2015年4月15日水曜日

VTS 01 1 十戒「神の言葉」




十戒 「神の言葉」
 エジプトを脱出した後、辛くて長い放浪の旅が続きます、そうした中で、人々の信仰は薄らいでいきました。これに対して神は、人々が守るべき十の戒めを授けます。
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/04/blog-post_3082.html 参照



VTS 01 1 「十戒 神の奇跡」


十戒「神の奇跡」
 モーセたちがエジプトを脱出し、海辺まで迫ってきたとき、神の力により海が割れ、モーセたちは対岸に渡ることができました。

サクランボの花

サクラカボの花が、植えて3年目で初めて咲きました。今年はサクランボの実がなるでしょうか。リンゴの木も同じころに植えたのですが、まだ花も咲きません。

グリーンピースは、連作障害を克服して、後1か月ほどで収穫できそうです。ホウレン草・ジャガイモ・レタスは順調に成長していますが、インゲンが3分の1程しか芽が出てきていません。今年は日照時間が極端にすくないので、心配しています。






2015年4月11日土曜日

映画でアフリカを観て(3)

カーツーム

1966年にアメリカで制作された映画で、19世紀末期のスーダンで起きたマフディーの乱を背景としています。ハルトゥームとは、白ナイルと青ナイルが合流する交通の要衝で、当時数万人の人が住んでいましたが、これがマフディー教徒に包囲されて、1885年に陥落するという話です。

















 エジプトは19世紀前半にスーダンに進出しますが、その後エジプトが1882年に事実上イギリスの保護国となったため、スーダンもイギリスの勢力下に入ります。まさにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が本格化し始めた時代でした。当時スーダンの民衆はエジプト支配の下で苦しんでおり、民衆の間にマフディー(救世主)到来を待望する声が高まっていました。そこにムハンマド・アフマドという人物が登場します。ムハンマド・アフマドはムハンマドの家系に生まれたとされ、クルアーン学校で教育を受け、高い教養をもっていました。彼はすでに、1870年代に信仰の革新と国土の解放を説き、圧政者へのジハードを説いて人々の共感を得ます。
 1881年に彼は、自分がマフディーであることを宣言します。これに対してエジプト軍は4回も攻撃を加えますが、ほとんど棍棒と石しか持たないマフディー軍に敗北を重ね、さらに1883年にはイギリス将校が指揮する近代装備を備えたエジプト軍がマフディー軍に敗北し、1万人近い軍隊が全滅しました。ほとんど給料が支払われていなかったエジプトの兵士たちの中には、むしろマフディーに共感するものが多かったとされます。そしてマフディー軍は、この戦いで大量の最新兵器を手に入れることになります。その結果、スーダン総督府のあるハルトゥームがマフディー軍に包囲されることになります。
 こうした中で、イギリスはハルトゥームから撤退することを決意しますが、その際ハルトゥームの住民とエジプト軍を救出する必要があります。しかしハルトゥームはマフディー軍に包囲されていたため、それは不可能に思われました。そこで白羽の矢が立てられたのがコードン将軍です。彼は1863年から1864年まで、中国で中国の義勇兵を率いて太平天国軍と戦い、反乱の鎮圧に大きな役割を果たした人物です。その後世界各地で任務に就いた後、1873年から79年までスーダンの総督になり、各地の反乱を抑えます。彼はイギリス国民の英雄であり、またスーダンを熟知していたため適任ではありましたが、問題は彼に援軍を与えられなかったことです。要するに、一人で行ってエジプト軍の兵士を救出してこいということでした。
 映画では、ゴードンは二度マフディーに合います。最初は、ハルトゥームに着いた直後に単身でマフディーの本陣に会いに行きます。ゴードンはマフディーにエジプト軍を撤退させてくれるよう要請しますが、マフディーはイスラーム教の理想国を建設するための象徴としてハルトゥームを陥落させる必要があるとして、ゴードンの要請を断ります。そして二度目の会見は、ハルトゥームの包囲を完了したマフディーがゴードンを本陣に呼び、あなたとは戦いたくないのでハルトゥームを去ってくれと要請しますが、ゴードンは断ります。
 このような会見が本当に行われたのかどうかは知りません。たぶん創作だと思われます。ただ、そこで描かれたマフディーは、知的で、戦略に長け、確固たる信念をもった人物として描かれていました。そして結局ハルトゥームは1885年に陥落し、ゴードンは戦死し、その半年後にマフディーも病死します。マフディーの後継者は残忍でしたが有能で、その後も勢力を拡大しますが、アフリカ分割が激化する中で、イギリスはスーダン攻略を決意し、1898年にマフディー軍を破ってスーダンを制圧します。
 この映画は、1960年代に制作された植民地主義の映画の典型ですが、それでもマフディーを単なる狂信者としては扱っていません。西欧人はこうした人々を一方的に狂信者・残虐なテロリストとして喧伝しますが、見方を変えれば、西欧人は自由主義を掲げてそれを押し付ける自由主義の狂信者と言えなくもないと思います。また、こうした映画のパターンは、現地の切迫した状況と政治ゲームに明け暮れる本国政府の決断の遅さを浮き彫りにさせることです。そしてこの映画では、本国政府の思惑で、結局ハルトゥームは見捨てられることになります。しかし、当時のイギリスは世界中に紛争を抱えており、また軍隊を派遣するにはそれなりの道理というものが必要であり、さらにその紛争と長期的な政策ビジョンとの関係も考慮する必要があるでしょう。そしてゴードンの壮絶な最期は、イギリス植民地主義に新たな英雄をつけ加え、イギリスの侵略に新たな大義名分論を与えることになりました。それこそがイギリス政府の狙いだったのかもしれません。

 マフディーの乱に見られるようなイスラーム主義の運動は、長いイスラーム世界の歴史の中でしばしば見られます。こうした運動は、社会矛盾が極限に達した時にしばしば現れ、最近問題となっているイスラーム国やボコ・ハラムの運動もこうした流れを汲んでいるのではないでしょうか。政権の腐敗、貧富の差の拡大、ヨーロッパ的価値観の押し付け、いまだに続く「自由主義」の名の下で行われる欧米による収奪などが、こうした運動の原因になっていると思われます。彼らは国境を越えて活動する傾向がありますが、もともと現在の国境はヨーロッパ人により勢力圏画定のために勝手にひかれたものですので、彼らにはそのような国境は無意味です。もちろん彼らの行動を肯定するものではありませんが、ただ彼らを狂信的なテロリスト集団と決めつけるだけでは、問題は解決しないのではないでしょうか。

風とライオン

1975年にアメリカで制作された映画で、20世紀初頭のモロッコを舞台としています。内容的には、1960年代に流行った植民地主義の英雄物語とは、一味違います。また、主人公のベルベル人を、「007」のショーン・コネリーが演じており、見事な転身を遂げていました。
















この時代のモロッコには、一応王国があり、国王(サルタン)がいましたが実権がなく、太守が実権を持ち、地方ではベルベル人の首長が各地に割拠していました。そして事件が起きた1904年には、日本は日露戦争中であり、アメリカはカリブ海への進出を本格化させ、パナマ運河の建設に着手していました。そして、アフリカ分割は最終段階に入りつつあり、モロッコが焦点となりつつありました。モロッコはアフリカの北西端に位置し、タンジールはジブラルタル海峡に面する戦略上の要衝だったからです。この年に英仏協商が成立して、イギリスはエジプトでの優越権を認めてもらう代わりに、モロッコでのフランスの優先権を認めました。そこへ、植民地進出に出遅れたドイツが介入してきます。太守はフランスと結んで力を維持しようとしたのに対し、サルタンはドイツと結んで太守を牽制しようとします。まさに当時のモロッコは、複雑な情勢にありました。
こうした中で、ベルベル人の族長の一人ライズリがアメリカ人のペデカリス夫人とその二人の子供が誘拐するという事件が起きました。ライズリによる誘拐事件は、実際に起きた事件のようです。彼が誘拐事件を起こしたのは、ヨーロッパの言いなりになるサルタンを苦境に陥れ、国土を回復するように警告を発することだったということです。案の定、太守もサルタンも何もできず、結局、ライズリの思惑通り、アメリカがモロッコに軍艦を派遣し、サルタンはさらに苦境に陥ります。
ここで、アメリカ大統領Th.ローズヴェルトが登場します。彼は型破りの大統領でした。幼少の頃は喘息もちで、病弱で学校に通うこともできませんでしたが、やがて強靭な意志とバイタリティをもった人物に成長していきます。彼は、スペインとの戦争の時に義勇兵を連れて活躍し、有名になって副大統領に選ばれます。ところが、1901年に大統領が暗殺されて、彼は大統領に昇格します。42歳、史上最年少の大統領です。彼は、国内的にはさまざまな矛盾の克服に努め、対外的にアメリカを大国にすることを目指していました。それを果たしたのが、ちょうどこの頃始まったパナマ運河建設の再開と、日露戦争の調停でした。特に1905年にポーツマス条約で日露の講和を締結させ、アメリカの国際的な威信を高めるのと同時に、彼はノーベル平和賞を授与されました。こうした情勢の中で、モロッコでの誘拐事件は起きました。
映画では、ライズリとTh.ローズヴェルトの動向が交互に映し出されます。まずTh.ローズヴェルトは戦艦の覇権を決定します。その背景には選挙が近づいてということがありますが、アメリカの国威を示す必要があったからです。そして合ったこともない二人の間に奇妙な友情のようなものが生まれてきます。一方には砂漠に生きる荒々しいライズリと、他方には未だフロンティア精神を失わないTh.ローズヴェルトが、利権問題ではなく、人質問題という人間的な問題を介して向かい合ったわけです。
一方、誘拐された婦人はアメリカ女性らしく気丈に振舞いますが、彼女も彼女の子供たちも、ライズリに親近感を抱き、かれらの間にも奇妙な友情が生まれます。やがて国王はライズリに身代金を払うことを伝え、ライズリが受け取りにいった所で、国王は彼を逮捕します。明らかに国王による裏切り行為であり、怒った夫人はアメリカの海兵隊の援助を受けてライズリを助け出します。結局ライズリは、この誘拐によって得るものは何もありませんでしたが、「人生には一度は、こういうことがあるものさ」と、笑い飛ばして去って行きます。
結局、この映画が言おうとしていることが何なのか、よく分かりませんでした。特に、ライズリとTh.ローズヴェルトの場面を交互に映し出しているのは、滅びゆくフロンティア精神と、なお健在なモロッコの部族世界の魂を、対称的に描いているのかもしれません。最後に、ライズリはTh.ローズヴェルトに手紙を書きます。「貴殿は 風のごとし、余はライオンのごとし。貴殿は嵐を呼び 余を惑わし 大地を焼けり 余の抵抗の叫びも貴殿には届かず、されど共に相違あり 余はライオンのごとく住みかにとどまり  貴殿は風のごとく とどまることなし」と。そしてTh.ローズヴェルトは自分の娘に、「敵の なかにも友人以上に立派な人物が存在し得るのだ。人は皆、大成への道を歩む時、大きな人々の歩んだ道が暗くて孤独だと知る。導いてくれる先輩は敵かも知れない、だが貴い敵だ」と。

 この映画は不思議な映画ではありますが、あまり深く考えずに楽しむことのできる痛快な映画です。

2015年4月8日水曜日

「バスク大統領亡命記」を読んで

  ホセ・アントニオ・デ・アギーレ著(1943)、 狩野美智子訳(1989) 三省堂出版。なお本書には、「ゲルニカからニューヨークへ」というサブタイトルがついています。スペインのバスクでは、1936年から37年にかけて7か月間だけ自治共和国が成立したことがありますが、バスクがフランコ軍に制圧されたため、バスク共和国の初代にして唯一の大統領アギーレは、亡命を余儀なくされます。本書は、このアギーレ大統領自身が執筆した亡命記です。


































バスクについては、私の本棚に「バスク もう一つのスペイン 現在・過去・未来」(渡辺哲郎著、1987年、彩流社)と「バスク民族の抵抗」(大泉光一著、1993年、新潮選書)があり、大変参考にはなりましたが、独立運動に関する記述が詳しすぎて、私にはついていけませんでした。



















 まずバスクについて一言述べておきたいと思います。広義には、バスクはピレネー山脈を挟んでフランス南部とスペイン北部に存在する地域ですが、ここでは主にスペインのバスクについて扱います。バスク人とは、実に不思議な人々です。何よりも、その人種と言語が周囲とまったく異なります。紀元前1千年前後にヨーロッパにインド・ヨーロッパ語系のケルト人が進出し、ヨーロッパはインド・ヨーロッパ語系となっていきますが、バスク人はケルト人が進出する以前からこの地方に住んでいた人々のようです。こうした少数民族は、他にも多くいたと思われ、そのほとんどがインド・ヨーロッパ系に同化されていったのに対し、何故バスク人だけが自らの民族性と言語を維持できたのでしょうか。
 紀元前1世紀にイベリア半島はローマの支配下に入りましたが、ローマの支配はバスク地方まで及ばず、バスクはラテン化を免れました。8世紀にイベリア半島にイスラーム教徒が侵入すると、バスク人はイスラーム教徒と戦うと同時に、イベリア半島に進出したフランク王国とも戦いました。カール大帝の軍がバスク人の攻撃で敗北しますが、この事件は武勲詩「ローランの歌」で長く語り伝えられました。バスク人がキリスト教を受け入れたのはかなり後で、10世紀頃からだそうですが、一旦キリスト教を受け入れると、今度はバスク人はキリスト教勢力として、イスラーム教徒に対する国土回復運動で大きな役割を果たします。さらに16世紀には、バスク人はスペインの海外進出にも大きな役割を果たしました。われわれが知っているバスク人としては、フランシスコ・ザビエルが有名です。
 この間、バスク人はその時々の政権により、一貫して強固な自治が認められています。また、バスク人自身にもバスクを統一して独立国家を造るという動きはほとんどありませんでした。こうした中で、17世紀にフランスとスペインとの国境が画定され、その結果バスク地方はスペインとフランスに分断されることになります。さらに19世紀にスペインでも中央集権化が進められると、バスクの自治も制限されるようになり、これに対してバスク人は三度に亘って中央政府と戦いますが、敗北し、バスクの自治は抑え込まれることになります。この頃から、バスク語を話す人々の間にバスク人としての自覚が形成されるようになり、バスクの自治を求める運動が高まっていきます。
 1931年にスペインで共和国が成立し、政府は地方の自治を容認するようになります。そうした中で、1936年にようやくバスク自治共和国が成立し、32歳のアギーレが初代大統領となります。彼はバスクのオークの木の下で宣誓を行います。この場所はバスク人にとって特別な意味がありました。代々、バスクの支配者となるものは、このオークの木の下で宣誓を行ってきたからです。しかし、すでにスペイン内戦が始まっており、1937年にゲルニカはドイツにより猛烈な爆撃を受けて廃墟となります。自治政府は事実上支配領域を失い、アギーレはフランスに亡命し、フランスがドイツに占領されると、ベルギーを経て、何とベルリンに潜入し、さらにスウェーデン・ブラジルを経てアメリカに亡命します。
 本書は、世界の人々に、とりわけアメリカ人にバスクを理解してもらうために書かれました。彼は次のように書きます。
  1839年にスペイン政府が、世界と同じくらいに古い自治をバスクから奪って以来、それを取り戻そうとする努力は、一刻たりともゆるめられたことはなかった。1931年、スペインはやっと共和国になり、ブルボン王朝の犯した不正義を取り除く約束をしたが、勝利で盲目になったためか、よい意図を実現することに手間取り、スペイン議会は、1936年の101日にやっと、バスク国の自治に同意した。しかしその時はフランコの蜂起がすでに始まっていて、反乱軍はすでにかなりの領土を手に入れていたのである。われわれに認められた自治は、われわれにふさわしい主権のごく一部にすぎなかったし、また民族の自治を拡大するということは、戦争の最中であるという情況の中で大きな責任を引き受けなければならないことだということはよく分かっていたが、バスク人は、祖国が世界地図の上のふさわしい場所に位置を占めるのだと、大いに誇りを感じていたのである。再び自由であることがわれわれに血を要求し苦しみを要求するのだ。しかし、それが何であろう。バスク人にとって、自由というものは呼吸のために酸素が必要であるのと同じほどに必要なものなのである。

 しかしアギーレの願いはかないませんでした。1939年に反乱軍はスペイン全土を掌握し、しかも第二次大戦後に冷戦が始まると、アメリカを中心とした西側諸国がフランコ政権を承認するようになったからです。これでは亡命政府は存続しえず、そうした中で1960年にアギーレは死去します。しかし、1975年にフランコが死んで民主化が進行するようになると、1978年にバスク自治州が成立し、アギーレの悲願はようやく達成されることになります。もちろん、自治が不十分だという不満はあり、さらに完全独立を求めてテロ活動を行う勢力もありますが、とりあえず、スペイン国内における自治というアギーレの悲願は達成されました。
 なお、ヨーロッパではこうした分離独立の要求は各地にあり、例えばドイツのバイエルン、フランスのブルゴーニュやブルターニュ、最近ではイギリスでスコットランドが分離独立の住民投票を行いました。こうした地域がもし本当に独立した場合、これらの国は直接EUの加盟国となれば、国家として存続できる分けです。EUはヨーロッパを統合するのか、分裂させるのか、なかなか難しい問題です。


2015年4月4日土曜日

映画でアフリカを観て(2)

この投稿は、「映画「Tsotsi(ツォツィ)」」を観て(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/tsotsi.html)と「映画でアフリカを観る」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7359.html)の続編です。ここでは、近代のアフリカに関する映画を観ます。

ズールー大戦争

 2001年に南アフリカとアメリカで制作された映画で、19世紀に活躍したシャカ・ズールーというズールー人の王を主人公とした映画です。この映画の日本版のタイトルは「ズールー大戦争」ですが、この映画には戦争は僅かしかありません。原題は「シャカ・ズールー」で、この日本語版のタイトルをつけた人は、映画を観ているのでしょうか。














ウイキペディア

この映画を観るためには、二つの前提となる知識が必要です。ズールー人とケープ植民地です。ズールー人というのは、バントゥー語族に属します。バントゥー語族は、現在のナイジェリアあたりで、4000年程前に発祥したと推測されています。彼らは農業と金属加工の技術を発達させ、数千年かけて東方や南方に移動し、先住の狩猟採集民を吸収していきました。この長期に及ぶ民族移動は、人類の歴史の中でもきわめて重要な事件の一つと言えます。東海岸にまで達したバントゥー語族の言葉に、アラビア語の語彙が入り込んでスワヒリ語が生まれ、この地域一帯の共通語となります。また、15世紀から18世紀まで、現在のジンバブエにモノモタパ王国が繁栄させます。そして5世紀頃には、バントゥー語族は現在の南アフリカに到達したと思われます。現在のアフリカに、400以上の民族と35千万の人々がバントゥー系に属するとされています。
ウイキペディア
バントゥー語族の一つであるズールー人は、14世紀頃には南アフリカに居住していたと思われますが、本格的に歴史に登場するのは19世紀に入ってからです。1816年にシャカがズールー王国を建設し、斬新な軍事技術と統治法により急速に勢力を拡大しました。ただ、国内では恐怖政治を行ったため、1828年に暗殺されました。そしてこの映画は、シャカ王と、当時南アフリカに進出してきたイギリスとの関係を描いています。
 一方、1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見して以来、喜望峰沖はヨーロッパからインドに向かう重要な航路になっており、17世紀の半ばにオランダが寄港地としてケープタウンを建設しました。しかし、18世紀末のフランス革命とナポレオン戦争の際にオランダがフランスに占領されたため、イギリスはインド航路の要衝ケープ植民地を占領し、1815年のウィーン条約で正式にイギリスの領土として認められました。そしてちょうどこの頃、シャカがズールー王国を建国し、急速に勢力を拡大していました。それはイギリスにとって重大な脅威であり、イギリスは和平のためズールー王国に使節を派遣しました。これがこの映画の背景です。
 この映画で語られていることが事実かどうかわ分かりませんが、イギリスのフェアウェル大佐がシャカのもとに滞在しており、イギリスとの和平を提案したり、銃器を提供して戦争に協力していました。すでに彼は2年もズールー王国に滞在しており、実は彼はアフリカの大地とシャカに魅せられてしまったようです。そのため、彼の娘が父を捜し出すために、無謀にも一人で旅に出、奴隷船に乗せてもらいます。そして奴隷狩りに捕まったシャカが、この奴隷船に乗せられてきます。こんなことってあるのでしょうか。おそらく創作だと思います。多分ヨーロッパ人の奴隷貿易の非道さ示すために描かれたのだと思います。その後シャカは自力で奴隷船から脱出し、大軍を率いてケープ植民地のはずれにあるキングストン(現在のポートエリザベスの一部)を包囲しますが、結局攻撃せずに帰って行きます。そしてフェアウェル大佐もシャカと行動をともにし、平和は保たれました。
 この映画では、シャカは聡明な人物として描かれます。この映画を制作したのは南アフリカであり、南アフリカにとってシャカは英雄ですので、こうした描き方になっているのだと思います。一方で、シャカの残虐な行為も多く伝えられていますが、これもヨーロッパ人が生み出したイメージが含まれていると思われるので、多少割り引いて考える必要があります。私自身がシャカについてほとんど知りませんので、この点について判断のしようがありません。ただシャカは最後に、フェアウェル大佐に、イギリス人が沢山やってきて、やがて「われわれの間に生まれてくる子はどの国の子になるのか」という意味ありげな言葉を残して映画は終わります。
 事実、その後白人の数は急速に増え、やがて先住民を圧倒し、アパルトヘイトによって先住民は差別され、さらに後に先住民による国家が成立します。この映画は、その後の南アフリカの激動を予感させるような映画でした。

ズールー戦争/野望の大陸

1979年に制作されたアメリカ・オランダの合作映画で、イギリス軍がズールー軍に敗北したイサンドルワナの戦いを扱っています。この戦いは1879年なので、多分百周年を記念して制作されたものと思われます。なおこの映画の原題は「Zulu Dawn」です。
 前の映画で観たシャカ・ズールーの時代には、南アフリカにおけるイギリスの勢力は弱小で、ズールー族と戦うなど、まだ夢物語でした。しかし、しだいにイギリス人の入植者も増え、軍隊も増えると、領土を拡大するようになり、その結果ズールー王国と境を接するようになります。ただ、当時イギリスはアフガニスタンで戦争をしていたため、政府は現地総督にズールー王国との和平を求めていました。そして当時のズールー国王セテワヨも、イギリス領に侵入する意志はなく、和平を求めていました。
 ところが現地の高等弁務官フレアが野心家で、色々言いがかりをつけてはセテワヨを刺激し、1879111にチェルムスフォードを総司令官として、本国の許可なしに12000人の軍隊をズールー王国に侵攻させ、これを4万のズールー軍が迎え撃ちます。映画の後半はほとんど戦争の話で、かなり正確に戦争の経過を再現していますので、軍事映画ではないかとさえ思われます。近代的な火器で装備されたイギリス軍は数で劣っていたとはいえ、鑓と楯しかもたないズールー軍に勝利することは可能でした。しかし、本来敵地に侵入する場合、軍隊を分散させるのはタブーですが、イギリス軍は軍隊を3つに分散させ、その内1200人の部隊が122日に遮蔽物のない平地であるイサンドルワナに野営しました。これに2万のズールー軍が攻撃を行い、イギリス軍は全滅しました。
 映画はここで終わりますが、結局何を言いたいのかよく分からない映画でした。植民地主義を批判しているのは確かで、この映画が制作される少し前にアメリカはヴェトナム戦争で敗北していますので、それへの反省が込められているのかもしれません。大国アメリカは小国ヴェトナムを侮って押しつぶそうとしましたが、結局アメリカはゲリラとの戦いで屈辱的な敗北を喫することになります。ただ、ズールー戦争の場合、まだ続きがあり、結局ズールー王国はイギリスに征服されることになります。
 映画の戦争場面はよくできており、兵士の展開や戦闘が丁寧に描かれて、かなり迫力のある映画でした。

ズール戦争

1964年制作のイギリス映画で、前の「ズールー戦争/野望の大陸」でのイサンドルワナの戦いの直後に起こったロルクズ・ドリフトの戦いを扱っています。原題は「ズールー」です。
1979122日にイサンドルワナの戦いでズールー軍がイギリス軍を全滅させると、その勢いで、翌23日に4000人のズールー軍がロルクズ・ドリフトというイギリス軍の小さな要塞を攻撃します。要塞には139名のイギリス兵しかおらず、すでに彼らはイサンドルワナでの「虐殺」の報に接していました。「虐殺」という表現はイギリス側の表現で、一方的にズールー領に侵入したイギリス軍をズールー軍が破っただけのことです。イギリス軍が敵軍を全滅させれば大勝利、イギリス軍が敵軍により全滅させられれば、野蛮な大虐殺ということになるようです。
映画では、前の映画同様、後半はほとんど戦闘場面です。両軍とも死力を尽くして戦い、2日目に入ってイギリス軍は精も根も尽き果てましたが、突如ズールー軍はイギリス軍の勇気を讃えて撤退しました。まだズールー軍が圧倒的に優勢でしたが、あまりにも被害が大きかったことと、イギリスの援軍が近づいていたためだったとされます。そして、何とか耐え抜いたイギリス軍は、到底勝利したという気持ちにはなれませんでした。映画はズールー軍が勇敢に戦ったことを称賛し、彼らを「勇気ある野蛮人」として描くことで、イギリスの偉大さを示そうとしているように思われました。
イサンドルワナとロルクズ・ドリフトでの戦いがズールー戦争の第一幕です。その後両軍は一進一退を繰り返しますが、7月にイギリス軍が王都を攻略し、これによりズールーランドはイギリスの植民地として併合されることになります。

 1960年代には、イギリスのヴィクトリア時代の植民地を扱った映画がたくさん制作されました。ここで観た「ズールー戦争(ズールー)」、後で観る「カーツーム」、その他「北京の55日」やクリミア戦争を扱った「遥かなる戦場」などがあります。こうした背景には、この時代がヴィクトリア黄金時代の最盛期の百周年に当たっていたこと、「イギリス病」とまで言われた衰退したイギリスの過去への郷愁、そしてアメリカがかつてのイギリスの繁栄を自己に投影したこと、などがあるのではないでしょうか。これらの映画は、ほとんどパターンが決まっています。世界中に侵略したイギリス軍が敵の大軍に対峙し、絶望的な状況で戦い抜くという、いわば英雄物語です。
 しかし、幾らなんでも侵略軍が敵に包囲されて戦ったというだけでは、イギリス側に道理というものがありません。したがって、これらの映画では他国の侵略や暴君から現地人を救出するという大義名分が与えられることになります。このような筋書きは、この時代にアメリカで隆盛した西部劇についても言えることで、要するに野蛮に対する文明の戦いという話です。しかし1970年代になると、もう少し現地人の視点が入るようになります。

 ここでは、ズールー王国に関する三本の映画を観ました。知識以外に得るものはあまりありませんでしたが、それぞれの映画が制作された時代に興味を持ちました。ここでは、事件が起こった年代順に映画を配列しましたが、制作の年代は逆です。最後の「ズールー戦争(ズールー)」はイギリスが勝利した戦いで、1960年代のヴィクトリア朝植民地主義への郷愁が残っている映画でした。二番目の「ズールー戦争/野望の大陸」は、イギリスが敗北した戦いで、ヴェトナム戦争敗北への半生が込められているように思われました。最初の「ズールー大戦争(シャカ・ズールー)」は21世紀初頭で、すでに黒人政権が成立しており、シャカ・ズールーを幾分賛美する映画でした。この様に、制作された時代によって、映画の内容が微妙に変化してきています。これらの地域の歴史を客観的に見つめるには、まだ少し時間がかかりそうです。

2015年3月28日土曜日

映画でガイディとマザー・テレサを観て

ガンディー

1982年公開のイギリスとインドとの合作映画で、ガンディーを演じた役者は新人ですが、非常にガンディーに似ていたため、インド人の中にはガンディーの再来だと信じて、お参り来る人が絶えなかったとのことです。ガンディーについては、このブログの「第28章 帝国の崩壊とナショナリズム 」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/28.html)を参照して下さい。ただ、彼は非常に複雑な人物で、一言で述べるのは難しいように思います。
映画は、1948年のガンディー暗殺と葬儀から始まります。地位も金もない一人の人間の葬儀のために、世界中から政治家や思想家が参列しました。そして話は1893年の南アフリカに戻ります。この年24歳のガンディーは、イギリスで弁護士資格をとった後、南アフリカに向かいました。インド人は大英帝国の領域の至る所に進出し、南アフリカでは有色人種として差別されていました。彼は一等車に乗っていたのですが、有色人種であったため、列車から放り出されます。そしてこの時から彼の運動が始まります。
ここで大変興味深いのは、彼がインド人を大英帝国の臣民だと主張している点です。つまりヴィクトリア女王の臣民であり、女王の下にすべて平等だとしている点です。イギリスは多様な植民地をヴィクトリア女王の臣下とすることで、その維持を図ってきたのですが、ここでその矛盾が露呈されたわけです。(「映画で三人の女王を観る ヴィクトリア女王」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html)
彼は南アフリカで25年以上活動した後、1915年に46歳の時インドに帰ってきます。南アフリカにいた時は、彼はイギリス紳士風のスタイルをしていましたが、インドに上陸した時はヒンドゥー教の聖者のようでした。彼は非暴力・不服従運動を開始しますが、まもなく暴力事件が起こったため、運動の停止を命じます。その後彼が逮捕されたこともあって、運動は停滞しましが、彼は国民に非暴力の精神が侵透するのを待っていたように思います。
ガンディーは、ヒンドゥー教の聖者のような姿をし、糸巻で糸を紡ぎ、原始的生活をしているように思われましたが、同時に彼は優れた戦略家でもありました。まず彼はマスコミを巧みに使います。彼の周りには常にマスコミが張り付き、彼の行動は全世界に報道され、イギリスに圧力をかけていました。さらに彼は「塩の後進」と呼ばれる運動を演出します。海まで何百キロも歩いていき、海の水で塩を作り、それを販売するのです。たかが塩なのですが、多くのインド人がこの運動に参加したため、もはやイギリスも無視できず、10万人を超える人々を逮捕し、さらに無抵抗で前進するインド人を棒で殴り倒しますが、インド人は全くひるむことなく前進します。そしてこの情景が、マスコミを通じで全世界に報道されました。もはやイギリスに打つ手はなくなります。
第二次世界大戦後の1947年にイギリスはインドの独立を認めます。しかし今度はインド内部で問題が発生しました。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立です。もともと両者は共存していたのですが、イギリスによる離間策により、修復不能なまでに対立し、インドはほとんど内乱状態になります。ここでガンディーは伝家の宝刀を抜きました。対立が収まるまで断食すると宣言したのです。まさに死の断食です。その結果内乱はとりあえず収束に向かいますが、根本的な解決には至らず、1948年彼はヒンドゥー教の過激派によって暗殺されます。
その後ネルーが国造りに励みますが、それはおそらくガンディーが思い描いていた国とは異なるでしょう。また、インドはパキスタンとの間で何度も戦争を行い、今も両国の対立はつづいています。

ガンディーは、この程度の言葉では語りつくせない程複雑な人物ですが、ここでは映画の紹介という範囲に留めておきたいと思います。この映画で用いられたエキストラは延30万人を超え、ガンディーを演じたベン・キングズレーは新人でしたが、徹底的にガンディーの外見や仕草を模倣し、アカデミー賞主演男優賞を獲得しました。とくに男たちが無抵抗で警官たちに棍棒で殴り倒されていく場面は圧巻で、まさにイギリスの敗北を象徴する場面でした。

なお、インドについては、このブログの以下の項目も参照して下さい。
インド映画「ムトゥ」を観て 
インド映画「ボンベイ」を観て
現代史「第3章 南アジア」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/3.html


マザー・テレサ

2005年に制作されたイタリアとイギリスの合作映画で、生涯を貧困者の救済に尽くした修道女マザー・テレサの半生を描いたテレビ映画です。
マザー・テレサは、1910年にオスマン帝国領だったアルバニアに生まれました。アルバニアはイスラーム教・カトリック・ギリシア正教が混在する地域で、そうした環境が彼女の宗教観に影響を与えたかもしれません。彼女の言葉によれば、13歳の時に神の声を聴き、18歳の特に聖ロレト女子修道会に入り、インドのカルカッタ(コルカタ)に赴き、ここで1947年まで女子教育に専念します。1946年に彼女は、「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたとされます。これはガンディーの言葉でもあります。また映画では、ある年老いた乞食が「私は渇いている」と述べたとされています。これは十字架上でのイエスの言葉です。この時彼女は、貧者の中に神を見たわけですが、これはヒンドゥー教的でもあります。
こうしたことから、彼女は修道院の外へ出て、貧者への奉仕活動をしたいと思うようになりますが、尼僧は修道院の外で活動することは許されません。まして当時はインド独立前夜であり、イスラーム教とヒンドゥー教徒との対立が激化しており、カルカッタのスラム街は尼僧が一人で歩けるような場所ではありませんでした。しかし彼女は思い込んだら決して諦めない質のようで、ローマ教皇に手紙を書き、1948年についにローマ教皇から許可を得ました。38歳の時です。こうして彼女は、たたった一人でスラムでの生活を始めます。そしてこの年、ガンディーが暗殺されました。
1950年にローマ教皇から新たな修道院を設立する許可が与えられ、「神の愛の宣教者会」が設立されます。その目的は、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでした。こうしてシスター・テレサはマザー・テレサとなります。次第に彼女の活動を援助する人々が増え、やがては海外でも活動するようになります。その結果彼女の活動は世界中で知られるようになり、1977年にノーベル平和賞を受賞しました。そして1997年に87歳で逝去しました。その時、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていました。
 前に述べた「黒水仙」の尼僧たちは、圧倒的な自然と文明の重みの中で挫折し、「尼僧物語」のシスター・ルークは、従順の掟と自らの意志との葛藤から、修道院を去って行きました。それに対して、マザー・テレサは自らの意志を神の意志と信じて貫き通し、自らの修道院を造りさえしました。どれが一番正しいかということではありませんが、マザー・テレサの場合、優れてヒンドゥー教的であり、またガンディー的だったように思われます。


 なお映画では、かつてジュリエットを演じたオリヴィア・ハッセイが、マザー・テレサを演じていました。彼女も当時すでに50歳を超えていましたが、とてもチャーミングなマザー・テレサでした。