2018年1月31日水曜日

「小さな長征」を読んで

法村香音子著、1989年、社会思想社













 著者は旧満州で生まれ、10歳の時終戦を迎えましたが、医師だった父が共産軍(八路軍)の医師として徴用されたため、父が共産軍の移動とともに移動し、彼の家族、著者と母と妹も一緒に移動することを強いられました。移動したのは中国と朝鮮の国境地帯ですが、八路軍は敵との全面衝突を避け、狭い地域を絶え間なく移動して敵の弱点をつくため、著者たちも軍隊ととともに絶え間なく移動していました。それはまさに「小さな長征」といえるかもしれません。
 こうしたことは、当時としてはそれ程珍しいことではなく、自ら八路軍に志願する人や、著者の家族のように無理やり徴用される人も沢山いました。また終戦後の混乱の中で、多くの悲劇も生まれました。この点については、このブログの「「満州国皇帝の通化落ち」を
読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html)を参照して下さい。
 筆者は、当時まだ幼かったので、当時何が起きていたのか、よく分かっていませんでした。それでも様々な場所で生活し、移動し、様々な出会いがありました。「二十歳そこそこの若い夫婦は長春の農村に住んでいたのだが、貧農によくあるように、食うために夫は国民党の軍隊に入った。そして、間もなくこの内戦である。夫は国民党の軍隊とともにどこかへ行ってしまった。残された妻は、やはり食べるために、替わって入ってきた八路軍に加わった。そして移動。」

 当時、多くの人がこうした経験をしました。なかには決して思い出したくない経験もあるでしょうが、こうした経験を少しでも多く書き残すことは、今を生きる我々にとって大きな遺産となることでしょう。

2018年1月27日土曜日

映画「ベツレヘム 哀しみの凶弾」を観て


2013年にイスラエル・ドイツ・ベルギーによって制作された映画で、イスラエルの秘密警察とテロ組織とのやり取りを描いています。パレスチナ問題についてはこのブログでも何度も触れていますので、以下のページを参照して下さい。
映画でヒトラーを観て 「栄光への脱出」「ミュンヘン」
映画でイスラーム世界を観る 「パラダイス・ナウ」
入試に出る現代史 第四章 中近東




舞台となったベツレヘムは、イェルサレムから10キロほど南にある人口3万人強の町ですが、何よりもこの町はイエスが生誕したとされる場所で降誕教会 (聖誕教会)があり、ユダヤ教の聖地もあるため、年間200万人を超える観光客が訪れますが、近年治安が悪く、観光客は減っているそうです。しかし映画には、降誕教会も観光客も登場しません。登場するのはイスラエルの秘密警察とパレスチナのテロ組織、そしてその狭間に立った17歳の少年サンフールです。
 サンフールの兄は名の知られたテロリストで、ハマスから資金を得てテロ活動を行っており、サンフールも兄を手伝だっていました。同時に彼は秘密警察のラジとも親交があり、時々テロ組織の情報を漏らしていました。だからといってサンフールには裏切っているという意識はなく、兄を尊敬していたし、ラジには父親のように慕っていました。しかし彼がラジに与えた情報をきっかけに兄は秘密警察によって殺されます。これに対して、サンフールはテロリストになることを決意し、ラジを殺害し、こうしてテロリストが再生産されています。そして彼も多分長生きはできないでしょう。

 映画では、様々な人の様々な思いが描かれていますが、これを言葉で表現することはできません。結局は、閉塞感と救いのなさだけしか残りませんでした。


2018年1月24日水曜日

「革命家孫文」を読んで

藤村久雄著、1994年、岩波新書
孫文に関する本がまだ書棚に残っていました。孫文に関しては、今までに多くの本を読んできたし、すでに「映画で孫文を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/blog-post_22.html)で孫文について述べています。私としても、今更孫文でもないので、この本はパスしようかと思ったのですが、折角最後に残った孫文の伝記ですから、簡単に目を通しておこうと思いました。
 さすがに、孫文の経歴については知っていることが多かったのですが、彼の国家建設計画については幾分関心を持ちました。まず三権分立という西欧的民主主義に、考試権と監察権を加えて、五権分立としています。考試権とは科挙であり、監察権とは御史で、いずれも中国に古くからある制度です。また、地方自治を重視し、全国に3000の県を設置し、これらの県で民権が十分に発揮され、地方自治が定着すれば、中華民国の基礎は強固になる。これによって中華民国は世界に類を見ないもっとも完全な共和国をつくり出すことができる、というものです。これらが、中国の現実に適応するものなのか、理想的にすぎるのか、私には分かりませんが、どちらにしても今日に至るまで実行されていないものです。
 彼はまた壮大な国土開発計画をもっていました。具体的には、鉄道を16万キロ建設、舗装道路160万キロ建設、水力発電の開発など、世界で最も新しい、最も進歩した、そして豊な共和国の建設を目指し、それはまさに、現在の中国が目指していることです。しかしこうしたことを実現する前に、1925年に死亡します。60歳、早すぎる死でした。その直前に孫文は日本を訪問し、有名な公演を行っています。

 「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。」そして日本は、覇道の道を突き進み、破滅しました。

2018年1月20日土曜日

映画でイラク戦争を観て

 イラク戦争に関する映画を二本観ました。イラクの歴史を振り返れば、現在から5千年以上前にティグリス・ユーフラテス川流域に栄えたシュメール文明にまで遡ります。イラクという国名は、シュメール時代の都市ウルクに由来し、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」という意味だそうです。しかしここでは、この時代まで遡るのは止めます。その後この地域はイスラーム化し、アラブ化し、17世紀にオスマン帝国の支配下に入ります。





















(第一次世界大戦勃発時のオスマン帝国)





















第一次世界大戦後、敗戦国トルコの領土は、イギリスとフランスに分割され、その後いろいろあって現在の国が形成されていきますが、それらの国はイギリスやフランスの都合によって人為的に形成されたものでした。しかもこの頃から自動車産業が急速に発展し、石油需要が高まる中で、この地域で石油が発見され、この地域の経済的な重要性が高まります。さらに第二次世界大戦後にユダヤ人の国家イスラエル国が建国されると、問題は一層複雑になっていきました。
 イラクは、1932年に王国として独立し、1958年のクーデタで共和国となりますが、その後政争が繰り返され、そうした中で、軍隊で実力をつけてきたサッダーム・フセインが、1979年に大統領となります。彼は、親族を要職につけて独裁体制を形成するとともに、当時普及していたアラブ民族主義よりもイラク・ナショナリズムを提唱し、「イラク人民とは文明の発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」として、宗教色を抑えた世俗国家の形成を目指します。そしてこの同じ年にイラン革命が起き、その結果イランで極めて宗教色が強く、かつ反欧米的な国家が形成されます。このような動向に周辺諸国や欧米が警戒感を強めると、1980年にフセインはイランのテヘランを空爆し、イラン・イラク戦争を開始します。この戦争でイラクは苦戦しますが、周辺諸国や欧米諸国の支援もあって、1988年に戦争を終結し、かろうじてイラクは戦争に勝利します。
 戦争終結後、イラクは中東きっての軍事大国に成長しましたが、長い戦争により財政危機に陥ったため、フセインは石油価格の引き上げにより危機を打開しようとしました。多くの産油国がこれに同調したのに対し、クウェートが値上げを拒否したため、1990年にイラク軍がクウェートに侵攻し、クウェートをイラクの19番目の県として併合することを宣言しました。当時アメリカとイラクとの関係は極めて良好だったため、フセインは「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」と考えていたとされます。しかし、イラクのクウェート侵攻はイラクのペルシア湾への進出を意味し、アメリカの同盟国である湾岸諸国にとって脅威となります。その結果、1991年アメリカを含む多国籍軍がイラクに対する空爆を開始し、ここに湾岸戦争が勃発します。フセインはアメリカと戦っても勝てないことは分かっていましたので、軍事力を温存するため早々に撤退し、湾岸戦争はあっけなく終結します。
 停戦に当たってイラクは、生物・化学兵器を含む大量破壊兵器を破棄することを約束しましたが、戦争中に反乱を起こしたシーア派やクルド人の鎮圧に化学兵器を使用し、また国連の査察も拒否するようになります。こうした中で、2001911日にアメリカで同時多発テロ事件が起き、ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言し、イラクをテロ支援国家と断定します。2003319日に、アメリカは国連の支持のないまま開戦を宣言し、航空機とミサイルで先制攻撃を行い、たちまち首都バグダードを占領、早くも5月にブッシュ大統領は「大規模戦闘終結宣言」を行います。これでイラク戦争は終結したかに見えましたが、結局オバマ大統領が戦争終結宣言を出したのは、20108月のことでした。 
 前置きが長くなりましたが、私にとってイラク戦争というのは、つい最近、直接報道を通じて知った事件であり、知識が断片的でまとまりがありませんでした。そのため、この機会に自分自身のために、整理しようと思ったわけです。考えてみれば、1970年代までの中東問題というのはパレスチナ問題でしたが、80年代以降はほとんどイラク問題になっていました。だからといってパレスチナ問題がなくなった分けではないので、中東問題を理解するのは容易ではありません。

2010年にイタリアで制作された映画で、2003年にイタリア警察軍駐屯地で実際に起きた自爆テロについてドキュメンタリー風に描いた映画です。
イラク戦争では、アメリカ軍とイギリス軍がイラクに侵攻しますが、投入された兵力はそれ程多くはなく、IT化されロボット化された軍事力がイラク軍を圧倒しました。この戦いの様子はテレビを通じてお茶の間に放映され、まるで戦闘ゲームを観ているようでした。しかし、イラク軍が早々と投降したり後退したのはイラクの作戦だったようで、イラク兵は大型の武器を捨てて銃でゲリラ的に敵を攻撃するため、戦闘は一向に終わりません。こうした中で、イラクの治安維持と、イラクの統治と復興には多くの人員が必要なるため、有志連合と呼ばれる国々が人員を派遣しました。日本も、比較的に治安のよいとされるサモアに自衛隊を派遣し、2008年まで復興支援のため駐屯しますが、これは事実上戦闘地域への自衛隊の派遣だったため、国内でも物議をかもしました。



イタリア軍も、日本が駐屯したサモアの少し北にあるナシリアに駐屯していました。日本の自衛隊は原則的に武器の使用が認められていませんので、戦闘を行うことはありませんでしたが、イタリア軍は治安維持部隊として派遣されているため、日常的に戦闘行為を行っていました。ナシリアは戦略上の要地で、ペルシア湾から侵攻した場合、一旦ここに終結しますので、大規模戦闘終了宣言後も、しばしばゲリラの攻撃対象となっていました。そしてそこに、アウレリアーノという場違いな民間人が現れます。アウレリアーノは、28歳で、反体制派で万年フリーター、俳優の卵でドキュメンタリーの監督志望でした。かなり軽薄な男で、無茶をし、将来については何とかなると思っていました。そうした中で、先輩の映画監督からイラクでドキュメンタリーを撮るので一緒に来ないかと誘われ、大喜びでイラクに向かいます。
この映画は、まず最初に主人公がタバコを吸うところから始まります。そしてイラクに着いて最初の1本を吸い、イラクにいた3日間の間に20本のタバコを吸います。つまり邦題である「イラクの煙」の「煙」はタバコの煙のことで、原題は「ナシリヤでの20本のタバコ」です。彼はイラクでは明らかに浮いた存在でした。戦場にいるという感覚がなく、まるでイタリアにいるようでした。ところが二日目に自爆テロに出会い、現場にいた19人が死亡し、アウレリアーノだけが生き残ります。彼も重傷を負い、治療中に子供の用に泣き叫び、さらにタバコを要求します。
翌日彼はイタリアに運ばれ、病院で本格的な治療を受けます。そして彼は、彼が知らないところで英雄に祭り上げられます。イタリアのイラクへの派兵は批判が多く、その批判をかわすためにも、政府は一民間人の英雄的な活動を喧伝する必要がありました。彼は戦争を正当化するための宣伝材料とされ、毎日のように政治家や将軍やマスコミが訪問し、連日のように英雄として報道されました。そうした中で彼は、ようやく現実と自分をしっかりと見つめるようになります。彼はイタリアでの日常生活の感覚で現実に切り込もうとし、逆にその現実に切り込まれたのでした。
この自爆テロ事件は200311月に実際に起きた事件であり、アウレリアーノは実在の人物であり、やがて彼は自らの体験をもとに、このドキュメンタリーを制作します。この映画は、単に戦争の悲惨さとか反戦を訴えているのではなく、イタリアという日常とイラクの日常との落差、なぜイラクの戦場に突然イタリアの青年が出現し、なぜ負傷し、なぜ三日後にはイタリアにいるのか、この落差を監督自身の眼を通して描いているように思います。そしてこの落差こそが戦争の原因なのだと、訴えているように思いました。
なお、この事件をきっかけに有志連合から離脱する国が増え、さらに翌年スペインで列車爆破テロが起きたため、有志連合に動揺が広がりました。イラク戦争はまだ、終わってはいませんでした。

2011年公開のイラクの映画で、イラク戦争中のイラクの様子を、クルド人の老婆と少年を通して描いています。クルド人については、「クルド人の映画を観て」
2003年、フセインが失脚してから3週間後、老婆と少年が北方のソグド人地区から南方のナシリヤに向かって旅をします。ナシリヤの刑務所に祖母の息子がいるという噂を聞いたからです。息子は湾岸戦争で行方不明になってから12年たっており、12歳の孫のアーメッドは父の顔も知りません。祖母はソグド語しか話せませんが、アーメッドはアラビア語も話すことができました。フセイン大統領は義務教育を実行し、拒否するものは投獄で脅しても行かせたそうです。学校での教育は宗教色が薄められ、欧米的で世俗的な教育が行われ、アラビア語も共通語として教えられたのだと思います。したがって、アーメッドはアラビア語を話し、祖母が熱心にお祈りをしているのに、孫はお祈りもしませんでした。
 二人の旅は不思議な旅でした。バグダードまではヒッチハイクで行きますが、時々上空をアメリカのヘリコプターが我が物顔で飛び、また各地で検問をしていました。バグダードは廃墟となっており、まだあちこちで煙があがっていましたが、それがごく普通の光景のように人々が溶け込んでいました。人々はソグド人である二人に特に敵意を示さず、ソグド人を憎んでいたのは、イラク民族主義を掲げるフセインだけだったのかもしれません。バグダードからバスでナシリヤに行き、刑務所を訪ねますが、息子はいませんでした。二人は、バビロンで集団墓地が多数発見されているという噂を聞き、バビロンに向かいます。
 今日バビロンは古代遺跡の場所として観光地となっていますが、2600年ほど前には、この地に壮大な文明が栄え、世界七不思議の一つとされる空中庭園が存在したとされます。それはソグド人には関係のないことですが、フセインの教育制度のおかげでアーメッドもよく知っており、イラク人の誇りと考えていました。その意味でイラク民族主義に基づくフセインの教育方針は、アーメッドにもしっかり根付いていたわけです。
 バビロンでは、各地で集団墓地が発掘され、多数の白骨死体が掘り出されますが、名前を特定することは困難です。多くの女性が、夫や父や兄弟を探すために集団墓地に集まってきますが、遺体を発見できません。映画の最後の字幕で、「イラクの過去40年の行方不明者は100万人以上、2009年春までに300の集団墓地で1525万の遺体が見つかる、その多くは身元不明のままである」と報告されます。息子の遺体を探すことをあきらめた母は故郷へ帰ることを決意しますが、その途上で静かに息を引き取ります。残された12歳のアーメッドは、これからどうしたらいいのか。ただ、こうしたことは当時珍しいことではなく、至る所で見られた光景でした。この映画は地元の素人をキャストとして使っていますが、アーメッドの祖母自身20年間も夫を探し続けたのだそうです。アーメッドもきっと逞しくいきていことでしょう。
 この映画の原題は「バビロンの息子」で、映画の内容そのままですが、邦題の「バビロンの陽光」も、乾燥した赤茶色の大地に陽光が映え、悲しい話なのですが、何か希望を抱かせるような力強さが感じられました。

2018年1月17日水曜日

「新聞王伝説」を読んで

鹿島茂著 筑摩書房 1991年 副題「パリと世界を征服した男ジラルダン」
19世紀のフランスで、「長く続いた革命と戦乱の時代から解放された一般民衆の間では、活字にたいする激しい飢餓感が高まっていた」そうで、この飢餓感を満たそうとするのが新聞です。ヨーロッパでは、すでに17世紀に定期購読の新聞がありましたが、民衆が購入するには高価すぎました。
こうした時代にジラルダンは、各種新聞から面白そうな内容の記事を剽窃し、原稿料を節約することで格安の新聞を発売します。新聞の名は、まさにそのまま「ヴォルール(盗人)」です。もちろんこれは今日では盗作となりますが、当時はほとんど問題にされませんでした。記事の内容は1週間遅れとなりますが、当時の大衆の活字と情報への渇望を見事に汲み上げて、「ヴォルール」は大成功しました。その後もジラルダンは、広告を多く掲載することで、新聞の価格をさらに安くすることを可能にしました。
また、女性を対象にしたモード専用の新聞や、さらに新聞に連載小説を掲載するようになります。当時ユーゴーやバルザックのような高名な小説家が活躍していましたが、発行部数が少なくて作家の収入はわずかであり、また本が高価なため庶民にはなかなか手がでませんでした。つまり、19世紀前半には小説家という職業はまだ成立していませんでした。しかし新聞に連載されることにより作家は多くの原稿料を得ることができ、また庶民は気軽に小説を読むことができるようになったわけです。
ジラルダンは、当時の庶民や中産階級が何を求めているかを鋭く見抜き、次々と新しい企画を考えだし、ほぼ今日の新聞に近いものを生み出しており、それによって巨万の富を蓄えました。しかし、「それ以上にジラルダンの関心は、同時代の多くのユートピア社会主義者と同様に、社会の諸矛盾の除去に注がれていた。すなわち、彼の考えによれば、科学の発達によりひとたび物質的な進歩の過程に入ってしまった社会をより良い方向に導いていくには、何よりもまず、偏狭な宗教感情に左右されない実務的知識を身に着けた中層農民の育成と、都市部の商工業を担うリベラルな産業人の増加が不可欠な要因であるという。なぜなら、こうした中間層の生活レベルを引き上げるならば、その富はいずれ下層に循環し、下層民衆の生活も必然的に向上することになるからである。そしてこのブルジョワ予備軍の教育には、新聞ほどうってつけものはない。要するに、彼の頭にあったのは、いわゆる上部構造的な改革ではなく、下部構造的な改良に主力をおいた政策だったわけだ。」

要するに著者は、ジラルダンは単なる利益追求型の企業家ではなく、勃興しつつある新しい民衆を新聞を通じて教育し、社会を変革するという信念をもった人物だった、ということです。

2018年1月13日土曜日

映画「スリーピング・ボイス」を観て

2011年にスペインで制作された映画で、フランコ独裁体制下で行われた女性に対する迫害を描いたもので、久々に胸を引き裂かれるような内容の映画を観ました。原作者は、実際にフランコ体制下で迫害され生き残った人々から聞き取り調査に基づいて原作を著し、「この映画をすべての女性に捧げる、無言で泣いた女性、拘束され殺害された女性に」と述べています。
 スペイン戦争とフランコ独裁体制については、このブログでもしばしば扱いました。
「映画「サルバドールの朝」を観て」
「「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団」を読む」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_25.html)
「「バスク大統領亡命記」を読んで」
「「子供たちのスペイン戦争」を読んで」

 スペイン戦争は、スペインにとっても世界の民主勢力にとっても、民主主義のための戦いでした。そうした中で、ピカソはドイツによる爆撃を批判して「ゲルニカ」を描き、ヘミングウェイは自ら義勇兵として参加し、その経験をもとに「誰がために鐘は鳴る」を著しました。さらにアメリカ在住の日本人まで、この戦争に参加しました。しかし、結局スペインでは民主主義は敗北し、36年間に及ぶ独裁の時代が続くことになります。
フランコの独裁が終わった後も、内戦とその後の独裁の時代について、勝った側も負けた側も、抑圧した側も抑圧された側も、決しておおくを語りませんでした。心に受けた傷があまりに大きかったからです。「サルバドールの朝」の父は、内戦後心を閉ざしてしまいます。この映画でも、主人公は「あの内戦とその後のすべては、決して起きるべきではなかった」と述べています。 しかし少しずつ、実際に何が起こったのかということについて、語られるようになってきました。「子供たちのスペイン戦争」では、戦争における子供たちの悲惨な姿が描かれていました。そしてこの映画では、悲惨な運命をたどった女性たちの姿が描かれます。
1939年に戦争が終わった後、共和派として戦った人々は、徹底的に粛清されます。見つかればその場で射殺されるか、逮捕されて拷問され、ほとんど裁判もなしに銃殺されました。女性についても、本人が共和派であればもちろん、夫や家族が共和派というだけで、あるいは理由もなくただ疑われただけで、逮捕され銃殺されました。女子刑務所にはそうした女性が溢れていました。当時、カトリック教会はフランコを支持しており、反フランコ派は皆共産主義者と考えていました。そして女子刑務所を管轄していたのは修道女で、彼女たちは共産主義者を憎悪していました。スペイン人のほとんどが敬虔なカトリック教徒でしたが、こうしたことを経て、カトリックから去っていく人々も多くいました。
時代は1940年の末、戦争が終わってから2年近くがたっていました。場所はマドリードの女子刑務所です。オルテンシアは夫ともに反フランコ活動を行って逮捕され、夫フェリペは重傷を負って山に逃れ、妻は妊娠していました。そうした中で、故郷から妹ペピータが、姉を助けるためやって来ます。オルテンシアは強い意志をもった女性で、独裁政権に屈する意思はなく、処刑を覚悟していました。それに対してペピータは敬虔なカトリック教徒で、死んでも主義を貫こうとする姉の気持ちを理解できず、ただおろおろするのみでした。しかし姉を助けるために手を尽くしたり、姉の組織の人々と密かに接触したりしている内に、彼女もしだいに強くなっていきます。
この間に、形ばかりの裁判でオルテンシアの処刑が決定されますが、処刑の執行が出産後まで延期されました。今や彼女の唯一の希望は、妹に子供を育てて欲しいということ、そしてわが子に母がなぜ死んでいったかを伝えてほしい、ということでした。ペピータは姉の娘を引き取って育てますが、当面、姉がそのために命をかけた自由な社会は訪れることはありませんでした。独裁政権が崩壊するのは、これより34年後であり、当面はまったく希望を見出すことはできませんでした。映画は最後に、オルテンシアの娘が母への思いを語って終わります。こうした悲劇は、スペイン戦争と独裁の時代を通じて、数えきれないほどあったに違いありません。まだ証人が生きているうちに、少しでも多くの事実を発掘し、記録しておくことが大切だと思います。
 今までにスペイン映画を何本か観ましたが、どれもよくできた映画でした。
「映画「アレクサンドリア」を観て」
「映画宮廷画家ゴヤは見た」を観て」
映画「アラトリステ」を観て

その外にも良い映画が沢山制作されていると思いますが、残念ながら、私自身に情報がありません。

2018年1月10日水曜日

「ガリレオの生涯」を読んで

シテクリ著(1972)、松野武訳(1977) 東京図書
 コペルニクス以来くすぶり続けていた地動説を不動のものにしたガリレオの生涯を、ドキュメンタリー風に記述していますが、なぜか作者のシテクリについて、翻訳者は後書きでまったく触れていないため、まったく分かりません。
 ガリレオは、初めてピサ大学の教授に招かれたころ、自信に満ち、傲慢でした。しかし、貧困、嫉妬、陰謀などに取り巻かれて苦労するうちに次第に慎重になり、特に1600年にジョルダーノ・ブルーノがコペルニクスを擁護して火刑に処せられて以降は、直接コペルニクス説を肯定したり、地動説を肯定したりはしませんでした。なお、コペルニクスについては「「太陽よ、汝は動かず」を読んで」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/03/blog-post_8.htmlを参照してください。
 彼は早く父が死んだため、家族の面倒を見ねばならず、金の心配をせずに研究に専念できるように、メディチ家のお抱え数学者となります。さらに自ら望遠鏡を改良し、木星の周りに3つの衛星があることを発見します。それは、宇宙はすべて地球を中心に回っているというプトレマイオスの主張を否定するものです。そして月には山や谷があること、太陽には黒点があることを発見し、月や太陽は平らであるという従来の説を否定します。ガリレオは決して地動説を直接口にしませんでしたが、これらの観察はまぎれもなく地動説を補足するものです。コペルニクスの地動説は数学的に完成されたものであり、あくまで数学的な問題、地動説とは関係のない問題と捉えられ、ガリレオも決してこれを否定しませんでしたが、彼の観測結果はコペルニクス説を裏付けるものばかりです。
 ついにローマの異端審問所や教皇がガリレオを呼び出し、一時は有罪の判決を受け、自説を撤回し、さらにまた訴えられ、彼の晩年は異端審問所と教皇との戦いの連続でした。しかしその間に彼の著書はヨーロッパ中に広まり、ガリレオ説は次第に否定しがたいものになりつつありました。しかし、ローマ教皇がガリレオ裁判の誤りを認めたのは、実に1992年になってからです。

 本書は二段組で400ページを超える大著で、全体を読み通すにはかなり時間がかかりますが、貧困との戦い、ピサの斜塔での実験や望遠鏡での成果が無視されたこと、刻々と迫る異端審問所からの脅しなどが生き生きと描かれており、大変面白く読むことができました。


2018年1月6日土曜日

映画でスタリングラードの戦いを観て

 スターリングラードの戦いに関する映画を三本観ました。スターリングラードの戦いとは、独ソ戦争の一環であり、独ソ戦争は第二次世界大戦の一環です。1939年に第二次世界大戦が勃発したとき(ドイツ軍のポーランド侵入)、ドイツとソ連は不可侵条約を締結していたため、独ソが直接戦うことはありませんでした。しかし、ちょっと信じがたいことですが、ヒトラーはスラヴ人は劣等人種なので、スラヴ地域を征服し、この地域をドイツの生存圏としてスラヴ人を奴隷とするという、人種差別的な思想を持っていました。しただって、ヒトラーにとって東欧・ロシアへの侵略は既定路線であり、ソ連との戦争は「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけられます。
1941622日、ドイツ軍を中心とした300万を超える枢軸国軍がソ連に侵入します。北方軍は瞬く間にレニングラードを包囲し、レニングラードは壊滅寸前まで追い詰められますが、最後まで耐え抜きます。この点については、「映画で世界大戦を観て レニングラード大攻防 1941(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_21.html)を参照して下さい。中央軍はモスクワの一歩手前で、例年より早い冬の到来による降雪のため、進撃が止まってしまいました。南部軍はウクライナから石油資源の豊富なコーカサスに向かい、さらに一部がスターリングラードに向かいます。

 スターリングラードは、ヴォルガ川の下流にあり、革命以前にはボルゴグラードと呼ばれていました。ヴォルガ川には多くの支流があり、その支流の一つにモスクワがあります。そしてヴォルガ川は下流に入ったところで大きく曲がってカスピ海に流れ込みますが、この歪曲部分にボルガグラードがあり、そこはヨーロッパというよりアジアです。古くは、ユダヤ人国家ザールが栄え(「ハザール 謎の帝国」を読んで
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/04/blog-post_26.html)、また13世紀以降に栄えたキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)の首都サライはボルガグラードのすぐ南にあります。このジュチ・ウルスについては、映画「オルド 黄金の国の魔術師」を観て」
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/03/blog-post_25.html)を参照して下さい。なお、ボルゴグラードは革命後にスターリングラードと改名されましたが、フルシチョフによるスターリン批判にともない、ボルゴグラードに戻されました。
スターリングラードは、地理的にみた場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川にむかって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながり、戦略的に重要な地点でした。しかしそれだけではなく、この都市は独裁者スターリンの名を冠していたため、スターリンからすれば絶対に奪われてはならない都市であり、ヒトラーからすれば絶対に奪わねばならない都市でした。このことのために、両者はこの町に必要以上の執着を抱き、それが大消耗戦を招くことになりました。
 なお、ここで紹介した三本の映画の内、実際にスターリングラードの攻防戦を描いているのは、最後の「スターリングラード」だけで、他の二本の映画はスターリングラードとは無関係です。

祖国のために
 1975年にソ連で制作された映画で、ソヴィエト文学の代表的な小説家とされるショーロホフの小説を映画化したものです。ショーロホフはドン川河畔のコサックの村に生まれ、コサックの自由な気風を愛し、大著「静かなドン」では社会主義化の進展によるコサック社会の変貌を描いています。この作品に対しては、政治的に中立的すぎるという批判がありましたが、それでもスターリン賞を受けています。その後も彼はドン川に関わる作品を多く発表し、この映画もドイツ軍に追われてドン川沿いに逃げるソ連兵たちが、やがてスターリングラードへと向かう姿が描かれています。
時は19427月です。レニングラードとモスクワはすでに前年中にドイツ軍に包囲されましたが、ドイツ軍はウクライナの制圧には手間取りました。スターリンの独裁下にあったソ連の人々の中には、ドイツ軍をスターリンからの解放者として歓迎した人々もいたとされます。したがって、ヒトラーはこういう人々を利用すればもっと容易に進撃できたはずですが、ヒトラーはスラヴ人を劣等民族として相手にせず、むしろ捕虜や住民に強制労働を課し、大量虐殺を行っていました。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡しているのだそうです。こうした中で、決してスターリンを崇拝するわけではなく、またスターリンが言う国家主義的な愛国心をもつわけでもなく、ただ、郷土に対する愛、祖国に対する愛、そして敵に対する憎しみで戦っていました。
映画では、猛烈なドイツ軍の攻撃を前に、ソ連軍はひたすら後退するのですが、ただ後退するだけでなく、精一杯抵抗しながら後退していました。レニングラードやモスクワは前年の内にソ連軍に包囲されますが、スターリングラード攻防戦が始まるのは、この映画の前月の1942628日です。ただ、映画では、この激戦の中で農民兵たちは淡々と行動し、兵士や住民の心の通い合いが描かれているのみです。この小説も中立的すぎるという批判を受けましたが、それでも映画化されました。やはりこの物語には、人々の心を打ちものがあったのでしょう。最後にショーロホフは次のように述べます。
祖国への愛は心に留める
我々の心臓が動いている限り愛は心にある
しかし敵への憎しみは銃剣の先に宿らせる
 私はショーロホフについて何も知りませんが、これだけ政治的な中立を維持しつつ、スターリンの独裁体制を生き抜き、しかも第一級の作家として活躍してきたこの人物に強い関心を抱きました。

スターリングラード大進撃 ヒトラーの蒼き野望

2015年にロシアで制作された映画ですが、相当ひどい邦題です。映画では、スターリングラードのスの字も出てこないし、第一「ヒトラーの蒼き野望」というのは、どういう意味なのでしょうか。派手な邦題と派手な写真とは裏腹に、実際の映画は大変地味な内容の名画でした。
 映画の舞台は1942年の南部戦線で、前の「祖国のために」とほぼ同じです。ドイツ軍の電撃戦でソ連軍は大混乱に陥っていました。そうした中で、若い伝令将校だったオガルコフは、伝令の任務に失敗して軍事裁判で銃殺刑の宣告を受けます。かなり無茶苦茶な宣告でしたが、これを実行するためには本部の許可が必要でしたので、彼は本部に護送されることになります。護送役を命じられたのは下級兵士のズラバエフで、映画では囚人であるオガルコフとズラバエフの奇妙な道中が語られます。
 ズラバエフは義務に忠実な実直な兵卒でしたが、オガルコフは拘束されているわけではなく、逃げようと思えばいつでも逃げられたのですが、逃げませんでした。途中、色々な人に出会い、色々な事件に遭遇し、色々なことを語り合って、二人は心を通わせていきます。途中、ドイツ軍との戦闘に巻き込まれ、オガルコフにも武器を与えられ、兵士としてドイツ軍と戦います。その後再び本部に向けて出発し、その過程でドイツ軍に遭遇してズラバエフは戦死しますが、オガルコフは一人で本部に向かいます。何のために? そして、本部での判決の結果については何も語られることなく、突然画面は1945年のベルリンに飛び、ソ連軍の中にいるオガルコフが映し出され、映画は終わります。
 多分、オガルコフは無罪とされ、スターリングラードの戦いに参加し、ドイツ軍を追ってベルリンまで来たのでしょう。最終的にソ連軍はベルリンを占領しますので、多くのソ連兵がベルリンへの道を歩みました。この映画の原題である「ベルリンへの道」は、戦争中にソ連で作曲されたジャズのタイトルらしいのですが、死刑判決を受けるために本部に向かったオガルコフとズラバエブの奇妙な旅も、結局、長いベルリンへの道の一コマだったのではないでしょうか。厳しい戦いの中での、とても心温まる一コマでした。

スターリングラード(2013年版)

 2013年にロシアで制作された映画で、サブタイトルにあるように、スターリングラードでの「史上最大の市街戦」を描いたものです。前の二つの映画の邦題がスターリングラードの戦いをあげているのに、スターリングラードの戦いがまったく扱われていませんでしたが、この映画はスターリングラードの市街戦そのものを扱っています。ただし、三本の中では一番つまらない映画でした。
 1942628日、ドイツ軍はドン川流域に進軍し、ソ連軍は粛々とスターリングラードに後退します。スターリングラード攻防戦の始まりです。スターリングラードは、当時人口60万の近代的な工業都市となっており、823日、情報をまったく与えられていなかった市民は平穏な日曜の朝を過ごしていましたが、突然にドイツの爆撃機が攻撃を開始しました。これが150日にも及ぶ市街戦の開始です。スターリンが非戦闘員の退去を許可したのは28日になってからでしたので、この間にドイツ軍によるすさまじい虐殺と破壊が繰り広げられました。

 スターリングラードは瓦礫の山と化し、もはやドイツが得意とする戦車と装甲車による攻撃は困難となります。ドイツ軍は市街地の90パーセントを占領しますが、ソ連軍はヴォルガ川の対岸に拠点を置き、廃墟となった建物の陰に隠れたり地下を通ったりして、ドイツ兵を狙撃します。スターリングラードの戦いとは、こういう戦いでした。2001年版の映画「スターリングラード」(アメリカ、ドイツ、イギリス、アイルランド合作)では、ソ連軍の実在した一人の天才的なヴァシリ・ザイツェフという狙撃手(スパイナー)の悲哀を描いているそうで、私が観たかったのはこの映画だったのですが、間違えて別の映画を観てしまいました。
 こうした戦闘の間にソ連軍はスターリングラードの包囲を固め、ドイツ軍の補給路を断ち、本格的な反攻を開始しますが、これがこの映画の舞台となった時期です。そして結局、1943131日には、スターリングラード包囲されていた10万人ドイツ軍はソ連軍に降伏します。ドイツ軍および枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連赤軍のそれは約120万人とされています。また20万人の民間人が死亡したとみられ、攻防戦が終結したとき、スターリングラードの住民は1万人をきっていたそうです。
映画はいきなり、2011311日の東日本大震災から始まります。そして、瓦礫に埋まった女性を励ますため、なぜかロシアの救援隊員がスターリングラード攻防戦の話をし、彼の思い出話という形で映画が進められますが、いくら何でもこじつけすぎで無理があるように思います。また相当のお金をかけて廃墟のスターリングラードが作られていましたが、廃墟が立派すぎて現実感に欠けました。もちろん戦争映画で語られる人情話もありましたが、あまり感銘を受けるようなものでもありませんでした。ただ、スターリングラードの攻防戦とはこういうものだったのだ、ということを知ることができました。
 なお独ソ戦全体では、民間人の犠牲者も入れると、ソ連は20003000万人が死亡し、ドイツは約6001000万人だったそうです。これ以上言うべき言葉が見つかりません。

2018年1月3日水曜日

「大数学者」を読んで

小堀憲著 1963年、新潮選書
 本書は、19世紀に活躍した6人の数学者ガウス、コーシー、アーベル、ガロア、ヴァイエルシュトラース、リーマンについて述べています。私は数学についてはまったく苦手で、本書でも数学の説明はほとんど飛ばしてしまいました。ただ、近代のヨーロッパ文明は、数学の発展と不可分に結びついているように思います。優れた哲学者・物理学者・天文学者などは、みな優れた数学者であり、優れた数学者は同時に優れた哲学者でした。数学者にとっては、混沌とした世界において、数学のみが絶対的に整然とし、美しいということのようです。コペルニクスは地動説を主張したというより、従来の宇宙観が数学的に整合せず、天動説に基づいた場合のみ数学的に整合するということでした。そこで展開された数学的な整合性はあまりに美しく、当初、多くの人はそれを天文学上の問題としてよりも、数学上の問題として捉えていたようです。
 19世紀以前の数学上の業績は天才的な直観よるものが多いとのことですが、19世紀の数学は直観に依存していた概念を、徹底的に分析し、何が基本概念であるかをつきとめ、これによって数学は躍進したのだそうですが、おかげで学校で学ぶ数学がやたらに難しくなったような気がします。ドイツの数学者ガウスは近代数学のほとんどの分野に影響を与えたとされ、フランスのコーシーは厳密主義の創始者とされます。ノルウェーのアーベルは500年分の仕事をしたとまで言われる業績を残しましたが、大御所ガウスやコーシーに認められず、26歳で病死しました。フランスのガロアは10代のうちにガロア理論なるものを生み出し、現代数学への扉を開いたとされますが、七月王政に対する革命運動で一時投獄され、さらに20歳の時女性問題で決闘を行って死亡しました。ドイツのワイエルシュトラスは現代数学の基礎である複素数の解析を行い、同じくドイツのリーマンの幾何学における多様性の概念は、アインシュタインの一般相対性理論に応用されているそうです。なお、アインシュタイン自身は数学が苦手だったそうです。

 自分でもほとんど意味の分からないことを書いていますが、それでもある程度の関心をもって、本書を読むことができました。