2019年5月18日土曜日

映画「沈黙(サイレンス)」を観て



 2016年にアメリカで制作された映画で、日本の遠藤周作の原作(1961)に基づき、17世紀半ばにおける長崎でのキリシタン弾圧を描いています。「沈黙」はすでに日本では1971年に制作され、確かに私もこの映画を観たのですが、何しろ半世紀も前ですので、あまり覚えていいません。なおこの時代のキリシタン弾圧については、このブログの「映画「天草四郎時貞」を観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/07/blog-post_23.html)を参照して下さい。
映画は、ポルトガルのイエズス会宣教師ロドリゴらが、日本での布教中に消息を断った恩師フェレイラを探すため日本へやってくるところから始まります。その後いろいろあって、ロドリゴは役人に捕らえられ、大きな決断を迫られることになります。実はこの頃日本でもキリシタンへの対応に変化がありました。この少し前に島原の乱が起きており、為政者たちの中にあまりにも激しい弾圧が逆効果になっていることに気づく人々が出てきました。その結果彼らは、宣教師を棄教させ、彼らを信徒たちの棄教に利用するようになります。そしてこのことがロドリゴの運命に決定的な影響を及ぼすことになります。
宣教師を棄教させる際、彼らを直接拷問するのではなく、彼らの目の前で信徒を拷問し、宣教師が改宗すれば拷問を止めて命を助けると言います。拷問を受ける人々の苦しみ、それを見せられる宣教師の苦しみ、自分の意志で彼らを苦しみから解放させることができるという自責の念、その中でロドリゴは「なぜ神は沈黙しているのか」と問いかけますが、答えは返ってきません。さらにロドリゴは、彼が尊敬していたフェレイラが棄教し、沢野忠庵という日本人名を名乗っていることを知ります。
一方、この映画にはもう一人の主人公がいました。それはキチジローという男で、彼は棄教と懺悔を繰り返し、何度も仲間やロドリゴを裏切りました。しかしある時ロドリゴはもだえ苦しむキチジローの姿に神の姿を見ます。神もまた苦しんでいたのです。こうした経験を経て、やがてロドリゴは棄教し、転びバテレンとして生涯を過ごすことになります。なお、キチジローは遠藤周作自身をモデルとしたものだそうです。
個人的には、宣教師たちの神への絶対的な信仰は、独りよがりのように思われ、むしろ私には役人たちの主張の方が説得力があります。 日本では宣教師は、純粋に神の言葉を伝えようとする殉教者として登場しますが、その同じ宣教師たちが、中南米では力ずくで先住民にキリスト教を強制する迫害者として振る舞い、同じ頃ヨーロッパではキリスト教徒同士が血で血を洗う戦いを繰り返していました。そこには、他者を決して認めない、当時のヨーロッパ人の偏狭さが認めらせれるように思います。こうしたことを通じて、結局ヨーロッパでは、信仰そのものが希薄になっていきます。日本がキリスト教の受容を拒否したのは、当然の結末だったと言えるのではないでしょうか。
 映画は大変よくできていたと思います。いままで私が観た映画のうち、外国人が日本を舞台として撮った映画は、どうしても不自然な点が目立つのですが、この映画ではほとんど不自然さはなく、かなり丁寧に制作されているように思われます。

0 件のコメント:

コメントを投稿