伊藤公雄著 1993年 青弓社
本書は、イタリア史を専門とする著者が、過去に発表した論文やエッセイを収録したもので、全体としてのまとまりはありませんが、全体にファシズムに関する内容の論文が多く掲載されています。遅すぎたロマン主義者ダヌンツィオや、初期ファシズムのイデオーローグであるマラパルテに関する記事は、大変興味深いものでした。
本書では、ファシズムが形成される背景について、色々な側面から述べられています。イタリアのある研究者を、これを次の六点に要約しているそうです。①一つの文明(イタリア的なもの)が滅びようとしているという危機意識、②近代的世界への反発、③(イタリア文明を滅ぼそうとしている)唯物主義に対抗する魂の革命の要求、④大衆という新たな社会的主体の登場に対する恐怖と期待、⑤機械文明への反発、⑥過去へ指向する反動的革命へと向かう心性。
また、「ドイツ・ナチズムの研究において、しばしば「強制的同質化」という視点が強調されるのに対し、イタリア・ファシズムにおいて、その支配の在り様を示す言葉は、むしろ「合意」なのだ。」要するにイタリアのファシズムは、画一化を嫌うイタリア人を反映してか、「だらしないファシズム」ということです。この点については、このブログの「「柔らかいファシズム」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/blog-post_19.html)でも垣間見ることができます。
私が本書で一番関心を抱いたのは、ウンベルト・エーコ著の「薔薇の名前」(1987年)という小説と、これが書かれた時代との関係を考察した部分でした。「この本が出版された1980年代は、モロ事件(1978年、キリスト教民主党総裁アルド・モロが誘拐・殺害された事件)以後の一連のテロリズムが全面的に開花した時代であったことに、再度注目しておく必要があるだろう。「鉛の時代」としばしば称されるこの時期、「下から」と「上から」とを問わず、ほとんど出口のないかたちでテロリズムが渦巻いていたまさにそのとき、この書物は出版されたのである。しかも、明らかに、この「鉛の時代」のイタリア社会がそのモデルとして選ばれているのである。」「この作品は、テロリズムの時代からの悪魔払いのための書物として企てられたのではないかと思うのである。中世の異端審問と宗教問答の世界を媒介にして、イタリア社会そのものにとりついていた、「純粋さ」や「真理」の名のもとに現れようとしていた邪悪な精神を取り除くために、この作品を書くという作業があったのではないか。」
「上からのテロリズムであれ、下からのテロリズムであれ、それが、「純粋さ」という病に突き動かされて発動されるとき、悲劇が生み出される。下からのテロリズムと上からのテロリズムの無限の連鎖の中で、絶望と破壊がまさに現前化しようとしている80年代のイタリア社会にあって、問われるべきは、おのれの幻想に衝き動かされることなく、冷静に見つめることから開始することなのだ。「「真理」や「純粋さ」を相対化し客体化することで、その悪魔的な力から自由になること。80年代のイタリアにとって、何よりもまず必要だったのは、そのことであったはずだ。何が起こっているのか分からないままに、善意のうちに憎悪が生まれ、憎悪が悪意となることで、悲劇へ向かって傾斜しようとしていたこの時代、問われるべきは、時代の渦から脱出するための、悪魔に魅入られた時代に対して「悪魔払い」を行使するための、社会的で政治的な「術」の発見にほかならなかったからである。」
私は、「薔薇の名前」の原作を読んでいませんが、映画を観たことがあります。しかしずいぶん前のことで、ほとんど覚えていませんでしたので、今回レンタルしてもう一度観てみました。この映画については、次回に書いてみたいと思います。
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