泉三郎著、2011年、祥伝社
渋沢栄一の業績はあまりに多岐にわたり、何を主要な業績といってよいのか分かりませんが、銀行の設立や多数の株式会社の設立などの業績から、2024年から彼の肖像が1万円札に使用されることになっています。かれについては、このブログの「映画で明治を観て 獅子の時代」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/08/blog-post_20.html)を参照して下さい。本書には渋沢栄一の洋行時代が詳しく述べられています。
渋沢栄一は、豪農とはいえ農民身分に生まれます。彼は幼い時から優秀で、文武に優れ、当時の身分制度の矛盾に憤り、尊王攘夷と討幕を唱えるようになります。やがて彼の有能さから一橋家で登用され、武士の身分が与えられます。一橋公慶喜は聡明な人物で、若い栄一のそうした態度を、面白がっていたようです。ところが問題が起きました。慶喜が将軍になってしまい、栄一からすれば慶喜が討幕の対象となってしまったのです。こうした事態に悶々としていた栄一に、助け船が出されました。幕府は1867年のパリ万国博覧会に参加することになっていましたが、渋沢も随員としてこれに同行することが許されたのです。
本書は、渋沢の欧州体験を中心に述べています。渋沢は、欧州のあらゆることに感心を抱き、あらゆることを貪欲に学びましたが、特に関心を抱いたのは、単なる知識ではなく、欧州の社会の特色でした。もともと渋沢は幕府を頂点とする身分制度に対する批判から、尊王攘夷を唱えるようになりました。ところが欧州に行くと、日本では商人が武士と交渉する際土下座しますが、欧州では商人も政治家も対等に話をします。その違いは何か。彼はこの相違を生み出すものの一つが株式会社だと考えます。彼が帰国するころには、尊王攘夷の思想は、跡形もなく消え去っていました。
大きな夢をもって渋沢は帰国しますが、帰国した時幕府は消滅し、慶喜は蟄居の身にありました。渋沢は幕臣でしたから、逮捕・投獄の危険があり、密かに帰国し、恩義ある慶喜のもとで働いていました。しかし彼の有能さは広く知れ渡っており、明治政府から招かれ、拒否した場合には慶喜を罰すると脅されて、新政府のもとで働くことになります。そこでも彼は有能さを発揮しますが、かれはもともと政治より民業に関心が強く、以後1931年に92歳で逝去するまで、500以上の企業を設立したとされますが、三菱や三井のように決して財閥を形成することはありませんでした。また渋沢は、社会貢献活動にも熱心で、何度もノーベル平和賞の候補にもなっています。
このような渋沢を生み出したのが、洋行の経験だったことは、間違いありません。洋行が渋沢のすべてを変えてしまいました。
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