2016年8月6日土曜日

映画で幕末を観て

花神

 1977年に放映されたNHKの大河ドラマで、司馬遼太郎の同名の小説を基に、幕末期の長州の蘭学者である大村益次郎(村田蔵六)の半生を描いており、私が観たのは総集編です。大村益次郎は、幕末・明治期に活躍した他の著名人とは異なり、あまりその名は知られていませんが、ドラマの冒頭で、司馬遼太郎の言葉として次のように述べられています。「一人の男がいる。歴史が彼を必要とした時、忽然として現れ、その使命が終わると、大急ぎで姿を消した。もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、津々浦々の枯木に花を咲かせてまわることであった。中国では花咲爺いの事を花神という。彼は花神の仕事を背負ったのかもしれない。」









大村益次郎は、1824年に今日の山口市の村医者の子として生まれ、身分は農民でした。彼は医者としての父の跡を継ぐため医学や蘭学を学び、1846年に大坂に出て緒方洪庵の適塾で学びます。適塾は幕末期に活躍した多くの人材を育てたことで知られており、後に福沢諭吉もここで学びました。大村益次郎と福沢諭吉は、ともに語学力が群を抜いており、お互いに相手の才能を認めていましたが、あまりそりが合わなかったようです。福沢諭吉については、1991年の映画があり、諭吉の半生を淡々と描いており、結局は慶応義塾大学の創設物語となっていました。諭吉については、今日から見れば問題のある見解もありますが、幕末から明治にかけて日本の近代化と教育に大きな役割を果たしたことは、間違いないと思います。
1850年に父の仕事を継ぐために故郷に帰り、何事もなければ、そのまま村医としての生涯を送ったかもしれません。ただし彼は医者としては藪でした。蘭学を学ぶものの多くは医者を目指しますので、彼も医学知識は豊富でしたが、そもそも人間を相手にすることが苦手だったようです。この点では諭吉も同様で、血を見るのが苦手だったそうで、あまり医者に向いているとはおもえまん。

1853年に黒船が来航すると、蘭学者への需要が高まり、益次郎は宇和島藩(愛媛県)に招請されます。ドラマでは、宇和島藩時代に二つの興味深いエピソードが述べられています。一つは、藩主の命令による蒸気船の建造です。益次郎は、この蒸気船の設計図を書きますが、これを完成させたのは嘉蔵(かぞう)という一介の提灯職人でした。彼は、いわば市井の発明家のような人物で、その器用さと工夫の巧みさで知られていました。益次郎も、この身分の低い無学な職人の能力に驚嘆しています。もう一つは、シーボルトの娘イネとの出会いで、彼はイネに蘭学を教授します。ドラマでは、二人が愛し合ったことになっていますが、事実かどうかは知りません。

このころ、益次郎の名はかなり世に知られるようになっていましたが、まだ歴史の表舞台には登場してきません。それより、この間に長州の吉田松陰が彗星のごとく現れて消えていきます。「蒼天の夢」は、2000年にNHKが制作したテレビ・ドラマですが、1865年に高杉晋作が藩の保守派に対して反乱を起こした時、吉田松陰を回顧する形で進められます。松陰は、1854年に密航を企てて捕縛され、その後松下村塾で2年ほど教えた後、安政の大獄により1859年に処刑されました。この間に彼は、火を吐くような激しい言葉を叫び続け、それが討幕に与えた影響の大きさは、彼の弟子たちの顔ぶれから見れば、明らかです。一方、益次郎は1857年に江戸に出て、幕府で翻訳の仕事をしていましたが、松陰が処刑された1860年に、桂小五郎(木戸孝允)が益次郎に長州に来ることを懇請し、こうして益次郎は正式に長州藩士となりました。ようやく、長州も攘夷のために西欧の学問を学ばねばならないと気づいたようで、この頃から長州は密かに海外に留学生を送り込むようになります。同じ頃、福沢諭吉が江戸で蘭学塾を始め、これが慶応義塾の出発点となります。

この1860年に桜田門外の変が起き、井伊大老が暗殺されます。この事件については、あまりにもよく知られていますので、ここでは触れません。「桜田門外ノ変」は、吉村昭の小説を2010年に映画化したもので、襲撃を指揮した水戸藩士・関鉄之介を中心に、この事件の前後の顛末が描かれています。この映画は、水戸藩開藩四百年を記念して制作されたため、内容が水戸藩に偏り過ぎているような気がします。この事件の原因、影響については色々な議論があると思いますが、いずれにせよ、この事件のわずか7年後に大政奉還が行われることになります。
話しがかなり逸れましたが、わが大村益次郎はこうした混乱とは関わることなく、幕府の仕事を続けるとともに、長州藩邸でも講義し、1863年に長州に帰国すると、西洋兵学を講義するとともに、製鉄所を造ったりするなど、軍関係の仕事をします。司馬遼太郎は、「三種類の人間が変革を成し遂げる。最初に思想家が現れ、非業の死を遂げる。吉田松陰である。次いで戦略家の時代に入る。これまた天寿を全うしない。最後の段階に登場する者は技術者である」と言います。
 この後、長州では重大事件が多発します。1863年に下関海峡を通過する諸外国船を砲撃、1864年蛤御門の変を経て第一次長州征伐、さらに高杉による奇兵隊の組織と下関での挙兵などです。まさに長州は発狂しました。こうした中で、益次郎の存在が重要となってきます。彼は、極秘の留学生派遣の手配を依頼され、さらに軍隊の近代化を依頼されます。そして第二次長州征伐が始まります。ドラマでは、算盤で計算しながら戦闘を指揮する大村の姿が描かれており、大変興味深く観ることができました。幕府が倒れると、彼は近代的な軍隊の創設を委ねられ、その仕事に奔走しているさ中の1869(明治2)に、暗殺未遂により重傷を負い、その傷がもとで2か月後に死亡しました。享年46歳でした。大村の入院中、シーボルトの娘イネが献身的な看護を行い、彼の最期を看取りました。
 ドラマでは、総集編であるにも関わらず、主人公の大村の出番が少なく、前半では松陰の動向が、中盤では高杉の活躍が、後半でようやく本格的に大村が登場してきますが、ここでも、次に述べる越後長岡藩の河井継之助が重要な役割を果たします。

河井継之助〜駆け抜けた蒼龍〜

2005年に日本テレビで制作されたテレビ・ドラマで、幕末期に越後長岡藩で官軍と戦って死んだ家老河井継之助(つぎのすけ)の半生を描いています。彼は官軍と戦ったため逆賊として扱われ、さらに故郷の越後でも故郷を戦争に巻き込んだ好戦的な人物として嫌われてきました。しかし、当時、時流に流されて勤皇・佐幕の間を揺れ動く藩が多かった中で、そのいずれにも与することなく、越後の独立を守ろうとした人物として、再評価されつつあります。なお、このドラマは、司馬遼太郎の「峠」を原作としています。
 彼は、1827年に生まれましたから、益次郎や松陰とほぼ同世代です。継之助は、益次郎や松陰と同様に全国を旅し、様々な人に会い、見聞を広めます。この時代は、ペリー来航の直前ではありますが、すでに藩というものの枠組みを超えよえとする人々が増えてきていたようです。彼は、特に格式の高い家柄の出身ではなく、歯に衣を着せぬ物言いをし、藩命に背くこともありましたが、若い頃から蒼龍と呼ばれる程の才覚を示していたようです。そのため、ペリー来航後の混乱の中で、藩政の改革を委ねられます。彼の考えは、まず個々の藩が政治的・経済的に安定し、その上で結束して外国の侵略に対抗すべきだというもので、実際、藩政改革には相当の成果をあげたようです。
しかし、大政奉還と戊辰戦争の開始により、長岡藩は尊王派か佐幕派かの選択を迫られました。継之助は、どちらの側にも与せず、スイスのような武装中立を望んでいましたが、官軍はそのような曖昧な態度を許さず開戦となり、継之助は戦死し、長岡藩は破滅しました。この戦いは、今日から見て、中央集権か地方自治かという戦いだったように思えますが、当時は世界的に見て、中央集権が時代の趨勢であり、中央集権化によって国家の近代化を達成することが不可欠と考えられていました。その結果、継之助の行動は時代の流れに掉さす行動とされ、歴史から抹殺されていくわけです。
しかし、継之助は近代的合理主義精神の持ち主であるとともに、時代を見据える先見性と実行力もそなえていたとされます。彼の望みは、薩摩・長州による強引な中央集権化ではなく、各地方の政治的・経済的な安定を積み重ねることで、全体として国力を強化することではなかったのかと思います。今日から見れば、幕末の混乱の時代に、継之助が望んだような穏やかな変革という選択肢もあったのではないでしょうか。もちろん、当時の資本主義的な世界体制のもとでそれが可能だったかどうかは分かりませんが、結果的には、明治維新による激変により、多くの苦痛と矛盾が生み出されていくことになります。

 ドラマはかなり短縮されているようで、淡々と事実関係を追っているだけで、それほど面白いといえるようなものではありませんでしたが、薩摩と長州が主役となっている時代に合って、歴史に埋もれた人物に関心をもつことができました。なお、長岡藩の支藩が、敗戦後の長岡藩のあまりの惨状を見かねて、米百俵を送りましたが、長岡藩はこれを将来を担う若者たちの教育費にあてたという、いわゆる「米百俵」の物語は、長く語り伝えられました。

ええじゃないか

1981年に公開された映画で、幕末期に起こった「ええじゃないか」と呼ばれる民衆運動を、さまざまな人間模様を通して描いています。
「ええじゃないか」とは、ウイキペディアによれば「慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」「その目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説がある」、ということです。
 丁度この間の慶応31014日(1867119日)に大政奉還が行われており、この運動が民衆の自然発生的な運動と考えるには、幾分タイミングがよすぎるように思います。当時の民衆が、当時の時代の変化をどのように感じていたかについて、私は何も知りませんが、多くの人々が漠然とした不安や期待を抱いていたのではないでしょうか。もしかしたら、薩摩や長州がこうした運動を仕掛けたかもしれませんが、彼らの予想を超えて運動は広く広がっていったようです。
 映画の舞台となった場所は江戸の両国、時代は1866(慶応2)から68年です。映画での両国は、多くの見世物小屋が立ち並び、刹那的で、享楽的で、退廃的で、かつ活気あふれる街として描かれています。ペリーが来航してからすでに10年以上たっており、横浜も繁栄して欧米文化が身近となり、両国ではさまざまな文化や人々が入り乱れていました。両国の顔役である金蔵は、両国の裏も表も知り尽くし、薩摩藩の手先として働くとともに、幕府の手先でもありました。
 そんな中、1866年に源次という男がアメリカから帰国しました。彼は船が難破してアメリカ船に助けられ、6年間アメリカで過ごした後、女房イネを捜すため帰国したのです。その女房は、病気の父親に売られ、今では両国の「それふけ小屋」(ストリップ劇場)で働いていました。その他にも、世を拗ねた浪人、薩摩藩を憎む琉球人、薩摩と幕府の両方を相手に金儲けする豪商など、さまざまな人々が登場します。映画は、まるで幕末の両国の絵巻物を観ているようでした。そうした中で、源次もイネも踏みつけられ、ぼろぼろにされ、源次はイネとともにアメリカに帰りたいと思いましたが、イネは猥雑な両国が性に合っており、アメリカに行く決心がつきませんでした。
 この間に、強盗、一揆、打ち壊しなどが相次ぎ、こうした混乱の中で「ええじゃないか」運動が始まります。この民衆運動は、当初金蔵が薩摩藩に依頼されて扇動し、源次やイネもアジテーターとして参加していたのですが、しだいに統制がとれない程運動が拡大していくと、軍隊が民衆に無差別発砲したため、金蔵も源治も死んでしまいます。それでも、生き残ったイネは、その後も強かに生きていきます。この映画にはさまざまなテーマが織り込まれており、全体像を把握することが難しい映画でしたが、結局主要なテーマは、「ええじゃないか」ではなく、イネという女性の強かな生きざまを描くことにあったのではないでしょう。

 映画では、「ええじゃないか」運動がかなり詳しく描かれていました。人々は奇抜な格好に変装し、節をつけて歌を歌い、踊りまくりながら町を練り歩きます。私は、「ええじゃないか」の様子を具体的には知りませんので、この映像が正しいのかどうかも分かりません。ヨーロッパに「シャリヴァリ」と呼ばれる風習があり、これは共同体の掟に背いたものに対し、集中的に叫んだり踊ったりするもののようで、「ええじゃないか」とはルーツが異なるような気がします。映画で観た「ええじゃないか」は、私には「どうでもええじゃないか」と聞こえました。


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