2019年1月30日水曜日

「日本の朝鮮統治を検証する 1910-1945」を読んで

ジョージ・アキタ/ブランドン・パーマー著 2013年 
塩谷紘訳 草思社 2013
 昔から、日本の朝鮮支配は朝鮮の近代化に寄与した、あるいは、日本の朝鮮支配は他の国の植民地支配に比べればはるかに穏健だった、という議論が行われており、日本の植民地支配を悪とする人々はナショナリストと呼ばれ、良い面を見直そうとする人々は修正主義者とよばれるのだそうです。
 私は以前に日本による朝鮮統治に関わる本を随分たくさん読み、日本の統治に対して義憤にかられていました。しかし私が読んだ本の多くは、日本の研究者が書いたものであり、こういう研究者もナショナリストと呼ぶのでしょうか。修正主義者によれば、こういう人々も朝鮮人の言いなりになっているため、ナショナリストなのだそうです。
 それでも私は、日本の朝鮮支配をもっと客観的に捉えるべきではないか、という疑問を常にもっていました。もちろんこうしたことを、加害者である日本人が行うことには躊躇があると同時に、こうした修正主義的議論は、常にイデオロギー的に利用される傾向があり、安易に手を出せない分野でした。私は、たまたま図書館で本書をみつけ、朝鮮統治を冷静に分析と書かれていましたので、借りて読んだのですが、結局失望しました。本書に科学的検証などどこにもなく、自説に都合の良い議論の寄せ集めでしかありませんでした。
 かつて(今もかも知れません)、イギリス人は今日のインドの近代化を可能にしたのはイギリスであり、イギリスの植民地支配は正しかったと主張しました。同様に、日本の朝鮮統治は、朝鮮の近代化に大きく貢献した、と主張されます。では「近代化」とは、すべてを犠牲にしてよい「絶対的な善」なのでしょうか。インドのマハトマ・ガンディは、この「近代化」を激しく批判したのです。

2019年1月26日土曜日

映画で植民地時代の朝鮮を観て


2016年の韓国の映画で、日本統治時代の韓国を、徳恵翁主(ソン・イェジン)という皇女を通して描いており、私にとっては、大変珍しい映画でした。

 この映画の主な舞台は、日本植民地時代の朝鮮です。朝鮮では、朝鮮王朝(李氏朝鮮 13921910)が、実に500年以上も支配しており、高度で穏やかな文明を築いていました。この時代に、これほど長く続いた王朝はオスマン帝国(12991922)くらいで、さすがにどちらの王朝も内部矛盾が耐え難い状態になりつつあり、朝鮮では外戚が実権を握る勢道政治が定着していました。こうした中で、1863年に高宗が11歳で国王に即位します。しかし彼の治世は、内部の権力闘争と外圧の強化の時代で、結局朝鮮は日本への服属を強めていったため、高宗は1897年に大韓帝国を樹立して自ら初代皇帝となり、独立の意志を示します。しかし、1907年には皇太子に譲位することを強要され、1910年には韓国併合条約で韓国は独立を失います。以後、高宗を含めた韓国の皇族は、日本の天皇家の皇族に組み込まれます。
 結局、高宗は1919年に死亡しますが、その死は毒殺によるものだったという説もあります。いずれにしても、上の写真は前年の1918人に撮られたもので、中央が高宗、右端がこの映画の主人公である徳恵翁主(とくけいおうしゅ/トッキェオンジュ、1912 - 1989年)で、当時まだ6歳でした。1925年、日本に留学し、日本の皇族の一員としての教育を受けます。当時日本は、植民地の皇族を日本に留学させる政策を採っており、彼女の兄の李 垠(り ぎん、イ・ウン)も日本に留学し、また清朝皇帝の弟や娘も日本に留学していました。これについては、以下を参照して下さい。
「清朝の王女に生まれて 日中のはざまで」を読んで
「皇弟溥傑の昭和史」を読んで
 1931年、徳恵は旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁ぎ、翌年長女正恵(まさえ)を生みます。しかし結婚前から彼女には統合失調症の症状が出ており、出産後悪化し、戦後15年以上も病院に入院することになります。この間、彼女は何度も韓国への帰国を試みますが、李承晩政権が王族の帰国を望まず、帰国を拒否されます。こうした中で、自称徳恵の婚約者でジャーナリストのジャンハン(金乙漢)が、徳恵を探し出し、1962に朴正熙政権の許可を得て帰国し、1989年に78歳で永眠します。一方、彼女の娘正恵は、結婚後神経衰弱に苦しみ、1956年に自殺しました。
 韓国では徳恵についてほとんど忘れられていましたが、2008年に本馬恭子『徳恵姫-李氏朝鮮最後の王女』が韓国で評判になり、それがこの映画の制作につながったようで、映画の原題は「徳恵翁主」です。この映画では、徳恵は韓国独立運動を支援し、同士である若い将校金乙漢に淡い恋をし、独立運動の拠点上海に亡命しようとしますが失敗し、彼女の人生は事実上ここで終わってしまいます。ただ、この映画はあくまでフィクションであり、彼女が独立運動に関わったという事実は知られていません。しかし、たとえこれらがフィクションであったとしても、ここに語られていることは多くの韓国人・朝鮮人が共有する経験であろうと思います。

お嬢さん(アガシ)
2016年に制作された映画で、R18指定です。時代は、日本が朝鮮を植民地としていた時代で、ある朝鮮人が日韓併合で混乱していた時期に、賄賂を使って大富豪となり、さらに日本の没落貴族の娘と結婚して日本人となり、貴族の仲間入りをしました。この女性が、この家と日本人と貴族という地位を担う唯一の存在でした。この時代には、日本人にも朝鮮人にも、混乱した時代を背景として蠢く人々がたくさんいたのでしょう。
この映画に登場する歴史はこれだけで、日本が悪いとか朝鮮が悪いとかという話はまったくなく、基本的にはこの映画は、倒錯的な傾向を帯びたミステリー映画です。実は私は、この映画のストーリーがよく理解できませんでした。それでもいくつか興味深い場面がありました。この広大な屋敷に住む人は皆朝鮮人ですが、屋敷内では日本語を話すことが求められていましたので、俳優たちは日本語を特訓したそうです。また、日本風と西洋風、時々韓国風の邸宅や、広大な日本庭園はなどが不思議に興味深い残滓、大変興味深く見ることができました。


2019年1月23日水曜日

韓国映画「古山子 コサンジャ」を観て



2016年に韓国で制作された映画で、李氏朝鮮で正確な地図を制作した金正浩(キム・ジョンホ、号*古山子 コサンジャ)の半生を描いており、大変面白い映画でした。原題は「古山子、大東輿地図」です。

 古山子について分かっていることは、ほとんどありません。多分1800年頃に生まれて、1864年頃に死にました。その間に彼は、多分30年以上にわたって朝鮮中を旅し、精巧な朝鮮の地図「大東輿()地図」を作製しました。地図の作製にあたって彼は、座標使って位置をとらえており、現在でも通用する正確な地図です。地図は冊子になっており、いつでも好きな場所を開くことができ、冊子を全てつなぐと横3メートル、縦7メートルにもなるそうでです。しかも彼はこれを木版に彫り、いつでも好きな時に印刷できるようにしたのです。
残念ながら私は、古山子についても「大東輿地図」についても知りませんでした。一体古山子とは何者なのか、どのように生計を立てていたのか、どのようにして天文学や測地術を学んだのか、そもそも一体何のために、たたった一人で朝鮮全土の地図を作ろうと思ったのか。彼より半世紀ほど前に、日本の伊能忠敬が「大東輿地図」に匹敵する正確な地図を作成しますが、彼は経済的に恵まれており、天文方で天文学や測地術や数学を学んでおり、しかも幕府の全面的な支援を受けて製作しました。では古山子はどうなのか、何も分かりません。したがって映画で述べられていることの大半はフィクションですが、それなりに説得力のあるフィクションでした。
 映画では、古山子は都で木版屋を経営しいており、妻と女の子がいましたが、彼自身はいつも旅に出て、地図を書いていました。彼が地図を作るようになった理由は、彼の父が国が作った地図を見ながら旅をして、道に迷って遭難したからです。国が作成した当時の地図は相当いい加減で、しかも道の距離については高低差を無視して直線距離が書かれており、実際の距離と相当の違いがあるため、地図に頼って旅をしても遭難の危険があり、もっと正確な地図が必要でした。また旅をする人は、地図のある役所に行って自分で移す必要がありましたが、その過程で間違える可能性がありました。そこで彼は地図を木版に刻み、誰もが正確な地図を簡単に入手できるようにしようとしました。これが古山子が生涯をかけた夢でした。もちろんそれは、映画での話であり、実際はどうだったのかについては、不明です。
 地図が完成に近づくと、政治が関かわてきます。正確な地図を独占することは専制支配の強化に役立ち、また市中に広く地図が出回れば、それが迫りつつある欧米などの外国人の手に入り、それは国防上の問題に関わります。事実、日本でもシーボルトが伊能忠敬の作製した地図を持ち出そうとして大事件に発展し、シーボルトは追放され、日本側の責任者は処刑されました。誰もが正確な地図を持つということと、国防上の問題は両立しにくい時代だったのです。
 ここで大院君という人物が登場します。彼は大変興味深い人物ですが、ここでは深入りしません。ただ一言付け加えるなら、正祖の死後貞純太后による3年間の垂簾聴政を経て、19世紀初頭より貞純皇后の一族による外戚政治が行われ、やがて外戚が勢力を維持するため幼君を立てるという、まさに手段と目的が逆転してしまうという有様でした。大院君はまだ幼かった国王高宗の父で、彼が1864年から1873年まで政治の実権を握り、外戚勢力を抑えると同時に、有能な人材を登用し、さまざまな改革を推し進めていました。映画では、大院君は一目で古山子の地図の重要性を見抜き、同時にその危険性も見抜きます。大院君は、高額で地図を買い取ることを申し出ますが、古山子の望みは民衆に地図を提供することでしたので、大院君の申し出を断ります。

 そのため彼は政治闘争に巻き込まれ、彼の妻子は死に、彼自身も投獄され、すべてを失って死んでいきます。しかし、彼の弟子が隠してあった地図を持ち出し、都の広場で地図を並べ、民衆に地図の存在を知らしめます。もちろん大院君との関係を含めて、これらの話はフィクションですが、しかしこれこそ古山子が真に望んだことなのかもしれません。

 一方、古山子は大院君により処刑され、木版は償却されたという説が流布し、ネット上でも相当流布しています。この説については、韓国では大院君を貶めようとする日本帝国主義によるでっち上げである、とされています。でっち上げかどうかは分かりませんが、私もこの説は受け入れられません。第一に、古山子が処刑されたという記録はどこにもなく、何よりも木版は現存しているからです。
 なお、この地図に竹島(独島)が記載されていたかどうかというような野暮な議論は、ここでは止めておきたいと思います。

2019年1月19日土曜日

映画で李氏朝鮮を観て(3)


王の運命 歴史を変えた八日間



2016年に韓国で制作された映画で、国王が後継者=世子である息子を殺すという、稀に見る悲劇を描いています。この事件は韓国ではよく知られた事件だそうで、過去に何度もテレビや映画で扱われているそうです。
 李氏朝鮮が清国に服属した後も、朝鮮では相変わらず派閥闘争が繰り返されていました。そうした中で、1724年に即位した21代国王英祖(ヨンジョ、えいそ、- 1776年)は、派閥間のバランスを巧みに維持し、52年にわたって王権を維持しました。1735年、彼は40歳代で初めて王子を得、思悼世子(しとうせいし、サドセジャ)と名付けます。「世子」とは跡継ぎのことです。英祖は、厳しい宮廷で生き抜いていくために、厳しく世子を教育しますが、やがて世子はあまりに厳しい教育に耐えられなくなり、父に逆らい、奇行を繰り返し、錯乱状態になっていきます。
 この間、66歳の英祖は、1759年に2番目の王妃として15歳の貞純王后と結婚しました。貞純王后は一族と結び、保守派と提携して思悼世子の失脚を策動します。王家に弱みがあれば宮廷で陰謀が渦巻き、親子の対立に油を注ぎ、こうした中で父と子の関係は激しい憎悪となり、1762年の悲劇が訪れます。この年、王は息子を米櫃に8日間閉じ込めて餓死させます。映画では、思悼世子の錯乱と苦しみは、何百年にも及ぶ李氏朝鮮の宮廷の矛盾を一身に背負っているかのようでした。この時、まだ10歳の思悼の息子イ・サンが、父の死を目撃していました。そして15年後に祖父が死ぬと、彼が22代の君主となります。

私には、この映画で語られている内容について、史実の部分と創作の部分を区別することが出来ませんが、映画で語られている事件は凄まじい内容であり、何百年にも及ぶ李氏朝鮮における君主と宮廷との関係の一端を垣間見たような気がします。

王の涙 イ・サンの決断

2014年に韓国で制作された映画で、前に観た「王の運命」と内容的に繋がっています。つまり思悼の息子イ・サンの物語で、原題は「逆鱗」で、「君主の怒り」というような意味です。
 父の悲惨な死を目撃した正祖は、激しい怒りを胸に秘め、保守派や貞純太后への復讐を誓っていました。正祖の復讐を恐れる反対派は、当然正祖の暗殺を企てます。映画は、1777年7月28日に起きた国王暗殺未開事件である「丁酉逆変」の顛末を描きます。この事件の後、正祖は反対派と貞純太后を抑えて、派閥の均衡をとりつつも、若い有能な人物を採用して政治改革を進め、世宗に匹敵する名君の一人と称えられるようになります。
 18世紀の李氏朝鮮は、比較的活気のある安定した時代でした。その背景には、壬辰・丁酉の倭乱以降、地主となる庶民や両班となる庶民が現れ、社会が流動化し始めた、ということがあります。また、朝鮮は朱子学の影響で貨幣経済が未発達でしたが、この頃から急速に貨幣経済が進展して社会が活性化します。さらに正祖が実学やヨーロッパの知識の導入を図ったため、この時代に文化も大いに発展しました。しかし、1800年に正祖は僅か49歳で死亡してしまいます。当初毒殺が疑われましたが、病死だった可能性が高いようです。
 正祖のあまりに早い死は、彼の業績のすべてが無に帰してしまいました。彼の死後貞純太后が3年間垂簾聴政を行って権勢を振るい、以後彼女の一族による外戚政治が行われ、これが李氏朝鮮の滅亡に繋がっていきます。

2019年1月16日水曜日

「王妃たちの朝鮮王朝」を読んで


尹貞蘭(ユン ジョンラン)著 2008年、金容権(キム ヨンゴォン)訳 2010年 
日本評論社
 李氏朝鮮は朱子学を国教としますので、女性の地位が低く、実際、政治の表舞台に女性が登場することはあまりありません。もちろん、このことは近代以前の社会においては、どこでも同じようなものですが、朝鮮の場合は少し極端だったようです。イスラーム世界でさえ、一時的に宗教的熱狂が吹き荒れた時期を除けば、女性はもっと自由でした。本書は、李氏朝鮮での抑圧された女性の姿を描いており、女性の恨み節やうめき声が聞こえてきそうですが、さすがに途中でうんざりして、後半は飛ばし読みになってしまいました。
いかし、男性中心社会だった朝鮮王朝でも、女性たちは色々な制約を乗り越えて、重要な役割を果たします。それを可能にしたのは、王位の後継者の任命権と垂簾聴政(すいれんちょうせい)の権限が女性に与えられていたということです。王が早世し、後継者がまだ決まっていなかった場合、残された王妃か先王の母が後継者を決定し、後継者が幼少の場合、彼女たちのどちらかが、王座の後ろの垂簾で政治を行う、つまり実権を握るということです。著者は、この制度こそが李氏の家門が500年以上維持された理由だと主張しますが、果たして制度だけで王朝が長期間維持されるものでしょうか。事実、李氏朝鮮末期に、この垂簾聴政こそが外戚の台頭と閔妃の専横を招き、それが李氏朝鮮の滅亡の原因となります。

では、李氏朝鮮が500年以上も続いた理由は何か。私は勉強不足のため、その答えを知りません。中国で王朝交替が起きるときは、社会が大きく変化し、旧来の王朝が、いわば「天命」に応えられなくなった時のように思います。李氏朝鮮では、私が知る範囲内で、社会の変化があまり認められません。貨幣経済も比較的未熟だったそうです。とは言っても、500年もの間社会の変化が起きないということは、想像できません。多分、私が知らないだけだと思います。朝鮮・韓国のような身近な国について、この程度のことさえとらなかった自分を恥ずかしく思います。

2019年1月12日土曜日

映画で李氏朝鮮を観て(2)

 朝鮮・韓国はしばしば外からの侵略を受け、中国、北方民族、日本・倭寇との間で複雑な関係が紡がれてきました。こうした国際環境のもとで、小国朝鮮は中国に朝貢し、中国に寄り添うことによって、自らの安全保障としました。事実、7世紀には唐の援助で日本の進出を阻み、新羅による統一国家の形成に成功します。しかし13世紀に登場したモンゴル帝国・元はあまりに強力で、中国自身がモンゴル帝国に飲み込まれ、高麗もまた元に服属を余儀なくされました。14世紀後半に中国で明が成立し、元が北方に追いやられると、朝鮮でも李成桂が李氏朝鮮を建国し、いち早く明に朝貢します。そして16世紀から17世紀にかけて、海から豊臣秀吉の日本軍が、北から女真族が攻め込んできます。

バトル・オーシャン
2014年に韓国で制作された映画で、豊臣秀吉の朝鮮出兵と朝鮮の英雄李舜臣を扱った映画です。豊臣秀吉がなぜ朝鮮出兵を行ったかについては諸説あり、はっきりしません。ただ、出兵の最終目標は朝鮮ではなく中国の明でしたから、あまりにも無謀で、余計に目的が分かりません。ただ、当時ヨーロッパ人が世界中に進出し、まさに世界の一体化が始まろうとしていた時に、世界に向かって国を開くか閉じるかという、二者択一を迫られていたのかもしれません。そして結局、日本も朝鮮も中国も国を閉じることになります。
秀吉の朝鮮出兵は2度行われました。1回目は1592年から1593年の文禄の役、2回目は1597年から1598年の慶長の役で、合わせて文禄・慶長の役と呼ばれ、韓国では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれます。そして、この映画の舞台となったのは、慶長の役(丁酉の倭乱)での露梁海戦(ろりょうかいせん)で、この戦いで朝鮮・韓国の英雄李舜臣(り しゅんしん、イ・スンシン)が活躍します。なおこの映画の原題は「露梁海戦」です。

李舜臣は、幼い時から勇猛果敢で、22歳の時に武官となるため試験を受け始め、32歳でようやく合格します。しかし派閥闘争の激しい李氏朝鮮では、武将の地位も派閥の動向に左右されます。李舜臣は1591年に大抜擢され、翌年の文禄の役では日本の水軍をゲリラ的に攻撃して苦しめます。しかし1597年の慶長の役では、李舜臣は命令に背いたため更迭され、拷問を受けて一兵卒に落とされますが、彼の後任が日本軍に敗北し、水軍が壊滅状態になると、李舜臣が再任されます。そして彼が再任されたとき、朝鮮水軍の戦船は12隻しかありませんでした。
映画はここから始まります。1598年に豊臣秀吉が死去し、日本軍は撤退を開始していました。こうした中で、明・朝鮮の水軍と日本の水軍が激突する、いわゆる露梁海戦が勃発します。この海域には多数の島が点在し、島と島の間の狭い地域では海流は潮の干満に応じて激しく変化します。一方、日本水軍の先遣隊を務めた来島通総(くるしま みちふさ)は、村上水軍の流れをくむ瀬戸内海の水軍で、瀬戸内海の水流は、この地域とよく似ていたため、この地域の海流を熟知していました。この点については、このブログの「」映画で武士の成立を観て 鶴姫伝奇」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/02/blog-post.html)を参照して下さい。
映画は、李舜臣と来島通総との知略をつくした戦として描かれます。後半はほとんど戦闘場面で、当時の海戦がよく再現されていたと思いますが、少しオーバーであり、また延々と戦い場面が続くので、うんざりしてきました。最後は、李舜臣が軍神となって日本軍を蹴散らし、朝鮮の人々が万歳を叫んで終わる、という映画です。史実は、先陣を務めた来島の船団は大損害を被り、来島自身戦死しますが、李舜臣の軍団も崩壊し、後続の日本の軍団はほぼ無傷でこの海域を通過します。つまり日本軍にとって、この戦いは、この後の作戦に大きな変更を必要とするものではありませんでした。
日本の武士は長い戦後時代を戦い抜いてきましたので、確かに戦争慣れしていました。しかし、それにしても朝鮮の戦いは情けなさすぎました。王も文武官も民を置き去りにして、都から逃げ出したのです。そういう中にあって、李舜臣の堂々たる戦いは、朝鮮の人々にとって大きな誇りとなったのだろうと思います。

王になった男
2012年韓国で制作された映画で、原題は「仮装」です。この映画は、前に述べた暴君燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、第10代、在位14941506)と同様、暴君とみなされてきた光海君(クァンヘグン、こうかいくん、第15代、1575- 1641年)を扱っています。この映画では、光海君を暗殺から守るため王の影武者を立てるという手法がとられています。こうした手法は、「映画でイスラーム世界を観る アラビアン・ナイト 乞食のアミン」 (https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/06/blog-post_8.html)やマーク・トゥエイン「王子と乞食」などでも見られます。
壬辰・丁酉の倭乱は、朝鮮にとって破滅的でした。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥っていました。朝鮮王朝は増収策として穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策を採用します。これは賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれるというもので、これにより朝鮮の身分制度は大きく流動することになります。その結果、新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新され、政治は一時的に再び活気が蘇ります。とはいえ、派閥対立は相変わらず、延々と続けられていました。もしかすると、朝鮮王朝のバイタリティの根源は、この派閥対立にあるのかと思ってしまうほどです。
 1616年、謀反の噂が絶えない中で、光海君に似た人物を探し出して影武者にしようという策が考え出され、その結果踐民身分のハソンが連れてこられ、王に仕立てられます。その直後に王は暗殺未遂で重体となったため、王が回復するまでの15日間をハソンは王の替え玉として過ごすことになります。王とハソンは同じ俳優が演じますが、ハソンは当然のことながら失敗の連続で、物語はコミカルに進行していきます。しかし王として政治に関わっているうちに、ハソンは多くの不正や不当な法の存在を知り、政治の在り方に強い憤りを感じ、腐敗官僚を処罰するとともに、善政を実施していきます。そのためハソンは心ある人々から愛されるようになりますが、光海君が復帰したため、ハソンは宮廷を去っていきます。そして1623年に光海君は宮廷クーデタで失脚しますが、これについては次の映画で述べることにします。
 光海君は、宮廷の公式記録では、多くの罪なき人を殺し、人民を苦しめた暴君として描かれていますが、公式記録を作成した人々は光海君を失脚させた人たちですので、光海君を暴君として描くのは当然です。そのため近年光海君についての研究が進み、実は彼は腐敗を正し善政を行った名君ではなかったと考えられるようになりました。映画でハソンが光海君の身代わりを務めるという話は荒唐無稽ですが、光海君には暴君としての光海君と、名君としての光海君がいたと考えれば、辻褄が合います。光海君の善政は反対派により抹殺されましたが、ハソンは抹殺された部分を再現しているのではないでしょうか。韓国の時代劇で、ようやく良い映画に巡り合いました。 

神弓-KAMIYUMI-
2011年に韓国で制作された映画で、女真族=清による朝鮮の征服を描いています。
1623年に起きた宮廷クーデタにより、仁祖(インジョ、じんそ、1623- 1649年)が第16代国王となり、反対勢力を徹底的に弾圧しますが、その時の生き残りの中にナミという弓の名人がおり、この人物がこの映画の主人公となります。彼の弓術は、不規則な軌道で障害物を避けて命中するばかりか、発射位置さえ特定不能にする“曲射”と呼ばれる神業でした。
一方、1636年に後金の太宗ホンタイジは皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求しました。もともと光海君は、伝統的な朝貢関係にある明と、新興の後金との間で等距離外交をとり、これが親明派の反発を買って失脚しました。これに対して、親明反後金政策をとる仁祖は後金の要求を拒絶し、清と戦う準備に入り、その結果ホンタイジは朝鮮侵攻を開始することになります。なお、後金()については、このブログの「映画で中国―清朝を観て 大清風雲」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/12/blog-post_23.html)を参照して下さい。16361229日、ホンタイジは自ら10万の兵力を率いて出立し、漢城に向けて進撃しました。そして、はやくも1637224日に、仁祖は清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行うことになります。光海君の等距離外交が続けられていれば、このような結果にはならなかったでしょう。
その際清によって朝鮮に課せられた条約は屈辱的なものでしたが、この映画との関連だでいえば、国王は清軍が朝鮮の50万人もの人民を連れ出すことを認めたのです。その人民の中にナミがおり、彼は妹ジャインと結婚したばかりの夫を連れて脱走します。映画の後半は、ひたすら逃げる3人と、それを追う屈強な清軍の兵士たちとのサバイバル・ゲームが延々と続き、うんざりしてきました。
その後、1644年には、かつて朝鮮が宗主国として仰いできた明が滅び、李氏朝鮮は清の属国として、なお250年以上生き延びることになります。清は辛亥革命により1912年に滅びますが、李氏朝鮮も1910年に日本の植民地となります。


李氏朝鮮は戦争に負けてばかりですが、基本的に李氏朝鮮は中華思想に基づく文化国家であり、平和国家でもあったため、戦争に慣れていませんでした。朝鮮の西には巨大な軍事国家である中国が存在し、中国と地続きの朝鮮が中国と対峙しても勝ち目がありません。それなら初めから中国に朝貢し、中国に守ってもらう方が得策というものです。中国の朝貢国になったからといって、中国が朝鮮を支配するわけではなく、中国にとって朝鮮は中国に逆らわないという安全保障を得られればよいわけです。したがって、伝統的に朝鮮は大国中国に朝貢するという外交政策を採用してきました。このような政策を事大主義と呼びます。

2019年1月9日水曜日

ハングルを創った国王 世宗大王の生涯

板倉聖宣著 2007年 仮説社
 世宗は、朝鮮王国(李氏朝鮮)の第3代国王で、ハングルを創った国王として有名です。
韓国のテレビドラマに「大王世宗」というのがあり、是非観たいと思ったのですが、全80話以上あって観る気力を失いました。
 文字は世界の多くの地域で発明されますが、ほとんどの文字は長い年月を経て生み出されてくるのに対し、ハングルは人工的に生み出された文字で、世界にこのような例はありません。当時の朝鮮では読み書きには漢文が使用されていたため、一般の民衆が読み書きを行うことはほとんど不可能でした。この点では日本も同様なのですが、日本では、長い年月をかけて仮名が生み出され、民衆に文字が定着していきますが、日本の場合漢字と仮名を組み合わせて使用しため、世界でも最も複雑な文字体系となってしまいました。
 われわれは世宗といえばハングルを思い浮かべますが、実際には農業改革など最新の技術を用いた改革を多数行っています。本書は、そうした多くの改革を具体的に扱っており、大変参考になります。しかし本書は、世宗の導入書としてはよいのですが、内容的には少し物足りません。ところが、日本では世宗に関する本が意外に少なく、また連続・テレビドラマの方はやたらに長く、適当なものがなくて困っています。

 

2019年1月5日土曜日

映画で李氏朝鮮を観て(1)


李氏朝鮮(1392年~1910)
 李氏朝鮮を扱った映画は沢山あるため、何回かに分けて紹介するつもりですが、とりあえずここでは、これから観る映画の予備知識として、李氏朝鮮について簡単に説明しておきます。李氏朝鮮には朝鮮王朝といった言い方もありますが、古朝鮮時代にも檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮といった国がありますので、ここでは混乱を避けるために李氏朝鮮を使いました。ここで観る映画に関する範囲内で李氏朝鮮について調べてみましたが、500年以上も続いた隣国の李氏朝鮮について、自分自身の無知に唖然としました。李氏朝鮮について私が知っていることは、1392年に李成桂により建国されたこと、仏教が弾圧され朱子学が重視されたこと、15世紀に世宗によりハングルが公布されたこと、16世紀末に豊臣秀吉軍による侵略を受けたこと、江戸時代に通信使を派遣していたこと、後は19世紀後半日本の侵略を受けて滅びたこと、くらいです。
 李氏朝鮮については、歴史家がいくつかの時代区分を行っていますが、社会の変化との関係がよく分からないので、ここでは触れません。ただ李氏朝鮮にとって決定的な影響を与えたのは豊臣秀吉の朝鮮出兵だったようで、以後李氏朝鮮は徹底した鎖国状態に入っていきます。私のような素人の目で見ると、李氏朝鮮の歴史は、ここで止まってしまったかのように思われます。さらに李氏朝鮮では朱子学が重視され、朱子学を学んだエリート層が政治を動かしていため、社会が硬直化していたのかしれません。いずれにしても、500年を超える李氏朝鮮の歴史を表面的に見ると、勢力闘争や派閥闘争の連続のように見えます。豊臣秀吉が出兵して国土が荒廃していた時でさえ、派閥闘争に明け暮れていたのです。

純粋の時代
2015年に韓国で制作された映画で、李氏朝鮮建国初期の混乱と男女の愛を描いています。
映画の舞台となったのは、1398年に李成桂の後継者を巡って起きた第1次王子の乱です。李成桂には8人の男子がおり、そのうち前妃の子が6人、継妃の子が2人ですが、李成桂は寵愛した継妃の子、まだ幼い8男の李芳碩(イ・バンソク)を後継者としました。しかし、前妃の息子たちは、父とともに手を血に染めて戦ってきたという自負があり、父の決定には不満でした。特に有能で野心的な5男李芳遠(イ・バンウォン)は、前妃の子供たちと結束し、重臣である鄭道伝 (チョン・ドジョン)を奸臣として殺害し、さらに後継者の李芳碩も殺害します。これが第一次王子の乱で、事件後太祖は譲位し、事件の主役芳遠は親族・臣下の反撥を考慮して王位を辞退し、子供のいない2男李芳果(定宗)を推挙、即位させました。李芳遠は、丞相として実権を掌握し、国家体制の強化を推進します。
ドラマは、こうした一連の事件を背景として、鄭道伝の娘婿であるキム・ミンジェ将軍と卑しい身分の妓女カヒとの純粋な愛が描かれています。最後に二人は王子の乱の混乱の中で傷つき、川に落ち、水中でお互いに見つめ合いながら死んでいきます。この場面が、この映画のクライマックスなのでしょうが、逆に私は白けてしまいました。そもそも話の内容が歴史と関係がなく、しかも何度も濃厚なセックス・シーンが描かれますが、この映画にセックス・シーンが必要なのでしょうか。前に観た「霜花店」でもセックス・シーンが出てきますが、韓国の時代劇ではセックス・シーンは「お約束」なのでしょうか。これからまだ何本も時代劇を観ることになっているので、先が思いやられます。
歴史に話をもどします。1400年にまた王位継承権を巡って第2次王子の乱が起き、これを機に李芳遠は定宗を退位させ、その結果李芳遠(高宗)の実権が確立します。失意の太祖李成桂は宮廷を出奔し、仏門に帰依し、1408年に死亡します。太祖は仏教を弾圧し、儒教を国教とした君主でした。李成桂は武人としては優れていましたが、統治者としては今一だったように思われます。これに対して、太宗は優れた政治家で、数々の改革を行い、李氏朝鮮の政治体制は彼の時代にほぼ確立しました。そして彼の第3王子が、ハングルを発布したことで知られる世宗です。この太宗と世宗の治世50年間が李氏朝鮮の全盛期と言われます。
しかし、李氏朝鮮の歴史は、さらに450年以上続きます。


観相師
2013年に韓国で制作された映画で、ネギョンという名の天才観相師が、宮廷のクーデタに巻き込まれていく話で、大変興味深い内容の映画でした。
1450年、第4代国王世宗が死んだあと、文宗(ムンジョン、ぶんそう、在位:1450 - 1452年)が第5代国王となりますが、病弱で、2年後に38歳で死亡し、端宗(タンジョン、たんそう、在位:1452 - 1455年)が11歳で第6代国王に即位します。しかし、文宗の弟で端宗の叔父である首陽大君(スヤンデグン、しゅようだいくん)が、1453年にクーデタを起こして王の側近を排除し、1455年には端宗を廃して自ら王となります。その後端宗は、1457年に配流先で薬殺刑に処せられ、遺体は川に流されました。
この間の出来事に、主人公のネギョンが関わります。彼は観相師として都で大評判になり、宮廷に呼ばれて余命幾ばくもない国王文宗に合い、観相によって世子を脅かす者を探し、世子を助けて欲しいと頼まれました。しかし端宗は叔父である首陽大君によるクーデタで殺され、その混乱の中で多くの善良な役人や彼自身の息子まで殺されます。つまり正義は負けたわけです。しかも彼は観相師として端宗の死も首陽大君のクーデタも息子の死さえも予見できなかったのです。最後に彼は、自分に観えたのはほんの目先のことだけであり、大きな波を観ることができなかった、と呟きます。つまり観相師に歴史を変えることはできないということです。
ところで、新たに第7代国王となった陽大君=世祖(セジョ、せいそ、在位:1455年閏611- 1468年)は、甥を殺したり、即位後も反対派を残虐に粛清したりしたことから、一般には悪逆非道とみなされ、逆に端宗が悲劇の君主とされることが多いのですが、世祖は君主としては有能で、官制の改革、法制や軍制の充実に努め、朝鮮王朝の基本法典である「経国大典」の編纂を開始するなど、王権の強化に努めました。さらに、クーデタに賛同した部下たちを側近として集め、この集団が後に勲旧派と呼ばれるようになります。これに対して朱子学を修めた新興の科挙官僚が士林派を形成し、ここに大地主が中心の勲旧派と中小の在地両班中心の士林派が、李氏朝鮮の二大勢力として対立するようになります。そして次に述べる燕山君が士林派を大粛清して、暴君と呼ばれるようになります。なお、旧勲派は16世紀末までに消滅しますが、その後士林派内に派閥対立が生まれ、この対立は、その後の朝鮮王朝の歴史に大きな影響を与えることになります。


王の男
2005年に韓国で制作された映画で、李氏朝鮮第10代国王燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、在位14941506)の時代を扱っています。燕山君は、李氏朝鮮の27人の国王中最悪の暴君とされ、最後はクーデタで廃位させられます。真偽のほどは分かれませんが、映画では彼がこのような暴君なったのは、幼いころに母を殺されたことによるとされます。彼の母尹氏(いんし、ユンシ)は、貧しい家に生まれましたが、国王に寵愛され、正妃になりますが、彼女自身が嫉妬深かったこと、そして宮中の他の女性による嫉妬などで、宮廷は大混乱に陥り、結局彼女は毒殺されます。映画は、母を殺されたたことへの憎しみのため、燕山君の性格が歪んでいったという描き方をしています。
実は、この映画の主人公は燕山君ではなく、チャンセンとコンギルという二人の広大=旅芸人です。チャンセンは綱渡りで、コンギルは女形であり、とくにコンギルの美しさには目をひかれます。二人は決してゲイの関係ではなく、兄弟のような関係ですが、身分の卑しい旅芸人ですので、客からゲイの関係を迫られることもありました。それでもチャンセンとコンギルは、陽気に力強く生きていました。ところが都の路上で王を風刺する劇を演じていた時、二人は逮捕され、王の前に引き出されます。王は常に暗い顔をし、決して笑うことがありませんでした。そして二人は、王を笑わせることができれば許すと言われます。(なんだか、どこかで聞いたことのあるような話です。)
二人は王を風刺した相当下品でつまらない芝居を行いますが、これを観て突然王が大声で笑い始めます。その後王は彼らに役人の腐敗を暴く芝居をさせ、その度に役人たちを処刑し、最後に王の母の殺害を演じさせ、殺害を関わったものたちを次々と殺していきます。そして、ここでクーデタが起き、王は配流となり、チャンセンとコンギルは再び旅芸人にもどります。ここでもコンギルは王に寵愛されますが、これもゲイの関係ではなく、王はコンギルに母の面影を観ていたようです。

 この映画は劇中劇という形を通して、芝居で過去に遡り、そして現実に戻って復讐が実行されます。その意味でこの映画は復讐劇ではありますが、全体にコミカルに描かれ、暗い雰囲気はありません。映画として、それ程出来の良い映画には思えませんでしたが、それなりに面白く観ることができたと同時に、李氏朝鮮が建国されてから100年ほど後に、こうした事件があったことを知りました。もちろん、映画の主人公であるチャンセンとコンギルはフィクションです。

以前に連続テレビドラマで「宮廷女官チャングムの誓い」が放映されており、妻が観ていたので時々一緒に観ていましたが、ストーリーの展開があまりに遅いので、私は途中でうんざりしてきました。ただ、当時は気が付かなかったのですが、このドラマは前の「王の男」と繋がっていました。つまり、チャングムの両親は燕山君の母の毒殺に関わって殺され、さらにチャングムは奴婢の身分に落とされます。ドラマはここから始まり、その後チャングムは、李氏朝鮮のお家芸ともいうべき、すさまじい勢力争いに巻き込まれていきます。
このドラマでもう一つ興味深かったのは、「医女」という制度でした。これは女性が医学の勉強をし、医師となる制度で、最初はすばらしい制度だと思って観ていました。しかし事実はまったく違っていました。李氏朝鮮の時代には、朱子学の影響で、女性が男性の医師に触れられることを嫌ったため、「医女」という制度が生まれたようです。ただ、「医女」の身分は奴婢であり、また芸道にも通じていましたから、風紀が乱れて末期には妓生(きしょう、キーセン、売春婦)と実質的に同一化してしまいます。結局、医女の制度も、朱子学の厚い殻を破ることはできませんでした。

2019年1月2日水曜日

韓国映画「霜花店(サンファジョム)―運命、その愛―」を観て

はじめに
 最近私は、私がいかに韓国・朝鮮の映画を観ていないかに気づき、近所のレンタル・ビデオ屋に行って韓国・朝鮮の歴史を扱った映画を探しました。まず連続テレビ・ドラマは観たくないで、単発の映画を探したのですが、相当広い韓流コーナーの中でそうした映画を置いた棚が一つ分しかありませんでした。その中から、歴史を扱ったものらしいDVDを二十数枚発見しましたので、これからそれを少しずつ紹介していきたいと思います。ただ、歴史を扱っているとはいえ、時代的には14世紀末に成立した李氏朝鮮以前のものは、ほとんどありませんでした。(もちろん連続テレビ・ドラマには沢山ありますが、これだけは観たくありません。)この点に関しては、日本でも、源氏物語を除けば、戦国時代以前の映画は非常に少ないので、やむを得ないとは思います。
 今回、唯一高麗時代の映画を手に入れましたので、まずこの映画の紹介から始めたいと思います。
高麗について
 高麗は、新羅に代わって10世紀初頭に王建によって建国され、1392年に李成桂によって滅ぼされるまで500年近く存続しますが、この時代には大陸で大きな動乱が続き、高麗は絶えずこの動乱に左右されました。当初高麗は中国の宋に朝貢していましたが、やがて契丹の遼に朝貢し、さらにモンゴルの元に朝貢します。しかしモンゴルは、高麗を単なる朝貢国としてではなく、軍隊を派遣し、統治に直接関与しました。また日本攻撃の基地として多大な犠牲を払わされ、さらにモンゴル軍の協力のため、多くの兵士を送ることも強制されていました。さらにそれだけではなく、高麗の王にはモンゴルの皇女を妃として送り込まれていましたので、高麗の君主に裁量の自由などありませんでした。
霜花店(サンファジョム)―運命、その愛―

2010年に韓国で制作された映画で、高麗末期を時代背景としている映画ですが、この映画は歴史とはあまり関係のない映画でした。なおこの映画はR18ですので、ご注意下さい。
君主はゲイで、美青年ホンニムを寵愛し、モンゴルから送られてきた王妃には手も触れませんので、世継が生まれません。そこで王は奇抜な方法を考え出しました。つまりホンニムと王妃に関係をもたせて王妃に懐妊させ、生まれた子を王の子として世継とするということです。しかし人の心は思うようになりせん。やがてホンニムと王妃は本気で愛し合うようになり、それを王が嫉妬し、いろいろあって、結局3人とも死んでしまう、という話です。
映画は、三人の心理的な葛藤を描いており、それ自体は面白かったのですが、この物語は高麗時代でなくても成り立つような気がします。君主も多分架空の人物だと思われます。ただ、タイトルの霜花店(サンファジョム)というのは高麗で歌われた雑謡のタイトルだそうで、映画では、王妃が愛する人に与えるとされる食べ物として霜花(サンファ)餅を与える場面があります。もしかすると、この話は朝鮮・韓国ではよく知られている話かもしれません。
いずれにせよ、この退廃的な高麗王朝末期において、まもなく李成桂のような武人が台頭し、新たな王朝を建てることになります。
今回、韓国歴史映画の旅をしようとしていますが、最初に変な映画に当たってしまいました。先が思いやられます。