2015年1月17日土曜日

映画でアメリカを観る(1)

1492 コロンブス

1992年、コロンブスの大西洋横断500周年を記念して、スペインで制作されました。1492年は、アメリカ大陸というヨーロッパ人にとっての未知の世界を手に入れたという意味で運命の年であり、同時にヨーロッパ人の侵略を受けた先住人にとっても運命の年でした。もちろん、コロンブスの大西洋横断は、アメリカ合衆国の建国とは直接関係がありませんが、しかしコロンブスがいなければ、合衆国の建国もありえないことです。なお、コロンブスの航海の背景については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第16章 「交易の時代」()(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/16.html)を参照して下さい。

かつてはコロンブスの業績については、「新大陸発見」という表現が用いられました。しかしアメリカ大陸は「新大陸」ではなく、はるか昔から存在しており、そこには「発見」されるはるか前から先住民が住んでおり、彼らは高度な国家や文明をもっていました。先住民は、我々がヨーロッパ人を「発見」したのだと言っています。したがって「新大陸発見」という言葉は、あまりにもヨーロッパ中心的な発想ということになります。これに対して「大西洋横断」という言葉が使われましたが、すでに10世紀にはヴァイキングがアメリカ北東部に植民していた証拠があります。したがって、「初めて」という意味ではコロンブスの「大西洋横断」は使用できません。こうしてコロンブスの権利はしだいに剥奪され、近年では「大西洋航路の開拓」という言葉も用いられますが、「初めて」という意味をもたせなければ、彼が「大西洋横断」したことは事実ですから、ここではこの言葉を用います。
映画では、コロンブスが西回り航路の航海のため、教会や王室などの説得に奔走します。当時地球が球体であることは常識となりつつありましたので、西へ行けばアジアに到達することは明白でしたが、問題はその距離です。コロンブスが主張した距離は、古典的な学説の4分の1程度で、6週間でアジアに到達できるというものです。当時すでにポルトガルのバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に到達しており、インドへの到達は目前に迫っていました。しかしこの航路の場合、インドまで1年近くかかります。もしコロンブスの主張が正しければ、大変魅力的な提案ということになります。


映画では、最初にコロンブスが自己の主張を説明して回りますが、しかしコロンブスの主張は、完全に間違っていました。今日から見れば、ヨーロッパから大西洋を越えてアジアに至る距離は、途方もない距離で、当時の帆船で渡れる距離ではありません。しかし幸運にも、その間に未知の大陸であるアメリカ大陸が存在していた分けです。彼の主張では6週間でアジアに到達できるはずでしたが、実際にはその倍以上かかり、しかも到達したのはアジアではなく未知の大陸でした。アジアに到達するには、さらに広大な太平洋を越えなければなりませんでした。コロンブスは、古典的学説に固執する頑迷な学者たちを激しく非難しましたが、結果的には古典的学説の方が正しかったわけです。コロンブスは、「万人の同意が人類の進歩を促したことはない。人より先に目覚めた者は、それがために苦難の道を歩む」と書き残しているそうですが、今日から見れば少し陳腐な感じがします。
 しかし、彼が結果的とはいえアメリカ大陸に到達したことの意義は、計り知れないほど大きなものです。まづ第一に、先住民にとっては破滅的な意味をもちました。コロンブスがサン・サルヴァドル島に到達した1012日は、アメリカ合衆国の記念祝日である「コロンブス・デー」ですが、それはインディアンにとっては「白人による侵略開始の日」に他ならなりません。1992年の「コロンブス500年祭」に、「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。コロンブスの前では、アドルフ・ヒトラーはまるでただの不良少年だ」とまで言われました。
 とはいえ、彼の航海がアメリカ大陸をユーラシア大陸やアフリカ大陸を結びつけ、世界の一体化を促す決定的な一歩であったことは、間違いありません。その過程は悲惨極まりないものであり、その後遺症は今日も深くアメリカ大陸やアフリカ大陸に刻まれていますが、コロンブスのほとんど蛮勇ともいえる冒険により、善きにつけ悪しきにつけ、グローバリゼーションは決定的に第一歩を踏み出すことになりました。

コロンブスは、スペインのパロマ港を出港し、まずカナリア諸島を経由して、バハマ諸
島のサン・サルヴァドル島に到達します。大西洋は極端に島の少ない海で、途中立ち寄れる場所がまったくありませんでした。その後コロンブスは、イスパニョーラ島(ドミニカ島)に拠点を置き、1493年に一旦帰国し、同年に第2回の遠征を行いす。第1回は3隻の船に100人程度でしたが、第2回は17隻の船に1500人を伴って出発します。第1回の遠征では、期待した黄金が手に入らなかったため、第2回の遠征では黄金探しに狂奔します。コロンブスは、先住民すべてに金をもってくるように強要し、金が少ない者に対しては手首を切り落とさせます。これに対して先住民は激しく反抗しますが、コロンブスは徹底的な虐殺と弾圧を行い、多くの先住民が虐殺と飢えとヨーロッパ人がもたらした疫病により死んでいきました。
 映画でもこうした場面が描かれていますが、あくまでもコロンブスの知らない所で、部下が勝手にやったことになっており、少しコロンブスを美化しすぎているように思います。また、ヨーロッパ人は、先住民の言語を決して覚えようとはせず、先住民の何人かに自分たちの言葉を覚えさせ、通訳としました。つまり初めから先住民と溶け込んで、ともに暮らすつもりはまったくなく、ただ征服を目指していただけでした。次に見る「ニュー・ワールド」でも、白人はポカホンタスに英語を学ばせ、通訳としました。日本や中国に来たヨーロッパ人たちは、決してそのようなことはなく、日本や中国の言語や習慣に適応しようとしました。この違いは、どこから生まれるのかよく分かりません。
映画では、最後にコロンブスが「新世界」を築くことを夢見ていたことになっていますが、すでにアメリゴ・ヴェスプッチが大陸であることを確認していたにも関わらず、コロンブスは最後までそれがアジアだと信じ続けていましたので、コロンブスに「新世界」の形成などという夢があったとは思えません。

過去にコロンブスについての本を何冊か読みましたが、彼についてよくかいている本はあまりなかったように思います。もちろんそこには、コロンブスに対する過去の過剰な賞賛を修正する意図があったと思いますが、この映画ではコロンブスを美化しすぎているように思われました。500周年の記念映画なので、当然のことではありますが。

ニュー・ワールド

2005年のイギリス・アメリカの合作映画で、アメリカ合衆国の建国神話のようなものです。

アメリカ大陸全体は、理屈の上ではブラジル以外はスペインの植民地ということになりますが、スペインも北米までは手が回らず、その隙を突いてフランス・イギリス・オランダなどが進出しようとしていました。例えば、カナダはフランスの植民地となるし、ニューヨークはオランダの植民地となります。そしてイギリスは、オランダと同様に北米の東海岸に進出していきます。その出発点となったのが、この映画の舞台となったバージニア州でした。










 すでに16世紀末にイギリス人は北米中部の東海岸に植民を試みましたが、失敗に終わります。彼らが植民を試みた地域は、当時のエリザベス女王が未婚だったことに因んでバージニアと名付けられました。1607年に104名の植民者がジェームズ川より50キロ程遡った所に植民地を築きました。この土地は、当時の国王の名に因んでジェームズ・タウンと名付けられました。これが北米におけるイギリスの最初の植民地です。すでに、コロンブスが大西洋を横断してから、115年経っています。そして、この植民地の指導者がジョン・スミスという人物で、彼は相当なしたたか者でした。彼は16歳で家出し、一時はフランスの傭兵としてスペインと戦い、さらにハンガリーの傭兵としてオスマン帝国と戦うという、いわば戦争屋でした。その後各地を転々としたのち、なぜか北米の植民地開拓の指導者として登場します。この時スミスは27歳でしたから、そうとうしたたかな人生を歩んできたと言えます。
 イギリス人が入植した当時のバージニアには、ポウハタン族を中心に30部族、約8千人の先住民が住んでいたとされます。ポウハタンの意味はよく分かりませんが、ニューヨークにあるマンハッタンのハタンと共通の意味があるようです。いずれにせよ、当初先住民はイギリス人に友好を示し、食糧などを援助しましたが、それでも食糧不足とマラリアのため半年後に入植者は38人にまで減ってしまいました。そのためスミスは、船で先住民の村を襲い、食糧を掠奪してまわります。こうして、イギリス人と先住民との長い戦いが始まりますが、その過程でスミスは負傷して1609年にイギリスに帰ります。結局スミスは、先住民を襲い、土地を掠奪して入植地を拡大するという、その後のアメリカの「発展」のモデルを創り出したわけです。
 映画では、スミスが先住民に捕らえられ処刑されそうになった時、酋長の娘ポカホンタスが命乞いをし、やがて二人は愛し合うようになります。ただし、この話は15年も後にスミスが著書に書いたことで、事実としてはありえません。当時ポカホンタスは10歳そこそこでした。その後も戦いは続き、1612年にイギリス人はポカホンタスを拉致して人質とし、先住民に食糧を要求します。そしてイギリス人はポカホンタスに英語を学ばせ、キリスト教の洗礼をうけさせ、さらに1614年にタバコ栽培で成功したジョン・ロルフと結婚させられ、子供を産みます。映画では、こうしたことをポカホンタスが自主的に行ったことになっています。

 1616年に彼女は夫ともにイギリスに連れて行かれ、国王に謁見させられます。彼女の訪問は、「インディアンの王女様」「イギリスと先住民の架け橋」「イギリス人を助けた良いインディアン」などとして、センセーションを巻き起こします。しかしこれは仕掛けられたセレモニーでした。バージニア植民地の経営が芳しくなく、入植者も少なかったため、このセレモニーで入植者の増加を図ったのです。その思惑は成功しましたが、ポカホンタスは帰国直前の1617年に病気で死去します。23歳でした。

その後ポカホンタスの物語は、アメリカの建国神話となり、さまざまな話が創作され、ロマンチックな物語へと変貌していきます。彼女の肖像画が沢山描かれましたが、上の絵が彼女がイギリスに来た時に制作された銅版画で、下の絵は19世紀に描かれたものです。下の絵は、肌も白く、髪の毛も茶色で、どう見ても白人です。この絵の変遷が、ポカホンタスに対する白人の気持ちをよく表しているとおもいます。野蛮で残虐なインディアンの中で、彼女は「よいインディアン」であり、「白人文明の理解者」ということになり、インディアンを殺戮し、彼らの土地を掠奪した白人たちの行為を覆い隠す神話となっていったのです。要するに事実なのは、ロルフと結婚し、子を産み、国王に謁見したということだけです。










  実は、ポカホンタスの子はロルフの子ではなく、彼の上司の子だったようです。その辺の事情について具体的なことは分かりませんが、いずれにしてもロルフはポカホンタスの死後幼児を残してバージニアに帰ってしまいます。そしてタバコ・プランテーションの経営に成功し、後の奴隷制プランテーションのモデルを生み出します。一方、ポカホンタスの子孫は、アメリカの建国にまで遡る随一の名家となり、この血筋に繋がることは名誉なこととなりました。ブッシュ前大統領も、この血筋を引いているとのことです。
 その後バージニアは、黒人奴隷によるタバコ・プランテーションで繁栄し、独立戦争では中心的な役割を果たします。そしてワシントンやジェファソンなど合衆国建国当初の多くの偉人たちが、このバージニアから排出されることになります。

 このブログの「グローバル・ヒストリー 第20章 イギリスの形成」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/20.html)で、この映画に触れており、そこで私は「この物語は実話である」と述べていますが、半分間違っていました。あの文章を書いた段階で、私はこの映画が実話に基づいていると思っていました。事実を知ってしまうと、幾分腹立たしい映画ではありますが、建国神話として観れば、それなりに美しい映画ではありました。


緋文字

1972年に制作された西ドイツ・スペイン合作で、映画で話されている言葉はドイツ語です。
 17世紀前半のイギリスでは、国教会は腐敗していたため、宗教を浄化しようとする清教徒=ピューリタンの運動が高まりますが、彼らは厳しい弾圧を受けていました。そして、ピューリタンの中でも最も過激な人々、つまり聖書に書かれていること以外は何も信じない人々は、アメリカに聖書に基づく楽園を建設することを夢見、イギリスからアメリカに渡ります。彼らが植民した場所は、彼らが出発したイギリスの港プリマスに因んで、ニュープリマスと名付けられます。彼らはピルグリム・ファーザーズ=巡礼始祖と呼ばれる人々で、バージニアとは別の意味でアメリカの建国神話となった人々です。







 この地域は、前に述べたジョン・スミスが、バージニアを去った後に探検した場所であり、彼はこの地域全体をニューイングランドと名付けていました。バージニアに入植した人々は一獲千金を夢見る人々で、地道に農業を行うことを嫌い、金を捜したり、プランテーションの経営を行いましたが、ニューイングランドに移住した人々は、地上に神の国を再現することを夢見た人々でしたので、禁欲的で勤勉でした。この地域に住んでいたインディアンも友好的で、作物の作り方を教えてくれました。しかし、ここでも白人の人口が増えてくると、インディアンとの対立が激化していきます。
 この映画は、19世紀のアメリカの作家ホーソーンの「緋文字」を映画化したものです。場所はボストンに近いセイラムで、時代は17世紀後半です。セイラムは現在のダンバースで、現在でも人口25千人程度の町ですから、当時は人口数百人程度の町だったと思われます。この町に、胸に「A」という緋文字(スカーレットレター)をつけた女性がいました。「A」とは姦通(adultery)を意味します。彼女の名はヘスター・プリンで、7年前に姦通により女の子を生んだため、胸にこの文字をつけてさらし者にされているのです。ところが彼女に卑屈さはなく、また父親の名前を決して言おうとしません。
 実は父親はこの町の牧師であり、彼女に緋文字をつけた本人でした。彼は良心の呵責に苦しめられ、何度も町の人々に事実を打ち明けて贖罪しようとするのですが、どうしてもできません。プリンは彼に町を出ようと説得し、いよいよ町を出ることになったのですが、当日彼は町の人々の前で自白し、そのまま倒れてしまい、結局彼女は娘と二人で町を去ります。
 私は、原作を読んでいないので、この映画が何を言おうとしているのか、よく分かりませんでした。それにアメリカ人原作の本を、まだ分裂時代のドイツとフランコ独裁政権下のスペインが制作するというのも、奇妙な組み合わせに思われます。そのせいか、内容に統一性がないように思われ、映画としては駄作の部類に入るのではないでしょうか。「緋文字」については、1995年アメリカ制作でデミ・ムーア主演の映画があり、こちらの方を見たかったとおもいます。
この映画の舞台となった時代は、最初の移民が来てからまだ450年しか経っておらず、移民の第一世代の人々がまだ生きていると思われ、信仰に満ちた理想の世界を作ろうと、ひたすら努力していた時代でした。それは聖書にのみ生きる基準を求めるというもので、当時に人々の心を抑圧するものでした。この映画は、当時のそうしたニューイングランドを描いたものと思われます。

 こうした抑圧された社会において、17世紀の末に、このセイラムで重大事件が起きます。それはセイラム魔女裁判事件と呼ばれるものです。町の何人かの娘たちが、突然狂乱状態となり、町に魔女がいることを告発し、これをきっかけに次々と魔女として訴えられた人々が逮捕・拷問されました。その結果、200名近い人々が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に死亡、5名が獄死するという異常事態となります。しかしまもなく娘たちの証言を疑問視する人々が現れ、事態を知った州知事が裁判の停止を命令し、収監者を釈放して事件は収束しました。1996年のアメリカ映画「グルーシブル(るつぼ)」は、これをテーマとした映画で、私はこれをテレビで放映されたものを観ました。
こうした事件が起きた背景は、ピューリタン社会独特の抑圧による集団ヒステリーがきっかけではないかと思われますが、この映画もこの様な事件が起こりうるような当時の社会を描き出しています。実はホーソーンも、このセイラムの出身で、彼の祖先はこの裁判に関わった人物だったそうです。彼は本書を通じて、聖書の言葉の形式的な実行に対する批判、罪悪とは何か、神の赦しはあるのか、そういったことを問いかけているのだと思います。
 
 南部のバージニアと北部のニューイングランドとでは、あまりに大きな違いがあります。しかしやがて、成り立も性格も経済も全く異なるこれらの地域が、アメリカ合衆国として一つの国を造っていくことになります。

パトリオット
2000年制作のアメリカ映画で、アメリカ独立戦争を背景とするドラマです。アメリカ独立戦争に関する映画は以外にも少なく、日本で公開されているのは、この映画だけではないかと思います。

















舞台となったのは、サウスカロライナで、時代は独立戦争が始まった1776年です。サウスカロライナの植民がはじまったのは17世紀後半で、ここにはスペインも進出してきていたため、正式に植民地となったのは18世紀に入ってからです。「カロライナ」というのは、当時の国王チャールズ2世のラテン名「カルロス」からきているそうです。サウスカロライナでは、早くから奴隷を用いた農場経営が行われ、独立戦争勃発時には黒人奴隷の人口が白人人口を上回っていました。したがって独立戦争では、低地で大規模な農場経営を行っている人々は独立に反対で、イギリス軍に加わったのに対し、奥地で小規模の農場経営を行う人々は独立に賛成で、彼らはパトリオット(愛国者)と呼ばれ、この映画の主人公マーティンもこうした人々の一人でした。
アメリカの独立戦争の背景については、このブログのくー「グローバル・ヒストリー 第21章 大西洋三角貿易(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/21.html) 」「グローバル・ヒストリー 第22章 イギリス-覇権国家への道(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/22.html)」を参照して下さい。独立戦争はマサチュセッツ州のボストン近郊で始まり、翌年には独立宣言が発布されます。当時、北米の東海岸には13のイギリス植民地があり、植民地によってそれぞれ対応の仕方が異なります。サウスカロライナでは、低地の富裕層がイギリスに味方し、植民者と争っていたインディアンや解放も求める黒人奴隷もイギリス側に立ちました。それに対して、奥地の農民たちは独立を求めて戦いますが、敗北を重ねていました。そうした中で、マーティンが登場します。
マーティンは、フランスとの戦いで英雄になった人物で、植民地の独立を支持していましたが、同時に二度と戦わないという決意をしていました。しかし長男が父の意志に反して独立軍に入り、さらにイギリス軍が農園にも侵入し、次男が殺され、家も焼かれます。こうした中で、マーティンは戦うことを決意し、民兵を集めてイギリス軍に対してゲリラ戦を展開します。しかし、戦争の過程で長男が死に、長男の妻とその家族も殺されます。これに対してマーティンは、イギリスの正規軍に対して阿修羅のごとく戦って勝利し、アメリカ合衆国が成立することになります。
この映画は、全体に偽善的で、歴史的にはあまり学ぶべきものがありませんでした。そもそもこの映画は、日本人が出資し、ドイツ人が監督を務め、オーストラリア人(メル・ギブソン)が主役という、奇妙な組み合わせで生まれた映画でした。そして、イギリス軍が悪、植民地軍が善という、勧善懲悪がはっきりした映画で、最後にアメリカの独立と自由の獲得という栄光で終わります。しかし、インディアンを殺戮して土地を奪い、黒人を奴隷として働かせておきながら、「独立と自由」などということが言えるのでしょうか。しかも、インディアンの殺戮と黒人奴隷制は、その後も一層盛んに行われます。
また、イギリス人が民間人を殺害し、家を焼き、民間人を教会に閉じ込めて焼き殺すといった場面も描かれ、マーティンは激しい怒りを感じますが、これはかつてアメリカがベトナムで行ったことと同じではないでしょうか。さらに奴隷制度に関しては、戦争中にワシントン司令官が、独立軍で戦った奴隷を解放すると宣言します。そして戦後、若干奴隷解放への動きが見られますが、結局アメリカでは、19世紀に史上最悪の奴隷制度が行われることになります。こうしたことを考えると、この映画は素直に観ることができない映画でした。
ただ、この映画は、アクション映画として観るならば、それなりに面白い映画ではあります。ネル・ギブソンは、これより前にスコットランド独立の英雄を描いた「ブレイブ・ハート」という映画に出演しており、これは見応えのある映画でした。「パトリオット」も、「ブレイブ・ハート」とよく似たタイプの映画でした。それにしても、独立戦争に関する映画が、こんなに少ないのは何故なのでしょうか。


2015年1月10日土曜日

亡命の文化―メキシコに避難場所を求めた人々

田辺厚子著 1986年 サイマル出版会
 著者は、若いころに単身メキシコに渡り、本書の執筆当時はメキシコ国立自治大学の助教授でした。彼女は以前に「住んでみたメキシコ」で、メキシコを批判的に描きましたが、本書ではメキシコの素晴らしさを描いています。
 1937年にトロツキーがメキシコに亡命してきたことはよく知られていますが、彼は危険人物として世界中から追放され、最後にメキシコにたどり着いたわけです。ではなぜメキシコだったのか。また、これほどの危険人物をなぜメキシコが受け入れたのか。本書は、こうした問題をさまざまな角度から描いています。
 1917年にメキシコ憲法が成立し、1930年代にカルデナスが大統領になるまでの間については、私はただ政治的混乱ということしか知りませんでした。しかしこの間にメキシコで文化的な革命が起きていたのです。きっかけは、1921年にディエゴ・リベラがヨーロッパから帰国し、革命後の荒廃した祖国を壁画で飾ろうということでした。至る所に壁画を描き、それには子供たちや村人たちも無償で手伝い、それは一大文化運動に発展していったのです。インディオやスペイン人やメスティーソが混在するメキシコで、長い動乱の後に、突如民衆文化が開花したわけです。この頃、ニューヨークで修行していた北川民治が、メキシコを訪問し、壁画に魅せられ、野外美術学校で子供たちに絵を教え始め、彼の教えを受けた子供たちの中から、後に多くのプロの画家が成長します。
 このように世界各地から、メキシコに人々が集まるようになり、メキシコはそれらの人々を受け入れました。30年代にはドイツで迫害された左翼やユダヤ人が、またスペイン内戦で敗れた人々がメキシコに亡命してきます。彼らは世界中を放浪した後に、最後にメキシコに安住したのです。日本で治安維持法で弾圧された佐野碩も、世界中を転々としたのちにメキシコに移住し、やがて「メキシコ演劇の父」とまで言われるようになります。トロツキーが、厄介者として世界各地から追われ、最終的にメキシコにたどり着いたのは、こうしたメキシコの風潮があったからです。

 著者はメキシコについて、「メキシコという国は、心を病む者にとっては、ほっと気持ちをなごませてくれる場所であると同時に、凶暴でおどろおどろしい幻想を抱かせる、強烈な刺激に満ちた国である」と述べています。

2015年1月7日水曜日

「収奪された大地 ラテンアメリカの500年」を読む

エドゥアルド・ガレアーノの著作で、原題は「ラテンアメリカの切り開かれた血脈」ですが、翻訳版では「収奪された大地」となっています。本書は1871年に出版され、翻訳本は1980年版です。訳者は大久保光夫、1991年、藤原書店出版です。
 著者はウルグアイ出身のジャーナリストで、1973年にウルグアイで軍事政権が成立すると、アルゼンチンに亡命し、1976年にアルゼンチンで軍事政権が成立すると、彼は「暗殺者候補リスト」に載ったため、スペインに亡命します。この本も中南米各地で発禁となりますが、1985年にウルグアイで民政移管となると帰国し、その後ウルグアイで活動を続けています。それ以来、この本はラテンアメリカの学生、青年の必読書となっており、ベネズエラのチャベス大統領は2009年の第五回米州サミットの中で、アメリカのオバマ大統領にこの本を寄贈しそうです。
 本書は、フランクの従属論(このブログの「第3章 グローバル・ヒストリーとは何か」を参照して下さいhttp://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/3.html)の影響を受け、コロンブスが大西洋を横断してから1970年頃までの500年近くに及ぶラテンアメリカの歴史を、ルポルタージュ風に描いています。「国際分業は一部の国々が利益をあげることに特化し、他の国が損害をこうむるように特化することで成り立っている。今日われわれがラテンアメリカと呼んでいる地域は、いわば早熟であった。この地域はルネサンス時代のヨーロッパ人が海洋を横断して押し寄せ、インディオ文明の喉元に噛みついたはるかな時代から、失うことに特化してしまったのである。」と述べます。著者は、常に支配され収奪される者の立場で書き、著者の怒りがわれわれに伝わってきます。その怒りは、ゲバラの怒りと同じもののように思われます。
 本書は2部構成となっています。第一部は、「大地の富の結果としての貧困」で、最初は金・銀、次に砂糖など農産物、そして最後にアメリカによる地下資源の収奪です。「肺が空気を必要とするように、アメリカ経済はラテンアメリカの鉱物を必要とする」と述べます。そして、これら豊かな資源の結果、ラテンアメリカはますます貧困になっていきます。第二部は、「開発とは航海者を上回る数の難破者を従える船旅である」で、現代の略奪の構造について述べます。これらを通じて、500年にわたって収奪され続けたラテンアメリカの悲劇を描き出しています。ヨーロッパの繁栄も、アメリカの繁栄も、ラテンアメリカからの収奪なしには考えられません。
 もちろん、本書は今から50年近く前に書かれたものであり、個々の点では異論もあるでしょうし、ラテンアメリカ諸国の中には、ある程度民主化が進んでいる国もありますが、本書で述べられていることは、全体としては今日にも適用することができるのではないでしょうか。何よりも、500年にもわたって他の地域から収奪され続けた地域は他にはなく、その結果生じた社会の歪みは、それ程簡単には修正できないのではないでしょうか。


2015年1月1日木曜日

映画で仏教を観る

はじめに 

私には仏教の教えについて語る資格はありません。今までに、仏教やヒンドゥー教に関する多くの本を読みましたが、結局よく分かりませんでした。ただ、その中でも多少印象に残っているのは、ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」(1922年、岡田朝雄訳)と手塚治虫の「ブッダ」です。
 「シッダールタ」は、釈迦のシッダールタという名前を借りて、求道者が悟りの境地に至るまでの苦行や経験を描いています。シッダールタは、人生の様々な遍歴を経た後に、一本の河にたどり着きます。そこに一人の年老いた渡し守がおり、シッダールタはこの渡し守に聖者を見出し、彼とともに川を見つめながら暮らすようになります。
「彼は見た、この水は流れ流れ、たえまなく流れている、しかもいつもそこにある、そしていつも、終始同じものであり、しかもどの瞬間にも新しい!」「目標に向かって河はひたすら流れ、シッダールタはそれがあわただしく流れていくのを見た、自分と自分の肉親、そして彼がかつて会ったすべての人たちから成り立っているその河が流れていくのを。すべての波と水が、苦しみながら、目標に向かって、たくさんの目標に向かって急いで流れていった、滝に、湖に、急流に、海に向かって。そしてすべての目標に着いた、それからどの目標の後にも新しい目標が続いて現れた。そして水は蒸気となり、天に昇り、雨となって空から落ち、泉になり、小川になり、大河になって新たな目標を目指し、新たに流れていった。まだその声は苦悩に満ちて、目標を求める響きをもっていたが、ほかの声がそれに加わった。歓喜の声と苦悩の声、善良な声と邪悪な声、笑っている声と悲しんでいる声、何百もの声、何千もの声が重なった。」こうした経験を経て、シッダールタは悟りに到達していくことになります。この悟りを一言で言えば、「無常」ということになるのでしょうか。
手塚治虫の「ブッダ」は、アニメなので当然分かりやすく書かれていると同時に、何よりも漢字が少ないことが仏教を分かりやすくしています。日本の仏教は、中国から漢籍を通して入ってきましたので、固有名詞なども漢字で書かれており、このことが仏教を非常に分かりにくいものにしているように思います。例えば、釈迦とはインドの言葉で、ブッダの出身族シャカ(シャーキャ)族を漢字に当てはめたものであり、仏陀もインドの言葉で「悟りを開いた者」という意味のブッダを漢字で表記したものです。また釈迦牟尼とは、「釈迦族の聖者」という意味です。また南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏といいますが、「南無」とは「ナマス」を音訳したもので、「帰依する」という意味で、キリスト教でいえば「アーメン」といったところです。また、「イスラーム」というのも、同様な意味です。
なお、「インドの言葉」と言いましたが、仏典にはサンスクリット語系とパーリ語系があり、ここではサンスクリット語系の発音に従います。

釈迦

1961年の映画で、釈迦の誕生から入滅までを描いています。釈迦の生涯といっても、2500年も前のことですから、史実と伝承が入り混じっており、この映画では、事実とは思えない伝承が多く含まれています。
















釈迦に関わる重要な遺跡














ルンビニ ブッダが産湯を使ったとさ れる池 (ウイキペディア)















 まず、ブッダはいつどこで生まれたのか。生誕時期については諸説あり、最も古いものは紀元前7世紀、最も新しいものは紀元前5世紀で、150年ほどの差があります。生まれた場所はネパールとインドの国境付近にあるルンビニで、シャカ族の王子として生まれました。名はガウタマシッダールタです。釈迦は生まれるとすぐに立ち上がり、「天上天下唯我独尊(全世界で私が一番尊い)」と言ったとされ、映画でもこの場面が出てきますが、もちろん伝承にすぎません。
シッダールタは、16歳前後に、母方の従妹とされるヤショーダラーと結婚します。この結婚に関して一つのエピソードがあり、それは映画でも描かれています。ヤショーダラーの婿選びに際して、候補者が競技で争うことになり、シッダールタが勝って彼女を妻とします。この時シッダールタが戦った相手が従兄のデーヴァダッタ(提婆達多―ダイバダッタ)で、彼は後にブッダの弟子となって出家しますが、やがてブッダに逆らって無間地獄に落ちたとされます。映画ではデーヴァダッタはシッダールタの生涯の敵として描かれ、二人の対立が映画の主要なテーマとなっています。
 その後シッダールタは物思いに耽ることが多くなり、29歳の時に出家します。彼は多くの仙人や苦行者に教えを求めますが、納得できる答えを得られず、自ら苦行することになります。苦行とは、身体を痛めつける事によって自らの精神を高めようとするもので、当時インドでは悟りを開くための道として広く行われていました。こうした苦行は、キリスト教やイスラーム教でも行われ、脳科学によれば一定以上の苦痛を受けるとエンドルフィンという物質が作用して幸福感をもたらすそうですが、ここではそうした生物学的な説明は止めておきましょう。
 シッダールタの苦行中、煩悩の化身であるマーラ(魔羅)が、シッダールタが悟りを開くのを阻止するため、さまざまな妨害を行いますが、シッダールタはこれを退けます。なお、シッダールタがマーラを降伏させたことを降魔(ごうま)と呼び、悪魔祓いという意味で用いられることがあります。また、インドで古くから信仰されていたインドラ神が、マーラと戦うシッダールタを助けます。そのためインドラ神は仏教の守護神となり、中国や日本では帝釈天(たいしゃくてん)と呼ばれます。映画「男はつらいよ」の前振りに「帝釈天の産湯につかり……」というのがありますが、これは葛飾区柴又の帝釈天のことです。

ブッダガヤの大菩提寺 (ウイキペディア)




















シッダールタは6年にわたり生死の境をさまよう程の激しい苦行を続けましたが、苦行では悟りを得ることが出来ないと考え、修行を中断して沐浴をします。立っているのがやっとだったシッダールタに、近隣の娘スジャータが乳かゆを飲ませ、心身ともに回復したシッダールタは、ガヤー村の大きなピッパラ (後に菩提樹と呼ばれるようになる)の下に座し、悟りを開いたとのことです。35歳の時だったそうです。後にこの村は、ガヤーにブッダの名をつけて、ブッダガヤと呼ばれるようになります。なお、今日スジャータ村という地名が残っており、またコーヒー・フレッシュの「スジャータ」は彼女の名に因んだものです(「褐色の恋人スジャータ」)

サ-ルナート 鹿が多くいたことから鹿野苑とも称される(ウイキペディア)



















 悟りを開いた後、ブッダはサールナート(鹿野苑―ろくやおん)で説教をはじめ、ガンジス川中流域を中心に伝道活動を行います。その活動は45年に及ぶため、イエスやムハンマドと比べて格段に長期間に及びます。映画では、鬼子母神や盲目の王子などのエピソード、デーヴァダッタとの対立などが描かれます。これらは古くらインドで語られた物語が仏教に取り入れられたものと思われます。そして、最後の伝道の旅の途中で、クシナガラで入滅します。80歳でした。ブッダの入滅を「涅槃(ねはん)に入る」といいますが、涅槃とはニルヴァーナの音訳で、煩悩の火を吹き消した状態を意味するのだそうです。
 ブッダの死後遺体は火葬されましたが、ブッダに帰依していた八大国の王たちが、遺骨の仏舎利を得ようとして争ったため、結局舎利は八分されて、それぞれが持ち帰りました。また、ブッダは自分の教えを文字として書き残さなかったため、ブッダの教えの散逸や異説が生じることを防ぐため、500人の高位の弟子たちが集まって結集をおこないます。結集とは、本来「ともに歌うこと」を意味するそうで、弟子たちが釈迦の言葉を朗誦することを意味します。つまり、弟子たちは自分たちの記憶に従ってブッダの言葉を思い出し、確認し合って記録した分けです。その際に非常に重要な役割をはたしたのが、アーナンダ(阿難陀)という人物です。
 アーナンダは、この映画では目立たない存在でしたが、ブッダの入滅までの25年間、常にブッダの側にあって身の回りの世話をしてきた人物です。彼はデーヴァダッタの弟といわれ、デーヴァダッタとともにブッダの弟子となったとされます。兄がブッダに逆らったのに対し、アーナンダはブッダの教えをよく守って修行しました。ただ彼はかなりハンサムだったようで、女難が多く、またなかなか心を制御できなかったようで、ブッダの入滅の時になっても、いまだに悟りを開くことができず、ブッダの入滅前後には泣きじゃくって手が付けられなかったそうです。とはいえ、彼はブッダの最も近い所で25年間も仕え、ブッダの言葉を最も多く聴き、暗記していたとされます。そのため結集に際しては、アーナンダの果たした役割が非常に大きく、漢訳経典の冒頭にある「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味ですが、この「我」とは多くがアーナンダであるとされます。

 ブッダの入滅後、仏教は大いに栄え、在来のバラモン教を凌ぐほどでしたが、千年後には相当廃れており、逆にこの頃から東南アジアや中国・日本で仏教が栄えるようになります。仏教が廃れたというより、ヒンドゥー教に吸収され、ブッダはヒンドゥー教の神の一人となってしまいます。そのため仏教遺跡も荒廃し、戦後タイやスリランカや日本などの仏教国の協力で遺跡が再建されました。仏教遺跡の中でも日本では祇園精舎が有名ですが、これはブッタや弟子たちの安息所として建設されたものです。これを建設したのは、コーサラ国のジェータ太子(祇陀太子)と、「身寄りのない者に施しをする」富裕な商人(給孤独者)を合わせて、漢語で「祇樹給孤独園精舎」と呼ばれ、それが「祇園精舎」となりました。「平家物語」に「祇園精舎の鐘の聲……」とありますが、発掘の結果、祇園精舎には鐘楼がなかったことが判明したため、2004年に日本のある団体が鐘楼を寄贈したそうです。

 この映画は、総じてつまらない映画でした。巨額の資金をかけ、興業的には成功しましたが、内容的には得るものが何もない映画でした。


空海

1984年制作の映画で、空海死去1250年を記念して制作されました。ただし、真言宗の肝いりで制作された映画ですので、空海がかなり偶像化されていることを考慮に入れて観る必要があります。

 ところで、ブッダは神々の存在を否定しませんでしたが、彼の思想そのものは神々の存在を前提としていませんでした。しかしブッダが死んでから500年程すると、インド土着の神々や如来・菩薩という存在が多数付け加わるようになります。またこれとは別に、言語では表現できない「仏の覚り」自体を伝えるという、極めて神秘主義的な密教が生まれます。このように変容した仏教は、中国や日本に伝わる過程でさらに変容を重ねていきます。
 一方、日本に仏教が伝わったのは6世紀頃とされ、すでに聖徳太子の十七条憲法で、仏教理念に基づく国家形成が試みられました。その後国分寺や東大寺など多くの寺院が建立され、仏教は鎮護国家の役割を担うようになります。また、平城京では多くの仏僧が経典の研究に励んでいましたが、それは学問研究に限られており、民衆に仏教を布教することはほとんどありませんでした。こうした中で、平城京では仏僧の勢力が強大となり、道鏡のように政治に介入することもありました。そこで、桓武天皇は、784年に長岡京に遷都し、さらに794年に平安京に遷都します。平安時代の始まりです。そして空海が登場するのは、この頃です。
 空海は四国の讃岐で生まれ、幼名を佐伯眞魚(さえき まお)といいました。彼は784年、14歳の時に平城京に上京し、勉学に専念します。映画は、ここから始まります。なお、四国八十八カ所というのは、空海に縁のある寺院のことです。同じころ、空海より少し年上の最澄が平城京で学んでおり、やがて二人は奈良仏教に対抗する上で重要な役割をはたすことになります。ところが空海は、793年、19歳の時に突然姿を消します。従来の勉学に飽き足らなかったからだとされますが、いずれにせよ、その後かなり長期間にわたって空海の消息ははっきりしません。この間各地を旅し、激しい修行を行い、しだいに密教に魅かれていったようです。彼は大自然と人間の在り様を追求していたようで、自らに「空」と「海」という壮大な名をつけました。
 密教について、私にはほとんど分かりませんが、その中心はブッダではなく大日如来であり、ここから一切のものが生じるということです。それは具体的な姿をもつものではなく、宇宙の根源というべきものです。そして、悟りを開いた釈迦如来や薬師如来や阿弥陀如来などがおり、さらに悟りに至る途上にある菩薩たちがいます。私の勝手な考えですが、こうした体系は在地の宗教と融合するのに好都合のように思われます。在地の神々を新たな如来や菩薩に加えたり、あるいはそれらの化身として位置づけることができるからです。日本では、日本古来の神々が「権現」「明神」という形で仏の化身とされていきます。
また、真言密教は即身成仏、つまり生きている内に悟りを開くことができる道を示しました。それは真言密教の理論を理解し、一定の作法に従って真言=仏の言葉を唱えることです。こうした宗教の在り方は、従来の国家と寺院のためだけの宗教に対して、民衆にも仏教への道を開くことになりました。
私の密教についての理解はかなり浅く、また間違っているかもしれませんが、これ以上述べると、さらにボロが出る可能性があるため、この辺で止めておきます。
この間に、空海は留学生として唐に渡ります。この時、後に天台宗を創始する最澄も一緒でした。本来留学生は20年間中国に留まることが義務付けられていましたが、彼は2年で密教の奥義を極め、多くの書物や絵画などを携えて帰国します。その中には、密教だけでなく、土木技術や絵画などが含まれており、当時世界最高の文化である唐の文化をまるごと日本にもたらしたと言えます。
帰国後、彼は東寺を与えられて真言宗を開き、さらに訓練場として高野山を与えられます。一方最澄は比叡山を与えられて天台宗を開きます。この二つの宗派が、奈良仏教に対して日本の新しい仏教の在り方を創り出していくことになります。空海は大日如来を本尊とする理論を展開するのに対し、最澄は、釈迦の教えを伝える法華経を基礎に仏教を体系化し、釈迦如来を本尊とします。映画では、最澄は穏やかで秀才肌の学僧として、空海は激しく行動する風雲児として描かれていました。そして、最澄の天台宗は、後にそこから多くの宗派が生まれますが、真言宗は今日に至るまで空海の宗派であり、空海はそれ程強烈な個性を持っていたのだと思います。
映画では、空海が自分の死の日時を予告し、多くの僧侶の読経の中で、予告通りに死んでいきます。それは、あたかもブッダの死のように描かれていました。そして高野山では、今でも空海が生きていると信じる人々がいるということです。


親鸞 白い道

1987年制作で、三国連太郎原作の三国連太郎の拘りの映画です。親鸞の後半生を描いた映画で、「白い道」とは浄土への道という意味ですが、内容的にはかなり分かりにくい映画となっています。
天台宗や真言宗は、仏教を民衆にも開きましたが、実際には貴族に保護された貴族仏教となっていました。一方この時代に、政治・社会の混乱を背景に末法思想が普及します。末法思想とは、人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代=末法が来るというもので、根拠はよく分かりませんが、1052年が末法元年だといわれました。キリスト教にも千年王国思想があり、1000年にはいよいよ最後の審判かと言われましたが、結局何も起きませんでした。いずれにしても、末法の時代が来れば救われようがありません。そこで登場したのが、阿弥陀如来です。
阿弥陀とは、インドの言葉では「アミターユス」 といい、それを「阿弥陀」と音写したもので、無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることを示し、西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ如来だそうです。阿弥陀如来は、衆生救済のために修行し、仏となって現在も極楽浄土で説法をしているのだそうです。そして浄土とは西方のはるか彼方にあり、清浄で清涼な世界であり、人々は煩悩に満ちた世俗の世界を離れて、ここで成仏するために修行をします。そして今や、この阿弥陀如来と浄土が救済の切り札となった分けです。
現実に、政治においては摂関政治から院政へと移行し、地方においては武士が台頭して混乱し、寺院は僧兵が無法を働くといった時代でした。すでに、11世紀に宇治に阿弥陀如来を本尊とする平等院が建立され、12世紀には奥州藤原氏が平泉に阿弥陀堂を建立するなど、西方浄土への期待が高まっていました。しかし、学問的能力を必要とした天台宗にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする真言宗にしても、貧しい民衆には手の届かない存在でした。こうした中で、平安末期に法然の浄土宗が登場します。
法然は比叡山延暦寺で修行し、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説くようになります。この極めて簡便な信仰形態が武士や庶民に受け入れられますが、既存の宗派や国家によって厳しく弾圧されました。そしてこれに親鸞が合流することになります。親鸞は京の名門に生まれたとされ、9歳で出家して20年近く延暦寺で学びましたが、悟りに達することができず、1201年に法然に弟子入りします。
1207年に親鸞は越後に配流となります。そしてこの時彼は、肉食妻帯を実行していました。彼の考えは、すべての人がありのままで救われるのが本当の仏教であり、人は色と欲から生まれた者であり、色と欲を断ち切らねば救済はないとするなら、誰も救われないことになる、ということのようです。そして1214年、42歳の親鸞は妻子を連れて東国への布教に旅立ち、映画はここから始まります。
この間の政治情勢は、激動していました。1185年に平氏が滅び、1185年に源頼朝が征夷大将軍に任官、1204年に源実朝が暗殺、1221年に承久の乱で朝廷が鎌倉幕府に屈服します。人心は乱れ、さらに飢饉や疫病が頻発する中で、親鸞はどん底生活をしながら信仰を追い求めて行きます。映画は、こうした中での親鸞の内面の葛藤を描き出しています。
 親鸞には新しい宗派を立てる意志はなかったようですが、師である法然の教えを実践し深めていく中で、結果的に法然とは異なる道を見出したようです。彼は、念仏を極楽行の道具にしてはならず、大切なのは心で、自分の罪深さを自覚し、ひたすら仏の慈悲にすがらざるを得ない人にこそ、むしろ真実の救済が開かれていると主張します。自力の作善をなしうる「善人」が救済されるのであるならば、生業として殺生などを営まざるをえないような「悪人」が救われないことがあろうか。
これは河原の石ころのような底辺の生活をし、自分の子供も含めて虫けらのように人が死んでいく日常の経験の中から生まれた結論だったように思います。彼は在来の宗教が身に着けるあらゆる既成概念を削ぎ落とし、人が救われる道を探し求めていったように思います。浄土に向かう道の途中に一本の細い「白い道」があり、その道を通るにはあらゆる妨害がありますが、ひたすら信じて進めば浄土に行けるというのが、この映画のテーマなのではないかと思います。
 実はこの映画には、三国連太郎自身も出演しています。それは宝来という密偵で、貴族に金をもらって親鸞などの動向を探っていました。彼は常に覆面と白い化粧をしているため、はじめは三国が演じていることが分かりませんでした。しかし最後に覆面がとられ、額には「犬」という刺青がされていました。彼は穢多(えた)と呼ばれる「穢(けが)れた民」、つまり被差別民だったのです。親鸞は、このような人々こそ救われねばならないこと、人間は罪深い人間のありのままの姿で救済されねばならないことを、確信したのではないでしょうか。
 1262年、親鸞は90歳で没しました。みずからの生涯をかえりみて、罪業深き一生であった、と語ったそうです。そして彼の死から12年後の1274年にモンゴル軍が侵攻してきます。

日蓮

1979年制作の映画で、日蓮宗=法華宗の祖日蓮の生涯を描いたものです。この映画は、1981年の日蓮聖人第七百遠忌記念として制作されたもので、日蓮宗も制作に関わっているため、当然日蓮を偶像視する傾向があることは、考慮しておく必要があります。
日蓮は、1245年に比叡山で学び、その後各地の寺院で遊学し、この間に一切経(大蔵経)を読破したとされます。1254年、33歳の時に鎌倉で辻説法を始めます。この頃鎌倉幕府の政権は執権のもとに確立し、鎌倉でも浄土宗や禅が普及していましたが、同時に地震や飢饉・疫病が相次ぎ、民衆は塗炭の苦しみにありました。
 こうした中で日蓮が説いたのは、法華経への回帰でした。仏典には色々な種類がありますが、中でも法華経は釈迦の教えを伝える最も重要な法典の一つです。法華経とは、「正しい教えである白い蓮の花の経典」の漢訳で、本来「妙法蓮華経」でしたが、やがて「妙」と「蓮」が省略されて「法華経」となりました。法華経の内容については、私には述べる力量がありませんが、すでに聖徳太子が法華経を鎮護国家の理念とし、天台宗を興した最澄は法華経を最も重視したし、同じく天台宗出身の法然や親鸞、後で述べる道元も法華経を学んで成長しました。そしてその法華経を最も重視したのが日蓮です。
当時は天台宗でさえ、密教の経典である大日経を重視する者が多く、また浄土宗にも妥協的になりつつありました。これに対して日蓮は、当時を末法の世であることを自覚した上で、浄土宗や禅宗を批判し、法華経への信仰を訴えました。この意味において彼は復古主義者でしたが、同時に彼は難しい経文を学ぶのではなく、ただ法華経に帰依するという「南無妙法蓮華経」の七文字を唱えればよいという簡便性を打ち出しました。この意味では、彼は浄土宗と同じ手法を用いたわけです。
 日蓮は激しい弾圧を受けましたが、まったくひるむことなく、1260年に幕府に対して「立正安国論」を提出し、浄土宗などの邪宗を廃して法華経を信じなければ、災害や政治的混乱、さらに外国からの侵入によって国は亡びるだろう、と主張します。そして「外国からの侵入」が問題となります。1268年モンゴル帝国から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となり、日蓮の予言が当たったかに思われました。この予言は本当に予言として述べられたのか、それとも末法の世におけるさまざまな禍の一つとして述べられたのでしょうか。映画では日蓮自身が、自分は予言者ではない、来るべきものが来ただけだ、と言っていますので、後者と考えるべきかと思います。
日蓮は、当時の現実の世相、鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異の続発などを前に、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など、日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなしたようです。モンゴル軍の襲来はこれらの禍の一つとみなされたのだと思います。 日蓮にとっては、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一の教えであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまうと思われました。
日蓮の行動は、他の宗派と異なり政治性が強く、かつ極めて闘争的でした。彼は仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張します。政治の主体を天皇としたうえで、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむると考え、宗教上での天皇の権威を一切みとめず、権力におもねることも決してありませんでした。その行動は規制の宗派を打ち破ろうとする闘争的なもので、私の個人的な感想ですが、16世紀にヨーロッパで宗教改革の火ぶたを切って落としたルターのそれに似ているように感じました。今日でも、日蓮宗系の宗派は、政治問題に関わることが多いようです。
日蓮の教えには「旧仏教」的な要素が多くふくまれ、「われ日本の柱とならん」と述べて、法華信仰に依拠しなければ国が滅ぶと鎌倉幕府に迫ったのも、天台宗の鎮護国家の思想を受け継いでいるからだと思われます。こうした日蓮の思想は、しばしば国家主義的と考えられがちで、このブログの「映画でヒトラーを観て」
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014_02_01_archive.htmlで述べた北一輝も日蓮宗の熱烈な信者でした。しかし日蓮の過激な発言は、当時の悲惨な状況を前にして、末法から人々を救わねばならないという切羽詰まった思いから出たものではないかと思います。
日蓮は、信者から与えられた甲斐の身延山に久遠寺を立てて晩年を過ごします。この間にも法華宗は増え続けると同時に、弾圧も続けられていました。1282年に、日蓮は弟子たちに見守られながら、法華経を広めるように言いつつ、逝去しました。61歳でした。

今日日本の総人口は13千万弱であり、その内8千5百万人ほどが仏教徒とされます。私には信仰心がありませんが、それでも葬式は仏式で行っており、85百万の仏教徒の多くは、私のような仏教徒であろうと思います。そして、多くの宗派の内、浄土真宗と日蓮宗が大きな割合を占めています。つまり念仏において、「南無阿弥陀仏」と唱えるか、「南無妙本蓮華教」と唱える人が多いということです。私は、父母の葬式を近所の寺院にお願いしましたが、この寺院は曹洞宗で、次に述べる道元が起こした禅宗の一派です。
いずれにしても、今日の仏教の多くは鎌倉時代に生まれたものであり、鎌倉時代は、日本の宗教史上画期的な時代でした。

禅 ZEN

2009年に制作された映画で、曹洞宗の祖道元の半生を描いたものです。
日本の禅は、鈴木大拙の紹介により世界的に有名となりましたが、もともとブッダ以来僧侶は座禅を組んで修行するのが常でした。したがって禅とは、サンスクリット語の「ディヤーナ」の音訳です。これとは別にインドには古くからヨーガと呼ばれる修行法がありますが、ヨーガとは「馬にくびきをかける」という意味で、馬を御するように心身を制御するという意味だそうです。密教の空海もヨーガを行法として取り入れており、禅宗も何らかの影響を受けていると思われます。
坐禅を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教えは、すでに56世紀の達磨(だるま)に始まるとされ、唐代には、後に日本に伝えられる臨済宗や曹洞宗が生まれていました。宋代になると禅は盛んになり、1127年に北宋がモンゴル帝国に滅ぼされると、南宋で禅が盛んとなり、日本との往来も頻繁になります。空海の時代には、遣唐使船が4隻航海すれば2隻は沈没する時代でしたが、道元の時代には船で渡航することは、それ程危険ではなくなっており、南宋との間で頻繁に往来がなされていました。この時代には、南宋に渡来する多くの僧がいたと同時に、南宋から渡来する僧も多く、この時代は「渡来僧の世紀」とさえ言われています。
 天台宗で学んだ栄西は、堕落した日本の天台宗を立て直すため宋に渡り、1202年に臨済宗を興し、ようやく日本に本格的に禅が伝えられます。栄西は文化人としても優れ、廃れていた喫茶の風習を復興したりするなど、日本の文化の形成に大きな役割を果たします。銀閣寺で代表される室町時代の東山文化は、幽玄、わび・さびなど禅宗の影響を受けています。彼もまた天台宗の弾圧を受けたため鎌倉に行き、北条政子建立の寿福寺の住職となるとともに、京に建仁寺を建て、禅の普及に努めます。そしてこの建仁寺で、道元が修行をします。
 道元は天台宗で学んだ後、建仁寺で修行し、1223年に南宋に渡ります。南宋では各地の寺を転々としたのち、曹洞宗の寺院で修行し、1227年に帰国します。しかし京では比叡山の弾圧を受け、1244年に越後に永平寺を建立し、これが今日に至るまで曹洞宗の総本山となります。1248年に北条時頼により鎌倉に招かれ、半年間の滞在ではありましたが、これが関東での禅宗隆盛の出発点となります。そして1253年に、享年54歳で没します。そして翌年、33歳の日蓮が、鎌倉で辻説法を始めます。親鸞や日蓮に比べて、道元の一生は比較的穏やかに見えますが、それは彼が政治にも宗派闘争にも加わることなく、ひたすら禅の修行に努めたからだと思われます。

禅とは何かということについて、私に答えられるはずがありません。そもそも禅僧自身が、こうした議論を嫌います。禅とは、言葉で伝えるものではないからです。ただ道元が、親鸞や日蓮と異なっている点は、親鸞や日蓮が念仏を唱えて救済を得る他力本願だったのに対し、禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことであり、それに気づけば生きて成仏できるという自力救済だったという点です。こうした自力救済の考え方は、何事も自分で解決せねばならない武士にとって、受け入れやすい思想だったと思います。
 道元が最も重視したのは、只管打坐(しかんたざ―ひたすら坐禅すること)で、あらゆる既成の概念や身に着いた垢を削ぎ落とし、過去の執着をすべて捨て、悟りたいと願うことも止め、そうすることで自己の仏性を見出すということです。「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の有名な歌は、当たり前のことをあるがままに受け入れる、ということだろうと思います。

 道元が悟りを開くきっかけとなったのは、中国で寺を巡り歩いている時に出会った一人の老僧でした。この老僧は寺の炊事係で、他の僧たちが修行に励んでいる間に、ひたすら雑用に励んでいました。道元が老僧に、そんな雑用をして何の役に立つのですかと尋ねると、老僧は、あなたは書籍に記してあることの本当の意味が分かっていないと言って笑いました。その時道元は、坐禅や勉学にくらべて炊事などの日常的な雑務は低級で無意味と考えていた自分に気づきました。
前に述べたヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」が、年老いた川の渡し守から真理を学んだように、道元もまた一介の炊事係りの僧から真理を学びました。渡し守が、一生河の流れを見つめて悟りを開いたように、年老いた炊事係りも淡々と当たり前のように雑用をしながら、悟りを開いたのです。道元の言葉に、「修証一如(しゅしょういちにょ―これから修行して無我になるのではない。いま、すでに無我だからこそ修行することができるのだ)」という言葉がありますが、「これからがんばって無我になるために修行をする」といような気持ちは執着であり、それではとうてい無我になれない、ということだと思います。
孤高の思想家である道元自身には、一つの宗派をおこす意思はなかったとされますが、永平寺につどった道元の弟子たちは教団化に努め、今日に至る曹洞宗を開きました。

かなり掘り下げの浅い文章になってしまいましたが、これ以上掘り下げると無知をさらに曝け出すことになりますので、表面的なことしか書けませんでした。世界史を学ぶ者が個別的な問題に触れることができるのは、所詮この程度だということがよく分かりました。