2015年9月30日水曜日

映画「アラトリステ」を観て

2006年に制作されたスペイン映画で、17世紀前半におけるスペインの衰退を描いています。16世紀前半のスペインでは、ハプスブルク家のカルロス1世が国王となり、本拠地のオーストリアなど多くの領地を継承し、さらに神聖ローマ皇帝(カール5)となります。16世紀半ばにカルロスが引退する際、彼はオーストリアと神聖ローマ皇帝位を弟に譲り、ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分かれることになります。スペインを継承したフェリペ2世は、フランドル、アメリカ、フィリピン、イタリア南部、北アフリカ、ポルトガルとその植民地の支配者であり、まさにスペインの黄金時代を現出しました。スペイン黄金時代については、このブログの「「スペイン黄金時代」を読む」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_18.html)を参照して下さい。
1598年にフェリペ2世が死んだ後、フェリペ3世が継承し、さらに1621年にフェリペ4世が即位します。すでにフェリペ2世の時代に、スペインには相当歪みが生じていましたが、フェリペ4世の時代にスペインは決定的に没落に向かっていきます。特に、1568年から1648年にかけてネーデルラント諸州の独立戦争で、八十年戦争と呼ばれる戦い、そして前に触れた三十年戦争(1618~48)が、スペインの衰退を決定的にしていきました。三十年戦争については、「映画で宗教改革を観て最後の谷」((http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_26.html) 第18章 危機の17世紀  三十年戦争(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/1817.html)を参照して下さい。そしてこの映画の主人公アラトリステは「傭兵」を職業とし、スペインが戦った多くの戦いに参加しました。なお、当時のヨーロッパはどこの国でも、戦時に傭兵を雇うのは普通のことで、普段は首都のマドリードで日銭を稼いで暮らしているようです。
映画は、最後にアラトリステについて次のように述べています。「高潔と呼べる男ではなかったが、勇敢ではあった。フランドルの死戦から生還し、マドリードでは裏稼業で生計を立て、時にははした金でも仕事を請け負った。男の名はアリトリステ。」彼は多くの戦場で戦っていますが、その中でも二つの有名な戦いがあります。一つは1624~25年にかけてのブレダの包囲戦です。オランダ南部にあるブレダを包囲し、陥落させた戦いで、八十年戦争での数少ないスペイン勝利の戦いでした。この戦いについては、ベラスケスの「ブレダ包囲」という有名な絵が残っています。そしてこの戦いで、アラトリステは傭兵としての名声を高めます。もう一つは、フランスとベルギーの国境地帯にあるロクロワでの戦いです。この頃はフランスが三十年戦争に参戦しており、ドイツへ南下しようとしたフランス軍と戦いました。前に述べた「最後の谷」(「映画で宗教改革を観て 最後の谷」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_26.html)で傭兵隊長が戦ったのは、この戦いではないかと思います。この戦いでスペインは決定的な敗北を喫し、アラトリステもこの戦いで戦死します。

この映画は、同名の小説を映画化したもので、この小説はベスト・セラーとなりました。この小説のどこがスペインの人々の心を捉えたのか分かりませんが、アリトリステの中に、かつて世界を駆け巡った古き良きスペイン人を見たのかもしれません。しかも、負けると分かっている戦いに敢然と立ち向かうのは、あたかも「ドン・キホーテ」のようです。事実アラテリステは、「ドン・キホーテ」を愛読していました。映画は1625年のブレダの戦いから、1643年のロクロワの戦いまでの、およそ20年間に及ぶアリトリステの半生を描いており、多少分かりにくい部分もありましたが、よくできた映画だと思います。前に観た「アレクサンドリア」もスペインの映画であり、スペインは良い映画を制作しているようですが、日本ではあまり公開されていないようです。

2015年9月26日土曜日

映画で宗教改革を観て

はじめに
 宗教改革について、以前にはずいぶん沢山の本を読みました。何しろマックスヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や大塚史学を学んだ世代ですので、宗教改革に関心をもつのは当然ですが、もう長い間宗教改革に関する本を読んでいませんので、最近宗教改革についてどのような研究が行われているのか、まったく知りません。
 宗教改革が起きた背景には、いろいろあるかと思いますが、何よりもカトリック教会に対する信頼が失われたことが大きいのではないでしょうか。1415世紀の苦しい時代に、カトリック教会は民衆を助けることがでなかっただけでなく、醜い内輪争いを繰り返し、今やローマ教皇は世俗君主となんら変わらない状態となっていました。一方、ルターは150522歳の時に修道士となり、祈りと研究の日々を過ごしていましたが、しだいに一つのことに思い悩むようになりました。つまり、いかに厳しい修行をしても、自分が神の前で正しい()と確信できなかったことです。そして彼が得た結論は、人間が義となるのは善行という行為ではなく、信仰によってのみである、ということでした。このことは、広く解釈するなら、信仰とは形式ではなく個人の内面の問題なのだ、ということではないでしょうか。そして、これによってルターは、千年以上続いたカトリック教会の体制に風穴を開けることになります。
 ルターと同じように、多くの人々が自分の罪が許されるのかどうか、ということについて不安を抱いていました。そうした中で、教会は贖宥状なるものを大々的に販売し始めたのです。それは、「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」というもので、平たく言えば「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」ということです。これにはカトリック教会内でも眉をひそめる人が多かったのですが、人は「信仰によってのみ義となる」と考えるルターにとっては黙視することのできない問題でした。彼は、1517年に有名な「九十五カ条の論題」を提出して贖宥状を批判しますが、この段階で彼は教皇を批判しようとか、カトリック教会を分裂させようと思っていた分けではありませんでした。彼はカトリック教会によって追い詰められ、しだいにカトリック教会から離れていったのです。
 当時、宗教・政治・経済体制に不満を持つ人々が沢山おり、ルターの主張はそういう人々にまたたくまに広まり、ルターの言葉を拠り所に、各地で反乱が頻発し始めました。また、ルターの説より過激な説を唱える人々もいました。まさに宗教改革の火ぶたは切って落とされたのです。前に述べたフランチェスコは、組織の巨大化を前に苦しみましたが、ルターには行動力があり、自説に反する者を切って捨てる強靭さがありました。こうして人々は、宗教のために血みどろになって戦うようになり、この戦いは17世紀の半ばまで続くことになります。
 ここで述べる映画は、ルターではなく、むしろルターとは異なる立場をとる人々の物語です。


キング・フォー・バーニング


1994年にドイツで制作されたテレビ・ドラマです。この映画は、1534年から1535年までの、再洗礼派によるミュンスターの反乱を描いています。「キング・フォー・バーニング」というのは日本語版のタイトルで、「火刑王」といったような意味でしょうか、意味がよく分かりません。原題は「終わりの日の王」ですが、これも意味がよく分かりません。もともと200分近くある映画が120分程度に短縮されているため、映画の意図が分かりにくくなっています。
再洗礼派とは、まだ信仰の自覚のない幼児洗礼を否定し、成人してから自らの意志で洗礼するというもので、キリスト教世界では基本的にすべての人が幼児洗礼を受けるため、成人してから洗礼を受けるということは、結果的には再洗礼ということになります。洗礼とは水で清めるということで、多くの宗教に見られる慣行ですが、キリスト教の場合、洗礼者ヨハネがヨルダン川で洗練を行い、イエスもヨハネによって洗礼されたところから、中世においては、魂を浄化しキリスト者になるための儀式として幼児に洗礼が行われるようになりました。

 今日の我々から見ると、再洗礼派の主張はもっともだと思いますが、キリスト教しかない世界において、生まれた子供に少しでも早く神の保護を与えたいという気持ちも理解できます。権力の側からすれば、成人してから洗礼したとすれば、その段階で洗礼を拒否する可能性が生まれ、それは体制崩壊に繋がりますので、何もわからない子供の内に体制内に取り込んでおく方が便利です。したがって、当然カトリック教会は再洗礼を認めないし、ルターも認めませんでしたが、再洗礼派は急速に支持を集めていきました。そして、ミュンスターにおいて、一時的ではありますが、この再洗礼派が支配することになります。
 1532年、宗教改革が始まってすでに15年たっており、ミュンスターでも宗教改革への期待が高まり、1532年から33年にかけてルター派による改革が進められましたが、この間に再洗礼派が急速に勢力を拡大し、1534年には再洗礼派が市政の実権を握ります。これに対して、この地方を支配する領主司教とルター派の軍隊がミュンスターを包囲し、ここにミュンスターの反乱が始まります。こうした中で、オランダから二人の再洗礼派の預言者を自称する人物が到来します。ヤン・マティスとヤン・ファン・ライデンです。彼らは、キリストの再臨は目前に迫っていること、ミュンスターは新エルサレムであると説き、信じない者には財産を置いて立ち退きを命じ、さらに各地から再洗礼派の信者を多数呼び込みます。今やミュンスターは熱狂の坩堝と化していきます。そして映画は、ここから始まります。
 ヤン・マティスは間もなく死に、ヤン・ファン・ライデン(以下ヤン)が新しい指導者となります。そして映画では、ヤンはペテン師ということになっています。以前ヤンと組んで旅芸人をしていたセバスチャンが、たまたま訪れたミュンスターで、ヤンが預言者として崇拝されているのを目撃し、以後ヤンが処刑されるまで冷めた目でヤンの行動を見つめるという形で、映画は進行します。やがてヤンは新エルサレムの王となり、また一夫多妻制を認めたり、滅茶苦茶としか思えないような行動をとります。なお、当時再洗礼派の信者には女性が多く、再洗礼派を拒否する男性の多くがミュンスターを去り、逆に多くの女性信者が流入したため、極端に女性の数が増えていました。そのことが一夫多妻制を奨励する要因となり、ヤン自身16人の妻をもっていたとのことです。


 しかし、町の包囲網はますます強化され、食糧を搬入することも困難となり、人々は飢え、そして1535年に町は陥落し、ヤンは捕らえられます。彼は激しい拷問にも耐え、道化師としてエルサレム王を演じ続け、処刑されて死んでいきます。そして彼と仲間の三人の遺体は、檻に入れられて教会の塔に吊るされ、その三つの檻は、現在も吊るされています。映画の原題「終わりの日の王」というのは、こういう意味なのかもしれません。ヤンの死を見届けたセバスチャンは町を去り、ミュンヘンの反乱は終わります。
 宗教改革で人々の価値観が激しく変わっていく中で、人々は混乱し、対立し、途方に暮れます。この時期には、騎士戦争、ドイツ農民戦争、シュマルカルデン戦争など立て続けに騒乱が起こっており、この混乱はさらに100年以上続きます。ミュンスターの乱も、こうした一連の事件の一つでした。ヤンが本当にペテン師だったかどうかは分かりませんが、こうした混乱の時代にペテン師が暗躍したとしても不思議ではありません。そもそも本当のペテン師はだれなのでしょうか。ヤンなのか、カトリック教会なのか、それともルターなのか。ただ、道化師セバスチャンのみが、冷めた目でこの混乱の時代を見つめていました。

バトル・オブ・ライジング コールハースの戦い

2013年にドイツ・フランスの合作で制作された映画です。タイトルの「バトル・オブ・ライジング」というのは、意味が分かりません。「蜂起」といったような意味なのでしょうか。原題は、「ミヒャエル・コールハース」で、この人物は日本ではあまり知られていませんが、ヨーロッパではよく知られた実在した人物のようです。この映画は、宗教改革とは直接関係ないのですが、宗教改革の時代の出来事であり、ルターが間接的に関係してきます。
 時代は、多分ドイツ農民戦争が終わってまもなくの1530年代頃で、ミヒャエル・コールハースという馬商人が、ドイツ(神聖ローマ帝国)のザクセンに馬を売りにいくところから、ドラマは始まります。このコールハースがどこの人物なのか、全然わからず、時々「王妃」とか「陛下」と呼ばれる人物が登場しますが、彼女がどこの王妃なのかも分かりませんでした。ところが映画の最後に、ナバラ王妃マルグリットであることが分かります。ナバラはスペインとフランスの国境地帯にあるバスク人の居住地で、スペイン側はすでにスペイン領となっていましたが、フランス側はまだ一応ナバラ王国として独立していました。しかしナバラ王国も後にフランスに併合されますから、今日の国境から見れば、コールハースはフランス人ということになります。バスク人ついては、このブログの「「バスク大統領亡命記」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/blog-post_8.html)を参照して下さい。つまりコールハースは、ピレネー山脈で馬を育て、それをドイツに売りに行っていたのだと思います。彼はルターを尊敬し、常にルターのドイツ語訳の聖書を持ち歩いていました。一方、ナバラ王妃マルグリットはルネサンス文芸の保護者として知られ、ルター派にも好意的な立場をとっていました。なお彼女は、フランスのブルボン朝を創始するアンリ4世の祖母です。
 映画では、ある男爵がコールハウスから通行料として馬を取り上げ、それに対してコールハウスが裁判に訴えることから始まります。しかし男爵は宮廷の実力者たちに手をまわして控訴を棄却させ、さらにコールハウスの妻を死に追いやります。これに対してコールハウスは仲間を集め、男爵の館を襲い、男爵が逃げ出すと男爵を追い詰めるため、あちこちの町を襲うようになります。そして彼のもとに、封建的支配に不満を持つ何百人もの人々が集まり、今や完全に暴動と化していました。ルターは、暴力的行動に及ぶことには批判的で、ミュンスターの乱でも農民戦争でも弾圧を支持し、今回もコールハウスを非難します。しかしルターはコールハウスに直接会い、実情を知り、彼を赦免するようにいろいろ努力します。この間ナバラ王妃がいろいろ関わっているようですが、具体的にどう関わっているのか、よく分かりませんでした。
 コールハウスは、妻を殺されたという恨みもありましたが、男爵が不当にも馬2頭を奪ったという不正を許すことができず、不正は正されねばならないと考えていました。たかが馬2頭のために、ここまでするかとは思います。ルター(あるいはルターの代理人)は、「たとえ不正が行われたとしても、人を殺し続けることは間違いだ」と言います。結局、2頭の馬は返還され、男爵は2年の禁固刑を受けることになり、反乱を起こしたコールハウスは処刑されることになりました。これで男爵の不正は正され、コールハウスは満足して死んでいきました。コールハウスは不正を許せない頑固な義賊といったところでしょうか。彼はフランスでもドイツでも人気があるそうです。
 ルターが放った宗教改革という矢は、あらゆる所に飛び散り、ヨーロッパを大きく変えていきました。コールハウスの事件も、こうした大きな流れの一環だったのではないでしょうか。

わが命つきるとも

1966年にイギリスで制作された映画です。原題は“a man for all seasons”で、「どんな状況でもぶれない人」、つまり「信念の人」といった意味でしょうか。主人公は、イギリスを代表する人文主義者であるトマス・モアで、イギリスの宗教改革に最後まで同意せず、処刑された人です。
トマス・モアはヨーロッパでも名の知られた学識あるある人であり、また「良識」ある人物として知られていました。ヨーロッパ中が宗教改革で揺れ動く中で、彼はカトリック教会への信仰を護り続けていました。当時、カトリック教会の腐敗には目に余るものがあり、モアは誰よりも、そのことをよく知っていました。しかし、その問題とは別に、教皇を頂点とするカトリック教会による秩序ある信仰が必要であると信じていました。彼が1515年に著した「ユートピア」は、「ユートピアという架空の国を舞台に、自由、平等で戦争のない共産主義的な理想社会を描いたもの」(ウイキペディア)です。それは現実にはありえないものですが、同時に乱れ切った現実への痛烈な批判でもありました。それでも彼は、カトリックへの信仰を捨てることはありませんでした。
一方、テューダー朝は、ヘンリ8世でまだ2代目で、王朝の正統性そのものを否定して王位を要求する貴族もいるため、ヘンリ8世はどうしても直系の男子の後継者を必要としていました。テューダー朝の創始者ヘンリ7世は、長子のアーサーの妻としてスペインの王女キャサリンを迎えましたが、結婚直後にアーサーは事故で死んでしまいます。その後弟のヘンリ8世が即位し、大国スペインとの関係を維持するため、キャサリンを妻として迎えます。しかしこの結婚は宗教的には禁止されているため、ローマ教皇の許可を得て結婚しました。ところが、キャサリンが男子を生めなかったため、ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を考え始めました。しかし、以前に教皇にキャサリンとの結婚の許可を得ていながら、今度は離婚を認めるなど、いくら教皇でも同意しかねます。しかもキャサリンは、当時ヨーロッパ最高の実力者であるスペイン国王カルロス1(神聖ローマ帝国カール5)の叔母に当たりますので、容易に離婚することができませんでした。この辺りの事情については、このブログの「三人の女性の物語 エリザベス」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1222.html)を参照して下さい。
そこでヘンリ8世はローマ教会からの離脱を決意し、1534年にイギリス国王を首長とする国教会を樹立し、キャサリンとの離婚を決定します。ローマ教会からの離脱という重大な問題を実行できた背景には、人々の中にカトリック教会に対する強い不満があったからです。そしてほとんどの人々が、自主的に、あるいは強制されて止む無く、あるいは表面上だけ、国王の決定に同意します。ところが、当時大法官だったトマス・モアが同意しませんでした。ここでは、大法官という地位だけが問題なのではありません。トマス・モアはヨーロッパ中で尊敬される知識人であり、良識人でした。イギリス人のすべてが賛成しても、トマス・モアが反対すれば、その決定の権威は半減してしまいます。そして結局、ヘンリ8世は、1535年にトマス・モアを反逆者として処刑してしまいます。
映画は、この間のトマス・モアの苦悩を描いています。この時代には歴史は激しく動いていました。特に、ルターの宗教改革以来、教会が分裂し、戦いに明け暮れていた時代です。彼が処刑された1535年は、ミュンスターの反乱の最中であり、またコールハウスが反乱を起こしていた時期でした。明らかに、時代はカトリックが衰退に向かう時代であり、世俗権力が宗教を支配する時代へと遷りつつありました。こうした時代に彼は、世俗が宗教に介入することに反対し、穏やかで統一された信仰を守ることを求めたのだと思います。トマス・モアの娘は、なんとか父の命を助けたいと思い、形だけでもよいから同意するよう父に懇願しました。しかし父は、「地球が丸いという者がおり、平だという者がいる。王が丸いと命じたら、丸くするのか」といって拒否します。
 ここで問題となるのは、カトリックが正しいのか、プロテスタントが正しいのか、ということではありません。どのような状況にあっても自分の信念を貫く、ということです。彼は決して物わかりの悪い人物ではありませんでしたが、どうしても譲れない一線があったのです。彼は死刑の宣告を受けた時、「私は王の忠実な召使いとして死にます。だが王より神のために死ぬのです」と述べとそうです。
1950年代のアメリカでは、「赤狩り旋風」と呼ばれる共産党主義者への激しい迫害が行われました。この映画は、こうしたことに対する反省の意味を込めて制作され、重厚な名画として多くの賞を受賞しました。


最後の谷

1970年にアメリカで制作された映画で、17世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)で起きた三十年戦争を背景としています。ルターに始まった宗教改革は、今やドイツを荒廃させ、ずたずたに引き裂き、宗教に対する人々の熱い思いは、すっかり冷めてしまいました。三十年戦争については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第18章 危機の17世紀」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/1817.html)を参照して下さい。
舞台となった時代は、三十年戦争が始まって23年後のことということなので、始まったのが1618年ですから1641~42年頃ということになります。そして1648年に三十年戦争は一応終わりますので、三十年戦争末期ということで、この頃すでにフランスが介入しており、戦争は泥沼化していました。場所ははっきりしませんが、西南ドイツのフランス国境に近い所のようで、この辺りで激戦が繰り広げられます。
主人公は、ヴォーゲルという名の元教師で、戦争で両親・兄弟・妻子を殺され、安住の地を求めて放浪していましたが、当時のドイツにそのような場所があるはずもありません。各地で村が焼かれて廃村と化し、魔女裁判で処刑された人々が吊るされ、さらにペストで死んだ人々の遺体が山積みになっていました。ヴォーゲルは、そうした凄惨な場所から逃げるように山に入り込みますが、山の谷間に小さな村を発見します。その村は平穏で、豊かな実りに溢れていましたが、人が全くいませんでした。村人たちは、軍隊が近づくと山に逃れ、軍隊が去るまで隠れていたのです。この村が、これ程平穏だったのは、周りを山で囲まれ、1年の内6カ月も雪に覆われてしまうからでした。
まもなく20人ほどの傭兵隊が村に侵入し、掠奪しようとしましたが、ヴォーゲルは隊長と話し合い、村人を守ってやる代わりに、冬の間この村で過ごさせてもらおうと提案しました。隊長はこの提案を受け入れ、村長と話し合い、色々条件を決めて、ヴォーゲルと傭兵隊はこの村に住むことに決めました。ここに、村人とヴォーゲルと傭兵隊の奇妙な関係が成立することになります。この村は敬虔なカトリックの村でしたが、村の外ではもはや宗教など関係なくなっていました。この戦争はカトリックとプロテスタントの対立という宗教戦争として始まりましたが、傭兵たちの中にはカトリックもプロテスタントもいました。村人は迷信深く、村にいるたった一人の神父の言葉に従順でしたが、傭兵たちは戦いと掠奪と強姦に明け暮れる毎日を過ごしてきました。ヴォーゲルは、こうした人々の共存を冷静に見つめます。
やがて、別の傭兵たちが掠奪のため村を襲ってきました。村の傭兵の数は少なかったのですが、地形を巧みに利用し、侵入した傭兵たちを倒すことに成功します。その戦闘場面は、黒沢監督の「七人の侍」と非常によく似ており、大変興味深く観ることができました。まもなく冬となって村は雪に覆われ、平穏な日々が訪れます。ヴォーゲルにとっても傭兵隊たちにとっても、久々に味わった平穏な日々でした。しかし村の人々にとって、ヴォーゲルや傭兵隊は、もはや必要のない人びとであって、早く出て行ってもらいたいと思っていました。そして雪が解けると、傭兵隊長は新たな戦いのために村を出ていき、戦死します。ヴォーゲルも、このままでは村人に殺される危険があるため、出ていきました。
その後、ヴォーゲルやこの村がどうなったのかは分かりません。戦争はまた6年続きます。この映画が何を主張したいのかはよく分かれませんが、30年に及ぶ戦争の一コマが、奇跡的に平穏を保った一つの村を通じてよく描かれていると思います。そしてルターに始まった宗教的な熱狂は冷め、人々はしだいに信仰心を失っていくことになります。




2015年9月23日水曜日

「アイルランド史入門」を読んで

シェイマス・マコール著(1982)、大渕敦子・山奥景子訳、明石書店(1996)
 本書は、原文で60ページほどの小著ですが、アイルランドに人類が住みついてから、アイルランド共和政の成立までの歴史を、簡潔にまとめています。私は過去にアイルランドに関する本を何冊も読んだのですが、ほとんどがアイルランド紛争に関する本で、中世以前のアイルランドについてはほとんど知りませんでした。本書の著者は、ケルト史の専門家だそうですので、古い時代のアイルランドについて比較的詳しく述べています。本書における著者の意図は、アイルランドにも良い所があるということを知ってもらいたいということで、アイルランドへの強い愛情のもとに本書が執筆されました。
 アイルランドは、ローマ帝国の支配を受けることはありませんでしたが、その文化の影響を強く受け、高い文化を発展させるとともに、かなり高度な行政組織も形成されていたそうです。そして5世紀にキリスト教が伝えられると、6世紀と7世紀には修道院を中心としてアイルランド独自の芸術、学問、文化が開花しました。この頃ブリテン島やヨーロッパ大陸では、民族移動で文化は荒廃し、キリスト教も後退していました。そういう中で、アイルランドの聖コロンバは、ブリテン島に修道院を建設してキリスト教の復興に努め、さらにその弟子たちは西ヨーロッパにまでアイルランド系修道院の普及と文化の復興に努めたそうです。つまりゲルマン民族の移動で大混乱に陥ったヨーロッパにおいて、アイルランドの修道士はキリスト教と文化の復興に大きな役割を果たしということです。

 中世のアイルランドには統一的政権が形成されず、内部紛争を繰り返したこともあって、しだいにイングランドの支配を受けるようになります。これに対してアイルランドは、繰り返し反乱を起こし、繰り返し征服され、繰り返し立ち上がってきます。本書では、そうしたアイルランドの姿が、愛情を込めて描かれています。

2015年9月19日土曜日

映画「薔薇の名前」を観て

1986年に制作されたフランス、イタリア、西ドイツによる合作映画で、ウンベルト・エーコによる同名小説『薔薇の名前』を映画化した作品です。原作については、このブログの「「光の帝国・迷宮の革命」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_16.html)を参照して下さい。
映画の舞台は、1327年における北イタリアのある修道院で、ここで続けて殺人事件が起こったため、フランチェスコ会の修道士ウィリアムが事件の解決を請われて、弟子のアドソとともに、この修道院を訪れます。ウィリアムはもと異端審問官で、「悪魔と戦う」義務がある人として、また幅広い教養をもった人物として、この修道院に派遣されました。修道院には肥え太った修道士が多く、それに対して周辺の住民は、修道院が出す残飯をあさっていました。これが当時の修道院の実態でした。
 当時、カトリック世界では普遍論争と呼ばれる神学・哲学論争が展開されていました。つまり、「薔薇」という類の普遍概念は実在するか、あるいは実在するのは個々の「薔薇」であるかということで、ウィリアムは後者の立場をとっていました。したがって、Roseに定冠詞theがついているわけです。つまり「その薔薇」ということです。修道院での神学論争で、上の例とは多少ことなりますが、「キリストが身に着けていた衣服は、主の所有物か否か」という論争が、死活的問題として議論されていましたが、こうした議論は、信仰心そのものを破綻させる危険性を孕んでおり、実はこうした議論の中で殺人が行われる分けです。
 多くの修道院では修道士たちが、大量の書籍の写本を作っています。印刷機がなかった時代には、これらの日々の努力によって膨大な古典文献が保存されていきました。そしてこの写本作業の中に、ウィリアムは事件のカギがあると考えます。彼はシャーロック・ホームズのように事実を分析し、謎を解いていきます。まず、書写室の本箱に本が少ないことに気づき、どこかに本がかくしてあるはずだと考え、隠し場所を捜し出します。そして殺人の理由は、アリストテレスの「詩学」第2部の存在にあることに気づきます。
 アリストテレスの「詩学」第2部は、喜劇について書いており、この本は失われたと考えられていました。アリストテレスはここにおいて、喜劇が笑いを誘うのは、世俗の人々のありのままの姿や欠点を楽しめるからだと書いており、喜劇は真実の道具だと述べているそうです。ところがこの修道院では、「笑い」が禁じられていました。もし「笑い」が恐れを殺せば、もはや信仰は成立しなくなる。民衆が悪魔を恐れなければ、神は必要とされなくなる。悪魔を恐れるから人々は信仰するのであり、だからこそ魔女裁判や異端審問で人々に悪魔の恐ろしさを見せつけるのです。ところが「笑い」は、神も悪魔も笑いの対象にしてしまう、ということです。
 13世紀に成立したスコラ哲学は、アリストテレスを絶対的な理論的根拠としています。そのアリストテレスが喜劇を称賛していたことが知られれば、喜劇が許容されてしまうことになります。この修道院の長老ホルヘは、信仰と修道院を守るために、この本の存在を知った人々を、次々と殺していったのです。そして最後にホルヘは本に火をつけ、自らも火の中で死んでいきます。まさに信仰と狂気の違いは、紙一重でした。そこまでアリストテレスの喜劇を恐れるなら、最初から燃やしてしまえばよかったのではないかと思うのですが、ホルヘによれば写本は保存のためであって、探求のためではない、ということです。たとえ異端の書であろうと、保存のために黙々と写本を続けます。しかし決して考えるな、ということです。

 映画は、暗く、重々しく、難解でしたが、スリラー映画として観るなら、十分楽しめる映画でした。また、当時の修道院とそこでの生活がかなり正確に再現されており、興味深く観ることができました。原作はイタリアでベストセラーとなり、この映画も好評でした。イタリアの人々も、テロリズムが横行する当時の社会にうんざりし、物事を冷静に見つめるようになっていたのではないかと思います。


2015年9月16日水曜日

「光の帝国/迷宮の革命 鏡の中のイタリア」を読んで

伊藤公雄著 1993年 青弓社
 本書は、イタリア史を専門とする著者が、過去に発表した論文やエッセイを収録したもので、全体としてのまとまりはありませんが、全体にファシズムに関する内容の論文が多く掲載されています。遅すぎたロマン主義者ダヌンツィオや、初期ファシズムのイデオーローグであるマラパルテに関する記事は、大変興味深いものでした。
 本書では、ファシズムが形成される背景について、色々な側面から述べられています。イタリアのある研究者を、これを次の六点に要約しているそうです。①一つの文明(イタリア的なもの)が滅びようとしているという危機意識、②近代的世界への反発、③(イタリア文明を滅ぼそうとしている)唯物主義に対抗する魂の革命の要求、④大衆という新たな社会的主体の登場に対する恐怖と期待、⑤機械文明への反発、⑥過去へ指向する反動的革命へと向かう心性。
 また、「ドイツ・ナチズムの研究において、しばしば「強制的同質化」という視点が強調されるのに対し、イタリア・ファシズムにおいて、その支配の在り様を示す言葉は、むしろ「合意」なのだ。」要するにイタリアのファシズムは、画一化を嫌うイタリア人を反映してか、「だらしないファシズム」ということです。この点については、このブログの「「柔らかいファシズム」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/blog-post_19.html)でも垣間見ることができます。
 私が本書で一番関心を抱いたのは、ウンベルト・エーコ著の「薔薇の名前」(1987)という小説と、これが書かれた時代との関係を考察した部分でした。「この本が出版された1980年代は、モロ事件(1978年、キリスト教民主党総裁アルド・モロが誘拐・殺害された事件)以後の一連のテロリズムが全面的に開花した時代であったことに、再度注目しておく必要があるだろう。「鉛の時代」としばしば称されるこの時期、「下から」と「上から」とを問わず、ほとんど出口のないかたちでテロリズムが渦巻いていたまさにそのとき、この書物は出版されたのである。しかも、明らかに、この「鉛の時代」のイタリア社会がそのモデルとして選ばれているのである。」「この作品は、テロリズムの時代からの悪魔払いのための書物として企てられたのではないかと思うのである。中世の異端審問と宗教問答の世界を媒介にして、イタリア社会そのものにとりついていた、「純粋さ」や「真理」の名のもとに現れようとしていた邪悪な精神を取り除くために、この作品を書くという作業があったのではないか。」
 「上からのテロリズムであれ、下からのテロリズムであれ、それが、「純粋さ」という病に突き動かされて発動されるとき、悲劇が生み出される。下からのテロリズムと上からのテロリズムの無限の連鎖の中で、絶望と破壊がまさに現前化しようとしている80年代のイタリア社会にあって、問われるべきは、おのれの幻想に衝き動かされることなく、冷静に見つめることから開始することなのだ。「「真理」や「純粋さ」を相対化し客体化することで、その悪魔的な力から自由になること。80年代のイタリアにとって、何よりもまず必要だったのは、そのことであったはずだ。何が起こっているのか分からないままに、善意のうちに憎悪が生まれ、憎悪が悪意となることで、悲劇へ向かって傾斜しようとしていたこの時代、問われるべきは、時代の渦から脱出するための、悪魔に魅入られた時代に対して「悪魔払い」を行使するための、社会的で政治的な「術」の発見にほかならなかったからである。」

 私は、「薔薇の名前」の原作を読んでいませんが、映画を観たことがあります。しかしずいぶん前のことで、ほとんど覚えていませんでしたので、今回レンタルしてもう一度観てみました。この映画については、次回に書いてみたいと思います。

2015年9月12日土曜日

映画「紀元前1万年」を観て

2008年に制作されたアメリカとニュージーランドの合作映画です。紀元前1万年というと、250万年ほど続いた更新世の末期です。更新世の時代はマンモスの時代であるとともに、この時代に人類が進化していきました。そして更新世の後に、現代まで続く完新世という時代が始まり、この時代にマンモスは滅び、人間は新石器時代に入って、人類の進歩が加速化されていきます。
 マンモスは、300万年前頃から1万年前頃まで生息した巨大動物で、世界各地でその化石が発見されています。シベリアでは、化石だけではなく、永久凍土に冷凍保存されたマンモスも多数発見されています。「マンモス」という言葉は、しばしば「巨大」なものの代名詞として用いられますが、実際には今日のアフリカゾウやインドゾウと比べて、大差ないようです。ただ、牙が異常に発達していたことが、大きな特徴です。マンモスが滅びた理由については、いろいろ考えられています。気候変動による植生の変化や、人間による乱獲、さらにウィルスによる死滅などがあります。マンモスは一度に一頭しか子供を産まないため、人間による長期にわたる狩りは、しだいに個体数の減少をもたらしたかもしれません。
 映画では、まず幾つかの前提が語られます。一つは青い目の少女エバレットの出現です。当時、「四本足の悪魔」が各地を荒らし廻り、人をさらい、彼女の両親もこの怪獣に殺されました。そして予言者は、彼女がマンモスを倒した英雄と結婚し、やがて世界を変えると予言します。「青い目」というのは白人を連想しますので、私にはやがて白人が支配する時が来ると、言っているような気がします。もう一つは、主人公デレーの父で、彼は英雄でしたが、ある時村を去り、デレーは裏切り者の子として育ちます。実は父は、マンモスの狩猟を基盤とする生き方に限界を感じ、村が安定して暮らせるような新しい生業を求めて旅立ったのですが、このことは誰も知りません。
 映画では、久々にマンモスの群れが現れ、マンモス狩りを行うことになりました。デレーもこれに参加し、幸運によりマンモスを倒すことに成功し、英雄となってエバレットと結婚できることになりました。しかし間もなく村は「四本足の悪魔」に襲われ、エバレットを含む多くの村人が誘拐されます。そのためデレーはエバレットを救うための旅に出ます。そして、ここから話は無茶苦茶になります。なんと「四本足の悪魔」というのは騎馬民族でした。人間が騎馬できるようになるには、まだ9千年ほどかかります。そして「四本足の悪魔」たちは、奴隷たちを使って「神の山(ピラミッド)」造っていました。ピラミッド建造には、まだ7千年ほど早いと思います。この間に、「四本足の悪魔」に苦しめられてきた人々が、デレーに付き従います。この人々が皆黒人で、結局黒人戦士を白人が指導する、ということになります。
 結局、デレーは「四本足の悪魔」を破り、エバレットを救出し、村に帰ることになります。その時、黒人から植物の種をもらいます。これがあれば、もはや危険な狩りをする必要がなくなり、実はこれこそが、デレーの父が探し求めていたものでした。狩猟から農耕への転換ですが、しかし農耕が始まるには、まだ5千年ほどかかります。とはいえ、あまり深く考えず、ファンタジーとして観れば、それなりに面白く観ることができます。特にマンモス狩りの場面は、よくできていたと思います。
 ところで、この映画の舞台となった場所は、どこなのでしょうか。まず赤いトウガラシを食べている場面があり、トウガラシは中南米原産なので、中南米かと思いましたが、中南米には黒人はいませんので、結局どこか分かりませんでした。それでも映画では、中南米を思わせるものがいくつかありました。16世紀に、白人がやってきて現地人を支配するとか、現地人が白人の騎馬姿を馬と人間が一つになった怪獣だと思ったとか、多分中南米に残るこうした伝説が映画でも用いられたものと思われます。
 ところで、穀物栽培という技術は、どのようにして生まれたのでしょうか。穂につく小さな粒を取り出して集め、それを食べるという発想は、驚くべきことだと思います。多分これを考え出したのは、女性でしょう。男性は狩りに行きますが、女性は植物を採集します。そして何千年もの間に、一つ一つの植物の特徴がわかってくると、どこかでそれを栽培しようという発想が生まれたに違いありません。穀物は雑草としてそこらに生えているわけですが、鳥がそれを食べるのを見ている内に、自分たちも食べられないか、と考えたのでしょう。あんな小さな粒を取り出して食べるということは、余ほど追いつめられてのことだったでしょう。しかし、一旦穀物の栽培が可能になると、穀物は保存できるため、食糧を安定的に確保することができます。今まで狩猟に専念していた男たちも、穀物生産の重要性を理解し、穀物生産は男の仕事に代わって行きます。穀物が保存できるということは、富の蓄積を可能にし、やがて文明が発展します。逆に言えば、高度な文明の発展には、穀物栽培が不可欠だったといえます。

 映画は、5千年から7千年程の間に起こった人類の進歩を、数年の出来事であるかのように描いていますが、一応筋は通っています。つまりこの映画は、マンモスの時代(狩猟・採集の時代)の終わりから、農耕の時代への転換を描いているわけです。

2015年9月9日水曜日

「イタリア敗戦記 二つのイタリアとレジスタンス」を呼んで

B.バルミーロ・ポスケージ著(1976)、下村清訳、新評論 1992
 本書は、ムッソリーニが解任された19437月から、ドイツ軍が降伏した19455月までの、2年間近くのイタリアの動向を描いています。
 ムッソリーニ解任後のイタリアは大変でした。新たに成立したバドリオ政権と国王エマヌエーレ3世は、ドイツとの同盟を維持すること、戦争を継続することを宣言しましたが、すでに市民は終戦気分で湧いていました。とはいえ、ここで戦争をやめたら、ドイツ軍がイタリア全土を制圧することは明らかです。一方、連合軍はシチリアに上陸し、本土上陸は目前であり、すでにパルチザンはドイツとの戦闘を開始していました。こうした中で、結局バドリオ政権はドイツに宣戦布告し、その結果ドイツ軍がローマを占領し、国王とバドリオ政権は南部へ逃れるといった有様でした。
 この間に、ムッソリーニの幽閉、ドイツによるムッソリーニの救出、新たなムッソリーニ政権の成立、ムッソリーニの処刑などが行われます。また、連合軍が国王エマタエル3世の退位を要求してきます。こうした中で、ドイツとの戦いで最も大きな役割を果たしたのはパルチザンで、その結果、戦後共産党勢力が拡大することが懸念されます。こうした中で、結局イタリアは無条件降伏を受け入れ、終戦を迎えることになります。

 本書は、個人的には啓発されるものはありませんでしたが、著者は歴史家であると同時に小説家でもあれ、非常に読みやすくて面白い内容となっています。

2015年9月5日土曜日

映画で現代モンゴルを観て

はじめに
 モンゴルに関する映画を二本観ました。「白い馬の季節」と「トゥヤーの結婚」です。モンゴルとはいっても、中華人民共和国の内モンゴル自治区ですので、国にとしては中国です。
 モンゴル高原は、東アジアの北に位置し、標高1000メートルほどの広大な草原地帯です。この地域は古くから遊牧民族の生活の場であり、多くの民族が興亡しましたが、とりわけ13世紀に出現したモンゴル族が大帝国を築き上げ、以後この地域はモンゴルと呼ばれるようになります。その後、この地域で活躍した民族の多くがチンギス・ハンの子孫であると自称するようになります。17世紀末から18世紀の半ばにかけて、モンゴルは清の支配下に入り、内モンゴルと外モンゴルに分けて統治しますが、これが現在のモンゴルの原型となります。
 清朝は、漢人がモンゴルに入植することを規制していましたが、アヘン戦争以来の弱体化を立て直すため、漢人の入植を奨励し、そのため牧草地が減少していきます。こうした中で、清朝に対するモンゴル人の反発が強まり、1911年に辛亥革命が起きると、モンゴルは独立を宣言し、外モンゴルの自治が認められます。1917年にロシア革命でソ連が成立すると、その影響を受けて、1924年に外モンゴルに社会主義政権が成立し、モンゴル人民共和国となります。しかしこの国は、スターリンの要求で厳しい社会主義路線を強行し、社会・経済は疲弊し、しばしば反乱が起きます。そして1989年に、ソ連のペレストロイカの影響で民主化が始まり、1992年には社会主義を捨てて国名をモンゴル国と改めました。その後急速に市場経済化が進み、また中国を筆頭とする外国資本が進出し、貧富の差が急速に拡大しつつあります。また草原の砂漠化も急速に進行し、牧畜も大きな打撃を受けています。

 なお、朝青龍など日本で活躍する相撲取りは、この外モンゴル出身です。
一方、内モンゴルは、結局独立することが認められず、中華人民共和国内の自治区となっています。外モンゴルとの統一の動きは、徹底的に弾圧されてきました。ただ、政府による漢人の移住策のため、内モンゴル自治区では漢人が全体の8割に達しており、今やモンゴル人は少数派になってしまいました。石炭など豊富な天然資源を埋蔵しているため、内モンゴルは外モンゴルに比べて経済的に豊かですが、経済の中枢は漢人に握られています。また、牧草地を農耕用に変えていったため、遊牧民の生活は、しだいに困難となりつつあります。ここで紹介する二本の映画は、いずれも内モンゴル自治区の滅びゆく遊牧民を扱っています。


ところでチンギス・ハンについて、モンゴルではどのように扱われているのでしょうか。外モンゴルでは、社会主義政権のもとで長い間チンギス・ハン崇拝は禁止されてきました。そもそもロシア自体がモンゴル帝国の支配下に置かれましたので、あのような「野蛮人」を崇拝することは許しませんでした。しかし、1989年の民主化後、ようやくチンギス・ハンが復活してきました。一方、内モンゴルでは、今日に至るまで、チンギス・ハン崇拝は認められていません。中国も、かつてモンゴル帝国に支配されましたので、やはりあのような「野蛮人」を崇拝することを認めません。政治というものは、なかなか厄介なものだと思います。

白い馬の季節

2005年に中国で制作された映画で、草原の砂漠化が進行する中で苦闘する遊牧民の家族を描いています。
砂漠化は世界中で起こっており、それは基本的には気候変動によるものと思われますが、直接的には人為的な要因によるものです。内モンゴルの場合、大量の漢人が流入し、土地開墾を行ったことが原因のようです。遊牧は、広大な土地で羊を飼い、彼らを移動させながら生活しますが、農業の観点から見れば、非常に効率の悪い生産形態です。土地を手に入れた漢人は、まず羊が入らないように土地を有刺鉄線で囲い、水を引いて大規模な農業開拓を行います。ところが、この辺りはかつて海や湖があった所で、草原の下には砂が堆積しており、表土が剥がれると砂の層が露出し、この地方特有の強風により砂が運ばれて、砂漠化が進行するそうです。
映画では、場所は特定できませんが、かなり大きな町まで歩いて行ける範囲内の場所で、ウルゲンと妻インジドマーとその子フフーが遊牧民として暮らしています。モンゴル帝国時代とほとんど変わらないパオ(ゲル)に住み、財産といえば20頭ほどの羊と、白い馬と牛くらいです。ここでも草原の砂漠化が進み、最近雨がほとんど降らないため、羊が毎日のように飢え死にしています。フフーは学費が払えないため、学校にいけません。社会主義国家で、義務教育レベルで学費が必要なのかと思いますが、どうもそのようです。そこで学費のために馬を売ろうとしますが、この馬はもう20歳くらいの老馬で、家族同然であり、なかなか売ることができません。こうした中で、周囲の遊牧民は、羊を売って町に出ていく人が増えてきました。町には自動車が行き交い、ビルが立ち並び、ディスコまであります。ここから歩いて行ける距離に、ウルゲンのような生活が存在することが信じられません。
ウルゲンは、このままでは羊が死んでしまいますので、夏の放牧地に移動しようとしますが、そこは有刺鉄線で囲まれており、入ることができません。政府が、牧草を保護するためと称して、この土地を国有化してしまったのです。砂漠化が進む中で、牧草を保護するためというのは一理あるのですが、おそらくこの土地は腐敗した役人によって漢人農民に売り渡され、農耕地となっていくのでしょう。ウルゲンには、この土地が自分の牧草地であることを証明する書類などありません。先祖代々この土地を牧草地として使っているだけです。これでは遊牧民が生きていく道はありません。政府が、はっきりと遊牧を否定したのです。
結局、ウルゲンたちは町に出ていくことにしました。ただ、馬は離して、自由にしてやることにしました。この映画では、大人しい白馬が、いつもじっと見つめているかのように映し出されます。そして離した後も、白馬はウルゲンたちが去って行った道をとことこと歩いていき、そこで映画は終わります。馬とともに生きる遊牧の時代は終わったのです。


トゥヤーの結婚

2006年に中国で制作された映画で、これも砂漠化が進行する中での、遊牧民の家族を描いています。
この映画での家族は、夫のバータル、妻のトゥヤー、そして二人の幼い息子です。乾燥化で水源がなくなったため、バータルは家の近くに井戸を掘ろうとして足に怪我をし、働けなくなってしまいます。それ以降、トゥヤーが一家を背負うことになります。毎日、15キロ以上離れた水源で水を汲み、ラクダに乗せて家に運びます。これを一日三回行います。水がなければ、人間も羊もいきていけません。しかし、彼女は力仕事で腰を痛め、彼女も遊牧の仕事を続けることができなくなりました。
そこで、夫のバータルと離婚し、別の男性と結婚して、その男性に夫や子供たちの面倒を見てもらおうと考えました。彼女は器量よしで、気立ての良い女性でしたから、たくさんの男性から求婚されましたが、彼女が前の夫と一緒に暮らすことを条件としていましたので、すべて破談となりました。確かに、前の夫を金銭的に援助することができても、一緒に暮らすとなると、これは中々難しいように思います。結局、彼女は家族を心から愛し、家族が離れ離れになることを、受け入れられなかったのだと思います。
結局、近所のセンゲーという男性が彼女に求婚します。センゲーは、前々からトゥヤーが好きだったのですが、浮気ばかりしている奥さんとなかなか別れられず、トゥヤーも軽薄なセンゲーを信じることができませんでした。しかしセンゲーは妻と別れ、トゥヤーもバータルも子供もすべて自分の家族として引き受けることを約束します。こうして結婚式の日がきました。バータルやトゥヤーは、何を思っていたことでしょう。突然外で子供たちが喧嘩をしている声が聞こえ、トゥヤーが仲裁に入りました。子供は喧嘩の相手に、「父親が二人いて悪いか」と言います。多分、これが喧嘩の原因だったのでしょう。
「父親が二人いる」ということは、彼女にとっては「夫が二人いる」ということです。そして、今まで弱音を吐いたことのないトゥヤーが突然号泣し、映画はここで終わります。この涙は一体何なのでしょうか。夫を助けるためとはいえ、結局四人で築き上げてきた家族を壊すことに対する悲しみだったように思います。結局彼女も、草原の砂漠化の犠牲者だったと言えます。


 前に観た「白い馬の季節」は、町に近い所に住んでいながら、何百年も前の遊牧民と変わらないような生活をしていました。しかし、「トゥヤーの結婚」は、時代的には「白い馬の季節」と同じだと思いますが、ラジカセらしいものは置いてあったし、「白い馬の季節」に比べれば、もう少しましな生活をしていました。これは対称とした場所による違いかもしれませんが、「白い馬の季節」を牧歌的に描きたいという制作者の意図なのかもしれません。いずれにしても、内モンゴルで遊牧を続けていくことは、もはや困難であることは、間違いありません。

2015年9月2日水曜日

映画「芙蓉鎮」を観て


1987年に制作された中国の映画で、初めて文化大革命を批判した映画として、大変に評判となりました。舞台となった場所は長江流域にある湖南省で、毛沢東の出身地です。撮影は、王村鎮という村で行われましたが、映画では芙蓉鎮という名前が用いられ、あまりに有名になったため、2007年にこの村は芙蓉鎮と名前を改めました。














文化大革命(プロレタリア文化大革命)とは何か、ということについて、私には到底答えらることができせん。1949年に中華人民共和国が成立し、社会主義路線を進めていきますが、官僚の腐敗や貧富の差の拡大が進み、経済発展も思うにまかせませんでした。そういう中で、毛沢東は大躍進政策という思い切った生産拡大政策を打ち出しますが、あまりに強引な政策のため、経済は大混乱に陥り、何千万人もの人々が餓死したとされます。その結果、1959年に毛沢東は国家主席を辞任し、穏健派の劉少奇や鄧小平などが中心となって、大躍進政策を緩和させていきますが、毛沢東にとっては彼らの政策は不満でした。そうした中で、1965年頃から、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動として、文化大革命が始まります。
 文化大革命では、前半では紅衛兵と呼ばれる少年や少女たちが、後半では毛沢東の妻江青女史を中心とする四人組が中心となって、右派とか反動派とか呼ばれる人々が徹底的に粛清されます。この間に、殺されたり、自殺したりした人々は数えきれません。しかし1976年に毛沢東が死に、77年に鄧小平が復活し、文化大革命の終結宣言が行われます。1981年には、文化大革命が誤りであったことが公式に認められますが、その首謀者だった毛沢東を全面的に否定することはできないため、毛沢東については「七分功、三分過」ということになりました。文化大革命については、このブログの「現代史 1章 中国と東アジア」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/1.html)を参照して下さい。
 映画は、文化大革命が始まる直前の1963年から始まります。主人公の胡玉音(フー・ユゥーイン)は、二十歳代前半くらいの明るく美しい女性でした。彼女は気の小さい夫とともに、露店で米豆腐を売っており、大変繁盛していました。二人は一生懸命働いて小銭を貯め、自分の店を持つまでになります。しかし1964年に党から政治工作班が送り込まれ、反動分子の摘発を始めました。そこで目を付けられたのが、店を新築したばかりの胡玉音夫婦で、彼らは人民から搾取する新ブルジョワ分子としてつるし上げられ、店も貯めたお金も取り上げられてしまいます。さらに、あの気の小さい夫が、工作班の班長を殺そうとして、逆に殺されてしまいます。すべてを失った胡玉音は、さらに見せしめとして町の掃除人になることを命じられます。はち切れるような笑顔の胡玉音の顔から、笑顔が消えてしまいます。
 この映画には、秦書田(チン・シューティエン)というもう一人の主人公がいます。彼は文化会館の館長だった人物で、いわば知識人でしたが、古い民謡を集めたり、党を批判したこともあって、1957年に右派分子としての烙印を押されます。それ以来、彼は何を言われてもただ微笑むだけであり、人々から軽蔑され、ボンクラと言われていました。そして今や彼も、胡玉音とともに町の掃除を命じられます。二人は、毎日毎日、何年も何年も、人々の軽蔑の視線を受けながら、ひたすら掃除を続けます。秦書田は、いつも穏やかに胡玉音に接し、時には道化役を演じて胡玉音を元気づけます。
 やがて二人は恋をし、密かに結婚し、まもなく胡玉音は妊娠します。しかし党幹部からこれを非難され、秦書田は10年の流刑を言い渡されます。彼は、いつもどんな命令にも、それが運命であるかのように黙々と従います。そして、彼は流刑地へ向かうとき、彼女に「生き抜け、何があろうと生き抜け」と言って去って行きます。この間に胡玉音は一人で男の子を産み、ひたすら町の掃除をしながら子供を育てます。やがて10年の歳月が流れ、秦書田が芙蓉鎮に帰ってきます。この頃には文化大革命は終わっており、胡玉音は取り上げられた店とお金を返してもらい、また店を再開しました。秦書田も文化会館館長への復帰を許されますが、彼はそれを断り、妻の仕事を手伝いながら、静かな人生を歩んでいきます。映画では、二人以外にもさまざまな人々が絡み合い、なかなか見ごたえのある映画でした。

文化大革命をどのように評価してよいのか、私には分かりません。今日では、大躍進政策の失敗で実権を失った毛沢東による奪権闘争であった、という点でほぼ一致しているようです。ただ、革命においては、こうしたことはしばしば起きています。イギリスのピューリタン革命におけるクロムウェルの独裁、フランス革命におけるロベスピエールの独裁、ロシア革命におけるスターリンの独裁などです。革命は単に政府を転覆させるだけで達成できるものではなく、社会の構造や人々の意識を根底から覆す必要があるように思います。こうした恐怖政治は、人々の意識を根底から変える上で一定の役割を果たしているように思います。だからといって、こうした時代に行われた非道が許されるとも思えません。とくに文化大革命は、私にとって遠い昔の話ではなく、私自身の青春時代に隣の中国で起きたことですから、一層客観的な評価が困難となっています。


なお、主人公を演じた劉暁慶は、その後不動産業などの企業を経営するようになり、脱税で逮捕されたそうです。