マルク・フェロー著 1985年 大野一道・山辺雅彦訳 新評論(1987年)
歴史学は常に国家あるいは社会の監視下に置かれ、そのもとで歴史意識が形成されます。こうして形成された歴史意識の基に「歴史」が書かれ、それが子供たちに教えられ、監視下の「歴史」が再生産されていきます。著者は、本書に先立って「新しい世界史 世界で子供たちに歴史はどう語られているか」(1981年 大野一道訳 藤原書店(2001年))を執筆し、世界各地でいかに「監視下の歴史」が語られているかを述べています。
歴史家は、いかにしたらこの様な監視から自由でいられるのか、子供たちにどのように歴史を教えたらよいのか、これが本書のテーマであり、それは私自身にとっても永遠のテーマでもありましたが、私自身はこの問題を解決することができませんでした。本書で著者は、様々な歴史研究・叙述の例を検証し、どれも監視から自由ではないと論証します。アナール学派の人々は、監視から自由で客観的であるために、さまざまな方法を試み、著者自身アナール学派の指導者の一人でした。彼らの試行錯誤の結果、従来認められていた歴史的な大事件ではなく、監視の目が届かない小さく地域的な問題への研究が進み、一見歴史がバラバラになってしまうように思われました。
伝統的な歴史学は重要な事件を扱い、そのため彼らが重要でないと見なした歴史を切り捨ててきました。しかし「ありふれた出来事」は、非=事件でも偶発事でもなく、意味や興味を欠いたものでもない。こうした物語を積み重ねていくと、伝統的な歴史学の解釈に重大な疑念が発生してきます。以前に紹介した「チーズとうじ虫」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_8234.html)を読んだ後、宗教改革と反宗教改革についての私の考えはまったく変わってしまいました。そして私は、「チーズとうじ虫」が扱う小さな事件の中に、世界史を観たように感じました。
歴史をどのように教えるのかについて、私は答えを出すことができませんでした。ただ、たまたま私が知った二人の世界史教師の「教え方」を紹介したいと思います。ただし、私自身は二人の先生との面識はなく、これらの先生の教えを受けた生徒たちかから聞いただけです。一人は関西の先生で、一年間古代ギリシアのみを教えており、したがってその生徒たちは受験に必要な知識を全くもっていませんでした。ところが予備校での授業を受けると、彼らはたちまち学力をつけていきます。あたかも、知識はなくても歴史とは何かを理解しているがごとくでした。もう一人は愛知の先生で、逆に、受験に必要とは思われないような知識まで徹底的に暗記させる先生でした。いくら受験とはいえ、脈絡のない知識だけで問題を解くことはできません。ところが、彼らもまた予備校での授業を受けると、脈絡もなく暗記した知識がたちまち一つに結びつき、一気に学力をつけていきます。
この二つの例はかなり極端なケースですが、この相反する二つの手法は、本書の著者が述べる「ありふれた出来事」の発掘と伝統的な歴史学との関係に似ているように感じました。一方は、古代ギリシアという、生徒にとって小さな世界を学ばせることで世界史を理解する力を与え、もう一方は、重要な出来事も重要でない出来事も徹底的に暗記させ、後は自分で考えさせるというものです。どちらが良いのか私には分かりませんが、私はこの中間の道を模索し続けたように思います。結局私は道半ばで倒れましたが、退職して以降も、このブログを通して答えを模索し続けているように思います。このブログでは、最初に「グローバル・ヒストリー」という一つの枠組みを提示し、その後は、主に映画を通じて「小さな世界」を発掘しています。
本書はかなり難解で、私自身十分に理解できておらず、内容が支離滅裂となってしまいました。ただ、この難解な本書の最後で述べられている言葉は、非常に印象的でした。
「四歳の孫娘ソアジクに、私は根気よくヴェルサンジェトリックス(古代ガリアの英雄)やカピトリウム丘の鵞鳥(古代ローマの伝説)について語る。一語一句も変えない。変えると抗議される。根気よく孫娘は耳を傾ける……。後にもっと大きくなれば、同じ話の少し違った形を教えたり、いろいろな物語を比較したり、証言を分析したりして歴史を作る作業に加わってもよいだろう。まず保存し、次に理解される。これが歴史家の二重の役割なのだ。」
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