2018年3月24日土曜日

映画「コレラの時代の愛」を観て


2007年アメリカ・コロンビアで制作された映画で、コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928 - 2014)の小説が映画化されました。この作品は、ノーベル賞受賞(1982)後の作品(1985)です。
 ガルシア=マルケスは、人口2000人ほどの寒村アラカタカで生まれました。この村は彼の小説にしばしば登場する架空の都市マコンドのモデルだそうで、中南米の人でマコンドという名前を知らない人はいないそうです。コロンビアは、カリブ海と太平洋に面し、北米と南米の接点に位置するため、さまざまな人や文化が交流して複雑な社会を形成し、先住民文化も残っていました。そうした中で、ガルシア=マルケスは幼少のころ、退役軍人の祖父や噂好きの祖母から、戦争話や土地に伝わる神話や伝承を聞いて育ったそうで、それが彼の文学に重大な影響を与えたとされます。
 私事ですが、私の祖母は亀山の武士の娘として生まれ、御在所の没落地主の家に嫁ぎ、その夫(私の祖父)ともに東京に移りますが、関東大震災に遭遇して帰郷し、戦争中は名古屋の三菱工場のすぐ傍に住んでいましたが、空襲で焼きだされました。このころから祖母は緑内障を患い、私が知っている祖母はすでに全盲でした。祖母は私によく物語を話してくれ、近所の子も話を聞きたがってよく集まっていました。今から思うと、話の内容は講談ネタだったように思いますが、これが私の物語好きのルーツなのかもしれません。
話がそれましたが、ガルシア=マルケスのノーベル賞受賞の理由は、「現実的なものと幻

想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界を創り出したこと」だそうです。そしてガルシア=マルケス自身は、「多少の誇張はあっても南米の多難の歴史、生きるうえでのグロテスクな部分や猥雑さ、矛盾、葛藤をもとに書いていました」と述べています。ウイキペディアには次のように書かれています。「アフリカ系のものと先住民系のものが交錯する土俗的な辺境の村の物語は、洗練されたインターナショナルなところなど微塵もないまさに辺境の物語であるがゆえに、世界中のどこの人にとっても身近な物語として受け止めることが可能だった。ローカルな世界こそが、実はインターナショナルな世界だった、という覚醒をガルシア・マルケスは世界にもたらした」
 この映画の舞台となったコロンビアの歴史については、「映画でラテンアメリカの女性を観る そして、ひと粒のひかり」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/09/blog-post_28.html)を参照して下さい。そしてこの映画の時代のコロンビアは、政治闘争と内戦、そしてコレラの流行の時代でした。コロンビアに限らず中南米では絶えず政治闘争が展開され、それは上層地主階級の中での権力闘争でしたので、常に民衆は置き去りにされていました。コレラについては、「グローバル・ヒストリー 第14章 1415世紀-危機の時代 1.疫病と世界史」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/141415.html)と「「コレラの世界史」を読んで」
(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html)を参照して下さい。コレラは、1817年に第1次パンデミックが起き、そしてこの映画の時代の1880年代に第5次パンデミックが起きます。なんと19世紀の百年間に5回もパンデミックが起きたわけですから、19世紀はコレラの時代だったといえるかもしれません。そして、映画ではこのコレラが深く関係してきます。
 映画の舞台となったカルタヘナは、古くから港町として発展しました。16世紀以来、内陸のインカ帝国などから収奪された宝物がカルタヘナに集められ、そこからスペインに送られていました。したがってカルタヘナは国際色豊かな街に発展し、スペイン人、黒人、先住民が混在していました。映画でも、しばしば大型船が川を航行する場面が見られ、この映画の主人公たちも、最後にこの川を内陸深くまで遡っていきます。
 物語は多分1930年代初めころに始まります。81歳のウルビーノ博士が梯子から落ちて死亡し、葬儀が行われている最中に、傷心の妻フェルミーナのもとに昔の恋人である76歳のフロンティーノが現れ、「この日が来るのを、51年9カ月と4日待ちました」と告げました。当然、この無神経な言葉に彼女は激怒します。そして物語は50年前のカルタヘナへと戻ります。1879年、フロンティーノはカルタヘナの17歳の貧しい郵便局員でした。彼は、たまたま電報を届けた富裕な家の娘フェルミーナに一目ぼれし、何通もロマンティックな手紙を書き、「ロミオとジュリエット」のように密会を重ねます。しかしフェルミーナの父は、娘を名家に嫁がせることを望んでおり、娘をフロンティーノから引き離します。
 やがて彼女は、自分が「恋」そのものに恋をしていたこと、そしてフロンティーノは幻でしかなかったことに気づき、彼から去っていきます。そして彼女は、コレラの撲滅に大変大きな役割を果たし、国民的英雄となっていたウルビーノ博士と結婚します。一方、フロンティーノは、いつかフェルミーナと結ばれることを信じて、愛と貞潔を守ることを誓います。ところが、その後フロンティーノは何と622人の女性と関係を持ち、それをすべて日記に書き残していました。ほとんど病気です。しかし、多くの場合、彼が女性を漁るというより、女性が彼に寄って来るのです。最初の数回などは、むしろ彼が女性に犯されたというべきかもしれません。こんなに風采のあがらない、まるで濡れ雑巾のように存在感のない彼に、どうしてこんなに女性が寄ってくるのでしょうか。彼自身にもよく判らないのですが、多分彼の女性に対する優しさと、後腐れのない安心感ではないでしょうか。そしてなお、彼はフェルミーナへの愛と貞潔を守ると言い続けています。
 この間に彼は叔父の船会社を継ぎ、船会社の社長となって富と名声を築きます。そして、待ちに待ったフェルミーナの夫の死を知り、葬式の当日に彼はフェルミーナに会いにいったわけです。彼女は初めは激怒しますが、フロンティーノはかつてのように彼女に手紙を送り続け、彼との逢瀬を重ねるうちに、自分の結婚生活が女性として必ずしも幸せではなかったことに気づきます。こうして、彼女を見染てから537かカ月と11日目に二人はめでたく結ばれ、大型客船で川を遡って奥地へ旅立ちます。
 何という物語なのでしょうか。乙女心の残酷さ、結婚生活の日常、男女の関係、若さと老い、純情と欺瞞、要するに「生きるうえでのグロテスクな部分や猥雑さ、矛盾、葛藤」が描き出されています。

  私はこのブログで、中南米に関する書籍や映画を相当数紹介してきました。以下にそれを列挙します。
入試に出る現代史
「第7章 ラテン・アメリカ」
読書感想記
「世界歴史の旅 古代アメリカ文明 アステカ・マヤ・インカ」
インカを読む(1)
 「謎の帝国 インカ -その栄光と崩壊」 「アンデス高地都市 ラ・パスの肖像」
 「トゥパク・アマルの反乱-血塗られたインディオの記録」 「大帝国インカ」
 「敗者の想像力―インディオのみた新世界征服」 「インカの反乱-被征服者の声」
インカを読む(2)
 「図説 インカ帝国」 「インカ帝国の虚像と実像」
 「ペルーの天野博物館-古代アンデス文化案内」
メソアメリカを読む
 「古代メキシコ人 消された歴史を掘るーメキシコ古代史の再構成」
 「マヤ人の精神世界への旅」 
ラス・カサスを読む
「ラス・カサス伝-新世界征服の審問者」 「カール5世の前に立つラス・カサス」
「マチューカ―未知の戦士との戦い」
カリブ海を読む
 「カリブ海世界」 「カリブ海の海賊たち」 「ブラック・ジャコバン」
「収奪された大地 ラテンアメリカの500年」を読む
「亡命の文化―メキシコに避難場所を求めた人々」
「パナマ地峡秘史」を読む
映画鑑賞記
映画で古代アメリカを観る
 「太陽の帝王」 「アポカリプト」 「アギーレ/神の怒り」
映画でラテンアメリカの女性を観る
 「命を燃やして」(メキシコ)  「エビータ」(アルゼンチン)
 「そして、ひと粒のひかり」(コロンビア)
映画「革命児サパタ」を観て
映画でカストロを観て
 「コマンダンテ」 「フィデル・カストロ キューバ革命」 
映画でゲバラを観て
 「モーターサイクル・ダイアリーズ」 「革命戦士ゲバラ」
 「チェ 28歳の革命」 「チェ 39 別れの手紙」
映画「ミッション」を観て(パラグアイ)
映画「サン・ルイ・レイの橋」を観て(ペルー)
映画「ジャスティス 闇の迷宮」を観て(アルゼンチン)
映画「ノー」を観て(チリ)
映画「ミッシング」を観て(チリ)


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