2010年8月のことでした。
前置きが長くなりましたが、私にとってイラク戦争というのは、つい最近、直接報道を通じて知った事件であり、知識が断片的でまとまりがありませんでした。そのため、この機会に自分自身のために、整理しようと思ったわけです。考えてみれば、1970年代までの中東問題というのはパレスチナ問題でしたが、80年代以降はほとんどイラク問題になっていました。だからといってパレスチナ問題がなくなった分けではないので、中東問題を理解するのは容易ではありません。
2010年にイタリアで制作された映画で、2003年にイタリア警察軍駐屯地で実際に起きた自爆テロについてドキュメンタリー風に描いた映画です。
イラク戦争では、アメリカ軍とイギリス軍がイラクに侵攻しますが、投入された兵力はそれ程多くはなく、IT化されロボット化された軍事力がイラク軍を圧倒しました。この戦いの様子はテレビを通じてお茶の間に放映され、まるで戦闘ゲームを観ているようでした。しかし、イラク軍が早々と投降したり後退したのはイラクの作戦だったようで、イラク兵は大型の武器を捨てて銃でゲリラ的に敵を攻撃するため、戦闘は一向に終わりません。こうした中で、イラクの治安維持と、イラクの統治と復興には多くの人員が必要なるため、有志連合と呼ばれる国々が人員を派遣しました。日本も、比較的に治安のよいとされるサモアに自衛隊を派遣し、2008年まで復興支援のため駐屯しますが、これは事実上戦闘地域への自衛隊の派遣だったため、国内でも物議をかもしました。
イタリア軍も、日本が駐屯したサモアの少し北にあるナシリアに駐屯していました。日本の自衛隊は原則的に武器の使用が認められていませんので、戦闘を行うことはありませんでしたが、イタリア軍は治安維持部隊として派遣されているため、日常的に戦闘行為を行っていました。ナシリアは戦略上の要地で、ペルシア湾から侵攻した場合、一旦ここに終結しますので、大規模戦闘終了宣言後も、しばしばゲリラの攻撃対象となっていました。そしてそこに、アウレリアーノという場違いな民間人が現れます。アウレリアーノは、28歳で、反体制派で万年フリーター、俳優の卵でドキュメンタリーの監督志望でした。かなり軽薄な男で、無茶をし、将来については何とかなると思っていました。そうした中で、先輩の映画監督からイラクでドキュメンタリーを撮るので一緒に来ないかと誘われ、大喜びでイラクに向かいます。
この映画は、まず最初に主人公がタバコを吸うところから始まります。そしてイラクに着いて最初の1本を吸い、イラクにいた3日間の間に20本のタバコを吸います。つまり邦題である「イラクの煙」の「煙」はタバコの煙のことで、原題は「ナシリヤでの20本のタバコ」です。彼はイラクでは明らかに浮いた存在でした。戦場にいるという感覚がなく、まるでイタリアにいるようでした。ところが二日目に自爆テロに出会い、現場にいた19人が死亡し、アウレリアーノだけが生き残ります。彼も重傷を負い、治療中に子供の用に泣き叫び、さらにタバコを要求します。
翌日彼はイタリアに運ばれ、病院で本格的な治療を受けます。そして彼は、彼が知らないところで英雄に祭り上げられます。イタリアのイラクへの派兵は批判が多く、その批判をかわすためにも、政府は一民間人の英雄的な活動を喧伝する必要がありました。彼は戦争を正当化するための宣伝材料とされ、毎日のように政治家や将軍やマスコミが訪問し、連日のように英雄として報道されました。そうした中で彼は、ようやく現実と自分をしっかりと見つめるようになります。彼はイタリアでの日常生活の感覚で現実に切り込もうとし、逆にその現実に切り込まれたのでした。
この自爆テロ事件は2003年11月に実際に起きた事件であり、アウレリアーノは実在の人物であり、やがて彼は自らの体験をもとに、このドキュメンタリーを制作します。この映画は、単に戦争の悲惨さとか反戦を訴えているのではなく、イタリアという日常とイラクの日常との落差、なぜイラクの戦場に突然イタリアの青年が出現し、なぜ負傷し、なぜ三日後にはイタリアにいるのか、この落差を監督自身の眼を通して描いているように思います。そしてこの落差こそが戦争の原因なのだと、訴えているように思いました。
なお、この事件をきっかけに有志連合から離脱する国が増え、さらに翌年スペインで列車爆破テロが起きたため、有志連合に動揺が広がりました。イラク戦争はまだ、終わってはいませんでした。
2011年公開のイラクの映画で、イラク戦争中のイラクの様子を、クルド人の老婆と少年を通して描いています。クルド人については、「クルド人の映画を観て」
2003年、フセインが失脚してから3週間後、老婆と少年が北方のソグド人地区から南方のナシリヤに向かって旅をします。ナシリヤの刑務所に祖母の息子がいるという噂を聞いたからです。息子は湾岸戦争で行方不明になってから12年たっており、12歳の孫のアーメッドは父の顔も知りません。祖母はソグド語しか話せませんが、アーメッドはアラビア語も話すことができました。フセイン大統領は義務教育を実行し、拒否するものは投獄で脅しても行かせたそうです。学校での教育は宗教色が薄められ、欧米的で世俗的な教育が行われ、アラビア語も共通語として教えられたのだと思います。したがって、アーメッドはアラビア語を話し、祖母が熱心にお祈りをしているのに、孫はお祈りもしませんでした。
二人の旅は不思議な旅でした。バグダードまではヒッチハイクで行きますが、時々上空をアメリカのヘリコプターが我が物顔で飛び、また各地で検問をしていました。バグダードは廃墟となっており、まだあちこちで煙があがっていましたが、それがごく普通の光景のように人々が溶け込んでいました。人々はソグド人である二人に特に敵意を示さず、ソグド人を憎んでいたのは、イラク民族主義を掲げるフセインだけだったのかもしれません。バグダードからバスでナシリヤに行き、刑務所を訪ねますが、息子はいませんでした。二人は、バビロンで集団墓地が多数発見されているという噂を聞き、バビロンに向かいます。
今日バビロンは古代遺跡の場所として観光地となっていますが、2600年ほど前には、この地に壮大な文明が栄え、世界七不思議の一つとされる空中庭園が存在したとされます。それはソグド人には関係のないことですが、フセインの教育制度のおかげでアーメッドもよく知っており、イラク人の誇りと考えていました。その意味でイラク民族主義に基づくフセインの教育方針は、アーメッドにもしっかり根付いていたわけです。
バビロンでは、各地で集団墓地が発掘され、多数の白骨死体が掘り出されますが、名前を特定することは困難です。多くの女性が、夫や父や兄弟を探すために集団墓地に集まってきますが、遺体を発見できません。映画の最後の字幕で、「イラクの過去40年の行方不明者は100万人以上、2009年春までに300の集団墓地で15~25万の遺体が見つかる、その多くは身元不明のままである」と報告されます。息子の遺体を探すことをあきらめた母は故郷へ帰ることを決意しますが、その途上で静かに息を引き取ります。残された12歳のアーメッドは、これからどうしたらいいのか。ただ、こうしたことは当時珍しいことではなく、至る所で見られた光景でした。この映画は地元の素人をキャストとして使っていますが、アーメッドの祖母自身20年間も夫を探し続けたのだそうです。アーメッドもきっと逞しくいきていことでしょう。
この映画の原題は「バビロンの息子」で、映画の内容そのままですが、邦題の「バビロンの陽光」も、乾燥した赤茶色の大地に陽光が映え、悲しい話なのですが、何か希望を抱かせるような力強さが感じられました。