2015年10月24日土曜日

映画でオランダの二人の画家を観て

はじめに
 オランダは、スペインから独立した後、17世紀には経済・文化の黄金時代を迎えました。オランダはカルヴァン派を採ってはいましたが、宗教の自由を認めており、カトリック、他の国で弾圧された新教徒、ユダヤ教徒などが多数おり、また商売で大もうけした成金が闊歩するなど、雑然としていました。こうした中で、市民階級が大きな力をもつようになり、彼らも絵画を買うようになります。 

 当時の芸術家は、原則的には注文主によって依頼され、その依頼に従って作品を作るのが一般的でした。例えばミケランジェロの彫刻や壁画は、メディチ家やローマ教皇のような有力の注文主がいて初めて制作できる分けです。ところが、当時のオランダで市民階級が注文主になることが多くなり、彼らは大規模な作品よりは、居間に飾る程度の作品を望みます。そうしたこともあって、当時ヨーロッパで流行していた絢爛豪華なバロック様式は、オランダではあまり見られず、むしろルネサンス以来の写実主義が受け継がれていました。また絵画の対象も、肖像画、風景画、静物画、風俗画(日常生活を描いたもの)が多く描かれました。
ここで紹介する二人の画家レンブラントとフェルメールは、ほぼ同じ時代にオランダで活躍した画家で、二人ともライデンの出身です。レンブラントはアムステルダムで活躍しますが、フェルメールは生涯ほとんどライデンを出ることがありませんでした。















レンブラントの夜警

 2007年にカナダ、フランス、ドイツ、ポーランド、オランダ、イギリスによって制作された映画です。1642年に制作された集団肖像画「夜警」が描かれた背景を、推理小説風に描いています。




































(ウイキペディア)


 レンブラントは、1606年にライデンで生まれ、そこで絵画の修行をした後、163024歳の時、活動の場を首都アムステルダムに遷します。しだいに彼の名声は高まり、大きな仕事もはいるようになり、1633年には富裕な一族の女性サスキアと結婚し、彼は創作活動に没頭することができました。1640年に、市民自警団から集団肖像画を依頼され、18人の団員がそれぞれ同じ額の金額を払うことになりました。1642年に完成された絵は、縦3メートル63センチ、横4メートル37センチという相当大きな絵で、斜め上から光がさしており、「光と影の画家」の面目躍如といった絵です。この光の当て方はレンブラント・ライトと呼ばれ、今でも広く使われている方法だそうです。本来この絵は昼間書かれたものですが、夜のように見えるため「夜警(Night Watch)」と呼ばれるようになりました。

 この時代に集団肖像画が流行しており、皆が同じような姿勢で、静止して並んでいる場面を描くのが普通でした。ところがこの絵には、今にも警備に出かけようとしている様子が描かれており、まさに演劇の舞台の一瞬を切り取ったような躍動感があります。しかしこの絵は、注文主たちには不評でした。この絵でまともに描かれている人物は、中央の二人だけで、他はやっと顔だけが描かれているだけだったり、中にはその顔も隣の人物の手で半分隠れてしまっている人もいます。皆同じ金額を払っているのに、不公平ではないか、という分けです。画家は、注文主の依頼を受け、注文主の意志に沿って描く職人です。しかし、すぐれた芸術家は、それだけで満足せず、自分の芸術を追求することがあります。この絵は、まさにレンブラントが自らの信念に従って描いたものと思われます。

(ウイキペディア)


映画は、この絵に描かれた様々な人々の様々な表情から推測して、サスペンス・ドラマとして制作されました。映画では、この絵が発注された頃、隊長が殺害され、副隊長が逃亡するという事件がありました。レンブラントは、この事件の真相を絵に描きこんでいきます。また、新しく任命された隊長はホモ・セクシャルで、その手は、隣の副隊長の股間に伸びています。さらに軍曹は孤児院を経営しており、孤児院の少女たちに売春をさせていました。実は絵に描かれている少女は、孤児院の少女で、見方によっては彼女の顔は醜く歪んでいると、言えなくもありません。まさに栄光ある自警団は悪の巣窟であることを知ったレンブラントは、それを絵の中に書き込んだ分けです。ただし、これはあくまで映画の上での推測であり、推測としても無理があるように思います。
 この絵によって、レンブラントは自警団を敵に回し、仕事の注文が減り、没落していったといわれ、この映画でもそういう視点で制作されています。しかし、レンブラントは、この絵を描き始める少し前に二人の子供をなくし、絵を描き終わった年に妻をなくします。その後、自らの贅沢癖と投機の失敗により、没落していったというのが真相のようです。最後は、ユダヤ人街のうらぶれた一室で、1669年に看取る者もなく死んでいったそうです。63歳でした。

 この映画は、推測に無理があることと、映像が少しグロイので、あまり私の好きな映画ではありません。ただ、この映画を通して、レンブラントの「夜警」をじっくり見る機会を得ました。実はこの絵には、レンブラントの自画像も描かれているのです。

真珠の耳飾りの少女





















                                        (ウイキペディア)

2003年のイギリス・ルクセンブルクの合作映画で、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の制作過程を描いています。この映画は、同名の小説を映画化したもので、その小説の作者トレイシー・シュヴァリエは、この少女の意味ありげな微笑みに魅入られ、19歳の時から寝室にこの絵(模造品)を飾っているのだそうです。この絵は、もともと「青いターバンの少女」とか「ターバンを巻いた少女」と呼ばれていましたが、この映画をきっかけに、「真珠の耳飾りの少女」と呼ばれるようになったそうです。なお、この絵は44.5 cm × 39 cmという小さなものです。
 フェルメールは、1632年にライデンの中流家庭で生まれ、生涯の大半をライデンで過ごしました。1653年に富裕な母親をもつカタリーナと結婚し、さらに富裕なパトロンを得たこともあって、ラピスラズリを原料とした高価な青い顔料も買うことができました。これが、フェルメールの絵を特徴づけるフェルメール・ブルーと呼ばれる色です。しかし1670年代に英蘭戦争に敗北すると、絵画市場は大打撃を受け、1675年に大きな借金を抱えて死去しました。43歳でした。彼には子供が11人もおり、妻は結局破産し、1687年に過酷な生活の中で死亡しました。
 映画では、グリートという17歳の少女が、家政婦としてフェルメール家を訪れたところから始まります。家では子供が走り回り、妻のカタリーナは妊娠中、家を取り仕切っているのは、この家の所有者であるカタリーナの母、そしてもう一人ベテランの家政婦がいました。フェルメールはいつも寡黙で、2階のアトリエには子供たちが入ることを禁止していますが、喧騒に耐え、妻の愚痴に耳を貸していました。そんな中で、グリートはひたすら仕事をしますが、アトリエを掃除している時に、フェルメールの絵を見て感動します。フェルメールもグリートに特別な美的センスがあることに気づき、彼女に絵具を混ぜることを手伝わせたり、さらに彼女をモデルにして絵を描こうと考えるようになりました。
 妻のカタリーナは、いつも夫とアトリエに籠っているグリートに嫉妬します。それには女としての嫉妬もありますが、グリートが自分より夫の絵を理解できることへの嫉妬もありました。カタリーナは、夫に才能があることを理解していましたが、絵そのものについては、ほとんど理解できていませんでした。そうした中で、フェルメールが妻に内緒で、妻の真珠の耳飾りをグリートにつけさせて絵を描きました。フェルメールにとって、グリートの目の輝きとのバランスをとるために、どうしても必要なものでした。それを知ったカタリーナは半狂乱となり、絵を切り裂こうとしますが阻止され、結局グリートを追い出されてしまいます。
 こうして、今日多くの人々に愛されている一枚の絵が完成します。全体は黄色を基調とし、そこにフェルメール・ブルーが映えています。そして何よりも、目と真珠が見事に調和しています。彼女の目や口は何を語りかけているのでしょうか。多くの人々がこの絵に魅せられ、「北方のモナ・リザ」とさえ言われています。レンブラントの「夜警」と同様、この絵をじっと見つめている内に、この映画で語られたエピソードが創造されていったのだと思います。もちろんそれは創作されたものであり、事実ではありませんが、先に見た「レンブラントの夜警」とは異なり、この映画はまったく無理なく受け入れることができる内容でした。また、映し出される映像もフェルメール風で、地方都市デルフトの風景や、人々の日常生活がよく描かれていました。


フェルメールの絵は17世紀には広く認められていましたが、18世紀に忘れ去られ、19世紀に再評価されます。また、フェルメールの絵は個人所有が多いため散逸し、さらに贋作が多く出回っているため、今日彼の絵として特定されているものは37点しか残っていません。どれも、窓から入ってくる光を巧みに利用した「光の芸術」ですが、レンブラントの強烈なコントラストに対して、フェルメールの光は、柔らかくて優しい光だと思います。


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