2015年1月10日土曜日

亡命の文化―メキシコに避難場所を求めた人々

田辺厚子著 1986年 サイマル出版会
 著者は、若いころに単身メキシコに渡り、本書の執筆当時はメキシコ国立自治大学の助教授でした。彼女は以前に「住んでみたメキシコ」で、メキシコを批判的に描きましたが、本書ではメキシコの素晴らしさを描いています。
 1937年にトロツキーがメキシコに亡命してきたことはよく知られていますが、彼は危険人物として世界中から追放され、最後にメキシコにたどり着いたわけです。ではなぜメキシコだったのか。また、これほどの危険人物をなぜメキシコが受け入れたのか。本書は、こうした問題をさまざまな角度から描いています。
 1917年にメキシコ憲法が成立し、1930年代にカルデナスが大統領になるまでの間については、私はただ政治的混乱ということしか知りませんでした。しかしこの間にメキシコで文化的な革命が起きていたのです。きっかけは、1921年にディエゴ・リベラがヨーロッパから帰国し、革命後の荒廃した祖国を壁画で飾ろうということでした。至る所に壁画を描き、それには子供たちや村人たちも無償で手伝い、それは一大文化運動に発展していったのです。インディオやスペイン人やメスティーソが混在するメキシコで、長い動乱の後に、突如民衆文化が開花したわけです。この頃、ニューヨークで修行していた北川民治が、メキシコを訪問し、壁画に魅せられ、野外美術学校で子供たちに絵を教え始め、彼の教えを受けた子供たちの中から、後に多くのプロの画家が成長します。
 このように世界各地から、メキシコに人々が集まるようになり、メキシコはそれらの人々を受け入れました。30年代にはドイツで迫害された左翼やユダヤ人が、またスペイン内戦で敗れた人々がメキシコに亡命してきます。彼らは世界中を放浪した後に、最後にメキシコに安住したのです。日本で治安維持法で弾圧された佐野碩も、世界中を転々としたのちにメキシコに移住し、やがて「メキシコ演劇の父」とまで言われるようになります。トロツキーが、厄介者として世界各地から追われ、最終的にメキシコにたどり着いたのは、こうしたメキシコの風潮があったからです。

 著者はメキシコについて、「メキシコという国は、心を病む者にとっては、ほっと気持ちをなごませてくれる場所であると同時に、凶暴でおどろおどろしい幻想を抱かせる、強烈な刺激に満ちた国である」と述べています。

2015年1月7日水曜日

「収奪された大地 ラテンアメリカの500年」を読む

エドゥアルド・ガレアーノの著作で、原題は「ラテンアメリカの切り開かれた血脈」ですが、翻訳版では「収奪された大地」となっています。本書は1871年に出版され、翻訳本は1980年版です。訳者は大久保光夫、1991年、藤原書店出版です。
 著者はウルグアイ出身のジャーナリストで、1973年にウルグアイで軍事政権が成立すると、アルゼンチンに亡命し、1976年にアルゼンチンで軍事政権が成立すると、彼は「暗殺者候補リスト」に載ったため、スペインに亡命します。この本も中南米各地で発禁となりますが、1985年にウルグアイで民政移管となると帰国し、その後ウルグアイで活動を続けています。それ以来、この本はラテンアメリカの学生、青年の必読書となっており、ベネズエラのチャベス大統領は2009年の第五回米州サミットの中で、アメリカのオバマ大統領にこの本を寄贈しそうです。
 本書は、フランクの従属論(このブログの「第3章 グローバル・ヒストリーとは何か」を参照して下さいhttp://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/3.html)の影響を受け、コロンブスが大西洋を横断してから1970年頃までの500年近くに及ぶラテンアメリカの歴史を、ルポルタージュ風に描いています。「国際分業は一部の国々が利益をあげることに特化し、他の国が損害をこうむるように特化することで成り立っている。今日われわれがラテンアメリカと呼んでいる地域は、いわば早熟であった。この地域はルネサンス時代のヨーロッパ人が海洋を横断して押し寄せ、インディオ文明の喉元に噛みついたはるかな時代から、失うことに特化してしまったのである。」と述べます。著者は、常に支配され収奪される者の立場で書き、著者の怒りがわれわれに伝わってきます。その怒りは、ゲバラの怒りと同じもののように思われます。
 本書は2部構成となっています。第一部は、「大地の富の結果としての貧困」で、最初は金・銀、次に砂糖など農産物、そして最後にアメリカによる地下資源の収奪です。「肺が空気を必要とするように、アメリカ経済はラテンアメリカの鉱物を必要とする」と述べます。そして、これら豊かな資源の結果、ラテンアメリカはますます貧困になっていきます。第二部は、「開発とは航海者を上回る数の難破者を従える船旅である」で、現代の略奪の構造について述べます。これらを通じて、500年にわたって収奪され続けたラテンアメリカの悲劇を描き出しています。ヨーロッパの繁栄も、アメリカの繁栄も、ラテンアメリカからの収奪なしには考えられません。
 もちろん、本書は今から50年近く前に書かれたものであり、個々の点では異論もあるでしょうし、ラテンアメリカ諸国の中には、ある程度民主化が進んでいる国もありますが、本書で述べられていることは、全体としては今日にも適用することができるのではないでしょうか。何よりも、500年にもわたって他の地域から収奪され続けた地域は他にはなく、その結果生じた社会の歪みは、それ程簡単には修正できないのではないでしょうか。


2015年1月1日木曜日

映画で仏教を観る

はじめに 

私には仏教の教えについて語る資格はありません。今までに、仏教やヒンドゥー教に関する多くの本を読みましたが、結局よく分かりませんでした。ただ、その中でも多少印象に残っているのは、ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」(1922年、岡田朝雄訳)と手塚治虫の「ブッダ」です。
 「シッダールタ」は、釈迦のシッダールタという名前を借りて、求道者が悟りの境地に至るまでの苦行や経験を描いています。シッダールタは、人生の様々な遍歴を経た後に、一本の河にたどり着きます。そこに一人の年老いた渡し守がおり、シッダールタはこの渡し守に聖者を見出し、彼とともに川を見つめながら暮らすようになります。
「彼は見た、この水は流れ流れ、たえまなく流れている、しかもいつもそこにある、そしていつも、終始同じものであり、しかもどの瞬間にも新しい!」「目標に向かって河はひたすら流れ、シッダールタはそれがあわただしく流れていくのを見た、自分と自分の肉親、そして彼がかつて会ったすべての人たちから成り立っているその河が流れていくのを。すべての波と水が、苦しみながら、目標に向かって、たくさんの目標に向かって急いで流れていった、滝に、湖に、急流に、海に向かって。そしてすべての目標に着いた、それからどの目標の後にも新しい目標が続いて現れた。そして水は蒸気となり、天に昇り、雨となって空から落ち、泉になり、小川になり、大河になって新たな目標を目指し、新たに流れていった。まだその声は苦悩に満ちて、目標を求める響きをもっていたが、ほかの声がそれに加わった。歓喜の声と苦悩の声、善良な声と邪悪な声、笑っている声と悲しんでいる声、何百もの声、何千もの声が重なった。」こうした経験を経て、シッダールタは悟りに到達していくことになります。この悟りを一言で言えば、「無常」ということになるのでしょうか。
手塚治虫の「ブッダ」は、アニメなので当然分かりやすく書かれていると同時に、何よりも漢字が少ないことが仏教を分かりやすくしています。日本の仏教は、中国から漢籍を通して入ってきましたので、固有名詞なども漢字で書かれており、このことが仏教を非常に分かりにくいものにしているように思います。例えば、釈迦とはインドの言葉で、ブッダの出身族シャカ(シャーキャ)族を漢字に当てはめたものであり、仏陀もインドの言葉で「悟りを開いた者」という意味のブッダを漢字で表記したものです。また釈迦牟尼とは、「釈迦族の聖者」という意味です。また南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏といいますが、「南無」とは「ナマス」を音訳したもので、「帰依する」という意味で、キリスト教でいえば「アーメン」といったところです。また、「イスラーム」というのも、同様な意味です。
なお、「インドの言葉」と言いましたが、仏典にはサンスクリット語系とパーリ語系があり、ここではサンスクリット語系の発音に従います。

釈迦

1961年の映画で、釈迦の誕生から入滅までを描いています。釈迦の生涯といっても、2500年も前のことですから、史実と伝承が入り混じっており、この映画では、事実とは思えない伝承が多く含まれています。
















釈迦に関わる重要な遺跡














ルンビニ ブッダが産湯を使ったとさ れる池 (ウイキペディア)















 まず、ブッダはいつどこで生まれたのか。生誕時期については諸説あり、最も古いものは紀元前7世紀、最も新しいものは紀元前5世紀で、150年ほどの差があります。生まれた場所はネパールとインドの国境付近にあるルンビニで、シャカ族の王子として生まれました。名はガウタマシッダールタです。釈迦は生まれるとすぐに立ち上がり、「天上天下唯我独尊(全世界で私が一番尊い)」と言ったとされ、映画でもこの場面が出てきますが、もちろん伝承にすぎません。
シッダールタは、16歳前後に、母方の従妹とされるヤショーダラーと結婚します。この結婚に関して一つのエピソードがあり、それは映画でも描かれています。ヤショーダラーの婿選びに際して、候補者が競技で争うことになり、シッダールタが勝って彼女を妻とします。この時シッダールタが戦った相手が従兄のデーヴァダッタ(提婆達多―ダイバダッタ)で、彼は後にブッダの弟子となって出家しますが、やがてブッダに逆らって無間地獄に落ちたとされます。映画ではデーヴァダッタはシッダールタの生涯の敵として描かれ、二人の対立が映画の主要なテーマとなっています。
 その後シッダールタは物思いに耽ることが多くなり、29歳の時に出家します。彼は多くの仙人や苦行者に教えを求めますが、納得できる答えを得られず、自ら苦行することになります。苦行とは、身体を痛めつける事によって自らの精神を高めようとするもので、当時インドでは悟りを開くための道として広く行われていました。こうした苦行は、キリスト教やイスラーム教でも行われ、脳科学によれば一定以上の苦痛を受けるとエンドルフィンという物質が作用して幸福感をもたらすそうですが、ここではそうした生物学的な説明は止めておきましょう。
 シッダールタの苦行中、煩悩の化身であるマーラ(魔羅)が、シッダールタが悟りを開くのを阻止するため、さまざまな妨害を行いますが、シッダールタはこれを退けます。なお、シッダールタがマーラを降伏させたことを降魔(ごうま)と呼び、悪魔祓いという意味で用いられることがあります。また、インドで古くから信仰されていたインドラ神が、マーラと戦うシッダールタを助けます。そのためインドラ神は仏教の守護神となり、中国や日本では帝釈天(たいしゃくてん)と呼ばれます。映画「男はつらいよ」の前振りに「帝釈天の産湯につかり……」というのがありますが、これは葛飾区柴又の帝釈天のことです。

ブッダガヤの大菩提寺 (ウイキペディア)




















シッダールタは6年にわたり生死の境をさまよう程の激しい苦行を続けましたが、苦行では悟りを得ることが出来ないと考え、修行を中断して沐浴をします。立っているのがやっとだったシッダールタに、近隣の娘スジャータが乳かゆを飲ませ、心身ともに回復したシッダールタは、ガヤー村の大きなピッパラ (後に菩提樹と呼ばれるようになる)の下に座し、悟りを開いたとのことです。35歳の時だったそうです。後にこの村は、ガヤーにブッダの名をつけて、ブッダガヤと呼ばれるようになります。なお、今日スジャータ村という地名が残っており、またコーヒー・フレッシュの「スジャータ」は彼女の名に因んだものです(「褐色の恋人スジャータ」)

サ-ルナート 鹿が多くいたことから鹿野苑とも称される(ウイキペディア)



















 悟りを開いた後、ブッダはサールナート(鹿野苑―ろくやおん)で説教をはじめ、ガンジス川中流域を中心に伝道活動を行います。その活動は45年に及ぶため、イエスやムハンマドと比べて格段に長期間に及びます。映画では、鬼子母神や盲目の王子などのエピソード、デーヴァダッタとの対立などが描かれます。これらは古くらインドで語られた物語が仏教に取り入れられたものと思われます。そして、最後の伝道の旅の途中で、クシナガラで入滅します。80歳でした。ブッダの入滅を「涅槃(ねはん)に入る」といいますが、涅槃とはニルヴァーナの音訳で、煩悩の火を吹き消した状態を意味するのだそうです。
 ブッダの死後遺体は火葬されましたが、ブッダに帰依していた八大国の王たちが、遺骨の仏舎利を得ようとして争ったため、結局舎利は八分されて、それぞれが持ち帰りました。また、ブッダは自分の教えを文字として書き残さなかったため、ブッダの教えの散逸や異説が生じることを防ぐため、500人の高位の弟子たちが集まって結集をおこないます。結集とは、本来「ともに歌うこと」を意味するそうで、弟子たちが釈迦の言葉を朗誦することを意味します。つまり、弟子たちは自分たちの記憶に従ってブッダの言葉を思い出し、確認し合って記録した分けです。その際に非常に重要な役割をはたしたのが、アーナンダ(阿難陀)という人物です。
 アーナンダは、この映画では目立たない存在でしたが、ブッダの入滅までの25年間、常にブッダの側にあって身の回りの世話をしてきた人物です。彼はデーヴァダッタの弟といわれ、デーヴァダッタとともにブッダの弟子となったとされます。兄がブッダに逆らったのに対し、アーナンダはブッダの教えをよく守って修行しました。ただ彼はかなりハンサムだったようで、女難が多く、またなかなか心を制御できなかったようで、ブッダの入滅の時になっても、いまだに悟りを開くことができず、ブッダの入滅前後には泣きじゃくって手が付けられなかったそうです。とはいえ、彼はブッダの最も近い所で25年間も仕え、ブッダの言葉を最も多く聴き、暗記していたとされます。そのため結集に際しては、アーナンダの果たした役割が非常に大きく、漢訳経典の冒頭にある「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味ですが、この「我」とは多くがアーナンダであるとされます。

 ブッダの入滅後、仏教は大いに栄え、在来のバラモン教を凌ぐほどでしたが、千年後には相当廃れており、逆にこの頃から東南アジアや中国・日本で仏教が栄えるようになります。仏教が廃れたというより、ヒンドゥー教に吸収され、ブッダはヒンドゥー教の神の一人となってしまいます。そのため仏教遺跡も荒廃し、戦後タイやスリランカや日本などの仏教国の協力で遺跡が再建されました。仏教遺跡の中でも日本では祇園精舎が有名ですが、これはブッタや弟子たちの安息所として建設されたものです。これを建設したのは、コーサラ国のジェータ太子(祇陀太子)と、「身寄りのない者に施しをする」富裕な商人(給孤独者)を合わせて、漢語で「祇樹給孤独園精舎」と呼ばれ、それが「祇園精舎」となりました。「平家物語」に「祇園精舎の鐘の聲……」とありますが、発掘の結果、祇園精舎には鐘楼がなかったことが判明したため、2004年に日本のある団体が鐘楼を寄贈したそうです。

 この映画は、総じてつまらない映画でした。巨額の資金をかけ、興業的には成功しましたが、内容的には得るものが何もない映画でした。


空海

1984年制作の映画で、空海死去1250年を記念して制作されました。ただし、真言宗の肝いりで制作された映画ですので、空海がかなり偶像化されていることを考慮に入れて観る必要があります。

 ところで、ブッダは神々の存在を否定しませんでしたが、彼の思想そのものは神々の存在を前提としていませんでした。しかしブッダが死んでから500年程すると、インド土着の神々や如来・菩薩という存在が多数付け加わるようになります。またこれとは別に、言語では表現できない「仏の覚り」自体を伝えるという、極めて神秘主義的な密教が生まれます。このように変容した仏教は、中国や日本に伝わる過程でさらに変容を重ねていきます。
 一方、日本に仏教が伝わったのは6世紀頃とされ、すでに聖徳太子の十七条憲法で、仏教理念に基づく国家形成が試みられました。その後国分寺や東大寺など多くの寺院が建立され、仏教は鎮護国家の役割を担うようになります。また、平城京では多くの仏僧が経典の研究に励んでいましたが、それは学問研究に限られており、民衆に仏教を布教することはほとんどありませんでした。こうした中で、平城京では仏僧の勢力が強大となり、道鏡のように政治に介入することもありました。そこで、桓武天皇は、784年に長岡京に遷都し、さらに794年に平安京に遷都します。平安時代の始まりです。そして空海が登場するのは、この頃です。
 空海は四国の讃岐で生まれ、幼名を佐伯眞魚(さえき まお)といいました。彼は784年、14歳の時に平城京に上京し、勉学に専念します。映画は、ここから始まります。なお、四国八十八カ所というのは、空海に縁のある寺院のことです。同じころ、空海より少し年上の最澄が平城京で学んでおり、やがて二人は奈良仏教に対抗する上で重要な役割をはたすことになります。ところが空海は、793年、19歳の時に突然姿を消します。従来の勉学に飽き足らなかったからだとされますが、いずれにせよ、その後かなり長期間にわたって空海の消息ははっきりしません。この間各地を旅し、激しい修行を行い、しだいに密教に魅かれていったようです。彼は大自然と人間の在り様を追求していたようで、自らに「空」と「海」という壮大な名をつけました。
 密教について、私にはほとんど分かりませんが、その中心はブッダではなく大日如来であり、ここから一切のものが生じるということです。それは具体的な姿をもつものではなく、宇宙の根源というべきものです。そして、悟りを開いた釈迦如来や薬師如来や阿弥陀如来などがおり、さらに悟りに至る途上にある菩薩たちがいます。私の勝手な考えですが、こうした体系は在地の宗教と融合するのに好都合のように思われます。在地の神々を新たな如来や菩薩に加えたり、あるいはそれらの化身として位置づけることができるからです。日本では、日本古来の神々が「権現」「明神」という形で仏の化身とされていきます。
また、真言密教は即身成仏、つまり生きている内に悟りを開くことができる道を示しました。それは真言密教の理論を理解し、一定の作法に従って真言=仏の言葉を唱えることです。こうした宗教の在り方は、従来の国家と寺院のためだけの宗教に対して、民衆にも仏教への道を開くことになりました。
私の密教についての理解はかなり浅く、また間違っているかもしれませんが、これ以上述べると、さらにボロが出る可能性があるため、この辺で止めておきます。
この間に、空海は留学生として唐に渡ります。この時、後に天台宗を創始する最澄も一緒でした。本来留学生は20年間中国に留まることが義務付けられていましたが、彼は2年で密教の奥義を極め、多くの書物や絵画などを携えて帰国します。その中には、密教だけでなく、土木技術や絵画などが含まれており、当時世界最高の文化である唐の文化をまるごと日本にもたらしたと言えます。
帰国後、彼は東寺を与えられて真言宗を開き、さらに訓練場として高野山を与えられます。一方最澄は比叡山を与えられて天台宗を開きます。この二つの宗派が、奈良仏教に対して日本の新しい仏教の在り方を創り出していくことになります。空海は大日如来を本尊とする理論を展開するのに対し、最澄は、釈迦の教えを伝える法華経を基礎に仏教を体系化し、釈迦如来を本尊とします。映画では、最澄は穏やかで秀才肌の学僧として、空海は激しく行動する風雲児として描かれていました。そして、最澄の天台宗は、後にそこから多くの宗派が生まれますが、真言宗は今日に至るまで空海の宗派であり、空海はそれ程強烈な個性を持っていたのだと思います。
映画では、空海が自分の死の日時を予告し、多くの僧侶の読経の中で、予告通りに死んでいきます。それは、あたかもブッダの死のように描かれていました。そして高野山では、今でも空海が生きていると信じる人々がいるということです。


親鸞 白い道

1987年制作で、三国連太郎原作の三国連太郎の拘りの映画です。親鸞の後半生を描いた映画で、「白い道」とは浄土への道という意味ですが、内容的にはかなり分かりにくい映画となっています。
天台宗や真言宗は、仏教を民衆にも開きましたが、実際には貴族に保護された貴族仏教となっていました。一方この時代に、政治・社会の混乱を背景に末法思想が普及します。末法思想とは、人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代=末法が来るというもので、根拠はよく分かりませんが、1052年が末法元年だといわれました。キリスト教にも千年王国思想があり、1000年にはいよいよ最後の審判かと言われましたが、結局何も起きませんでした。いずれにしても、末法の時代が来れば救われようがありません。そこで登場したのが、阿弥陀如来です。
阿弥陀とは、インドの言葉では「アミターユス」 といい、それを「阿弥陀」と音写したもので、無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることを示し、西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ如来だそうです。阿弥陀如来は、衆生救済のために修行し、仏となって現在も極楽浄土で説法をしているのだそうです。そして浄土とは西方のはるか彼方にあり、清浄で清涼な世界であり、人々は煩悩に満ちた世俗の世界を離れて、ここで成仏するために修行をします。そして今や、この阿弥陀如来と浄土が救済の切り札となった分けです。
現実に、政治においては摂関政治から院政へと移行し、地方においては武士が台頭して混乱し、寺院は僧兵が無法を働くといった時代でした。すでに、11世紀に宇治に阿弥陀如来を本尊とする平等院が建立され、12世紀には奥州藤原氏が平泉に阿弥陀堂を建立するなど、西方浄土への期待が高まっていました。しかし、学問的能力を必要とした天台宗にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする真言宗にしても、貧しい民衆には手の届かない存在でした。こうした中で、平安末期に法然の浄土宗が登場します。
法然は比叡山延暦寺で修行し、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説くようになります。この極めて簡便な信仰形態が武士や庶民に受け入れられますが、既存の宗派や国家によって厳しく弾圧されました。そしてこれに親鸞が合流することになります。親鸞は京の名門に生まれたとされ、9歳で出家して20年近く延暦寺で学びましたが、悟りに達することができず、1201年に法然に弟子入りします。
1207年に親鸞は越後に配流となります。そしてこの時彼は、肉食妻帯を実行していました。彼の考えは、すべての人がありのままで救われるのが本当の仏教であり、人は色と欲から生まれた者であり、色と欲を断ち切らねば救済はないとするなら、誰も救われないことになる、ということのようです。そして1214年、42歳の親鸞は妻子を連れて東国への布教に旅立ち、映画はここから始まります。
この間の政治情勢は、激動していました。1185年に平氏が滅び、1185年に源頼朝が征夷大将軍に任官、1204年に源実朝が暗殺、1221年に承久の乱で朝廷が鎌倉幕府に屈服します。人心は乱れ、さらに飢饉や疫病が頻発する中で、親鸞はどん底生活をしながら信仰を追い求めて行きます。映画は、こうした中での親鸞の内面の葛藤を描き出しています。
 親鸞には新しい宗派を立てる意志はなかったようですが、師である法然の教えを実践し深めていく中で、結果的に法然とは異なる道を見出したようです。彼は、念仏を極楽行の道具にしてはならず、大切なのは心で、自分の罪深さを自覚し、ひたすら仏の慈悲にすがらざるを得ない人にこそ、むしろ真実の救済が開かれていると主張します。自力の作善をなしうる「善人」が救済されるのであるならば、生業として殺生などを営まざるをえないような「悪人」が救われないことがあろうか。
これは河原の石ころのような底辺の生活をし、自分の子供も含めて虫けらのように人が死んでいく日常の経験の中から生まれた結論だったように思います。彼は在来の宗教が身に着けるあらゆる既成概念を削ぎ落とし、人が救われる道を探し求めていったように思います。浄土に向かう道の途中に一本の細い「白い道」があり、その道を通るにはあらゆる妨害がありますが、ひたすら信じて進めば浄土に行けるというのが、この映画のテーマなのではないかと思います。
 実はこの映画には、三国連太郎自身も出演しています。それは宝来という密偵で、貴族に金をもらって親鸞などの動向を探っていました。彼は常に覆面と白い化粧をしているため、はじめは三国が演じていることが分かりませんでした。しかし最後に覆面がとられ、額には「犬」という刺青がされていました。彼は穢多(えた)と呼ばれる「穢(けが)れた民」、つまり被差別民だったのです。親鸞は、このような人々こそ救われねばならないこと、人間は罪深い人間のありのままの姿で救済されねばならないことを、確信したのではないでしょうか。
 1262年、親鸞は90歳で没しました。みずからの生涯をかえりみて、罪業深き一生であった、と語ったそうです。そして彼の死から12年後の1274年にモンゴル軍が侵攻してきます。

日蓮

1979年制作の映画で、日蓮宗=法華宗の祖日蓮の生涯を描いたものです。この映画は、1981年の日蓮聖人第七百遠忌記念として制作されたもので、日蓮宗も制作に関わっているため、当然日蓮を偶像視する傾向があることは、考慮しておく必要があります。
日蓮は、1245年に比叡山で学び、その後各地の寺院で遊学し、この間に一切経(大蔵経)を読破したとされます。1254年、33歳の時に鎌倉で辻説法を始めます。この頃鎌倉幕府の政権は執権のもとに確立し、鎌倉でも浄土宗や禅が普及していましたが、同時に地震や飢饉・疫病が相次ぎ、民衆は塗炭の苦しみにありました。
 こうした中で日蓮が説いたのは、法華経への回帰でした。仏典には色々な種類がありますが、中でも法華経は釈迦の教えを伝える最も重要な法典の一つです。法華経とは、「正しい教えである白い蓮の花の経典」の漢訳で、本来「妙法蓮華経」でしたが、やがて「妙」と「蓮」が省略されて「法華経」となりました。法華経の内容については、私には述べる力量がありませんが、すでに聖徳太子が法華経を鎮護国家の理念とし、天台宗を興した最澄は法華経を最も重視したし、同じく天台宗出身の法然や親鸞、後で述べる道元も法華経を学んで成長しました。そしてその法華経を最も重視したのが日蓮です。
当時は天台宗でさえ、密教の経典である大日経を重視する者が多く、また浄土宗にも妥協的になりつつありました。これに対して日蓮は、当時を末法の世であることを自覚した上で、浄土宗や禅宗を批判し、法華経への信仰を訴えました。この意味において彼は復古主義者でしたが、同時に彼は難しい経文を学ぶのではなく、ただ法華経に帰依するという「南無妙法蓮華経」の七文字を唱えればよいという簡便性を打ち出しました。この意味では、彼は浄土宗と同じ手法を用いたわけです。
 日蓮は激しい弾圧を受けましたが、まったくひるむことなく、1260年に幕府に対して「立正安国論」を提出し、浄土宗などの邪宗を廃して法華経を信じなければ、災害や政治的混乱、さらに外国からの侵入によって国は亡びるだろう、と主張します。そして「外国からの侵入」が問題となります。1268年モンゴル帝国から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となり、日蓮の予言が当たったかに思われました。この予言は本当に予言として述べられたのか、それとも末法の世におけるさまざまな禍の一つとして述べられたのでしょうか。映画では日蓮自身が、自分は予言者ではない、来るべきものが来ただけだ、と言っていますので、後者と考えるべきかと思います。
日蓮は、当時の現実の世相、鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異の続発などを前に、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など、日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなしたようです。モンゴル軍の襲来はこれらの禍の一つとみなされたのだと思います。 日蓮にとっては、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一の教えであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまうと思われました。
日蓮の行動は、他の宗派と異なり政治性が強く、かつ極めて闘争的でした。彼は仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張します。政治の主体を天皇としたうえで、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむると考え、宗教上での天皇の権威を一切みとめず、権力におもねることも決してありませんでした。その行動は規制の宗派を打ち破ろうとする闘争的なもので、私の個人的な感想ですが、16世紀にヨーロッパで宗教改革の火ぶたを切って落としたルターのそれに似ているように感じました。今日でも、日蓮宗系の宗派は、政治問題に関わることが多いようです。
日蓮の教えには「旧仏教」的な要素が多くふくまれ、「われ日本の柱とならん」と述べて、法華信仰に依拠しなければ国が滅ぶと鎌倉幕府に迫ったのも、天台宗の鎮護国家の思想を受け継いでいるからだと思われます。こうした日蓮の思想は、しばしば国家主義的と考えられがちで、このブログの「映画でヒトラーを観て」
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014_02_01_archive.htmlで述べた北一輝も日蓮宗の熱烈な信者でした。しかし日蓮の過激な発言は、当時の悲惨な状況を前にして、末法から人々を救わねばならないという切羽詰まった思いから出たものではないかと思います。
日蓮は、信者から与えられた甲斐の身延山に久遠寺を立てて晩年を過ごします。この間にも法華宗は増え続けると同時に、弾圧も続けられていました。1282年に、日蓮は弟子たちに見守られながら、法華経を広めるように言いつつ、逝去しました。61歳でした。

今日日本の総人口は13千万弱であり、その内8千5百万人ほどが仏教徒とされます。私には信仰心がありませんが、それでも葬式は仏式で行っており、85百万の仏教徒の多くは、私のような仏教徒であろうと思います。そして、多くの宗派の内、浄土真宗と日蓮宗が大きな割合を占めています。つまり念仏において、「南無阿弥陀仏」と唱えるか、「南無妙本蓮華教」と唱える人が多いということです。私は、父母の葬式を近所の寺院にお願いしましたが、この寺院は曹洞宗で、次に述べる道元が起こした禅宗の一派です。
いずれにしても、今日の仏教の多くは鎌倉時代に生まれたものであり、鎌倉時代は、日本の宗教史上画期的な時代でした。

禅 ZEN

2009年に制作された映画で、曹洞宗の祖道元の半生を描いたものです。
日本の禅は、鈴木大拙の紹介により世界的に有名となりましたが、もともとブッダ以来僧侶は座禅を組んで修行するのが常でした。したがって禅とは、サンスクリット語の「ディヤーナ」の音訳です。これとは別にインドには古くからヨーガと呼ばれる修行法がありますが、ヨーガとは「馬にくびきをかける」という意味で、馬を御するように心身を制御するという意味だそうです。密教の空海もヨーガを行法として取り入れており、禅宗も何らかの影響を受けていると思われます。
坐禅を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教えは、すでに56世紀の達磨(だるま)に始まるとされ、唐代には、後に日本に伝えられる臨済宗や曹洞宗が生まれていました。宋代になると禅は盛んになり、1127年に北宋がモンゴル帝国に滅ぼされると、南宋で禅が盛んとなり、日本との往来も頻繁になります。空海の時代には、遣唐使船が4隻航海すれば2隻は沈没する時代でしたが、道元の時代には船で渡航することは、それ程危険ではなくなっており、南宋との間で頻繁に往来がなされていました。この時代には、南宋に渡来する多くの僧がいたと同時に、南宋から渡来する僧も多く、この時代は「渡来僧の世紀」とさえ言われています。
 天台宗で学んだ栄西は、堕落した日本の天台宗を立て直すため宋に渡り、1202年に臨済宗を興し、ようやく日本に本格的に禅が伝えられます。栄西は文化人としても優れ、廃れていた喫茶の風習を復興したりするなど、日本の文化の形成に大きな役割を果たします。銀閣寺で代表される室町時代の東山文化は、幽玄、わび・さびなど禅宗の影響を受けています。彼もまた天台宗の弾圧を受けたため鎌倉に行き、北条政子建立の寿福寺の住職となるとともに、京に建仁寺を建て、禅の普及に努めます。そしてこの建仁寺で、道元が修行をします。
 道元は天台宗で学んだ後、建仁寺で修行し、1223年に南宋に渡ります。南宋では各地の寺を転々としたのち、曹洞宗の寺院で修行し、1227年に帰国します。しかし京では比叡山の弾圧を受け、1244年に越後に永平寺を建立し、これが今日に至るまで曹洞宗の総本山となります。1248年に北条時頼により鎌倉に招かれ、半年間の滞在ではありましたが、これが関東での禅宗隆盛の出発点となります。そして1253年に、享年54歳で没します。そして翌年、33歳の日蓮が、鎌倉で辻説法を始めます。親鸞や日蓮に比べて、道元の一生は比較的穏やかに見えますが、それは彼が政治にも宗派闘争にも加わることなく、ひたすら禅の修行に努めたからだと思われます。

禅とは何かということについて、私に答えられるはずがありません。そもそも禅僧自身が、こうした議論を嫌います。禅とは、言葉で伝えるものではないからです。ただ道元が、親鸞や日蓮と異なっている点は、親鸞や日蓮が念仏を唱えて救済を得る他力本願だったのに対し、禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことであり、それに気づけば生きて成仏できるという自力救済だったという点です。こうした自力救済の考え方は、何事も自分で解決せねばならない武士にとって、受け入れやすい思想だったと思います。
 道元が最も重視したのは、只管打坐(しかんたざ―ひたすら坐禅すること)で、あらゆる既成の概念や身に着いた垢を削ぎ落とし、過去の執着をすべて捨て、悟りたいと願うことも止め、そうすることで自己の仏性を見出すということです。「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の有名な歌は、当たり前のことをあるがままに受け入れる、ということだろうと思います。

 道元が悟りを開くきっかけとなったのは、中国で寺を巡り歩いている時に出会った一人の老僧でした。この老僧は寺の炊事係で、他の僧たちが修行に励んでいる間に、ひたすら雑用に励んでいました。道元が老僧に、そんな雑用をして何の役に立つのですかと尋ねると、老僧は、あなたは書籍に記してあることの本当の意味が分かっていないと言って笑いました。その時道元は、坐禅や勉学にくらべて炊事などの日常的な雑務は低級で無意味と考えていた自分に気づきました。
前に述べたヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」が、年老いた川の渡し守から真理を学んだように、道元もまた一介の炊事係りの僧から真理を学びました。渡し守が、一生河の流れを見つめて悟りを開いたように、年老いた炊事係りも淡々と当たり前のように雑用をしながら、悟りを開いたのです。道元の言葉に、「修証一如(しゅしょういちにょ―これから修行して無我になるのではない。いま、すでに無我だからこそ修行することができるのだ)」という言葉がありますが、「これからがんばって無我になるために修行をする」といような気持ちは執着であり、それではとうてい無我になれない、ということだと思います。
孤高の思想家である道元自身には、一つの宗派をおこす意思はなかったとされますが、永平寺につどった道元の弟子たちは教団化に努め、今日に至る曹洞宗を開きました。

かなり掘り下げの浅い文章になってしまいましたが、これ以上掘り下げると無知をさらに曝け出すことになりますので、表面的なことしか書けませんでした。世界史を学ぶ者が個別的な問題に触れることができるのは、所詮この程度だということがよく分かりました。

2014年12月23日火曜日

映画で中国―清朝を観て

中国の清朝に関する映画(連続テレビドラマ)4本観ました。清の創生期を扱った「大清風雲」と以下三人の皇帝を扱った「康熙王朝」「雍正王朝」「乾隆王朝」です。つまり、このブログの「映画で中国史を観る」
(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4967.html)の続編ということになります。比較的面白かったのは「大清風雲」で、あとの3本はあまり出来のよい映画ではありませんでした。その他に明の滅亡を描いた「江山風雨情」という連続テレビドラマがあるようで、是非観たいと思ったのですが、残念ながら手に入りませんでした。

満州(中国東北部)



















清朝は、1616年に満州(中国東北部)で建国され、1644年に明を滅ぼし、やがて全中国を征服し、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代130年間に、中国史上稀にみる繁栄の時代を築きます。清を建国した女真人は、中国東北部で半農半牧の生活をし、古くからしばしば中国の歴史に関与してきましたが、明代には明による離間策もあって、女真人は多くの勢力に分立し、互いに武力抗争を繰り返していました。その中から建州女直のヌルハチが台頭し、この頃からヌルハチは自らの勢力を満州と呼ぶようになります。1616年にヌルハチはハンに即位し、国名を後金とします。ヌルハチは1618年に明との戦いで大勝しますが、1626年の戦いで大敗し、その数日後に死にます。



山海関
ウイキペディア













ヌルハチの後を継いだホンタイジは、1636年に国号を大清とし、皇帝に即位します。ヌルハチの戦いは明からの自立を目指したもので、明を征服しようとするものではありませんでしたが、ホンタイジは明らかに、明に代わる中華王朝の建設を目指していました。彼は明への侵攻を目指しますが、明との境界にある要塞山海関の守りを堅固であり、1643年に志半ばで急死しました。なお、山海関は長城の東の端にあり、そこから長城が海に突き出て終わっています。


大清風雲


 2005年に制作された大河ドラマで、全42回からなります。このドラマは、ホンタイジの妃である荘妃(大玉児)を主人公とします。彼女は、ホンタイジ、順治帝、康熙帝の三代の皇帝に仕え、清の繁栄の基礎を築いた女性とされます。その点で、このブログの「映画で中国史を観る 北魏馮太后(ふうたいこう)
 ドラマではもう一人重要な人物が登場します。ヌルハチの第14子、ホンタイジの弟ドルゴンです。彼は兄のホンタイジより19歳若く、この頃まだ二十歳代半ばでした。彼は、軍事的にも政治的にも有能で、信望の厚い人物でした。ドラマでは、彼は荘妃とは少年時代からの恋仲でしたが、ホンタイジに彼女をとられてしまいます。ホンタイジの死後二人は結婚しますが、これはレビラト婚といい、遊牧社会にはよくあることです(映画で観る中国の四人の女性 王昭君http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1111.htmlを参照して下さい)が、儒学では姦淫に当たります。ただし、この話は史実とはいえないようです。
 ホンタイジは後継者を指名せず死んだため、彼の弟のドルゴンとホンタイジの長子との間で後継者をめぐって対立が起きました。しかし中国征服の目前で内乱が起きれば、今までの努力は水の泡です。そして、ここで奇策が飛び出しました。つまり二人とも皇位継承争いから身を引いて、晩年のホンタイジが最も寵愛した荘妃の子を後継者にするということでした。ここに第三代皇帝順治帝が誕生することになりますが、彼はまだ6歳でしたので、14歳になるまでドルゴンが摂政王として後見するということになりました。

当時の明は、腐敗堕落して民衆は苦しみ、大規模な農民反乱が起きていました。明朝最後の皇帝崇禎帝は教養があり、改革の意欲に燃えていましたが、もはや手遅れでした。1644年に反乱軍は北京を陥落し、崇禎帝が自殺します。その結果清は、中国を征服するための絶好の大義名分を得ます。つまり、今や清は、殺された崇禎帝を弔問し、反乱を鎮圧し、秩序を再建して民に平安をもたらし、中華の伝統を復活するという大義名分を得たわけです。中国は、過去に何度も異民族の支配を受けており、そうした経験を通じて、中国では支配者の民族が何であれ、中華の伝統を守るならば正統である、という考えが形成されてきました。そのため、清軍は比較的平穏に紫禁城に入城し、民衆からも歓迎されました。
 とはいえ、清はまだ中国全土を統一した分けではなく、各地にさまざまな反抗勢力が存在していました。また宮廷内部にもさまざまな対立が存在しました。漢人と満人との対立、ドルゴンと順治帝の対立などです。とくに順治帝は威圧的なドルゴンを憎んでいました。こうした中で、清では女性が政治に介入することは禁じられていましたが、ドラマでは荘妃がさまざまな対立を仲裁するために腐心します。ドラマは、宮廷内の権力闘争、ドルゴンと荘妃との愛などを中心に展開されます。こうした話には私は興味がないのですが、辮髪(べんばつ)令の発布前後の話は、大変興味深く観ました。

 辮髪とは、主にモンゴル周辺の男性の髪型で、頭髪の一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らすもので、兜を被った時に頭が蒸れるのを避けるためだそうです。日本の武士が月代(さかやき)を剃るのも、同じ理由だそうです。そして清は中国を征服すると、中国のすべての男性に辮髪を強制します。それは違反した場合には斬首という厳しい命令でした。このため当時、「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」と言われました。このようなつまらない風俗を強制するとは、何という悪政かと思いますが、清には清の事情がありました。
清は、漢人官僚を多く登用し、漢人・満人の差別なく統治し、漢文化を受け入れ、中華思想も受け入れました。しかし、ここまで中国文明を尊重すると、満人は人口において漢人より圧倒的に少数派であるため、中国に同化されてしまう可能性があります。また、実際には清が北京に入城すると、多くの漢人が進んで辮髪を行い、清への服従の意志を示しますが、そうなると逆に辮髪をしない者には反清の意志があるのではないか、という疑念が生まれます。つまり、清が満人の王朝であることを明確にするために、一見どうでもよいような満人の風俗を強制する必要があったようです。
 一方、漢人にとっては、たとえ髪の毛といえども体の一部を損なうことは、祖先への冒涜と見做されます。したがって、たとえ斬首されても辮髪を拒否した人も多く、辮髪の強行にあたっては相当の混乱がありました。しかし、結局ほとんどの人々が辮髪を受け入れ、辮髪は清人の風俗として定着していきます。20世紀初頭に清朝が滅亡した後、多くの人が辮髪をきるようになりますが、辮髪を切るくらいなら死んだ方がましだとして、辮髪を守った人も沢山いましたので、辮髪は清人のアイデンティティの証しとしてしっかりと定着していたわけです。

 順治帝は、14歳になったら親政を開始する約束になっていました。問題は、その時ドルゴンが政権を手放すかどうかだったのですが、1650年、順治帝が13歳の時にドルゴンは狩りの途中で死亡します。46歳でした。まさに、暗殺されたのではないかと疑いたくなるような、絶妙のタイミングでした。もしドルゴンが生きていれば、内乱に発展し、その後の清の繁栄はなかったかもしれません。ところが、ドラマでは、順治帝が17歳のときにドルゴンがまだ生きており、両者が決定的に対立した時、荘妃が仲裁し、二人は和解し、その直後にドルゴンが死亡して、ドラマは終わります。しかし、実際には順治帝は、ドルゴンの死後彼の爵位を剥奪し、墓を暴いて斬首に処したとのことですから、ドラマのようなハッピー・エンドは信じられません。
 このドラマは、荘妃とドルゴンとの愛をテーマにしているように思います。実際に二人がそのような関係だったかどうか分かりませんが、ドラマではドルゴンが荘妃への愛のために皇帝になることを諦めたことになっています。確かにドルゴンはきわめて有能で、清による中国支配の基盤は彼によって確立され、その気になれば皇帝になることも可能だったかもしれません。しかし、その前に彼は不慮の事故で死んでしまいました。
 順治帝は、幼少の時から漢人たちの間で育ったため、漢文化への理解があり、実際彼は相当の読書家だったようです。彼は「民のための政治」を目指す理想主義者で、つぎつぎと大胆な改革を行い、各地で起きる反乱も鎮圧しました。もちろんそこには母である荘妃の助力があったと思われますが、清朝では女性が政治の表舞台に立つことは許されていません。唯一の例外は清朝末期の西太后ですが、彼女もまた簾の背後に隠れての睡蓮政治でした。清朝では、その創成期と終末期に、女性が大きな役割を果たしたわけです。西太后については、このブログ「映画で観る中国の四人の女性」 

を参照して下さい。


ところで、清が中国を征服したのは1644年、この頃日本では江戸幕府が成立していましたが、寛永の飢饉などがあってまだ安定していませんでした。また当時、ヨーロッパでは混乱が続き、この時代は一般に「17世紀 危機の時代」といわれています。この点については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第18章危機の17世紀」

http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/1817.html)を参照して下さい。清が安定するには17世紀末まで待たねばなりません。





康熙王朝


2001年の大河ドラマで、全40回からなります。清朝全盛期を築いた康熙帝の一生を描いたテレビドラマで、中国では非常に視聴率が高かったそうですが、私にはそれほど引きつけられるような場面はなく、概ね想定内の内容でした。ただ、大国への道を歩き始めた当時の中国の人々は、まさに大国清朝を築き上げた康熙帝に共感を抱いたのではないでしょう。
先に述べた順治帝は、1661年に24歳の若さで天然痘のため死んでしまいます。ところが、「順治帝は生きている」という俗説があり、このドラマはこの俗説に基づいて作られています。ドラマによれば、順治帝は急進的な改革が行き詰まり、政治に嫌気がさし、仏教と一人の愛妃にのめり込みます。ところがその愛妃が天然痘で死亡してしまったので、絶望した順治帝は退位して僧侶になってしまいます。ここで再び荘妃が登場してきます。彼女は、順治帝が天然痘で死亡したことにして、順治帝の第3子を康熙帝として即位させます。彼は当時まだ8歳でした。もちろん順治帝は6歳で即位しますが、彼の場合ドルゴンという絶対的な実力者がいたのに対し、康熙帝はほとんど一人で重荷を背負うことになり、以後61年間という最長不倒の在位期間を記録します。
康熙帝は16歳から親政を開始することになっており、その間8年、大臣たちは康熙帝を思いのままに操ろうとします。この8年間は、康熙帝にとって忍耐の時代でした。1669年、彼は周到な準備をして宮中クーデタを起こし、奸臣たちを排除して、15歳で親政を開始します。ドラマは、この親政に至るまでの時期、三藩の乱、鄭氏台湾の討伐、モンゴルでの戦い、そしてその後の宮廷の権力闘争や皇位継承争いといった順で展開されていきます。
清が中国を征服するに当たって清に協力した呉三桂らの漢人がおり、彼らは南方地方で藩王として特別な地位が与えられました。しかし藩王たちはしだいに自立化し、これを抑えようとする朝廷と対立し、1673年に三藩の乱が起きます。康熙帝が親政を開始してから、まだ4年目のことでした。一方、明の復興を目指す鄭成功が台湾に依拠し、三藩の乱に呼応して中国南部の沿岸部を荒らしまわります。その結果、一時は長江以南のすべてを奪われるなど、清朝は滅亡の危機にまで追い詰められました。しかし康熙帝は不屈の精神を見せて、8年の歳月をかけて、1681年に反乱を鎮圧します。
次は鄭氏台湾の問題です。以前には、台湾は中国にとってあまり関心のない地域でしたが、海上貿易が発展すると、台湾が重要な意味をもつようになります。特に鄭氏台湾は、中国南部の沿岸地帯との密貿易で富を蓄え、中国の海上貿易を妨害していました。そこで清は、遷界令を発し、南部の沿岸地帯の住民をすべて内陸部に移動させ、鄭氏台湾の密貿易を封鎖しようとします。しかしこれは大変な事業で、移住する住民には新たな土地を与え、金も与えたのですが、それらの土地も金も役人が横領し、移住者の手にはほとんど渡りませんでした。しかも、もともと中国には海軍と呼べるようなものは存在せず、海軍の創設から始めねばなりませんでした。しかし、これも康熙帝は不屈の精神でやりとげ、三藩の乱鎮圧の2年後の1683年に台湾を中国の領土に加えます。
当時モンゴルで不穏な動きが生まれつつありました。ジュンガルのガルダン・ハンは、チベットやロシアの動きとも連動して、モンゴルで強大な勢力となっていました。そこで、1690年と1696年に康熙帝は自らモンゴルに親征しでガルダン軍を破り、モンゴル全土を制圧します。ここに中国は、かつてない広大な領土を支配することになり、その大部分が今日の中国に受け継がれています。この間、ロシアとの間でネルチンスク条約が締結されますが、ほんの一言述べられただけで終わりました。当時の中国にとって、ネルチンスク条約などは大した問題ではなかったのでしょう。
 この間にも荘妃はしばしば登場します。彼女はほとんど政治に介入しませんでしたが、康熙帝が危機に陥った時、彼の窮地を何度か救いました。そして1688年に死去しました。享年75歳でした。この間にも、朝廷での権力闘争、皇妃間の争い、後継者を巡る争いが起きます。康熙帝は早くから第2皇子を皇太子と定めていましたが、彼には品行上問題があったため廃位され、以後皇太子はおきませんでした。後継者の問題は大変厄介で、皇帝が早逝した場合に備えて早めに皇太子を建てておくと、周囲の人々が彼にいいより、甘やかされて育つ危険性があります。逆に皇太子を決めないと、皇子間で血みどろの闘争が展開されます。そして、独裁君主は一般に後継者を決めるのを嫌う傾向があります。なぜかというと、側近が後継者に向かい、自分の権力が空洞化するからです。
 話が変わりますが、アメリカの大統領にはもともと再選規定がなかったのですが、F.ローズヴェルト大統領が4期務めたことがあり、その後憲法が修正されて2期までとなりました。ところが、2期目の後半になると、側近は次期大統領候補か再就職の方に向かってしまい、いわゆるレームダック=権力の空洞化が起き、政権運営が非常に難しくなります。いつの時代でも、権力の継承の問題は、なかなか難しいようです。
 内政面でも、康熙帝は自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用とし、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らしたとされ、さらに度々減税をおこないました。文化的にも、「康熙字典」や「古今図書集成」の編纂なども行います。「康熙字典」には、全42巻に5万字近くが収録され、「古今図書集成」は1万巻に及ぶ百科事典です。さらに宣教師を通じてヨーロッパの文化を積極的に導入しました。ただ、これらの点についてはドラマではほとんど触れられていないのが残念です。


 1721年に在位60年を祝って盛大な宴会が催されました。この60年の間に数えきれない程の人が彼の前に現れ、そして消えていきました。彼は多くの人々から祝福され、賞賛されましたが、独裁者の常として孤独でした。そして翌1722年末に、69歳で死去しました。あらゆるものとの戦いの連続の生涯でした。

雍正王朝


 1999年に制作されたテレビドラマで、全44回からなります。ここにあげた4本の映画の中では、これが最初のものとなります。このドラマも、前の「康熙王朝」同様に、中国で高い視聴率を得たそうです。「康熙王朝」が対外関係を中心に描かれたのに対し、「雍正王朝」は内政問題をじっくりと描いており、私にはこちらの方に関心があるのですが、内容がかなり濃密で、飛ばして観ると話が分からなくなってしまいます。
 雍正帝は、康熙17(1678)に第4皇子として生まれ、胤禛(いんしん)と名付けられます。そしてドラマは、康熙46(1707)の黄河の氾濫から始まります。胤禛は皇帝の命で避難民の救済事業を見事にやり遂げ、その手腕を評価されます。そこで次の仕事を命じられますが、これはかなり厄介な仕事でした。当時国庫は空で、救済事業に充てる金もありませんでした。理由は二つあります。一つは、官僚は免税特権をもっているため、農民の土地を買いあさり、しかも税を支払う必要がなく、これが税収入の減少の原因となっていました。もう一つは、官僚が国庫から借金をし、これを返済しないということでした。そして胤禛に与えられた役目は、この借金を回収することです。この役割にも、胤禛は辣腕を発揮しますが、同時に多方面から怨みを買いました。
 ところで、中国の官僚は地位がかなり高くても、俸給は家族が生活するのにやっとという程度の金額でした。そのため多くの官僚は賄賂を受け取ったり、荘園を所有して収入の足しにしており、それらは度を超さなければ大目に見られていました。というより、そうしたことを前提とした俸給体系だったといえるかもしれません。今日の中国の官僚の腐敗は、こうした伝統を背景にしているように思われます。この「雍正王朝」と次の「乾隆王朝」は、官僚の腐敗に関する話が多く、現在の官僚腐敗に対する批判が込められているように思います。

 この年、皇太子はその不行跡により廃位され、新しい皇太子を選ぶことになったのですが、これを巡って兄弟間の激しい闘争が展開されます。これ以降第20回までは、後継者を巡る闘争が描かれます。この間に、胤禛の幼い息子弘暦が康熙帝の寵愛を受け、康熙帝が自ら手元において教育します。この弘暦が後の乾隆帝であり、まさに彼は康熙帝から直接帝王学を学んだわけです。結局、康熙帝は皇太子を選ぶことを避けたため、皇子たちは疑心暗鬼に陥り、ライバルの蹴落としに躍起となります。康熙帝には皇子が36人いたとされ、その内9人が後継者の地位を求めて15年にわたって争ったわけですから、相当陰険な争いが展開されました。そして1722年、結局康熙帝は死の直前に胤禛を後継者として指名しますが、この遺書は胤禛の捏造ではないかという噂が残りました。その時雍正帝はすでに45歳となっていました。
 康熙・雍正・乾隆の三代130余年間は、清朝の全盛期とされますが、その内康熙帝が61年間、乾隆帝が60年間ですので、雍正帝の在位期間は13年間です。即位後の雍正帝は、皇位を狙う兄弟たちから嫌がらせを受け、さらに各地で不正事件がおき、苦境に立たされますが、徐々に腹心の部下を養成し、改革事業を推進していきます。
 雍正帝は極めて勤勉な皇帝で、毎晩夜遅くまで働き、一日の睡眠時間は4時間程度だったそうです。また質素倹約に努め、さらに重要事項を決定する軍機処を設置しますが、小さな部屋の入口に「軍機処」という看板があるだけで、皇帝を含めて6人が椅子を並べて座って協議するというものでした。緊急を要する重要案件を朝議で協議していると、なかなか決まらないため、こうした制度を設けた分けです。そして雍正帝の時代に軍機処を通じて独裁的な支配体制が形成されていきます。
 彼の13年の治世において、康熙帝のような華々しい業績はありませんが、後世に重要な役割を果たす税制改革が行われました。当時の税制は地税と人頭税からなっており、多くの農民が地主の支配下に入ってしまったため、地税を徴することが困難となっていました。そこで、原則として人頭税を廃止し、地主から地税を徴収するという地丁銀制を実施します。これには地主から猛烈な反対がありましたが、結果的に農民には減税となり、税収は大幅に増えることになりました。
 一方、雍正帝は密告政治を行い、厳しい思想弾圧も行っています。このドラマでは、この点についてほとんど触れていませんが、この点が雍正帝に暗いイメージを与えてきたのも事実でした。ドラマにおける雍正帝は、ひたすら大清と民のために骨身を削って働き、反対勢力と激しく戦いながら、しだいに痩せ細っていきます。そして1735年に雍正帝は58歳で死亡します。いわば過労死でした。

雍正帝は、在位期間が短かったこともあって、康熙帝と乾隆帝の間の皇帝というイメージしかなく、本人が寡黙だったこともあり、暗いイメージで捕らえられることが多いようです。康熙帝は、大局を捕らえ、要所を抑えるといった政治手法を用いましたが、その結果細部で大きな矛盾が生まれていました。逆に雍正帝は、あらゆる問題に介入し、細部の矛盾点を矯正する役割を果たし、それを乾隆帝に引き渡しました。どのような独裁権力も、さまざまな勢力や利害のバランスの上に成立しており、康熙帝はこうしたバランスをとることが巧みでした。康熙帝はこのようなバランスの間に歪が生じていることを感じていましたが、この問題については放置し、問題の解決を雍正帝に委ねたわけです。そして雍正帝の改革は、このバランスを破壊することになりましたので、猛烈な反発を受けたわけです。そして国家に一定の方向性を与えて、それを乾隆帝に譲り、乾隆帝のもとで大輪の花を咲かせることになります。


乾隆王朝
2003年に制作された大河ドラマで、全40回からなります。乾隆帝は、1735年に24歳で即位し、1796年に在位60年を期して退位します。そのまま在位を続ければ、康熙帝の在位期間である61年間を抜く可能性があるため、その前に嘉慶帝に譲位しました。そしてその3年後の1799年に88歳で死亡します。乾隆帝の時代は清王朝だけではなく、中国史上でも最も栄えた時代といえると思いますが、同時に晩年には多くの矛盾が表面化してきた時代でもあります。日本でも、ほぼ享保の改革から寛政の改革の時期にあたり、比較的安定した時代であるとともに、矛盾もまた表面化しつつあった時代でした。
この時代の世界を俯瞰すると、インドではムガル帝国が衰退し、イスラーム世界でもサファヴィー朝ペルシアやオスマン帝国が衰退に向かっており、中国のみが空前の繁栄を享受していました。ヨーロッパではスペインの衰退が決定的となり、イギリスとフランスが第二次百年戦争を展開し、やがてナポレオンが登場してきます。一方、ロシアはシベリアに進出し、中国と接触するようになりますが、まだ両者の力の差は歴然としていました。また、この頃アメリカ合衆国がイギリスから独立し、イギリスはオーストラリアに囚人植民地を築きますが、まだ問題となるような勢力ではありませんでした。しかし、この間にヨーロッパは力をつけ、世界が近代世界システムに包み込まれ、中国もまたこれに飲み込まれていくことになります。そして、乾隆帝が退位してからおよそ50年後に清はアヘン戦争に敗北し、およそ100年後に日清戦争に敗北することになります。
物語は、若い和珅が登場するところから始まります。和珅は、もともと乾隆帝の輿の担ぎ手だったとされていますが、ドラマでは兵士だったことになっています。彼は1772年ごろ乾隆帝に見い出され、その後わずか4年で軍機大臣にまで登りつめます。異常な出世です。ドラマで描かれた和珅は、ちょうど織田信長に仕える木下藤吉郎のようで、常に主の考えを推し量り、頭の回転が速く、あらゆる問題を主の望みどおりに解決していきます。このドラマの主人公は、乾隆帝なのか和珅なのかよく分かりませんが、退廃期に入った乾隆年間の後半を、和珅を通して描いているのかもしれません。

ドラマは、乾隆帝が50歳代半ば頃から始まります。物語の多くは官僚の腐敗と乾隆帝の散財に関するものです。和珅は高官による大規模な汚職を暴いて乾隆帝の信頼を得ます。しかし汚職事件は次から次へと起き、まるでモグラ叩きのようで、きりがありません。また財政面では、このドラマが始まった頃には国庫は満杯でしたが、乾隆帝の派手好みもあって、宮殿や庭園が次々と建てられ、さらに南部への巡行がしばしば行われ、財政はしだいに厳しくなっていきます。また人口が100年前と比べて2倍に増大し、もはや従来の体制を維持することが困難となりつつあり、各地で反乱が起きるようになります。
 乾隆帝は退位後も実権を握り続けたため、和珅も権力を持ち続けます。彼の不正については多くの訴えがありましたが、乾隆帝が生きている限り嘉慶帝には和珅に手を出すことはできませんでした。1799年に乾隆帝が死去すると、嘉慶帝は和珅を弾劾し、すべての財産を没収した上、自殺させます。彼が残した財産は、15年分の国家歳入に匹敵するもので、その豪華な邸宅は、現在では観光名所となっているそうです。ドラマでは、和珅は役人の腐敗を追及し、一貫して乾隆帝に忠実で、不正蓄財も濡れ衣だったことになっていますが、いかに高級官僚とはいえ、俸給だけでこれほどの富を築けるとは思えません。
 ドラマで語られるエピソードとして多少関心を抱いたのは、マカートニーの来訪と「四庫全書」の編纂です。1792年にイギリスは乾隆帝の80歳の誕生日を祝うためにマカートニーを使節として派遣し、通商の拡大を求めます。そのさい使節は皇帝の前で三度膝を屈指、その度に三度お辞儀をする三跪九叩頭の儀礼をしなければいけないのですが、マカートニーはそれを拒否します。いろいろ議論の末、結局イギリス風の儀礼でよいことになりましたが、乾隆帝は「中国には何でもあり、輸入の必要性がない」として通商の拡大を拒否します。英明な乾隆帝にも、清の繁栄の真っ只中にあって、世界情勢の変化を見抜くことはできませんでした。なお、マカートニーが持参した贈物の中に蒸気機関車の模型がありましたが、この時代にはまだ蒸気機関車は存在しません。
 「四庫全書」は、古今の書籍を集めた中国最大の叢書です。全体が四分に分類されているため、「四庫全書」といいます。全体で36000冊、230万ページに及び、筆写だけで4000人が従事したそうです。正本が7部制作され、各地に保管されます。所蔵する図書館の前には防火と消火のため池まで作られました。その後3部が失われ、4部が現存しています。このような国家による編纂事業は、正史と同様に国家の恣意によって選択・排除・改竄が行われますが、それでもその資料的価値は計り知れません。ドラマでは、本の蒐集・筆写・改竄の場面が一部映し出されており、大変興味深いものでした。

 ドラマでは、うんざりする程、次々と程汚職事件が出てきます。これは清王朝に限らず、どの王朝でも同じことです。1911年の辛亥革命により、中国最後の専制王朝である清王朝は滅び、その後40年程後に共産党一党独裁体制が成立しますが、2000年に及ぶ中国の長い歴史から見ると、この政権は共産党王朝といえるのかもしれません。その後文化大革命など粛清の時代はありましたが、今日の腐敗の蔓延は国家の存立そのものを脅かすほどです。現政権は腐敗との戦いを宣言していますが、これらの映画を見ていると不可能なのではないかと思われてきます。


  清朝に関する大河ドラマを4作品観ましたが、苦労して観た割には、最初の「大清風雲」以外はほとんど得るものがありませんでした。内容的には概ね想定の範囲内で、中国史についての発想の転換を迫るようなものではありませんでした。このブログの「映画で中国史を観る」を含めると、かなり大量の中国大河ドラマを観ましたが、もう当分観ることはないでしよう。