2016年8月31日水曜日

映画「戦場カメラマン 真実の証明」を観て 

2009年にアイルランド・スペイン・ベルギー・フランスによって制作された映画で、戦争における生と死の問題を扱っています。邦題の「戦場カメラマン 真実の証明」というのは、映画の内容を反映していないばかりか、誤解を与えるタイトルです。この映画の原題は「トリアージ」、つまり「選別」です。
 トリアージとは、例えば事故などで多数の負傷者が出た場合、治療の優先順位をつけることです。まず第一のトリアージは、生きているか死んでいるかであり、後は症状に応じて優先順位をつけていきます。本来、医療はすべての人を平等に治療するのが建て前で、このような選別は医療倫理に反する面もありますが、一方で、大規模事故が起きて医療のキャパシティーが不足した場合、このような選別を行う必要がある、という人もいます。どちらが正しいのか、私には判断できませんが、現実にトリアージは広く行われています。
 映画は、マークとデビッドという戦場カメラマンが、クルディスタンに取材に出かけるところから始まります。クルド人については、このブログの「クルド人の映画を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_494.html)を参照して下さい。時代は1988年で、フセイン大統領がクルディスタンの石油資源を奪うため、クルド人の虐殺を行っていた時代でした。二人はまずクルド人の拠点の一つを訪問します。そこでは、一人のクルド人医師が、次々と運ばれてくる負傷者の治療にあたっていました。そこで二人は衝撃的な事実を目撃します。医師は、負傷者が運ばれてくると、まず治療できる患者とできない患者に選別し、できない患者は医師自身が銃で射殺していました。人材も医療器具も医薬品も不足しているため、治療が困難であり、苦しんで死ぬのを待つより、早く楽にしてやる方が良い、ということです。そして、この病院で、このことに不満を持つ人はいませんでした。まさに、究極のトリアージです。
 妻が臨月を迎えていたデビッドは先に帰り、やや遅れてマークは負傷して帰ります。ところが先に帰ったはずのデビッドがまだ帰っておらず、またマークも精神的に不安定になっていました。心配した妻は、精神科医である彼女の祖父に夫の治療を依頼しました。彼はすでに80歳を過ぎており、スペイン内戦で多くの人を虐殺した反乱軍の兵士たちの精神治療に当たってきました。政府軍だけでなく、反乱軍の兵士にも、心を病む人々が沢山いたのです。マークの妻は、ファシストを治療した祖父を嫌悪していましたが、医者にとっては患者がファシストだろうと民主主義者であろうと、関係がありません。残虐行為を行って心が壊れた人々を治療したくないという思いは、医者にもあったかもしれませんが、それでも治療せねばならない、これもまたトリアージの問題なのです。つまり、トリアージの基準には、患者の地位や身分や思想は含まれません。なお、市民戦争がスペインの人々の心に残した傷については、「「子供たちのスペイン戦争」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_24.html)、「映画「サルバドールの朝」を見て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_27.html)を参照して下さい。
 心を閉ざしていたマークも、少しずつ真実を語り始めます。実は彼はデビッドと一緒に帰途についたのですが、途中で襲撃され、デビッドが両足を吹き飛ばされます。マークは何とかデビッドを連れて帰ろうとしますが、川を渡っているとき溺れそうになり、デビッドを離してしまいます。彼は友を見捨てた自分を恥じ、自分を責めていました。これもトリアージの問題でした。デビッドは、事故がなくても、おそらく目的地に着くまでに死んだでしょうし、もしここでマークがデビッドを離さなければ、おそらく二人とも死んでいたでしょう。戦争という異常な状況な中で、人々は絶えず生と死のトリアージを迫られます。そして映画は冒頭で、「戦場で生死を分ける決まり事などない。戦争とは、人が死ぬものだからだ。それだけが決まっている」と述べて、戦争の無惨さを訴えています。


2016年8月27日土曜日

映画「サルバドールの朝」を見て

2006年にスペインで制作された映画で、反政府活動のメンバーだった一人の青年が処刑されるという話ですが、これは実話に基づいており、主人公の青年は1974年に実際に処刑された青年でした。
16世紀にスペインは空前の繁栄の時代を迎えましたが、17世紀以降急速に衰退していき(「スペイン黄金時代」を読むhttp://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_18.html)19世紀にはヨーロッパでも最も後進的な国の一つとなっていました。スペインの抱える問題は、中世以来の貴族による土地支配とカトリック教会による住民の呪縛、さらにバスクやカタルーニャなどの分離運動など、さらに20世紀になると労働運動や無政府主義の運動が激化し、スペインの混乱は収拾困難な状態になっていました。1931年に無血革命が成功し、ブルボン朝は崩壊して共和国が成立しますが、相変わらず国内は混乱していました。そうした中で、1936年に左派・中道による人民戦線政府が成立すると、軍部のフランコが反乱を起こし、スペイン内戦が勃発します。この内戦は、結局1939年にフランコの勝利に終わり、以後1975年のフランコの死まで、彼の独裁体制が続きます。スペイン内戦については、「「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団」を読む」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_25.html)、「「バスク大統領亡命記」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/blog-post_8.html)を参照して下さい。
 フランコ体制下のスペインは、軍部・地主・カトリック教会・様々な保守派の均衡の上に成り立ち、ほとんど中世の社会がそのまま残っているようでした。経済的には自給自足を目指していましたので、完全に崩壊し、対外的にはファシズムの生き残りとして白い目で見られ、風見鶏的な政策のため、どの国にも信用せれず、国際的に孤立していました。それでも後半には、冷戦のおかげでアメリカの支援を受けて多少状況は改善されますが、本質的には何も変わりませんでした。 
 心の問題も見過ごせません。内戦では親子・兄弟が互いに敵味方として戦いました。戦後、その傷を癒すのは容易ではありませんでした。また、このブログの「「子供たちのスペイン戦争」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_24.html)でも述べたように、子供たちの心にも深い傷が残りました。そしてサルハドールの父は、人民戦線側で戦い、戦後収容所に入れられ、死刑の宣告を受け、銃殺直前に恩赦されますが、この間に性格が一変し、恐怖のため心が死んでしまいます。内戦後、多くの人々が、この父と同じような状態になり、あらゆる不条理に眼を背けて生きてきたのだと思います。
 一方、フランコは焦っていました。彼は高齢であり、病気がちであり、彼の死は目前に迫っていたからです。フランコ体制は、一定のイデオロギーや組織理論に基づいた体制ではなく、まさにフランコ個人によって成り立っている体制でしたから、彼が死ねば体制そのものが崩壊します。そこでフランコは、ブルボン家の公子を国王にして王政を復活させ、自らの腹心であるカレーロ・ブランコを事実上の後継者として実権を握らせ、自らの独裁路線を継続させる構想を描いていました。しかし、まもなくこの計画は挫折することになります。
 サルバドールは、カタルーニャの反政府組織の一員として、資金稼ぎのために銀行強盗を繰り返していました。最初は軽い話で、大した計画もなく銀行を襲撃し、大金が詰まったバッグを見て大はしゃぎしていました。サルバドールには高邁な理想とか政治的信念はなく、反政府のビラを配っていた友人が警察により窓から突き落とされたのを知り、漠然とこの体制の不条理に立ち向かおうとしていました。そこには、不条理故に心が壊れた父への思いもあったかもしれません。要するに、不条理から対し、眼を背けて沈黙するか、行動するかの問題でした。
 1973925日に、サルバドールは逮捕されます。フランコを倒すためとはいえ、銀行強盗は正当化できませんし、逮捕の混乱の際に警官を射殺しているため、彼の死刑は免れません。ところが、死んだ警官の遺体に、彼の拳銃から発射された銃弾以外に、同僚の警官たちの銃弾が撃ち込まれていました。警察はその証拠を隠蔽し、サルバドールを陥れようとしていたのです。彼の家族や友人は、あらゆる手段を用いて彼を救出しようとし、国際世論も彼の助命を求めるようになります。
 しかし、197312月に、バスクの反政府組織がカレーロ・ブランコを暗殺します。これによって、フランコの後継者計画は頓挫し、怒り狂ったフランコは何が何でもサルバドールを生贄にする決意をします。サルバドールとバスクの反政府組織とは何の関係もありませんでしたが、フランコにとって彼は処刑されねばなりませんでした。まさに不条理です。もはやどのような方策も、フランコの決定を覆すことはできませんでした。そして197432日の朝、サルバドール処刑の朝がきます。彼は穏やかでしたが、彼が望んだのは英雄として死ぬことではなく、生きて刑務所を出ることでしたが、彼の望みは叶えられませんでした。23歳でした。
 サルバドールは、彼が望まなかった英雄となり、彼の死をきっかけにフランコに反発する運動は一層高まりました。そして197511月、フランコは死亡しました。83歳でした。フランコは、自分の死後王政に戻すこと、そして後継者としてブルボン家のファン・カルロスを指名しており、それに基づいてファン・カルロス1世が即位します。大方の予想では、新国王はフランコの政策を継承し、スペインは何も変わらないだろうと言うものでした。ところが、ファン・カルロスは民主化を指示し、スペインは一夜にして独裁国家から、民主主義国家への道を歩き始めたのです。その意味で、サルバドールの死は、彼自身が望まなかったとしても、スペインの民主化の象徴となりました。映画は、普通の青年であるサルバドールが、生きていたいと願いつつ、結局処刑される姿を描き出しています。



2016年8月24日水曜日

「子供たちのスペイン戦争」を読んで


T・パミエス著 1977年 川成洋・関哲行訳 1986年 れんが書房新社
 本書には著者についての説明がないため、著者についてはよく分かりませんが、翻訳者の一人は、前の「「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団」を読む」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_25.html)の川成氏です。本書が出版されたのは、フランコの死後2年後ですので、フランコ独裁の時代に密かに資料を集めて、書かれたものと思われます。
 フランコ軍の占領下では、両親が殺されたり、亡命して取り残された孤児が、虐待を受けます。特にイデオロギーが関わる戦争では、虐待は過酷となります。著者は、多くの資料や聞き取り調査により、当時の子供たちの実態を描き出しています。フランコ軍支配下から大量に難民の子弟が共和国占領地域に流入します。
 「恐ろしいまでの憎悪が、あの子供たちの胸に息づいていた。」「目の当たりに体験した残虐行為によって、子供たちの神経はボロボロになっていた。彼らが不意に発する叫び声、嘔吐、反射神経の衰え、夜尿症、吃り、集中力の欠如、不眠症などはそれをしめすものである。」
もちろん、戦争での子供たちの苦しみは、どこにでも見受けられます。第二次世界大戦でドイツ軍に占領された時のフランスでは、前に観た「映画でヒトラーを観て 禁じられた遊び」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_24.html)で両親を失った少女の心の歪みが描かれていました。さらに日本の戦後孤児となった子供たちも、悲惨でした。ただ、スペインの場合イデオロギー的対立と内戦であったことから、子供たちの心はボロボロに引き裂かれてしまいます。子供たちの遊びにおいては、「裏切り者」とか「銃殺」といった言葉が飛び交ったそうです。

2016年8月20日土曜日

映画で明治を観て

獅子の時代
1980年に放映されたNHKの大河ドラマで、幕末から明治の初期にかけて、会津の武術に長けた下級武士である平沼銑次(せんじ)と、薩摩の郷士で秀才の苅谷嘉顕(よしあき)という、二人の架空の人物を主人公としています。
















 幕末維新期についてのドラマは、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通など、そうそうたる英傑が主人公となるのが普通で、1990年のNHK大河ドラマ「翔ぶが如く」も、薩摩の西郷隆盛と大久保利通を主人公とした映画です。二人は幼い時からの親友であり、ともに維新を成し遂げていくのですが、結局最後は決別することになります。これらの英傑たちについては、あまりによく知られているため、ここではあえて架空の人物を主人公とした映画を取り上げました。
 ドラマは、いきなり1867年のパリから始まります。この時代のフランスはナポレオン3世の第二帝政期で、この年にパリで万国博覧会が開催されることになっており、幕府はこれに初めて出品することになりました。幕府としては、幕府の権威が日に日に落ちていく中で、万国博覧会に出品することで、幕府が日本の代表であることを世界に示したかったのです。ところがこれに薩摩が横やりを入れた分けです。
 長州はすでに1863年に5人の留学生をロンドンに送っており、薩摩も1865年に15人の留学生をロンドンに送っていました。そして、彼らが薩摩の出品を援助するためロンドンからパリに来るのですが、その中の一人に苅谷嘉顕がいました。一方、前年に薩長同盟が成立しており、薩摩は討幕の意図を露わにし始めていました。薩摩は、万博の展示場で「日本薩摩琉球王国」という旗を掲げて、幕府が日本の唯一の代表でないことを世に示したのです。幕府は当然撤回を求めますが、薩摩は早くからフランス入りしてフランス政府やマスコミに根回しをしており、どうすることもできませんでした。その結果、幕府は、日本の唯一の代表であることを示すという本来の目的を失ってしまいました。それどころか、万博開催中に日本で大政奉還が行われた分けですから、幕府の努力はまったく無意味となってしまいました。
 一方、幕府は出品については商人に任せ、使節団は、まだフランスへの途上にありました。当時、日本からヨーロッパまでの船旅は2カ月ほど要します。代表は徳川慶喜の弟徳川昭武(あきたけ)で、まだ14歳でした。そして徳川昭武を護衛するために平沼銑次が加わっていました。なお、この一行に幕臣として渋沢栄一が随行しており、彼はフランスでの経験から、明治時代に日本の近代化に大きな役割を果たし、この後ドラマでも何度も登場します。このパリで苅谷嘉顕と平沼銑次が出会い、二人の間に不思議な友情が生れます。
 博覧会が終わった頃、パリに大政奉還の知らせが届き、代表たちは急いで国に帰りますが、二人の運命は対照的でした。苅谷は官軍となり、やがて大久保利通の下で新しい国造りに向かったのに対し、平沼は会津で敗れ、さらに函館戦争にも敗北した後、辛酸をなめます。その後、平沼は西南戦争に駆り出されて鹿児島に行き、大久保利通暗殺に連座したという冤罪で北海道に流罪となり、さらに秩父事件に関わって姿を消します。まさに平沼は、明治維新の生み出した負の世界の中で、したたかに生きていきます。なお、秩父事件については、このブログの「映画で日本史上の反乱を観て 草の乱」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html)を参照して下さい。
 一方、苅谷は新国家の建設に情熱を傾け、さらに北海道開発局の高官として北海道の開拓にも情熱を傾けます。しかし、この間に西南戦争で父と戦うという苦しみを味わいます。さらに、苅谷は正義感がつよくて頑固でしたので、官僚仲間と対立することが多く、一時職を辞しますが、やがて伊藤博文のもとで憲法制定に邁進します。彼は民主的な憲法の制定を期待していたのですが、伊藤博文と対立し、危険思想の持ち主として殺されてしまいます。

 結局二人の夢は果たされませんでしたが、映画では、幕末から明治初期にかけてのさまざまな局面がかなり詳しく描かれており、大変興味深く観ることができました。なお、当時「トラック野郎」で人気絶頂だった菅原文太が、平沼役で出演し、見事なイメージ・チェンジを成し遂げていました。

遺恨あり 明治十三年 最後の仇討

2011年にテレビ朝日系列で放映されたテレビ・ドラマで、吉村昭原作の「最後の仇討」に基づいています。明治に入り、すでに仇討禁止令が制定している中で、明治13年に仇討が行われという史実に基づいて、ドラマはこの仇討の顛末を描いています。
 事の起こりは、慶応4(1868)、その年の内に明治に代わる時代のことです。この年、福岡藩の支藩である秋月藩の執政で開明派の臼井亘理(わたり)とその妻が、尊王攘夷派に暗殺されるという事件が起きました。こうした事件は、当時あちこちの藩で起きていましたが、秋月藩では、家老が開明派に反対して暗殺を命じたため、家老は犯人の探索を行わず、逆に臼井家に対して藩を乱したという理由で減俸するという不当な裁定を行いました。
 当時、臼井亘理の長子六郎は11歳で、無残に惨殺された父母の死体を目撃し、父母の恨みを晴らすという固い決意をし、そこで彼の人生は止まってしまいました。たまたま臼井家の下女が犯人を目撃していたため、父を殺したのが一瀬直久、母を殺したのが萩谷伝之進であることが判明しました。しかし六郎はまだ幼かったため、ひたすら剣の修行に励みます。
 ところで、仇討ち・敵討ち・復讐というのは、古くから存在し、司法制度が発達していない時代には、司法制度を補完するものとして公認されていました。ハンムラビ法典は復讐を認めていますが、同時に無制限の復讐に歯止めをかける意図もあったとされます。日本の江戸時代でも、殺人者に対しては原則的には公権力による処罰が行われましたが、いくつかの制限をつけた上で、仇討は認められていましたが、それは復讐ではなく武士の意地と面目に主眼が置かれていました。さらに家督を相続するために仇討が必要なことがあり、こうなると仇討には利害が絡んできます。
 明治に入ると、明治4(1871)に廃藩置県が行われ、武士は士族という名の失業者となりました。さらに明治6(1873)に仇討禁止令が出され、明治9年には廃刀令が制定されて、武士の誇りも捨て去られました。そうした中で、各地で士族の反乱が起き、明治10年には西南戦争が勃発します。六郎は、士族によるこうした事件とは一切かかわりなく、ただ恨みを晴らすことのみを考え、一瀬が東京に出たという情報を得て、1876(明治9)に東京に出ます。彼は、東京で剣の修行を積みつつ一瀬の行方を探し、ついに1880(明治13)に一瀬を殺害し、そのまま警察に自首します。六郎、23歳の時でした。
 ドラマの後半は、六郎の裁判を巡る物語です。世論は、六郎を武士の誉れとして賞賛しましたが、裁判官は司法制度を守るためにも、この仇討を単なる殺人として裁くつもりでした。裁判官は、この仇討に関わった様々な人々の意見を聴取し、結局六郎が士族であるという理由で、死罪から罪一等を減じて無期懲役とする判決を下します。つまり士族の面目を考慮したわけです。六郎自身は、武士の誇りにも自分の将来にも無関心でしたから、素直に罰を受け入れます。そして士族もこの判決にある程度納得し、司法制度も守ることができました。
 この事件は、前に観た「映画「阿部一族」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_18.html)と同様に、価値観が大きく変わろうとしていた時代に起きた事件でした。結局、六郎は、1889(明治22)の大日本帝国憲法の発布の恩赦により釈放されます。ドラマでは、その後、彼は母を殺した萩谷伝之進を討つために旅に出ますが、彼は六郎が来る直前に、半狂乱になって首吊り自殺します。ただし、実際には六郎が服役中に死亡したともされます。一瀬の父も、六郎の判決後自殺したとされます。
映画はここで終わりますが、彼は萩谷の死によって生きる目的を失ってしまいます。もともと彼は武士の誇りとか正義を正すために行動していたわけではありません。正義を正すためなら、父母の殺害を命じた家老を討つべきですが、彼にはそうした意志はありませんでした。要するに彼の行動の原点は、11歳の時に見た父母の生々しい死の姿にあり、それに対する恨みを晴らすことだけだったのです。釈放後、彼は親戚の世話で結婚し、彼が病弱だったこともあって、妻が饅頭を売って生計をたて、1917年に60歳で死亡します。

 この事件は、多事多難であった明治初期のほんの一コマにすぎませんが、当時の多くの人々の心を打ち、ドラマも大変よくできていたと思います。

新しい風

2004年に制作された映画で、明治時代に北海道の開発に携わった依田勉三(よだ べんぞう)の半生を描いています。依田勉三は、今日の十勝の開発に生涯をささげ、今日の帯広の創設者となりました。なお、十勝とはアイヌ語で乳を意味する「トカプチ」を語源とし、十勝川の河口が乳房のように二つに分かれていたのが由来とされ、帯広はアイヌ語で「川尻が幾重にも裂けているもの」を意味する「オ・ペレペレケ・プ」が語源だそうです(ウイキペディア)
農耕を基盤とする社会においては、常に人口増加にともなう農地不足が問題となります。江戸時代には幕府や藩が積極的に新田を開発したため、一定のバランスが保たれていましたが、それも限界に達していました。しかも明治に入ると、士族という大量の失業者が出現したわけです。前に触れた河井継之助(「映画で幕末を観て 河井継之助)や福沢諭吉なども(「映画で幕末を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_6.html)、北海道での開拓を勧めていました。そして依田勉三は、19歳の時慶応義塾に入り、福沢諭吉の強い影響を受けました。
依田勉三は伊豆の豪農の次男に生まれ、明治14(1881)に資本金5万円で晩成社を創設し、翌年農民や友人らとともに十勝に向かいます。依田、29歳の時です。依田らはさまざまな種を蒔いて実験を繰り返しますが、イナゴ害・水害などさまざまな自然災害に襲われ、明治18年には、移民は3戸にまで減少しました。しかし、その後畜産を導入したりして、少しずつ業績が伸び、明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると多くの移民が殺到し、今日の帯広市の原型が形成されます。そして、大正14年(1925年)に依田は、72歳で死亡します。
要するに、北海道開拓の苦労の物語ですが、アイヌの問題があるため、私はこうした物語を素直に観ることができません。前に述べた「獅子の時代」でも北海道開拓の物語が出てきますが、そこではアイヌはまったきく登場しません。この映画ではアイヌが登場しますが、十勝には10戸程度のアイヌが狩猟生活を行っていました。さらに会津の武士が一人いましたが、彼は会津から逃れてアイヌの中に溶け込んで暮らしていました。映画では、依田たちはアイヌとの共存を望んでいましたが、政府の指示を受けた人々がアイヌの村を焼打ちするなど無法な行為を行い、結局村の人々は奥地へと移動していきます。
明治32年、日本政府は北海道旧土人保護法を制定します。その名目的な目的は、「貧困にあえぐアイヌ民族の保護」でしたが、実質的にはアイヌの財産の収奪とアイヌの日本への同化でした。具体的には
1.アイヌの土地の没収
2.収入源である漁業・狩猟の禁止
3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
4.日本語使用の義務
5.日本風氏名への改名による戸籍への編入 (ウイキペディア)
そしてこの法が廃止されたのは、実に1997年でした。

 その後日本は、日清戦争、日露戦争、日中戦争へと突き進んで行きますが、その出発点に北海道の開拓があったわけです。

坂の上の雲

 2011年から13年にかけてNHKで放映された連続テレビ・ドラマで、一話90分で13話からなる長編です。司馬遼太郎の原作で、封建の世から目覚めたばかりの日本が、登って行けばやがてはそこに手が届くと思い、登って行った近代国家や列強というものを「坂の上の雲」に例えました。初めて国家をもったことへの痛々しいばかりの高揚感の中で、滑稽なほどがむしゃらに坂を登り続けていく人々が描かれています。しかし坂を登りつめてもそこに雲はなく、そこにあったのは絶壁でした。著者は、そうした時代を生きた人々を、幾分哀愁を込めて描いています。司馬は、本書が明治維新や戦争を賛美していると受け取られるのを嫌って、本書の映像化を拒否していましたが、彼の死後に映像化されることになりました。
 最初の舞台は、伊予(愛媛県)の松山で、三人の少年たちの物語から始まります。一人は主人公の秋山真之(あきやま さねゆき)で、後に海軍参謀として日露戦争の勝利に貢献します。もう一人は彼の兄である秋山好古(あきやま よしふる)で、後に日本軍の騎馬隊を指揮して日清戦争・日露戦争で大活躍をします。そして、もう一人は正岡子規で、彼は34歳で早逝しましたが、日本の近代文学に計り知れないほど大きな影響を残していきます。
 ドラマの前半は、青春群像物語です。やがて三人は東京に出、それぞれの道を模索していきます。秋山家は貧しかったので、好古は学費の要らない陸軍士官学校に入ります。彼は、もともと大人しい性格のようでしたが、自分に与えられた道をひたすら努力で切り開いていきます。真之は兄の援助で東大受験のための予備門(旧制高校)に入りますが、もともと喧嘩好きで、学問に向かないと考え、海軍士官学校に入ります。子規は、初めは政治家を目指しましたが向かないと判明、次に哲学を目指しますが向かないと判明、最後に文学、ことに俳諧の復興を目指すことになります。なお、真之と子規が通っていた予備門の同窓生には夏目漱石がおり、英語教師に高橋是清がいました。
 やがて日清戦争が始まります。この間の伊藤博文や陸奥宗光らの外交上のかけ引きは、興味深いものでした。当時真之は海軍将校の下っ端でしたが、好古は騎馬隊の指揮官として大活躍します。子規は、戦争の終わり頃に従軍記者として清に渡ります。事実かどうか知りませんが、従軍医師だった森鴎外に出会い、鴎外にこの戦争は「明治維新と文明開化の押し売り」であると言われ、深く考えるようになります。そして、この頃から子規は結核にかかり、自分の余生があまり長くないことを感じるようになります。
 日露戦争が近づいてきます。小村寿太郎らによる外交的取引は見応えがあり、財政家である高橋是清による資金集めも興味深いものでした。真之は、東郷平八郎のもとで日露海戦の作戦の立案を任せられます。一方、子規の病はますます重くなり、外へ出ることも困難となり、小さな部屋と小さな庭を見つめながら、命を削って俳句を作り続けていました。この間に様々なエピソードが語られます。訪日中のロシア皇太子ニコライ暗殺未遂事件、ロシアでの諜報活動、子規の晩年など、大変興味深い内容でした。
 後半の多くは日露戦争を扱っており、私は戦争の経過にはあまり興味がないので、少し飛ばしました。それでも、日本が勝利する場面を見ていると、心が踊るのはなぜでしょうか。それはプロ野球で応援するチームが勝利するのと同じでしょうか。サッカーで日本が勝利した時の心躍る気持ちと同じでしょうか。正岡子規も日清戦争での日本の勝利を喜びはしましたが、軍人だけが日本を築いているのではないこと、自分も日本の文化を築いているという気概がありました。日露戦争の時、すでに正岡子規は亡き人となっていましたが、奇しくも夏目漱石が松山にいました。後に夏目は、松山での経験をもとに「三四郎」を著し、その中で日露戦争について、三四郎が「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言うと、別の男に「滅びるね」と言わせています。また西洋文明ばかりを取り入れて、日本のものは何もないこと、富士山は日本一だが、日本人がつくった分けじゃない、とも述べています。
 さすがに夏目は、日本が置かれている状況を、よく理解していました。今日から見れば、夏目漱石や正岡子規の業績の方が、日清戦争や日露戦争での日本の勝利より、価値あるものを日本人に残したといえるのではないでしょうか。司馬遼太郎は、明治初年から日露戦争までの時代を驚くべき楽観主義の時代だったと述べていますが、同時にこの時代に生きた人々を愛情をもって描き出しています。


2016年8月17日水曜日

「マルゼルブ」を読んで

木崎喜代治著 1986年 岩波書店 副題「フランス18世紀の一貴族の肖像」
 本書は、フランス革命前に政府の高官として働き、フランス革命中に国王ルイ16世の弁護人の役を引き受け、処刑されて死んでいったマルゼルブという貴族の思想や行動を分析しています。マルゼルブは、1 8世紀の後半からフランス革命勃発の直前まで、出版統制局長や租税法院院長といった、実務能力を求められる要職を歴任します。
 マルゼルブは大変教養のある人物で、当時普及していた啓蒙思想にも深い理解を示していました。しかし彼は出版統制局長という立場上啓蒙思想関連の出版を取り締まる側にあった分けですが、ところがこの時期に、ティドローが編纂した「百科全書」が出版されます。出版統制局は「百科全書」の原稿を押収するため、印刷所の家宅捜索を行いますが、どうやら原稿はマルゼルブの私邸に保管されていたようです。またマルゼルブは、租税法院院長として、租税制度の合理化や民衆の負担軽減を、繰り返し国王に訴えますが、ほとんど聞き入れられませんでした。その後財務総監テュルゴーの下で大臣を務め、改革に努力しますが、結局1788年に故郷での隠遁生活に入ります。1789年に革命が勃発し、革命が過激化して国王の裁判が始まることになると、マルゼルブは自ら国王の弁護人の役を買って出ます。そして、国王の処刑の翌年、彼もまた処刑されます。
 国王の弁護人となることは、自らの命を危険にさらすことであり、かつてあれ程批判した国王の弁護人を、何故マグセルブは引き受けたのでしょうか。著者は次のように述べます。「マルゼルブが身を捧げたのは、彼の72年の全存在の大義のためであったようにわれわれには思われる。マルゼルブは王国の貴族の司法官・行政官として長い年月を生きてきた。貴族の存在は国王の存在によって意義づけられる。したがって、貴族は国王を支える義務をもつ。もし、貴族が、窮地におちいった国王を救いにおもむかなかったら、この貴族は、その存在理由を自ら放棄したことになる。しかも現在の危機は、単なる国王の生命の危機ではなく、王国そのものの崩壊の危機である。一人の国王の死は別の国王によっておきかえることができる。しかし王国の死はそうではない。さらに、時代の精神は君主制に替えて共和政を求めていることを、マルゼルブは誰にもまして知っていた。国王その人ばかりでなく、王国そのものが永久に失われようとしているとき、貴族だけが生き延びて、何になるというのだろうか。そもそも貴族が生き延びるということが可能なのだろうか。永久に国王が去り、王国が消える時、貴族もまた消滅すべきではないか。たしかに、貴族として死に、人間として生き延びることはできよう。しかし、72年間、古い家柄の貴族として国王に仕えてきた者にとって、そのような区別は詭弁でしかなかっただろう。」

 マグゼルブは、その有能さにも関わらず、断頭台で処刑されたが故に、反革命分子と見做されて、正当に評価することが躊躇されてきました。しかし今日では、フランス革命は国王・貴族の横暴に対する民衆の暴動という単純な捉え方は困難になりつつあり、マルゼルブのような貴族にも、焦点が当てられるようになっています。

2016年8月13日土曜日

映画「チボー家の人々」を観て

2003年にフランスで制作されたテレビ・ドラマで、マルタン・デュ・ガールの同名の小説を映画化したものです。
マルタン・デュ・ガールは、パリのブルジョワの家系に生まれ、1905年、25歳頃から小説を書き始め、1920年(39歳)から1940年(59歳)にかけて『チボー家の人々』を執筆し、1937年には「第7 1914年夏」にノーベル文学賞が与えられました。1914年夏とは第一次世界大戦が始まった年であり、第7部が完成された頃第二次世界大戦が迫っていました。デュ・ガールは平和の到来を願ってこの小説を書きましたが、小説が完成した時には、すでに第二次世界大戦が始まっていました。
 小説では、常に下層階級を見下す権威主義的なブルジョワ階級の精神風土を、親子の対立を通して描くとともに、第一次世界大戦前後の情勢を描いています。小説は全8部からなりますが、映画では、その内の4(1話 灰色のノート、第2話 美しい季節、第3話 父の死、第4話 1914年夏)が取り上げられています。主人公はブルジョワ階級の次男ジャックで、父はカトリック教徒の厳格な独裁者、兄は10歳年上で医師であり、よくジャックをかばってくれました。母はジャックが生まれた時に死に、そのため父はジャックを憎んでいました。近所のフォンタナン家のダニエルはジャックの親友で、ジェンニーという妹がいました。
 ジャックは、父や学校に激しく反発し、ダニエルと灰色のノートを交換し、お互いの思いをぶつけ合っていました。16歳の時にジャックはダニエルとともに家出しますが、結局連れ戻され、父が経営する感化院にいれられてしまいました。その後ジャックは表向き大人しく暮らし、20歳の時にエリート養成学校である高等師範学校に合格しました。しかし彼は入学を拒否し、一人で旅立ち、あちこちを放浪し、やがて平和主義の運動に身を挺していきます。時代は、第一次世界大戦に向かいつつありました。そうした中で父が死に、彼に財産を残しますが、彼は受け取りを拒否します。一方、彼はダニエルの妹ジェンニーと恋をし、いつか一緒に暮らそうと誓い合って、ジャックはスイスに向かいます。
 すでにヨーロッパは第一次世界大戦に突入し、ナショナリズムが高まる中で、平和主義者は裏切り者として罵られるようになります。世の中は平和主義からナショナリズムの衝突へと、急激に変化していきました。そうした中で、ジャックは飛行機で戦場に飛び、反戦ビラはまくのですが、飛行機が墜落して死んでしまいます。この時、ジェンニーはジャックの子を身ごもっていました。戦争が終わった後、ジャックの兄は毒ガスを吸ったため余命いくばくもなく、毒薬を飲んで自殺します。ダニエルは片足を失い、かつての生気を失っていました。ただ、ジェンニーが生んだジャン・ポールが元気一杯に育っていました。ドラマはここで終わりますが、ジャン・ポールは1939年に兵役を拒否して逮捕され、その後レジスタントに加わって処刑されます。これにより、チボー家の血筋は断絶することになります。
 平和主義運動は、理想主義的であり、楽観主義的であると考えられる傾向があり、戦争の原因を論理的に考えないで平和だけを唱えるのは無責任であり、逆に利敵行為にさえなる、と考える人が少なくありません。また、ジャックのように、戦場で反戦ビラをばら撒いても、戦争が終わるとは思えません。だからといって、平和主義を主張しなくてよいのでしょうか。第一次世界大戦では、戦死者1600万人、戦傷者2,000万人以上といわれており、これ程の犠牲者を出して、得るものは何もない虚しい戦争でした。結局、ジャックの主張が正しかったのです。しかし、世界は再び第二次世界大戦に突入し、5000万から8000万人の被害者を出します。これでも、平和主義は楽観主義と言えるのでしょうか。

 私は、この小説を高校3年生の時に読みました。受験勉強もほったらかし、授業中にまで隠れて読んでいました。本書は、青春時代が抱えるさまざまな問題を提起しており、私にとっては、「社会」というものに目覚めるきっかけとなった本でした。そして、まもなくベトナム戦争が始まろうとしていました。


2016年8月10日水曜日

「ヴィクトリア朝期の下層社会」を読んで

 ケロウ・チェズニー著(1970) 植松靖夫・中坪千夏子訳 高科書店(1891)
 ヴィクトリア朝とは、1837年から1901年まで在位したヴィクトリア女王の治世のことで、ヴィクトリア女王については、このブログの「映画で三人の女王を観る ヴィクトリア女王 愛の世紀」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html)を参照して下さい。この時代は、大英帝国の繁栄の時代であるとともに、ヴィクトリア風家庭道徳が普及した時代でもありましたが、その社会は極めて複雑で、全体像を捉えることが容易ではないとのことです。本書の著者はプロの歴史家ではないそうですが、多くの資料を参照し、ヴィクトリア朝時代の社会の全体像を描いた数少ない本の一つだそうです。
 本書は、1850年代を中心に、放浪者、こそ泥、追い剥ぎ、押し込み強盗、故買屋、乞食、ペテン師、贋金使い、賭博士など、下層社会に生きるさまざまな人々を描き出しています。1850年代といえば、日本では幕末期に当たりますが、当時の日本でもこれ程の無秩序は存在しなかったのではないかと思われ、繁栄の絶頂を極めたヴィクトリア朝のもう一つの側面を見たような気がします。それと同時に、下層社会に生きる人々の逞しさも感じました。しかし、こうした下層社会は、繁栄するヴィクトリア朝と無関係に存在していたわけではありませんでした。

「しかし、広い意味では、下層社会抜きでこの時代のイギリス社会を考えることはでない以上、下層社会全体がヴィクトリア朝社会で一つの機能を担っていたと言えるだろう。過激な競争社会から出て来る屑のような人間が流されていく社会の汚水溜め、なくてはならない汚物溜めの至る所に下層社会は根を張っていた。また下層社会から一般社会への止むことのない逆襲が、社会に強い影響力を及ぼした。社会の負け犬を人目につく脅威的ないし迷惑な存在にすることによって、何も言わずに苦しんでいる者の運命など見逃しがちな一般の人々の目に、否応なくとまらせたのである。」


2016年8月6日土曜日

映画で幕末を観て

花神

 1977年に放映されたNHKの大河ドラマで、司馬遼太郎の同名の小説を基に、幕末期の長州の蘭学者である大村益次郎(村田蔵六)の半生を描いており、私が観たのは総集編です。大村益次郎は、幕末・明治期に活躍した他の著名人とは異なり、あまりその名は知られていませんが、ドラマの冒頭で、司馬遼太郎の言葉として次のように述べられています。「一人の男がいる。歴史が彼を必要とした時、忽然として現れ、その使命が終わると、大急ぎで姿を消した。もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、津々浦々の枯木に花を咲かせてまわることであった。中国では花咲爺いの事を花神という。彼は花神の仕事を背負ったのかもしれない。」









大村益次郎は、1824年に今日の山口市の村医者の子として生まれ、身分は農民でした。彼は医者としての父の跡を継ぐため医学や蘭学を学び、1846年に大坂に出て緒方洪庵の適塾で学びます。適塾は幕末期に活躍した多くの人材を育てたことで知られており、後に福沢諭吉もここで学びました。大村益次郎と福沢諭吉は、ともに語学力が群を抜いており、お互いに相手の才能を認めていましたが、あまりそりが合わなかったようです。福沢諭吉については、1991年の映画があり、諭吉の半生を淡々と描いており、結局は慶応義塾大学の創設物語となっていました。諭吉については、今日から見れば問題のある見解もありますが、幕末から明治にかけて日本の近代化と教育に大きな役割を果たしたことは、間違いないと思います。
1850年に父の仕事を継ぐために故郷に帰り、何事もなければ、そのまま村医としての生涯を送ったかもしれません。ただし彼は医者としては藪でした。蘭学を学ぶものの多くは医者を目指しますので、彼も医学知識は豊富でしたが、そもそも人間を相手にすることが苦手だったようです。この点では諭吉も同様で、血を見るのが苦手だったそうで、あまり医者に向いているとはおもえまん。

1853年に黒船が来航すると、蘭学者への需要が高まり、益次郎は宇和島藩(愛媛県)に招請されます。ドラマでは、宇和島藩時代に二つの興味深いエピソードが述べられています。一つは、藩主の命令による蒸気船の建造です。益次郎は、この蒸気船の設計図を書きますが、これを完成させたのは嘉蔵(かぞう)という一介の提灯職人でした。彼は、いわば市井の発明家のような人物で、その器用さと工夫の巧みさで知られていました。益次郎も、この身分の低い無学な職人の能力に驚嘆しています。もう一つは、シーボルトの娘イネとの出会いで、彼はイネに蘭学を教授します。ドラマでは、二人が愛し合ったことになっていますが、事実かどうかは知りません。

このころ、益次郎の名はかなり世に知られるようになっていましたが、まだ歴史の表舞台には登場してきません。それより、この間に長州の吉田松陰が彗星のごとく現れて消えていきます。「蒼天の夢」は、2000年にNHKが制作したテレビ・ドラマですが、1865年に高杉晋作が藩の保守派に対して反乱を起こした時、吉田松陰を回顧する形で進められます。松陰は、1854年に密航を企てて捕縛され、その後松下村塾で2年ほど教えた後、安政の大獄により1859年に処刑されました。この間に彼は、火を吐くような激しい言葉を叫び続け、それが討幕に与えた影響の大きさは、彼の弟子たちの顔ぶれから見れば、明らかです。一方、益次郎は1857年に江戸に出て、幕府で翻訳の仕事をしていましたが、松陰が処刑された1860年に、桂小五郎(木戸孝允)が益次郎に長州に来ることを懇請し、こうして益次郎は正式に長州藩士となりました。ようやく、長州も攘夷のために西欧の学問を学ばねばならないと気づいたようで、この頃から長州は密かに海外に留学生を送り込むようになります。同じ頃、福沢諭吉が江戸で蘭学塾を始め、これが慶応義塾の出発点となります。

この1860年に桜田門外の変が起き、井伊大老が暗殺されます。この事件については、あまりにもよく知られていますので、ここでは触れません。「桜田門外ノ変」は、吉村昭の小説を2010年に映画化したもので、襲撃を指揮した水戸藩士・関鉄之介を中心に、この事件の前後の顛末が描かれています。この映画は、水戸藩開藩四百年を記念して制作されたため、内容が水戸藩に偏り過ぎているような気がします。この事件の原因、影響については色々な議論があると思いますが、いずれにせよ、この事件のわずか7年後に大政奉還が行われることになります。
話しがかなり逸れましたが、わが大村益次郎はこうした混乱とは関わることなく、幕府の仕事を続けるとともに、長州藩邸でも講義し、1863年に長州に帰国すると、西洋兵学を講義するとともに、製鉄所を造ったりするなど、軍関係の仕事をします。司馬遼太郎は、「三種類の人間が変革を成し遂げる。最初に思想家が現れ、非業の死を遂げる。吉田松陰である。次いで戦略家の時代に入る。これまた天寿を全うしない。最後の段階に登場する者は技術者である」と言います。
 この後、長州では重大事件が多発します。1863年に下関海峡を通過する諸外国船を砲撃、1864年蛤御門の変を経て第一次長州征伐、さらに高杉による奇兵隊の組織と下関での挙兵などです。まさに長州は発狂しました。こうした中で、益次郎の存在が重要となってきます。彼は、極秘の留学生派遣の手配を依頼され、さらに軍隊の近代化を依頼されます。そして第二次長州征伐が始まります。ドラマでは、算盤で計算しながら戦闘を指揮する大村の姿が描かれており、大変興味深く観ることができました。幕府が倒れると、彼は近代的な軍隊の創設を委ねられ、その仕事に奔走しているさ中の1869(明治2)に、暗殺未遂により重傷を負い、その傷がもとで2か月後に死亡しました。享年46歳でした。大村の入院中、シーボルトの娘イネが献身的な看護を行い、彼の最期を看取りました。
 ドラマでは、総集編であるにも関わらず、主人公の大村の出番が少なく、前半では松陰の動向が、中盤では高杉の活躍が、後半でようやく本格的に大村が登場してきますが、ここでも、次に述べる越後長岡藩の河井継之助が重要な役割を果たします。

河井継之助〜駆け抜けた蒼龍〜

2005年に日本テレビで制作されたテレビ・ドラマで、幕末期に越後長岡藩で官軍と戦って死んだ家老河井継之助(つぎのすけ)の半生を描いています。彼は官軍と戦ったため逆賊として扱われ、さらに故郷の越後でも故郷を戦争に巻き込んだ好戦的な人物として嫌われてきました。しかし、当時、時流に流されて勤皇・佐幕の間を揺れ動く藩が多かった中で、そのいずれにも与することなく、越後の独立を守ろうとした人物として、再評価されつつあります。なお、このドラマは、司馬遼太郎の「峠」を原作としています。
 彼は、1827年に生まれましたから、益次郎や松陰とほぼ同世代です。継之助は、益次郎や松陰と同様に全国を旅し、様々な人に会い、見聞を広めます。この時代は、ペリー来航の直前ではありますが、すでに藩というものの枠組みを超えよえとする人々が増えてきていたようです。彼は、特に格式の高い家柄の出身ではなく、歯に衣を着せぬ物言いをし、藩命に背くこともありましたが、若い頃から蒼龍と呼ばれる程の才覚を示していたようです。そのため、ペリー来航後の混乱の中で、藩政の改革を委ねられます。彼の考えは、まず個々の藩が政治的・経済的に安定し、その上で結束して外国の侵略に対抗すべきだというもので、実際、藩政改革には相当の成果をあげたようです。
しかし、大政奉還と戊辰戦争の開始により、長岡藩は尊王派か佐幕派かの選択を迫られました。継之助は、どちらの側にも与せず、スイスのような武装中立を望んでいましたが、官軍はそのような曖昧な態度を許さず開戦となり、継之助は戦死し、長岡藩は破滅しました。この戦いは、今日から見て、中央集権か地方自治かという戦いだったように思えますが、当時は世界的に見て、中央集権が時代の趨勢であり、中央集権化によって国家の近代化を達成することが不可欠と考えられていました。その結果、継之助の行動は時代の流れに掉さす行動とされ、歴史から抹殺されていくわけです。
しかし、継之助は近代的合理主義精神の持ち主であるとともに、時代を見据える先見性と実行力もそなえていたとされます。彼の望みは、薩摩・長州による強引な中央集権化ではなく、各地方の政治的・経済的な安定を積み重ねることで、全体として国力を強化することではなかったのかと思います。今日から見れば、幕末の混乱の時代に、継之助が望んだような穏やかな変革という選択肢もあったのではないでしょうか。もちろん、当時の資本主義的な世界体制のもとでそれが可能だったかどうかは分かりませんが、結果的には、明治維新による激変により、多くの苦痛と矛盾が生み出されていくことになります。

 ドラマはかなり短縮されているようで、淡々と事実関係を追っているだけで、それほど面白いといえるようなものではありませんでしたが、薩摩と長州が主役となっている時代に合って、歴史に埋もれた人物に関心をもつことができました。なお、長岡藩の支藩が、敗戦後の長岡藩のあまりの惨状を見かねて、米百俵を送りましたが、長岡藩はこれを将来を担う若者たちの教育費にあてたという、いわゆる「米百俵」の物語は、長く語り伝えられました。

ええじゃないか

1981年に公開された映画で、幕末期に起こった「ええじゃないか」と呼ばれる民衆運動を、さまざまな人間模様を通して描いています。
「ええじゃないか」とは、ウイキペディアによれば「慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」「その目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説がある」、ということです。
 丁度この間の慶応31014日(1867119日)に大政奉還が行われており、この運動が民衆の自然発生的な運動と考えるには、幾分タイミングがよすぎるように思います。当時の民衆が、当時の時代の変化をどのように感じていたかについて、私は何も知りませんが、多くの人々が漠然とした不安や期待を抱いていたのではないでしょうか。もしかしたら、薩摩や長州がこうした運動を仕掛けたかもしれませんが、彼らの予想を超えて運動は広く広がっていったようです。
 映画の舞台となった場所は江戸の両国、時代は1866(慶応2)から68年です。映画での両国は、多くの見世物小屋が立ち並び、刹那的で、享楽的で、退廃的で、かつ活気あふれる街として描かれています。ペリーが来航してからすでに10年以上たっており、横浜も繁栄して欧米文化が身近となり、両国ではさまざまな文化や人々が入り乱れていました。両国の顔役である金蔵は、両国の裏も表も知り尽くし、薩摩藩の手先として働くとともに、幕府の手先でもありました。
 そんな中、1866年に源次という男がアメリカから帰国しました。彼は船が難破してアメリカ船に助けられ、6年間アメリカで過ごした後、女房イネを捜すため帰国したのです。その女房は、病気の父親に売られ、今では両国の「それふけ小屋」(ストリップ劇場)で働いていました。その他にも、世を拗ねた浪人、薩摩藩を憎む琉球人、薩摩と幕府の両方を相手に金儲けする豪商など、さまざまな人々が登場します。映画は、まるで幕末の両国の絵巻物を観ているようでした。そうした中で、源次もイネも踏みつけられ、ぼろぼろにされ、源次はイネとともにアメリカに帰りたいと思いましたが、イネは猥雑な両国が性に合っており、アメリカに行く決心がつきませんでした。
 この間に、強盗、一揆、打ち壊しなどが相次ぎ、こうした混乱の中で「ええじゃないか」運動が始まります。この民衆運動は、当初金蔵が薩摩藩に依頼されて扇動し、源次やイネもアジテーターとして参加していたのですが、しだいに統制がとれない程運動が拡大していくと、軍隊が民衆に無差別発砲したため、金蔵も源治も死んでしまいます。それでも、生き残ったイネは、その後も強かに生きていきます。この映画にはさまざまなテーマが織り込まれており、全体像を把握することが難しい映画でしたが、結局主要なテーマは、「ええじゃないか」ではなく、イネという女性の強かな生きざまを描くことにあったのではないでしょう。

 映画では、「ええじゃないか」運動がかなり詳しく描かれていました。人々は奇抜な格好に変装し、節をつけて歌を歌い、踊りまくりながら町を練り歩きます。私は、「ええじゃないか」の様子を具体的には知りませんので、この映像が正しいのかどうかも分かりません。ヨーロッパに「シャリヴァリ」と呼ばれる風習があり、これは共同体の掟に背いたものに対し、集中的に叫んだり踊ったりするもののようで、「ええじゃないか」とはルーツが異なるような気がします。映画で観た「ええじゃないか」は、私には「どうでもええじゃないか」と聞こえました。


2016年8月3日水曜日

「ロンドン・ペストの恐怖」を読んで

 ダニエル・デフォー著(1722) 栗本慎一郎訳 小学館(1994)
 デフォーといえば、「ロビンソン・クルーソー」(1719)が有名ですが、これについては「映画「ロビンソン・クルーソー」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/11/blog-post_7.html)を参照して下さい。彼はジャーナリストですので、王政復古時代からハノーヴァー朝の成立にいたるまでの様々な事件に関わり、多くの著書を著しています。本書はそうした作品の一つで、1665年に実際にロンドンを襲ったペストの恐怖を、ドキュメンタリー風の小説として描き出しています。
 ペストは、14世紀における大流行後も、断続的にヨーロッパ各地で発生しています。ペストについては、このブログの「グローバル・ヒストリー 第14章 1415世紀-危機の時代 疫病と世界史」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/141415.html)を参照して下さい。北里柴三郎がペスト菌を発見したのは1894年ですから、1665年当時では、ペストの原因も対処方法もまったく分からず、ペストが流行したら、ただ逃げるしかありませんでした。しかし、「逃げる」ことができる人は金持だけであり、貧乏人には逃げる術もなく、当時50万人ほどだったロンドン人口の約2割が死亡したとされます。
 著者は当時まだ5歳でしたので、この災難について僅かな記憶しか残っていませんが、彼はジャーナリストとして当時の記録を徹底的に調査し、当時の人々から多くの聞き取り調査を行い、ペストが流行するロンドンの状況を再現しました。本書は、H.Fという架空の人物の回想という形で進められます。地獄のような状況の中で、半狂乱になった人々、真っ先に逃げてしまった国教会の牧師、インチキな医療で金儲けをする詐欺師など、死に向かい合った極限状態の中での人々の心を描き出します。しかし一方で、ロンドンに留まった牧師も多数おり、さらに不幸な人々を助けようとする人々もいました。
 本書は、こうした現実を比較的軽いタッチで淡々と描き出しいき、ペストが流行する現場がどのようなものであるかを、さまざまな角度から再現しています。本書のような悲惨な内容を扱った本について、「面白い」という表現を使うのは不適切かもしれませんが、実際に大変面白く読むことができました。その背景には、「ロビンソンクルーソー」に見られるように、著者が、究極的には人間の魂の美しさを信じていたからではないでしょうか。