2015年10月14日水曜日

映画「華麗なる激情」を観て


1965年にアメリカで制作された映画で、システィナ礼拝堂にミケランジェロが「天地創造」の天井画を描く過程が描かれています。原題は「苦悩と歓喜」で、何となくベートーヴェンを思い出させるようなタイトルです。
 ミケランジェロは少年時代から、そのずば抜けた才能によって広く知られており、また彼の手記・手紙を初め同時代の証言が多数あり、さらに生存中に彼の伝記が書かれていますので、彼の90年に近い生涯については、多くのことを知ることができます。それにも関わらず、彼の作品の解釈については多くの議論がなされており、私ごときが陳腐な解説を追加するのは止めておきたいと思います。ただ、「すごい」としか言いようがありません。
 映画は、ローマ教皇ユリウス2世がミケランジェロに天井壁画を依頼するところから始まります。1503年に教皇となったユリウス2世は、教皇領とイタリアから外国の影響を排除することを目指し、まさにマキァヴェリ的な外交戦略を駆使し、自ら鎧兜に身を固めて戦争を指揮しました。彼の政治的手腕は高く評価されていますが、結局彼の目標は達成されず、その権謀術数がかえってイタリアの分裂を深めることになりました。映画では、彼の活動がかなり詳しく描き出され、大変興味深く観ることができました。
 一方、彼はローマを美しくすることにも熱心でした。西ローマ帝国の滅亡後、ローマでは大規模な建設は行われず、あちこちにローマ時代の廃墟がそのまま残されており、道はぬかるみ、アヒルや羊が走り回っていました。しかも、一時教皇庁がアヴィニョンに移され、その後も戦乱が続き、ローマはますます荒廃していきました。彼は、西欧キリスト教世界の中心ともいうべき教皇庁の所在地ローマが、このような廃墟であってはならないと考えました。そのため多くの芸術家を雇います。ブラマンテにはサン・ピエトロ大聖堂の建築を命じ、ミケランジェロには、何の変哲もないシスティナ礼拝堂の天井に壁画を書くことを命じたのです。
 ミケランジェロは、少年時代には画家として訓練を受けましたが、この頃には自分は彫刻家であることを自負していました。そのためミケランジェロは、最初仕事を断ったのですが、ユリウス2世はミケランジェロに強引に仕事をさせます。今や彫刻家として並ぶもののないミケランジェロに壁画を描かせるという発想は、まさにユリウス2世の炯眼としかいいようがありません。ユリウス2世は、12使徒を書くように命じたのですが、まもなくミケランジェロは、壮大かつ複雑な天地創造の壁画に変更します。4年間かけて、彼は20メートルの高さの天井に、ほとんど一人で天地創造の壁画を描き切ります。
 この間に、ユリウス2世は、早く完成させろと毎日のように催促し、ミケランジェロも不眠不休で働きますが、彼は自分が納得したものでなければ描きません。そのため二人はしばしば対立し、映画では二人のやり取りが詳しく描かれます。しかし、ユリウス2世こそが、ミケランジェロの最もよき理解者であり、彼はミケランジェロの才能を見事に引き出しました。ユリウス2世は言います。「ミケランジェロの血管に流れているのは絵具だ」とか、「残念だが後世に残るのは私の武勲ではなく、ミケランジェロに絵を強要した功績だ」などと言います。まさにミケランジェロにこの絵を描かせたことが、ユリウス2世の名を不朽のものにしたといえるでしょう。
 映画自体は面白く観ることができましたが、掘り下げが足りませんでした。そもそもミケランジェロは異様な風体をしていたといわれており、また内面から湧き上がる異常な力に人々が圧倒されたとされますが、これを長身・ハンサムなチャールトン・ヘストンが演じるには無理がありました。ミケランジェロの生涯は苦悩の連続だったとされますが、彼の苦悩とは、一体なんだったのでしょうか。当時は宗教改革が始まる直前であり、教会に対する不信感が頂点に達していた時代でした。そうした中でミケランジェロは、信仰とは何か、神とは何か、人間とは何か、愛とは何か、そしてそれをどのように表現したらよいのか、といった問題に真剣に悩んでいたはずです。それこそが、彼の苦悩だったと思います。映画は、そうした彼の苦悩を、もっと掘り下げるべきだったと思います。

 ところで、彼の仕事の速さは驚異的でした。映画の最初に彼はブラマンテに、石の中にすでに像がある、自分はそれを切り出すだけだ、といいます。おそらく壁画においても、彼にとっては、すでに壁に絵があり、自分はそれに色を塗るだけだ、と思っていたのではないでしょうか。まさにミケランジェロは「神の手」でした。

2015年10月10日土曜日

映画で近世東欧を観て

ファイアー・アンド・ソード

1999年にポーランドで制作された映画で、「クォ・ヴァディス」で有名なシェンキェヴィチの小説を映画化したものです。タイトルは「火と剣をもって」というような意味で、17世紀のポーランドにおけるフメルニスキの乱というコサックの反乱をえがいています。この映画は、日本語版では3分の1もカットされているため、映画のメイン・テーマは、ポーランドの将校ヤンと貴族の娘との恋なのだろうと思うのですが、恋の場面は最初と最後にしかでてきません。いくらなんでもカットのし過ぎで、時々はなしが繋がらなくなります。
舞台は、現在のウクライナで、ここはコサックの居住地域でした。ウクライナとコサックについては、このブログの「映画でロシア史を観る イワン雷帝・隊長ブーリバ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html)を参照して下さい。当時ウクライナはポーランドの支配下にあり、当時のポーランドはリトアニアと連合し、その領土はバルト海から黒海にいたる広大なものでした。ただ、16世紀以来国王が貴族たちによる選挙で選ばれるようになり、貴族が大きな力を持ち、自領で農奴制を強化するようになります。また、17世紀には天変地異が相次ぎ、農民たちの不満が高まり、各地でしばしば反乱が起きるようになります。そういう中で、コサックの頭領だったフメルニスキを中心に、ウクライナで大反乱が起きます。この反乱は、1648年から57年まで続き、これをきっかけに、東欧世界が大きく変貌していくことになります。

フメルニスキは教養のある人物で、コサックの将校としてポーランドのために何度も戦ってきた人物でした。ところが、1647年にポーランド系貴族がフメルニスキの土地に侵略し、家族を殺し、彼も処刑されそうになったため、反乱を決意します。映画では、1647年と48年のみが扱われています。彼は、南部のクリミア・ハン国と同盟し、その援助を受けて連戦連勝し、ポーランドと協定を結んで映画は終わります。そして最後に、シェンケヴィチの言葉として次の言葉で締めくくります。「戦乱の時代は長引き、ポーランドとウクライナは荒れ果てた。憎しみが民衆の心を蝕み、同胞たちの血を汚した。150年後エカチェリーナ2世はクリミア・ハン国を併合し、ウクライナのコサックも征服、そしてポーランドも衰退の道を辿った。」つまり、彼はフメルニスキに対して同情的に描き、ポーランド貴族の強欲さ批判し、それがポーランドを滅ぼすことになったのだ、と言っているわけです。そして一番悪いのはロシアである、と言っているわけです。シェンケヴィチの時代には、ポーランドはロシアに支配されていました。

フメルニスキの乱はまだ始まったばかりであり、この後さらに血みどろの戦いが続きます。この戦いに勝利するために、フメルニスキは周辺諸国との同盟を模索します。その際、西欧諸国は三十年戦争が終わったばかりで疲弊しており、問題になりません。まず最初に同盟したのは南部のクリミア・ハン国でした。クリミア・ハン国はモンゴル帝国の継承国の一つで、軍事力は強大でしたが、後にポーランドに寝返ったため、オスマン帝国との交渉を始めます。南進を目論むオスマン帝国は、ウクライナが保護国になることを条件に援助の約束をしました。しかしウクライナ正教会がイスラーム国の保護を受けることに反対したため、ロシアと交渉します。ポーランドと対立していたロシアはこれを受け入れ、こうして1653年にロシアの保護下でコサックが統治する国家が誕生することになります。
フメルニスキの乱は、東欧の大きな転換点となりました。1657年にフメルニスキが死ぬと、ウクライナは内部分裂を起こし、結局ロシアの介入を招くことになります。その後ロシアは、ウクライナを拠点にポーランドを巡ってスウェーデンと死闘を展開し、やがてポーランドは消滅することになります。さらにロシアは、クリミア・ハン国も征服し、黒海に進出します。こうして東欧の勢力図は大きく塗り替えられることになります。

映画では、ポーランド人、コサック、タタール人の衣裳や風俗が、かなりきめ細かく描き分けられており、大変興味深く観ることができました。また、蜂蜜酒という酒が頻繁に出てくるので、興味を感じて調べてみました。蜂蜜酒は、蜂蜜と水を混ぜておくだけで、簡単に造ることができるようで、人類が造った最古の飲料だそうです。現在でも東欧では、蜂蜜酒が広く愛飲されているそうです。この映画は、あまりにカットが多いので、内容的にはよく分かりませんでしたが、映像的には興味深い映画でした。

神聖ローマ 運命の日

2012年にイタリア・ポーランドによる合作映画で、1683年におけるオスマン帝国軍によるウィーン包囲を題材としていますが、率直に言って何を言おうとしているのかはっきりせず、つまらない映画でした。映画の冒頭に「現在を誤る原因は、過去への無知に尽きる」というマルク・ブロックの言葉を上げていますが、これも具体的に何のことを言っているのか、よく分かりませんでした。なお、タイトルに「神聖ローマ帝国」を掲げていますが、神聖ローマ帝国は三十年戦争で事実上解体しており、この時代の神聖ローマ帝国とは事実上オーストリアのことです。
 実は、150年程前にもウィーンはオスマン帝国に包囲されたことがあります。当時オスマン帝国の領土はハンガリーにまで達しており、ウィーンは目と鼻の先でした。こうした中で、1529年、当時全盛期を築いたスレイマン1世が12万の軍を率いて、ウィーンを包囲しました。これに対してウィーンを防衛する兵は2万そこそこでしたが、もともとウィーンは要塞として建設された町でしたので、城壁が堅固で、それほど簡単には陥落しません。スレイマン1世は2カ月近くウィーンを包囲・攻撃しますが、大雪が降り、食糧補給が遅滞したため、突如全軍を引き連れて、粛々と撤退していきました。さすがはスレイマン1世です。ウィーンは陥落しませんでしたが、ヨーロッパ中を震え上がらせるのには十分であり、オスマン帝国の存在の大きさをヨーロッパに見せつけることになります。
 そして1683年に、再びオスマン帝国がウィーンを包囲することになります。当時、オスマン帝国ではスルタンはほとんど政治に関与せず、大宰相が政治の実権を握っていました。当時の大宰相カラ・ムスタファは領土拡大策をとっており、150年ぶりにウィーンを陥落させようと考え、15万の大軍を率いてウィーンを包囲しました。映画では30万となっていますが、それには荷物の運搬人や炊事係り、さらには娼婦の数も含まれているのでしょう。直前に皇帝はウィーンを脱出し、映画では恐怖に怯えて脱出したかのように描かれていますが、援軍を要請するためヨーロッパ各地を巡っていたのです。そして最大の成果はポーランドの支援を得られたことです。
 ポーランドはコサックの反乱で衰退しつつありましたが、たまたま当時のポーランド王ヤンは軍事能力に優れており、オスマン帝国と領土問題で争っていたことから、自ら救援のため出陣しました。一方、カラ・ムスタファは側近の進言を聞き入れず、城壁の攻撃を続けますが、城壁は前回よりさらに強固となっており、容易に突破できませんでした。そのため兵士たちの間に不満と動揺が高まっていました。そうした中で、ヤン王は千騎の騎兵とともにオスマン帝国軍に突入し、その結果帝国軍は大混乱に陥って敗走しました。こうして再び、ウィーンは防衛されることになりました。
 映画では、イタリアのカプチン修道士マルコ・ダヴィアーノがウィーンを救うために奔走し、彼が大宰相カラ・ムスタファと幼い時に出会ったことがあり、この二人がウィーンで運命的な対立をする、というような筋立てになっていますが、意味がよく分かりませんでした。結局、カラ・ムスタファはスルタンの命で処刑され、指揮官を失ったオスマン帝国軍は、戦闘能力を失ってしまいます。なお、カプチン修道士マルコ・ダヴィアーノは、帝国軍が残していった大量のコーヒーを用いて、ミルク入りのコーヒーを作り、これがカプチーノと呼ばれるようになったという伝説がありますが、真偽は不明です。また、ウィーンの人々が包囲から解放された祝いとして、トルコ旗の象徴である三日月形のパン―クロワッサンを焼いたという伝説がありますが、これも真偽不明です。

 その後、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアが神聖同盟を結成し、16年間にわたってオスマン帝国と戦います。この戦いを通じて、ポーランドはますます疲弊し、衰退していきます。ヤン王の輝かしい戦いは、滅びゆくポーランドの最後の輝きだったと言えましょう。三十年戦争以来、もはや西欧への進出が困難となったオーストリアはハンガリーに進出し、東へ拡大していくことになります。ロシアも、この戦争を通じて東欧・バルカンへの進出の足場を築くことになります。一方、オスマン帝国は、さらに200年かけてゆっくりと衰退の道を歩んでいきます。こうして東欧の勢力図は大きく変わっていくことになります。

バンディット

2009年に制作されたポーランド・スロヴァキア・チェコの合作映画です。「バンディット」は盗賊を意味し、映画は18世紀初頭にスロヴァキアのタトラ山地で活躍した義賊ヤノシークを描いています。ヤノシークは実在の人物だそうで、現在でもスロヴァキアでは人気があるそうです。















現在スロヴァキア共和国の領域となっている地域は、10世紀以来ハンガリーの北部地域を構成していました。16世紀にオスマン帝国がハンガリーに進出し、ウィーンに迫ると、スロヴァキアはオーストリアのハプスブルク家とハンガリーとオスマン帝国との争奪の地としてしばしば戦場となり、結局ハンガリーの一部としてオスマン帝国の支配下に入りました。17世紀の末にオスマン帝国が第二次ウィーン包囲に失敗し、ハンガリーから後退すると、ハンガリーはオーストリアの領土となり、それとともにスロヴァキアもオーストリア領となります。
 ヤノシークが山賊として活躍したのは、スロヴァキアがオーストリア領となってから10年ほど後のことです。この時代のスロヴァキアの政治情勢が、どのようなものであったかについては、よく分かりませんが、少なくともこの時代にはスロヴァキア人という民族意識はまだなかったようです。それにも関わらず、スロヴァキア人は独自の言語と風習を維持しており、この頃から19世紀にかけて少しずつスロヴァキア人としての自覚をもつようになっていきます。とはいえ、スロヴァキアの語源はスラヴ人なので、オーストリアのゲルマン人やハンガリーのマジャール人とは違うという意識から形成されてきたものだと思われます。なお、スロヴェニアの語源もスラヴ人なので、スロヴェニアも同じような経緯で形成されてきたのではないでしょうか。いずれにしても、スロヴァキア人という民族意識が形成されていく過程で、義賊ヤノシークの伝説も形成されていったのではないでしょうか。

 映画によれば、ヤノシークはハプスブルク家に対する反乱軍に無理やり徴集され、4年間軍隊で過ごしました。そこで彼は読み書きと軍事技術を学びます。この反乱軍なるものが何を意味するのかよく分かりませんが、1711年頃にはハプスブルク軍によって壊滅状態になり、ヤノシークは軍を離れます。まもなく彼は山賊の頭領に見込まれ、その後を継ぐことになります。彼は、殺さず、犯さず、金持からしか奪わず、民衆に金品を分け与えたとされます。これが事実かどうかは知りませんが、しかし、やがて彼は捕らえられ、残酷な拷問を受け、処刑されます。その間に、当然男女の物語などが語られますが、話の筋は単純であり、彼が活動したのは2年間ほどでしかありません。


                                              (ウイキペディア)
   映画では、タトラ山地の変化に富んだ美しい風景がたっぷり映し出されます。実際にタトラ山地でロケを行ったかどうかは知りませんが、スロヴァキアの3分の1がタトラ山地なので、他でロケを行う理由がありません。また、山間に孤立して点在する村々や、そこに住む人々の素朴な生活が描き出されており、大変興味深く観ることができました。

 なお、スロヴァキアは、第一次世界大戦後にチェコと合同してチェコスロヴァキアとなりますが、1989年の東欧革命後スロヴァキアはチェコから分離してスロヴァキア共和国となりました。


2015年10月7日水曜日

スコットランドを読む

スコットランド史 その意義と可能性

ロザリンド・ミチスン編(1991) 富田理恵・家入葉子訳 未来社 1998
 本書は、スコットランドの歴史を扱ったものですが、単なる通史ではなく、それぞれの時代の専門家が、それぞれの問題意識に従って書いているため、大変興味深く読むことができました。おそらく、日本語で書かれたスコットランド史の本は非常に少ないと思いますので、本書は貴重な本ではないかと思います。
 本書を読んで一番驚いたのは、今日でも、スコットランド人でさえスコットランドの歴史をあまり知らないということです。イギリスの学校ではブリテン史という教科書が使われており、それはほとんどイングランド史であり、スコットランド、ウェールズ、アイルランドが登場するのは、イングランドと対立した時ばかりだそうです。そしてイギリスの公務員試験では「ブリテン史」が出題されるため、スコットランド人でさえイングランド史を学び、スコットランド史を体系的に学ぶことがないそうです。
 もっとも、スコットランド史についての学問的研究の歴史自体が浅く、体系的にスコットランド史を語ることが難しいようです。編者自身、「誰でも過去の記憶がなくなれば、人格そのものが壊れてします」「スコットランド史の優位性を語っているのではない。スコットランド史は一つの分野として研究する価値がある」と述べています。多くのスコットランド人は、シェイクスピアの「マクベス」や、このブログでも取り上げた「映画で西欧中世を観て(5)  ブレイブハート」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/07/5.html)や「映画で17世紀のイギリスを観て ロブ・ロイ/ロマンに生きた男」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/search?updated-min=2015-01-01T00:00:00%2B09:00&updated-max=2016-01-01T00:00:00%2B09:00&max-results=50)など、伝説的な事件や人物については知られているのですが、全体像が知られていないようです。
 スコットランドは、常に貴族たちの対立のため統一的な行動をとれず、結局1707年にイングランドに併合された、というのが従来の認識であり、それ私の認識でもありました。しかし、これは1707年の併合を肯定的に捉える立場の見解でした。それによれば、17世紀のスコットランドは「混乱を極めた不幸な時代」であり、併合以降のスコットランドは進歩の時代ということになります。したがって、本書は17世紀の歴史を再評価する必要があると説いています。「併合」を肯定的に捉えるか、否定的にとらえるかはともかくとして、より客観的に前提となる17世紀の客観的な歴史研究が必要だと主張されています。
 本書を読んで、私は少なからずショックを受けました。私がスコットランドについて知っていた僅かな知識は、すべてイングランドから見たスコットランドであり、それは完全に間違っていました。むしろ、スコットランドからイングランドを、ブリテンを、そして世界を見る必要がありました。私の知識は、何時まで立っても誤解だらけの知識です。

とびきり悲しいスコットランド史

フランク・レンウィック著(1986) 小林章夫訳 ちくま文庫 1998年 
スコットランド史上の人物や事件についての、読み切りのエピソード集で、ビーカー族の時代から1707年までを扱っています。原題は「流血のスコットランド」で、全編言いたい放題という感じですので、どこまで真に受けてよいのか分かりかねますが、面白い本ではあります。
スコットランドにキリスト教を伝えた聖コロンバも、彼によれば、アイルランドで人を殺して逃げ、スコットランドの素朴な土着の宗教を排除し、キリスト教を普及させたらしい、ということになります。確かに、そう云えなくもりません。スコットランドの併合について、スコットランドの議員たちは充分な年金を受け取った上で、買収資金としてロンドンから馬車で運ばれた394085ポンド10シリングを皆で分け合った。これは歴史上最も大規模な売国行為であった。確かに、そうかもしれません。
「スコットランド人はつまらない言い争いと激しい内輪もめを延々と繰り返すという、どうしようもない傾向があり、また我が身の破滅をもたらすほど極端な行動に走りやすい国民なのである。」「スコットランドが衰微した原因は、国民が何事も私益を優先し、自分たちの栄進ばかりを願ったことにある。その状況はいまでもそう変わらないだろう。」

このように全体にシニカルな言葉が溢れていますが、その背後にはスコットランドの歴史への「哀しみ」と「愛情」を読み取ることができるように思います。

2015年10月3日土曜日

映画で17世紀のイギリスを観て

クロムウェル〜英国王への挑戦〜

2003年のイギリス・ドイツによる合作映画で、1640年にイギリスで始まった清教徒革命(ピューリタン革命・イギリス革命)の中心人物クロムウェルを描いており、原題は「To Kill a King」です。
清教徒革命については長い論争の歴史があり、その評価については未だに決着がついていません。清教徒革命と呼ばれるものは、市民革命なのか、宗教戦争なのか、はたまた単なる内乱なのか、地域間の対立なのか、ジェントリ間の対立なのか。またイングランド・スコットランド・アイルランドの対立も深く関わっています。これらのことについて論じるのは、私の能力を超えていますので、ここでは映画についてだけ述べたいと思います。
イギリスでは、官僚制度や常備軍の整備が遅れており、逆に議会が大きな力を持っていました。ただ議会の招集と解散は国王の権限だったため、当時の国王チャールズ1世は、12年間も議会を招集しませんでした。しかしイギリスでは国王の歳入源は限られているため、非常時で緊急の歳入が必要な場合、議会の同意が得られれば課税することができました。当時スコットランドの反乱で戦費が不足したため、課税が必要となりましたが、そのためには議会を招集しなければなりませんでした。その結果、招集された議会と国王が対立し、内戦が勃発することになります。
クロムウェルは、イングランド東部の富裕なジェントリで、敬虔な清教徒であると同時に、正義感の強い人物だったようで、議会派軍に加わります。1642年に内戦が始まりますが、当初は国王派が優勢でした。国王派の軍隊は装備が優れ、実戦経験を積んでいるのに対し、議会派軍は装備が悪く、兵士は農民や職人などで、国王軍に太刀打ちできませんでした。当初クロムウェルは騎兵隊の隊長でしかありませんでしたが、彼は故郷に帰って自費で兵士を集め、鉄騎隊と呼ばれる機動力のある軍隊を創設します。この軍隊を率いてクロムウェルを次々と勝利を重ね、国王を処刑し、1649年に共和制を成立させます。
映画では、クロムウェルには政治的な野心はなかったようで、戦争が終わると故郷に帰ってしまいます。しかし、議会による統治が混乱を極めたため、クロムウェルを国王にしようとする動きがありましたが、クロムウェルはこれを拒否し、1653年に護国卿として独裁権力を握ります。そして映画は、護国卿としてクロムウェルは多くの政治改革を行い、今日のイギリスの基礎を築いた、として終わります。しかし彼の厳格な政治は国民には評判が悪く、1658年に彼が死んだ後、息子のリチャードが護国卿となりますが、王政復古への要望が高まり、リチャードは亡命し、1660年に王政復古が行われることになります。
クロムウェルについての評価は、時代や立場の相違により相反しています。王政復古後にはクロムウェルの墓が暴かれ、その首が晒され、議会も国王を処刑したことは不名誉なことであると考えました。その後、国王が再び専制を強化しようとした時、議会は一致して国王を追放し、新たな国王を迎えました。そして、議会は不名誉な清教徒革命に対して、自分たちの行為を名誉革命として自画自賛したわけです。そして今日に至るまで、クロムウェルは、偉大な指導者か残虐な独裁者かで、評価が対立したままのようです。
映画では、クロムウェルが国王を処刑するに至るまでの苦悩が描かれていました。そもそも国王の権力は、何に由来するのか。神によって与えられたものなのか、人民によって委ねられたものなのか。もし神によって与えられたものなら、議会が勝手に国王を廃位したり処刑したりすることは許されません。そして、1649年の国王処刑をきっかけに、長い年月をかけて、国王の権力は人民によって委ねられたものである、という考えが定着していくことになります。

リバティーン

2004年にイギリスで制作された映画で、王政復古時代に活躍した詩人で劇作家であるロチェスター伯爵ジョン・ウィルモットの半生を描いています。映画では、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジョニー・ディプが、凄まじい演技を行っています。なお、「リバティーン」とは「放蕩者」という意味です。
イギリスの人々は、長い内戦とクロムウェルの厳格な統治のもとで、息がつまっていました。そうした中で王政復古が行われると、人々は一気に解放された気分になり、またチャールズ2世が演劇・美術・科学・性愛などを奨励しましたので、一気に文化が花開くことになります。ニュートンが活躍したのも、この時代でした。しかし同時にこの時代は、戦争・疫病・政治対立・経済不況・退廃も横行した時代でもあります。チャールズ2世は、1662年にポルトガルの女王と結婚しますが、結婚の前にも後にも多くの愛人がおり、14人もの子供を産ませています。宮廷は乱れ切っていました。こうした雰囲気のなかで、ジョン・ウィルモットが登場するわけです。
まず映画の冒頭で、ウィルモットは衝撃的な独白をおこないます。「初めに諸君に断っておく。私を好きにはなれまい。男は嫉妬し、女は嫌悪する。物語が進むにつれ どんどん私が嫌いになる」と。ウィルモットの父は、亡命時代のチャールズに仕えた人物で、いわばチャールズ2世にとっては恩人であり、したがってその子には特別目をかけます。ウィルモットは相当の秀才だったようで、ギリシア語やラテン語の古典に精通し、14歳でオックスフォード大学の文学修士となったそうです。その後軍隊に入り、数々の戦いで非常に勇敢にふるまいますが、この頃から「魂の不滅に深刻な疑念を抱くようになった」(ウイキペディア)とのことです。また、この頃彼は国王の寝室係侍従に任命されますから、チャールズ2世を初めとする、宮廷の退廃を目の当たりにしたことでしょう。
1667年、二十歳の時、巨額の遺産を相続したエリザベス・マレットと結婚し、その後13年間、彼は放蕩三昧の生活をすることになります。ロンドンの町を徘徊し、酒を浴びる程飲み、性に関してはバイセクシャルだったとされます。また演劇に夢中になり、彼自身も台本を書いています。シェイクスピアの時代には、女性が舞台に立つことは禁じられていましたが、王政復古の時代に認められるようになります。その結果女優という職業が生まれ、舞台は今までとは相当異なったものとなります。そして、彼か書く台本は、ほとんどポルノでした。彼が、演劇に何を求めていたか分かりませんが、映画で彼は次のように述べています。「人生はむなしいから、芝居で心を動かされたい。この黄金時代を冷ややかに笑っているだけだ。チャールズと神が与えし公正かつ豪華な料理には、吐き気がするばかりだ。人生には何の意味もない。何をしようと結果は同じで、人の行動には何の力もない。だが芝居小屋では、善も悪もすべてに結果がついてくる。芝居は俺にとって病を治す唯一の薬だ。」これもあまり意味が分かりませんが、この退廃した世界で、彼なりのやり方で、真実を語ろうとしたのかもしれません。
 この間に、政治も動いていきます。チャールズには14人もの子供がありながら、すべて庶子で嫡子がいませんでした。チャールズは弟のジェームズを後継者にしようとしましたが、ジェームズはカトリックであるため、議会が反対します。それでも、結局1685年にチャールズが死ぬと、ジェームズが国王となります。これに対して議会はジェームズを廃位し、オランダに嫁いでいたジェームズの娘メアリを、夫のウィリアムとともに国王に迎えます。これが名誉革命と呼ばれるものですが、この間にウィルモットは梅毒に犯され、1680年に33歳の若さで死にます。映画では、彼は妻に「真実を語ろうとして、真実に裏切られた」と言って死んでいきました。
 最後の画面で、再びウィルモットは「これでも諸君は私が好きか」と言って、映画は終わります。結局、私にはウィルモットが何を言いたかったのかよく分かりませんでしたが、映画自体はかなり衝撃的でした。ジョニー・ディプというのは、なかなかの名役者だと思いました。


ロブ・ロイ/ロマンに生きた男
1995年にアメリカで制作された映画で、17世紀末から18世紀初頭にかけて活躍したスコットランドの民族的英雄ロブ・ロイを描いたものです。スコットランドについては、このブログの「映画で西欧中世を観て ブレイブハート」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/07/5.html)を参照して下さい。
17世紀初頭、エリザベスの死後スコットランドのステュアート家ジェームズ1世がイギリス王となり、次のチャールズ1世の時代に清教徒革命が起きます。この間、チャールズ1世は一時スコットランドに拠点をおいて議会派軍と戦ったため、クロムウェルはスコットランドを制圧し、これをイングランドに併合します。1660年にチャールズ2世により王政復古が果たされますが、次のジェームズ2世がカトリック教徒であったため、1688年に彼は議会によって廃位され、フランスに亡命します。そしてフランスから、自らの国王復帰を求めて様々な策動を行い、これを支持する人々はジャコバイトと呼ばれました。ジャコバイトとは、ジェームズのラテン名(Jacobus)に由来します。そしてジャコバイトが最も多かったのが、スコットランドでした。特に、1707年にスコットランドがイングランドと合同して、グレートブリテン王国となると、スコットランド人の不満は一層強まります。
主人公のロブ・ロイが住んでいたのは、スコットランド北部のハイランドで、ここは山岳地帯で冬の寒さは厳しく、冬には餓死者が出る程貧しい生活を強いられていました。ロブ・ロイは、一つの聚落のリーダーで、村を貧困から救うために苦労していました。そしてここにも政治の対立が波及していました。イギリス系の領主は名誉革命支持派ですが、スコットランド系の領主にはジャコバイトが多く、ロブ・ロイも一応ジャコバイトでしたが、彼にとってそんなことはどうでもよく、領主(イギリス系)から金を借りて、村で牛を飼おうと考えていました。しかし彼は陰険で強欲な領主に騙され、逆に犯罪者として追われる身となってしまいます。
 彼は山に逃れますが、領主の軍隊は彼の家を襲い、妻を辱めます。これに対して、彼は領主の輸送隊を襲ったり、牛を奪ったりして領主に復讐しますが、やがて捕らえられ、拷問されます。しかし彼は脱出し、ジャコバイトの領主に頼り、復讐を果たして、家族のもとに帰ります。物語は単純で、粗野ではありますが、誇り高いハイランド人を描いているわけですが、問題の出発点である生活苦の問題は何も解決しておらず、後味の悪い映画でした。ただ、アクション映画として観れば、それなりに面白い映画ではありました。

 スコットランドのジャコバイトは、1715年と1745年に反乱を起こしますが鎮圧され、スコットランドのイギリス化は決定的となります。特にこの頃から、スコットランドを中心に産業革命が起き、経済的に繁栄します。飛び梭を発明したジョン・ケイも蒸気機関を実用化したワットも、スコットランドの出身です。


2015年9月30日水曜日

映画「アラトリステ」を観て

2006年に制作されたスペイン映画で、17世紀前半におけるスペインの衰退を描いています。16世紀前半のスペインでは、ハプスブルク家のカルロス1世が国王となり、本拠地のオーストリアなど多くの領地を継承し、さらに神聖ローマ皇帝(カール5)となります。16世紀半ばにカルロスが引退する際、彼はオーストリアと神聖ローマ皇帝位を弟に譲り、ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分かれることになります。スペインを継承したフェリペ2世は、フランドル、アメリカ、フィリピン、イタリア南部、北アフリカ、ポルトガルとその植民地の支配者であり、まさにスペインの黄金時代を現出しました。スペイン黄金時代については、このブログの「「スペイン黄金時代」を読む」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_18.html)を参照して下さい。
1598年にフェリペ2世が死んだ後、フェリペ3世が継承し、さらに1621年にフェリペ4世が即位します。すでにフェリペ2世の時代に、スペインには相当歪みが生じていましたが、フェリペ4世の時代にスペインは決定的に没落に向かっていきます。特に、1568年から1648年にかけてネーデルラント諸州の独立戦争で、八十年戦争と呼ばれる戦い、そして前に触れた三十年戦争(1618~48)が、スペインの衰退を決定的にしていきました。三十年戦争については、「映画で宗教改革を観て最後の谷」((http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_26.html) 第18章 危機の17世紀  三十年戦争(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/1817.html)を参照して下さい。そしてこの映画の主人公アラトリステは「傭兵」を職業とし、スペインが戦った多くの戦いに参加しました。なお、当時のヨーロッパはどこの国でも、戦時に傭兵を雇うのは普通のことで、普段は首都のマドリードで日銭を稼いで暮らしているようです。
映画は、最後にアラトリステについて次のように述べています。「高潔と呼べる男ではなかったが、勇敢ではあった。フランドルの死戦から生還し、マドリードでは裏稼業で生計を立て、時にははした金でも仕事を請け負った。男の名はアリトリステ。」彼は多くの戦場で戦っていますが、その中でも二つの有名な戦いがあります。一つは1624~25年にかけてのブレダの包囲戦です。オランダ南部にあるブレダを包囲し、陥落させた戦いで、八十年戦争での数少ないスペイン勝利の戦いでした。この戦いについては、ベラスケスの「ブレダ包囲」という有名な絵が残っています。そしてこの戦いで、アラトリステは傭兵としての名声を高めます。もう一つは、フランスとベルギーの国境地帯にあるロクロワでの戦いです。この頃はフランスが三十年戦争に参戦しており、ドイツへ南下しようとしたフランス軍と戦いました。前に述べた「最後の谷」(「映画で宗教改革を観て 最後の谷」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_26.html)で傭兵隊長が戦ったのは、この戦いではないかと思います。この戦いでスペインは決定的な敗北を喫し、アラトリステもこの戦いで戦死します。

この映画は、同名の小説を映画化したもので、この小説はベスト・セラーとなりました。この小説のどこがスペインの人々の心を捉えたのか分かりませんが、アリトリステの中に、かつて世界を駆け巡った古き良きスペイン人を見たのかもしれません。しかも、負けると分かっている戦いに敢然と立ち向かうのは、あたかも「ドン・キホーテ」のようです。事実アラテリステは、「ドン・キホーテ」を愛読していました。映画は1625年のブレダの戦いから、1643年のロクロワの戦いまでの、およそ20年間に及ぶアリトリステの半生を描いており、多少分かりにくい部分もありましたが、よくできた映画だと思います。前に観た「アレクサンドリア」もスペインの映画であり、スペインは良い映画を制作しているようですが、日本ではあまり公開されていないようです。

2015年9月26日土曜日

映画で宗教改革を観て

はじめに
 宗教改革について、以前にはずいぶん沢山の本を読みました。何しろマックスヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や大塚史学を学んだ世代ですので、宗教改革に関心をもつのは当然ですが、もう長い間宗教改革に関する本を読んでいませんので、最近宗教改革についてどのような研究が行われているのか、まったく知りません。
 宗教改革が起きた背景には、いろいろあるかと思いますが、何よりもカトリック教会に対する信頼が失われたことが大きいのではないでしょうか。1415世紀の苦しい時代に、カトリック教会は民衆を助けることがでなかっただけでなく、醜い内輪争いを繰り返し、今やローマ教皇は世俗君主となんら変わらない状態となっていました。一方、ルターは150522歳の時に修道士となり、祈りと研究の日々を過ごしていましたが、しだいに一つのことに思い悩むようになりました。つまり、いかに厳しい修行をしても、自分が神の前で正しい()と確信できなかったことです。そして彼が得た結論は、人間が義となるのは善行という行為ではなく、信仰によってのみである、ということでした。このことは、広く解釈するなら、信仰とは形式ではなく個人の内面の問題なのだ、ということではないでしょうか。そして、これによってルターは、千年以上続いたカトリック教会の体制に風穴を開けることになります。
 ルターと同じように、多くの人々が自分の罪が許されるのかどうか、ということについて不安を抱いていました。そうした中で、教会は贖宥状なるものを大々的に販売し始めたのです。それは、「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」というもので、平たく言えば「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」ということです。これにはカトリック教会内でも眉をひそめる人が多かったのですが、人は「信仰によってのみ義となる」と考えるルターにとっては黙視することのできない問題でした。彼は、1517年に有名な「九十五カ条の論題」を提出して贖宥状を批判しますが、この段階で彼は教皇を批判しようとか、カトリック教会を分裂させようと思っていた分けではありませんでした。彼はカトリック教会によって追い詰められ、しだいにカトリック教会から離れていったのです。
 当時、宗教・政治・経済体制に不満を持つ人々が沢山おり、ルターの主張はそういう人々にまたたくまに広まり、ルターの言葉を拠り所に、各地で反乱が頻発し始めました。また、ルターの説より過激な説を唱える人々もいました。まさに宗教改革の火ぶたは切って落とされたのです。前に述べたフランチェスコは、組織の巨大化を前に苦しみましたが、ルターには行動力があり、自説に反する者を切って捨てる強靭さがありました。こうして人々は、宗教のために血みどろになって戦うようになり、この戦いは17世紀の半ばまで続くことになります。
 ここで述べる映画は、ルターではなく、むしろルターとは異なる立場をとる人々の物語です。


キング・フォー・バーニング


1994年にドイツで制作されたテレビ・ドラマです。この映画は、1534年から1535年までの、再洗礼派によるミュンスターの反乱を描いています。「キング・フォー・バーニング」というのは日本語版のタイトルで、「火刑王」といったような意味でしょうか、意味がよく分かりません。原題は「終わりの日の王」ですが、これも意味がよく分かりません。もともと200分近くある映画が120分程度に短縮されているため、映画の意図が分かりにくくなっています。
再洗礼派とは、まだ信仰の自覚のない幼児洗礼を否定し、成人してから自らの意志で洗礼するというもので、キリスト教世界では基本的にすべての人が幼児洗礼を受けるため、成人してから洗礼を受けるということは、結果的には再洗礼ということになります。洗礼とは水で清めるということで、多くの宗教に見られる慣行ですが、キリスト教の場合、洗礼者ヨハネがヨルダン川で洗練を行い、イエスもヨハネによって洗礼されたところから、中世においては、魂を浄化しキリスト者になるための儀式として幼児に洗礼が行われるようになりました。

 今日の我々から見ると、再洗礼派の主張はもっともだと思いますが、キリスト教しかない世界において、生まれた子供に少しでも早く神の保護を与えたいという気持ちも理解できます。権力の側からすれば、成人してから洗礼したとすれば、その段階で洗礼を拒否する可能性が生まれ、それは体制崩壊に繋がりますので、何もわからない子供の内に体制内に取り込んでおく方が便利です。したがって、当然カトリック教会は再洗礼を認めないし、ルターも認めませんでしたが、再洗礼派は急速に支持を集めていきました。そして、ミュンスターにおいて、一時的ではありますが、この再洗礼派が支配することになります。
 1532年、宗教改革が始まってすでに15年たっており、ミュンスターでも宗教改革への期待が高まり、1532年から33年にかけてルター派による改革が進められましたが、この間に再洗礼派が急速に勢力を拡大し、1534年には再洗礼派が市政の実権を握ります。これに対して、この地方を支配する領主司教とルター派の軍隊がミュンスターを包囲し、ここにミュンスターの反乱が始まります。こうした中で、オランダから二人の再洗礼派の預言者を自称する人物が到来します。ヤン・マティスとヤン・ファン・ライデンです。彼らは、キリストの再臨は目前に迫っていること、ミュンスターは新エルサレムであると説き、信じない者には財産を置いて立ち退きを命じ、さらに各地から再洗礼派の信者を多数呼び込みます。今やミュンスターは熱狂の坩堝と化していきます。そして映画は、ここから始まります。
 ヤン・マティスは間もなく死に、ヤン・ファン・ライデン(以下ヤン)が新しい指導者となります。そして映画では、ヤンはペテン師ということになっています。以前ヤンと組んで旅芸人をしていたセバスチャンが、たまたま訪れたミュンスターで、ヤンが預言者として崇拝されているのを目撃し、以後ヤンが処刑されるまで冷めた目でヤンの行動を見つめるという形で、映画は進行します。やがてヤンは新エルサレムの王となり、また一夫多妻制を認めたり、滅茶苦茶としか思えないような行動をとります。なお、当時再洗礼派の信者には女性が多く、再洗礼派を拒否する男性の多くがミュンスターを去り、逆に多くの女性信者が流入したため、極端に女性の数が増えていました。そのことが一夫多妻制を奨励する要因となり、ヤン自身16人の妻をもっていたとのことです。


 しかし、町の包囲網はますます強化され、食糧を搬入することも困難となり、人々は飢え、そして1535年に町は陥落し、ヤンは捕らえられます。彼は激しい拷問にも耐え、道化師としてエルサレム王を演じ続け、処刑されて死んでいきます。そして彼と仲間の三人の遺体は、檻に入れられて教会の塔に吊るされ、その三つの檻は、現在も吊るされています。映画の原題「終わりの日の王」というのは、こういう意味なのかもしれません。ヤンの死を見届けたセバスチャンは町を去り、ミュンヘンの反乱は終わります。
 宗教改革で人々の価値観が激しく変わっていく中で、人々は混乱し、対立し、途方に暮れます。この時期には、騎士戦争、ドイツ農民戦争、シュマルカルデン戦争など立て続けに騒乱が起こっており、この混乱はさらに100年以上続きます。ミュンスターの乱も、こうした一連の事件の一つでした。ヤンが本当にペテン師だったかどうかは分かりませんが、こうした混乱の時代にペテン師が暗躍したとしても不思議ではありません。そもそも本当のペテン師はだれなのでしょうか。ヤンなのか、カトリック教会なのか、それともルターなのか。ただ、道化師セバスチャンのみが、冷めた目でこの混乱の時代を見つめていました。

バトル・オブ・ライジング コールハースの戦い

2013年にドイツ・フランスの合作で制作された映画です。タイトルの「バトル・オブ・ライジング」というのは、意味が分かりません。「蜂起」といったような意味なのでしょうか。原題は、「ミヒャエル・コールハース」で、この人物は日本ではあまり知られていませんが、ヨーロッパではよく知られた実在した人物のようです。この映画は、宗教改革とは直接関係ないのですが、宗教改革の時代の出来事であり、ルターが間接的に関係してきます。
 時代は、多分ドイツ農民戦争が終わってまもなくの1530年代頃で、ミヒャエル・コールハースという馬商人が、ドイツ(神聖ローマ帝国)のザクセンに馬を売りにいくところから、ドラマは始まります。このコールハースがどこの人物なのか、全然わからず、時々「王妃」とか「陛下」と呼ばれる人物が登場しますが、彼女がどこの王妃なのかも分かりませんでした。ところが映画の最後に、ナバラ王妃マルグリットであることが分かります。ナバラはスペインとフランスの国境地帯にあるバスク人の居住地で、スペイン側はすでにスペイン領となっていましたが、フランス側はまだ一応ナバラ王国として独立していました。しかしナバラ王国も後にフランスに併合されますから、今日の国境から見れば、コールハースはフランス人ということになります。バスク人ついては、このブログの「「バスク大統領亡命記」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/blog-post_8.html)を参照して下さい。つまりコールハースは、ピレネー山脈で馬を育て、それをドイツに売りに行っていたのだと思います。彼はルターを尊敬し、常にルターのドイツ語訳の聖書を持ち歩いていました。一方、ナバラ王妃マルグリットはルネサンス文芸の保護者として知られ、ルター派にも好意的な立場をとっていました。なお彼女は、フランスのブルボン朝を創始するアンリ4世の祖母です。
 映画では、ある男爵がコールハウスから通行料として馬を取り上げ、それに対してコールハウスが裁判に訴えることから始まります。しかし男爵は宮廷の実力者たちに手をまわして控訴を棄却させ、さらにコールハウスの妻を死に追いやります。これに対してコールハウスは仲間を集め、男爵の館を襲い、男爵が逃げ出すと男爵を追い詰めるため、あちこちの町を襲うようになります。そして彼のもとに、封建的支配に不満を持つ何百人もの人々が集まり、今や完全に暴動と化していました。ルターは、暴力的行動に及ぶことには批判的で、ミュンスターの乱でも農民戦争でも弾圧を支持し、今回もコールハウスを非難します。しかしルターはコールハウスに直接会い、実情を知り、彼を赦免するようにいろいろ努力します。この間ナバラ王妃がいろいろ関わっているようですが、具体的にどう関わっているのか、よく分かりませんでした。
 コールハウスは、妻を殺されたという恨みもありましたが、男爵が不当にも馬2頭を奪ったという不正を許すことができず、不正は正されねばならないと考えていました。たかが馬2頭のために、ここまでするかとは思います。ルター(あるいはルターの代理人)は、「たとえ不正が行われたとしても、人を殺し続けることは間違いだ」と言います。結局、2頭の馬は返還され、男爵は2年の禁固刑を受けることになり、反乱を起こしたコールハウスは処刑されることになりました。これで男爵の不正は正され、コールハウスは満足して死んでいきました。コールハウスは不正を許せない頑固な義賊といったところでしょうか。彼はフランスでもドイツでも人気があるそうです。
 ルターが放った宗教改革という矢は、あらゆる所に飛び散り、ヨーロッパを大きく変えていきました。コールハウスの事件も、こうした大きな流れの一環だったのではないでしょうか。

わが命つきるとも

1966年にイギリスで制作された映画です。原題は“a man for all seasons”で、「どんな状況でもぶれない人」、つまり「信念の人」といった意味でしょうか。主人公は、イギリスを代表する人文主義者であるトマス・モアで、イギリスの宗教改革に最後まで同意せず、処刑された人です。
トマス・モアはヨーロッパでも名の知られた学識あるある人であり、また「良識」ある人物として知られていました。ヨーロッパ中が宗教改革で揺れ動く中で、彼はカトリック教会への信仰を護り続けていました。当時、カトリック教会の腐敗には目に余るものがあり、モアは誰よりも、そのことをよく知っていました。しかし、その問題とは別に、教皇を頂点とするカトリック教会による秩序ある信仰が必要であると信じていました。彼が1515年に著した「ユートピア」は、「ユートピアという架空の国を舞台に、自由、平等で戦争のない共産主義的な理想社会を描いたもの」(ウイキペディア)です。それは現実にはありえないものですが、同時に乱れ切った現実への痛烈な批判でもありました。それでも彼は、カトリックへの信仰を捨てることはありませんでした。
一方、テューダー朝は、ヘンリ8世でまだ2代目で、王朝の正統性そのものを否定して王位を要求する貴族もいるため、ヘンリ8世はどうしても直系の男子の後継者を必要としていました。テューダー朝の創始者ヘンリ7世は、長子のアーサーの妻としてスペインの王女キャサリンを迎えましたが、結婚直後にアーサーは事故で死んでしまいます。その後弟のヘンリ8世が即位し、大国スペインとの関係を維持するため、キャサリンを妻として迎えます。しかしこの結婚は宗教的には禁止されているため、ローマ教皇の許可を得て結婚しました。ところが、キャサリンが男子を生めなかったため、ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を考え始めました。しかし、以前に教皇にキャサリンとの結婚の許可を得ていながら、今度は離婚を認めるなど、いくら教皇でも同意しかねます。しかもキャサリンは、当時ヨーロッパ最高の実力者であるスペイン国王カルロス1(神聖ローマ帝国カール5)の叔母に当たりますので、容易に離婚することができませんでした。この辺りの事情については、このブログの「三人の女性の物語 エリザベス」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1222.html)を参照して下さい。
そこでヘンリ8世はローマ教会からの離脱を決意し、1534年にイギリス国王を首長とする国教会を樹立し、キャサリンとの離婚を決定します。ローマ教会からの離脱という重大な問題を実行できた背景には、人々の中にカトリック教会に対する強い不満があったからです。そしてほとんどの人々が、自主的に、あるいは強制されて止む無く、あるいは表面上だけ、国王の決定に同意します。ところが、当時大法官だったトマス・モアが同意しませんでした。ここでは、大法官という地位だけが問題なのではありません。トマス・モアはヨーロッパ中で尊敬される知識人であり、良識人でした。イギリス人のすべてが賛成しても、トマス・モアが反対すれば、その決定の権威は半減してしまいます。そして結局、ヘンリ8世は、1535年にトマス・モアを反逆者として処刑してしまいます。
映画は、この間のトマス・モアの苦悩を描いています。この時代には歴史は激しく動いていました。特に、ルターの宗教改革以来、教会が分裂し、戦いに明け暮れていた時代です。彼が処刑された1535年は、ミュンスターの反乱の最中であり、またコールハウスが反乱を起こしていた時期でした。明らかに、時代はカトリックが衰退に向かう時代であり、世俗権力が宗教を支配する時代へと遷りつつありました。こうした時代に彼は、世俗が宗教に介入することに反対し、穏やかで統一された信仰を守ることを求めたのだと思います。トマス・モアの娘は、なんとか父の命を助けたいと思い、形だけでもよいから同意するよう父に懇願しました。しかし父は、「地球が丸いという者がおり、平だという者がいる。王が丸いと命じたら、丸くするのか」といって拒否します。
 ここで問題となるのは、カトリックが正しいのか、プロテスタントが正しいのか、ということではありません。どのような状況にあっても自分の信念を貫く、ということです。彼は決して物わかりの悪い人物ではありませんでしたが、どうしても譲れない一線があったのです。彼は死刑の宣告を受けた時、「私は王の忠実な召使いとして死にます。だが王より神のために死ぬのです」と述べとそうです。
1950年代のアメリカでは、「赤狩り旋風」と呼ばれる共産党主義者への激しい迫害が行われました。この映画は、こうしたことに対する反省の意味を込めて制作され、重厚な名画として多くの賞を受賞しました。


最後の谷

1970年にアメリカで制作された映画で、17世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)で起きた三十年戦争を背景としています。ルターに始まった宗教改革は、今やドイツを荒廃させ、ずたずたに引き裂き、宗教に対する人々の熱い思いは、すっかり冷めてしまいました。三十年戦争については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第18章 危機の17世紀」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/1817.html)を参照して下さい。
舞台となった時代は、三十年戦争が始まって23年後のことということなので、始まったのが1618年ですから1641~42年頃ということになります。そして1648年に三十年戦争は一応終わりますので、三十年戦争末期ということで、この頃すでにフランスが介入しており、戦争は泥沼化していました。場所ははっきりしませんが、西南ドイツのフランス国境に近い所のようで、この辺りで激戦が繰り広げられます。
主人公は、ヴォーゲルという名の元教師で、戦争で両親・兄弟・妻子を殺され、安住の地を求めて放浪していましたが、当時のドイツにそのような場所があるはずもありません。各地で村が焼かれて廃村と化し、魔女裁判で処刑された人々が吊るされ、さらにペストで死んだ人々の遺体が山積みになっていました。ヴォーゲルは、そうした凄惨な場所から逃げるように山に入り込みますが、山の谷間に小さな村を発見します。その村は平穏で、豊かな実りに溢れていましたが、人が全くいませんでした。村人たちは、軍隊が近づくと山に逃れ、軍隊が去るまで隠れていたのです。この村が、これ程平穏だったのは、周りを山で囲まれ、1年の内6カ月も雪に覆われてしまうからでした。
まもなく20人ほどの傭兵隊が村に侵入し、掠奪しようとしましたが、ヴォーゲルは隊長と話し合い、村人を守ってやる代わりに、冬の間この村で過ごさせてもらおうと提案しました。隊長はこの提案を受け入れ、村長と話し合い、色々条件を決めて、ヴォーゲルと傭兵隊はこの村に住むことに決めました。ここに、村人とヴォーゲルと傭兵隊の奇妙な関係が成立することになります。この村は敬虔なカトリックの村でしたが、村の外ではもはや宗教など関係なくなっていました。この戦争はカトリックとプロテスタントの対立という宗教戦争として始まりましたが、傭兵たちの中にはカトリックもプロテスタントもいました。村人は迷信深く、村にいるたった一人の神父の言葉に従順でしたが、傭兵たちは戦いと掠奪と強姦に明け暮れる毎日を過ごしてきました。ヴォーゲルは、こうした人々の共存を冷静に見つめます。
やがて、別の傭兵たちが掠奪のため村を襲ってきました。村の傭兵の数は少なかったのですが、地形を巧みに利用し、侵入した傭兵たちを倒すことに成功します。その戦闘場面は、黒沢監督の「七人の侍」と非常によく似ており、大変興味深く観ることができました。まもなく冬となって村は雪に覆われ、平穏な日々が訪れます。ヴォーゲルにとっても傭兵隊たちにとっても、久々に味わった平穏な日々でした。しかし村の人々にとって、ヴォーゲルや傭兵隊は、もはや必要のない人びとであって、早く出て行ってもらいたいと思っていました。そして雪が解けると、傭兵隊長は新たな戦いのために村を出ていき、戦死します。ヴォーゲルも、このままでは村人に殺される危険があるため、出ていきました。
その後、ヴォーゲルやこの村がどうなったのかは分かりません。戦争はまた6年続きます。この映画が何を主張したいのかはよく分かれませんが、30年に及ぶ戦争の一コマが、奇跡的に平穏を保った一つの村を通じてよく描かれていると思います。そしてルターに始まった宗教的な熱狂は冷め、人々はしだいに信仰心を失っていくことになります。