2015年7月29日水曜日

「波乱万丈のポルトガル史」を読んで

阿部眞穏(まさやす)著 泰流選書 1994
著者は、通算9年間ポルトガルの日本大使館に勤務した人物です。以前にも、大使館勤務経験者が著した本を何冊か読みましたが、一般にこうした本は、当たり障りのないことを書く傾向があり、本書にもこうした傾向はあります。ただ、ポルトガル史についての本は、非常に少なく、あまり選択の余地がありませんでした。下にあげた「ポルトガル史」(金七紀男著 彩流社 1996)は、数少ないポルトガル史の専門家によるポルトガルの通史ですが、残念ながらあまり興味をひく内容がありませんでした。ただ、私自身にほとんど知識のない中世ポルトガル史やサラザール独裁体制についての知識を補給した程度でした。
「波乱万丈のポルトガル史」は、まずタイトルに魅かれましたが、読んでみると、この程度の波乱万丈はどの国にもあることです。それでもポルトガルについての知識がほとんどない私にとっては、役に立つ内容もありました。例えば、ドーロ川の河口の両岸にローマ時代からあるポルトとカーレという二つの町を合わせて、ポルトガルとなったそうです。「なるほど」と、かなり低レベルなところで納得していました。ハンガリーの首都ブダペストが、ブダとペストという二つの町を合わせたものである、というのと同じですね。
「エピローグ」で著者は次のように述べています。「ポルトガルの歴史の特徴は、ブールドン著「ポルトガル史」が指摘するように、さまざまの歴史的事件が他の諸国より先に起き、そしてその結果が最後まで残ったことである。かつて西欧第一の先進国だったため、かえって長く後進国にとどまることになった。」

確かにポルトガルは、すでに13世紀に国家を建設し、15世紀にはいち早く海外に進出し、ポルトガル史上最も繁栄した時代を築きました。しかし、地主支配の農村社会はほとんど変わることはなく、むしろ海外からの富によってそれは温存されてきました。あの山の多い小さなポルトガルが存続できたのは、ブラジルを含む植民地からの搾取によるものです。20世紀に民主化の動きが高まりますが、政局は混乱を極め、結局サラザールの独裁体制となります。この体制は、古い農村社会を残したまま、アンゴラやモザンビークなどからの搾取によって成り立っていた体制でした。そして時代は、植民地搾取という経済構造が終わりつつある時代で、どの国も植民地を手放していった時代に、ポルトガルは悪名高い植民地戦争を繰り返し、独裁体制は破綻していきます。









































2015年7月25日土曜日

映画で西欧中世を観て(5)

「バルバロッサ 帝国の野望」

2009年にイタリアで制作されたテレビ用の映画で、12世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1(バルバロッサ=赤髭王)を扱っています。本来200分の映画を120分程に短縮しているため、時々話が繋がらなくなり、また焦点がどこにあるのか、よく分かりませんでした。
まず、神聖ローマ帝国とは何かということについて述べねばなりませんが、私にはとうてい説明しきれません。授業などでも、生徒に納得させるのに最も苦労するテーマです。要するに神聖ローマ帝国とは、800年にカール戴冠によって生まれた「ローマ帝国」のことです。その後フランク王国は分裂しますが、東フランク王国はローマ皇帝位を引き継ぎ、現在で言うドイツとイタリアの国王となった上で、ローマ教皇によりローマ皇帝として戴冠されます。この点については、「映画で古代ローマを観て(2) ザ・ローマ帝国の興亡 5話 コンスタンティン」を参照して下さい(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/)。そして、この段階ではまだ、「神聖ローマ帝国」という表現は用いられず、あくまでも「ローマ帝国」であり、それはすでに滅び去ったローマ帝国を理想とする理念的な帝国ですが、実体としてはドイツ王国とイタリア王国をすぎません。

ロンバルディア同盟(ウイキペディア)

ところが12世紀に登場したフリードリヒ1世は、この理念的な帝国を現実のものにしようとし、教会も支配下におくために、自らを「神聖皇帝」と名乗りました。ここに神聖ローマ帝国という呼称が形成されてくるわけです。もちろんフリードリヒ1世は夢想家ではなく、非常に有能で現実的な君主でしたので、ローマ教皇を支配するためにはイタリアの支配を固めねばならないことは分かっていました。そこで北イタリアのロンバルディアの征服を目指すのですが、この地方には独特の気風がありました。6世紀にゲルマン民族の一派であるロンバルド(ランゴバルド)人がイタリアに侵入し、200年に亘ってイタリアを支配します。ロンバルド人の圧迫を受けたローマ教皇は、フランク王国のカール1世に援助を求め、カールはこれを征服し、800年に彼がローマ皇帝に戴冠されると、ロンバルド人も「ローマ帝国」の一環に組み込まれることになります。ロンバルド人は各地に多数の自立的な都市を建設し、皇帝に対抗するためローマ教皇と連携するようになります。皇帝は常にこれらの都市の反乱に苦しめられ、絶えずイタリアに遠征することを強いられました。これが、神聖ローマ皇帝の「イタリア政策」と呼ばれるものです。
映画は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世とイタリア都市との、こうした対立を描いています。1162年にフリードリヒ1世はロンバルディアの中心都市ミラノを征服し、これを徹底的に破壊します。これに対して、1167年に30程の都市がロンバルディア同盟を結成してフリードリヒ1世と戦い、勝利します。この結果、フリードリヒ1世はイタリア政策を断念せざるを得ませんでした。この時代のヨーロッパでは、封建諸侯や都市が自立化し、一方で王権が台頭して諸侯や都市との間で対立していました。そしてフリードリヒ1世は、イタリア政策を成功させるためドイツ諸侯に譲歩して特権を与え、その結果ドイツの分裂を招くとともに、結局イタリアでも敗北してしまいます。その結果イタリアでは都市の自立化が一層進み、国家の統一がなされませんでした。イギリスやフランスで強力な集権国家が形成されていったのに対し、ドイツやイタリアが統一されるようになるのは、実に19世紀になってからです。
もちろん、ドイツやイタリアの統一が遅れたことをフリードリヒ1世一人の責任にすることはできないし、今日から見れば集権国家がよいのか地方分権がよいのか、といことについては一概には言えません。今日では、EUという枠組みの中で、地方のアイデンティティを重視する傾向が強まっています。それは神聖ローマ帝国という理念的な枠組みの中で、様々な勢力が共存するのと似ています。神聖ローマ帝国という概念は、古くて新しいテーマだと言えます。
この映画自体は、率直に言ってつまらない映画でした。ただ、バルバロッサという珍しい人物を観ることができたことと、コンスタンティヌスの理想の古代キリスト教帝国からカール戴冠を経て、神聖ローマ帝国からEUというヨーロッパに脈々と流れるヨーロッパ統合の一端を垣間見ることができました。

「ブレイブハート」
1995年にアメリカで制作された映画で、13世紀末から14世紀にかけてのスコットランド独立戦争を描いた映画で、前の「バルバロッサ」より100年程後のことです。「バルバロッサ」は、普遍帝国の建設を目指したフリードリヒ1世に対して、ロンバルディアの反乱を扱った映画でしたが、「ブレイブハート」はイングランドによるブリタニアの統一に対し、スコットランドの反乱を描いた映画です。どちらも、普遍帝国や集権国家に対する地方の抵抗を描いています。












スコットランド
 スコットランドは、ケルト系のスコット人を中心に多くの民族から構成され、長く群雄割拠の状態が続き、9世紀にようやく王国が成立しますが、イングランドとの対立は続きます。その上王家内部の醜い争いも続き、それはシェイクスピアの「マクベス」の舞台ともなりました。こうした中で、1286年にスコットランドで王家が断絶し、王家に少しでもつながりのある13人もの人が王位継承を求めたため、収拾不能に陥りました。そこでスコットランドは、イギリス国王エドワード1世に仲裁を依頼しますが、前々からスコットランドの支配を狙っていたエドワード1世は、この機会にスコットランドの支配を目指します。スコットランドの貴族たちはエドワード1世に臣従し、スコットランドに対するイングランドの宗主権を容認します。
エドワード1世はイングランドでは賢王として知られていますが、スコットランドでは「スコットランド人への鉄槌」とさえ呼ばれ、映画では狡猾で残忍な君主として描かれています。彼は、スコットランドに総督をおいて支配するとともに、スコットランドの領主にイングランドの土地を与えて懐柔し、さらにイングランドの領主にスコットランドの土地を与えて支配させます。その結果、スコットランドの農民たちはイングランドの領主の搾取に苦しめられことになります。貴族たちは自分たちの利益だけを追求してイングランドに臣従したのに対し、農民たちには反イングランド感情が強まっていきます。
こうした中で登場したのが、ウィリアム・ウォレスで、彼は実在の人物です。「ブレイブハート」とは「勇者の心臓」という意味で、「勇者の心臓」を入れた木箱を前方に投げ、この心臓を越えて前に進めというような意味だそうで、史実としてはウォレスの心臓のことではないそうですが、映画では「ウォレスを越えて進め」というような意味で用いられています。彼は家族をイングランド軍によって殺されたため反乱を起こし、彼のもとにたちまち多くの農民が集まってきました。1297年にイングランドの大軍を巧みな戦法で破り、彼はスコットランドの英雄となりますが、翌98年に貴族の裏切りもあって敗北します。その後、彼はゲリラ戦を展開しますが、1303年にはイングランド軍がスコットランドを制圧します。そして1305年にウォレスは捕らえられ、八つ裂きの刑という酷刑で処刑されました。
 この映画は、どこまで史実に忠実に描かれているかは分かりませんが、180分近い長編で、かなり見応えのある映画でした。戦闘場面は迫力がありましたが、ロケ中にエキストラが腕時計をしていることが判明し、撮りなおしたそうです。また、私は気づきませんでしたが、戦闘場面で白いバンが写っているようです。

 ウォレスは、スコットランド人としてのアイデンティティを生み出した人物とされています。その後、1318年にスコットランドは実質的に独立を達成しますが、14世紀後半にステュアート朝が成立すると、再び醜い権力闘争が展開されますが、16世紀になるとステュアート家はイングランド王室と婚姻関係を結ぶようになります。そしてエリザベス女王が後継者なしで死亡すると、1603年にステュアート家のジェームズ6世が、イングランドのジェームズ1世として即位します。ここにスコットランドとイングランドが同じ君主を戴く同君連合が成立しました。
 この同君連合は、一見スコットランドがイングランドを支配しているかのように見えますが、事実は逆で、ステュアート家の君主たちはほとんどスコットランドに戻らず、これに対するスコットランドの不満が高まりました。さらにスコットランドとイングランドとの宗教対立もあり、結局17世紀半ばにクロムウェルによるスコットランド征服が行われます。こうして、1707年にスコットランドはイングランドに最終的に併合されることになります。
しかし近年、スコットランドの独立要求が高まっています。2014年にスコットランド独立を問う住民投票が実施され、44.7%対55.3%で否決されましたが、2015年に実施された下院議員の総選挙では、スコットランドに割り当てられている59の議席数のうち、スコットランドの独立を主張するスコットランド国民党が56議席を占めました。日本では考えられないことですが、ヨーロッパでは、前にみたスペインのバスクのように(「バスク大統領亡命記」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/blog-post_8.html)、こうした分離独立の要求を掲げる地域がかなりたくさんあります。


2015年7月22日水曜日

「パイオニアウーマン」を読んで

ジョアナ・ストラットン著(1981)、井尾祥子・当麻恵子訳 リブロポート(1987)
 本書は、著者の曽祖母ライラ・ディ・モンローが、1920年代にカンザス開拓地の800人の女性から集めた記録を基に書かれました。モンロー自身が開拓民の娘で、「カンザスが、何もない所から、しっかりと根の張った地域社会に発展していくのをまのあたりにして、彼女は、そこで出会った開拓地の女性の強さとしなやかな生き方に心を打たれた。そして、若い頃に受けた感動が、40年後になって、彼女をして、開拓地の女性の生活を記録し、遺産を保存することに手を染めさせたのでした。そして800人もの女性が、彼女の要請に応じてリポートを提出してくれました。しかし、彼女はそれを編集することなく死亡し、祖母がこれを受け継ぎましたが、道半ばで終わりました。そして1975年に著者が、屋根裏部屋で発見した、この膨大な資料を整理して出版したのが、本書です。

 本書は、女性の視点からのみ日々の生活を語っており、男性の視点は一切語られません。それだけに、大変興味深い内容ですが、本書には筆者自身も認めている欠点があります。つまり、このような要請に応えてリポートを提出する人は、ほとんど成功者だということであり、開拓者全体のほんの一部にすぎないと思われます。多くの人は、あるいは1年程度で諦めて帰ってしまい、あるいは長年の苦労の後に挫折して帰って行き、あるいは命を失いました。さらに本書には、開拓者たちのために土地を追われたインディアンや、黒人奴隷の声もありません。その意味においては、この本の内容は綺麗ごとと言えるかもしれません。とはいえ、開拓者の女性の生の声を聴くことができ、一読に値する本ではあります。

 なお本書の舞台となったカンザス州は、このブログの「映画でアメリカを観る(3) ダンス・ウィズ・ウルブズ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/3.html)で述べたグレートプレーンズ(大平原)のほぼ中央に位置し、南北戦争前後から本格的な開拓が始まり、19世紀末にほぼ開拓時代は終わります。したがって、モンローが史料を集め始めた1920年代には、開拓時代を経験した人々がまだ沢山残っていました。


2015年7月18日土曜日

映画で西欧中世を観て(4)

はじめに
 十字軍に関する映画を3本観ました。第1回十字軍を扱った「クルセイダーズ」、第3回十字軍を扱った「キングダム・オブ・ヘブン」、テンプル騎士団を扱った「アーン 鋼の騎士団」です。
 十字軍とは何かという問いには、私にはとうてい答えられません。11世紀末期に西欧の人々が、聖地エルサレムをイスラーム教徒から奪回するため、200年程の間に7回遠征を行います。「聖地奪回」といっても、エルサレムがイスラーム教徒によって占領されてから、すでに400年もたっているのに、なぜ今さら「聖地奪回」なのでしょうか。十字軍の原因については、数えきれない程の研究があり、これも到底、ここで述べられるような内容ではありません。
 西ヨーロッパは、西ローマ帝国の滅亡後、長い混乱と外民族の侵入に苦しめられ、長い間内部に閉じこもっていました。しかし11世紀になると人口が急増し、農民は生活に困窮し、領主たちは土地を巡って絶え間なく争っていました。いわばヨーロッパは閉塞状況にあり、人々は突破口を求めていました。きっかけは、セルジューク朝の攻撃に悩まされていたビザンツ皇帝が、ローマ教皇ウルバヌス2世に数千人規模の傭兵隊の派遣を依頼したことから始まり、これに応えて教皇が十字軍の派遣を訴えたことにありました。そしてその結果は、ビザンツ皇帝やローマ教皇の予想を遙かに上回る大運動へと発展していったのです。
 1095年に聖地回復のための十字軍が提唱された後、人々は異常な熱狂に包まれました。実際に十字軍が出発する前に、民衆十字軍と呼ばれる人々が聖地に向かいました。それは農民、商人、年寄、女性、子供、下級騎士など、あらゆる階層の人々が集まり、聖地へ向かったのです。その数は4万人ともいわれています。ウルバヌス2世が十字軍の覇権を訴えたのが109511月で、民衆十字軍が出発したのが翌年4月ですから、人々は、この時を待っていたかのようでした。彼らの多くは武器も持たず、食糧の準備も不十分だったので、途中の村や町で略奪を働きながら進んで生きました。掠奪された村や町にとっては、迷惑としか言いようがありません。
 この事態にビザンツ帝国も驚愕しました。今日風に言えば、突如難民の群れが押し寄せたかのようでした。彼らに食糧を提供するだけでも大変でしたので、ビザンツ帝国は彼らを船に乗せてボスフォラス海峡を渡し、さっさと小アジアへ送ってしまいます。彼らはろくに武器もなく、しかも内部分裂をおこしていましたので、小アジアではたちまちイスラーム軍に蹴散らされ、ここでほとんど全滅してしまいます。そして彼らが出発してから4か月後に、正規の十字軍が出発することになります。

 この時代の西欧は、キリスト教がようやく民衆に定着した時代であり、しかも西暦1千年紀に入ったところで、千年王国の到来を待望する世論が高まりつつありました。くしくも、日本でもこの時代に末法の世の到来が叫ばれ、阿弥陀仏への信仰が高まり、従来、国家や貴族の宗教でしかなかった仏教が、民衆宗教へと発展しつつあった時代でした。これについては、「映画で仏教を観る 親鸞 白い道」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/blog-post.html)を参照して下さい。

クルセイダーズ

2001年のドイツ・イタリアによる合作映画で、「クルセイダーズ」というのは「十字軍」という意味です。この映画で扱われているのは第一回十字軍ですので、時代は11世紀の末期です。場所は特定できませんでしたが、多分南イタリアであろうと思います。南イタリアとシチリア島は地中海のど真ん中にあり、イスラーム教徒との関係も深く、さらにこの時代にはノルマン人(ヴァイキング)が進出してきていました。映画に登場する3人の若者は、ノルマン人の軍隊に入り、彼らの船で聖地へ向かいます。
映画では3人の若者を中心にして、十字軍について描かれます。主人公はピーターで、イスラーム教徒の父とキリスト教徒の母との間に生まれ、叔父に鋳物職人としてキリスト教社会で育てられましたが、いつも異教徒の息子として差別されていました。そして恋人を巡って騒動を起こし、村にいられなくなったため、十字軍に参加しようと決意します。ピーターの友人でアンドリューという羊飼いがおり、彼は十字軍の兵士になって手柄を立て、戦士として成功したいと考えていました。さらにリチャードという領主の息子がいます。彼の父は十字軍遠征から帰ってまもなく、叔父に殺され、リチャードは領地を奪われたため、十字軍に参加することになりました。この三人は、まさに十字軍に参加した人々の三つの類型を暗示していると思います。
しかし、十字軍は遠征途上で略奪を繰り返し、三人とも十字軍に疑問を感じるようになります。その結果、ピーターとリチャードは十字軍を離れ、巡礼のためエルサレムに向かいます。もともと戦士としての成功を望んでいたアンドリューは十字軍の一員としてエルサレムを攻撃します。ピーターは、イスラーム教徒の側に立って十字軍と戦いますが、エルサレムは陥落し、ピーターとリチャードは陥落直前にエルサレムから脱出します。その後エルサレムは、十字軍によって徹底的に破壊、掠奪、殺戮、暴行が行われます。まさにこれが、これが十字軍の実態でした。
ピーターとリチャードは、やがて故郷に帰りますが、リチャードはまもなく病死します。ピーターは恋人と再会し、鋳物師として静かに生涯を過ごすことになります。一方アンドリューも帰国し、十字軍で活躍した褒美として、かつて住んでいた土地の領主となり、チャールズを偲んでピーターとともに立派な教会を建てます。結局、彼らにとって十字軍の戦いは、無意味な戦いでした。
映画は200分を超える長編で、また焦点がどこにあるのかもよく分かりませんでした。しかも、「これからは破壊ではなく、建設を行おう」という陳腐な結末で、あまり出来の良い映画とは言えませんでした。ただ、当時のヨーロッパの閉塞状況と十字軍の実態を知るのには、大いに役立つ映画でした。



 キングダム・オブ・ヘブン

2005年にアメリカで制作された映画で、エルサレム王国の滅亡を、比較的史実に忠実に描いています。なお、「キングダム・オブ・ヘブン」とはエルサレム王国のことです。
前の映画「クルセイダーズ」で観た第1回十字軍は、1099年にエルサレムを陥落させ、そこにエルサレム王国を建国しました。十字軍がエルサレムで国家を建設するにあたって、圧倒的多数のイスラーム教徒やユダヤ教徒を敵に回して統治することは困難であり、したがって、エルサレム王国はイスラーム教国と和平や同盟を結んで平和を維持していくしかありませんでした。こうした政策自体は当然の結果でしたが、しかし、それはもはや聖戦ではなく領土支配であり、聖戦の本来の意味は失われつつありました。
しかし、聖戦のために後から来た人々にとって、それは許しがたい堕落でした。しかも戦争がなければ、掠奪も領土の獲得もできない分けですから、彼らの不満が募って行きます。その結果、王国内部に醜い権力闘争が展開されることになり、エルサレム王国はもはや「天の王国」とはとうていいえない状態にありました。しかし、イスラーム世界自体が分裂していたため、エルサレム王国はなんとか維持されていたのですが、この時代にサラディンという強力な指導者が、イスラーム世界に登場することになります。
サラディンはクルド人の出身で、ダマスクスを中心に勢力を拡大し、やがてエジプトにアイユーブ朝を創建する人物です。彼は教養があり、無意味な殺戮を行わず、ヨーロッパでも騎士中の騎士として知られていました。一方エルサレム王国では、1174年にボードゥアン4世が13歳で即位しますが、彼は非常に才能豊かで、統治者としての能力にも優れていました。1177年、彼は16歳の時にサラディン軍を破り、以後もサラディンと死闘を繰り返しますが、1180年には和平協定が締結されます。サラディンとボードゥアン4世とは、お互いに一目をおく関係にありました。しかし不運なことに、ボードゥアン4世はハンセン病(らい病)に犯されており、子をもうけることもできなかったため、王位継承をめぐる激しい対立が起こっていました。この映画の主人公バリアンがエルサレムに着いたのは、こうした時代でした。
 バリアンはフランスの片田舎で暮らす加治屋でした。ある時立派な身なりの騎士が訪れ、実は自分はバリアンの父であり、跡取りがいないので一緒にエルサレムに行こうと誘います。バリアンは迷った末、父についていくことにしました。父はまもなく死んだため、バリアンは父の領地を継ぐとともに、国王ボードゥアンや姉のシビラにも気に入られます。しかしまもなく彼は、エルサレム王国の権力闘争に巻き込まれていきます。ボードゥアンは甥をボードゥアン5世として即位させ、映画ではバリアンに後事を託して死んでいきます。24歳でした。   
ボードゥアン4世の姉シビラの夫ギーは野心家で、対イスラーム強硬論者でしたので、サラディン軍に無謀な戦いをしかけて全滅し、1187年にエルサレムはサラディン軍に包囲されます。バリアンは僅かに残った兵とともに全力で応戦し、その上でサラディンと交渉します。そして意外にもサラディンは、虐殺も掠奪もしないこと、全住民が安全に退去することを保証しました。かつて十字軍がエルサレムを占領した時、虐殺と掠奪を行ったにもかかわらず、です。こうして1099年に建国されたエルサレム王国は、100年足らずで事実上消滅することになります(形式上は13世紀末まで残ります)
 映画は概ね史実に基づいて描かれています。ただ、主人公のバリアンは実在しますが、実在の人物とはまったく別の人物として描かれています。この間にシビラとバリアンは恋をし、二人はともにバリアンの故郷に帰り、鍛冶屋として静かな生活を始めます。バリアンがエルサレムで暮らした3年程の生活は、何だったのでしょうか。バリアンはエルサレムを去るにあたって、サラディンに「エムサレムとは何か」と尋ねます。これに対してサラディンは「無である。しかし全てである」と答えます。
 バリアンが帰郷した頃、「エルサレム奪回」のための第3回十字軍が発動され、十字軍の騎士たちが彼の村を通過していきます。また、空しい戦いが始まろうとしています。そして映画の最後に、「それから約1000年、天の王国の平和は未だ遠い」という字幕が出て映画は終わりますが、この言葉は陳腐に聞こえます。その後エルサレムの支配者は何度か交替しますが、イスラーム教徒の支配下にあってエルサレムは概ね平和でした。ただ、20世紀になってヨーロッパが進出するようになると、エルサレムを含む中東は、再び混乱状態に陥っていくのです。


アーン 鋼の騎士団
2007年にイギリス・スウェーデンなどにより制作された映画で、スウェーデンのアーンというテンプル騎士団の騎士を扱っています。原題は「アーン テンプル騎士団」で、時代は前の「キング・オブ・ヘブン」とほぼ同じで、12世紀の終わり頃です。
12世紀のスウェーデンについては、私はまったく知識がありませんが、すでにヴァイキングの時代か終わっていたことは確かです。映画ではキリスト教一色に描かれていますが、スウェーデンが完全にキリスト教化したのは12世紀半ばで、この頃まで国王が伝統宗教の儀式を行っていました。映画ではこの頃に国王が暗殺されていますので、もしかすると伝統宗教派とキリスト教派との対立があったのかもしれません。いずれにしても、国王の力は弱く、地方豪族の力が強大で、豪族間の対立が頻発していたようです。
映画の随所で聖母マリアへの崇拝が語られ、しばしばマリア像が象徴的に映し出されますが、聖母崇拝は中世末期に普及する信仰で、12世紀のスウェーデンで聖母崇拝があったとは思えません。これは、スウェーデン古来の信仰が女神を崇拝していたため、古来の信仰とマリアのイメージをだぶらせているように思えました。この時代のスウェーデンの人々には、まだ古来の信仰が残っており、キリスト教と習合していく過程でマリア像が大きな役割を果たしていたのではないでしょうか。そうした観点でこの映画を観ると、大変興味深く観ることができしたが、これはあくまで私個人の勝手な推測にすぎません。
主人公のアーンは地方豪族の家に生まれ、当時の国王とは対立関係にありました。そして対立する豪族の娘を愛し、結婚以前に妊娠させてしまったため、娘は20年間修道院に監禁され、アーンはテンプル騎士団に入って聖地で戦うことを求められます。映画は、森に覆われた寒冷地スウェーデンと、乾燥した砂漠の地シリアを交互に映し出し、苦難に満ちた二人の生活を追います。

ここで、テンプル騎士団について述べておきたいと思います。1099年にエルサレムが陥落し、エルサレム王国が成立すると、多くの十字軍の騎士たちは国に帰って行ったため、エルサレムの防衛が問題となりました。そこで、聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として騎士修道会が創設されます。そのメンバーは、まず第一に厳格な規律のもとに置かれた修道士ですので、彼らは言わば戦う修道士集団ということになります。設立年代順にあげれば、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団などが代表的です。

 テンプル騎士団は、エルサレムの「神殿の丘」に本部が置かれたため、「神殿=テンプル騎士団」と呼ばれました。この騎士団は教皇からさまざまな特権を得るとともに、多くの寄進を受けて財政豊かだったため、イスラーム教徒との戦いでも主要な役割を果たします。また、この騎士団の特異性は、その財政運営にあります。テンプル騎士団には財政部門が存在し、その安定した資金力と武力によって、王侯がこの騎士団に財政資金を委ねるなど、一種の預金業務のようなことを行っていました。さらに、聖地への巡礼者が多額の現金をもって旅をするのは危険なため、テンプル騎士団に手形を発行してもらい、それをエルサレムの本部で現金に交換してもらうという、一種の為替業務まで行っていました。少し話が逸れてしまいましたが、いずれにせよ、アーンがやって来た頃のテンプル騎士団は、その豊富な資金力と軍事力によって、エルサレム王国を守っていました。
 アーンは優れた戦士であり、1177年のサラディンを破った戦いにも参加していました。映画では、この戦いはアーンの功績のように描かれていますが、実際には病身のボードゥアン4世が先頭に立って戦った戦いでした。この間アーンの名声はイスラーム世界にも響き渡り、一度アーンがサラディンを救ったとき、サラディンはアーンを真の騎士として賞賛します。前の映画「キングダム・オブ・ヘブン」でも主人公はサラディンに賞賛されますので、この種の映画ではサラディンに賞賛させることで主人公の偉大さを示すのがパターンのようです。逆に言えば、それ程サラディンの名声が高かったということです。サラディンは色々な人を褒めなくてはならないので、忙しいことです。
 彼は20年間テンプル騎士団で勤めたのち故郷に帰り、20年ぶりに恋人と再会して正式に結婚します。しばらく平穏な時期が続きますが、国王の継承争いに巻き込まれて、再び戦うことになり、彼自身はこの戦いで戦死しますが、戦争には勝利して王国の平安を保つことには成功します。そして最後に字幕で、ここにようやく統一されたスウェーデン王国が誕生したと書かれますが、これが具体的に何を指しているのか分かりません。ただ、戦争の過程でデンマークやノルウェーとの関係が描かれており、興味深く観ることができました。
 映画は200分近い長編で、北欧と聖地を舞台とした壮大な叙事詩で、見応えのある映画でした。ただ、私のような素人には、もう少し説明が欲しいと思いました。


 蛇足ですが、宗教騎士団のその後について述べておきたいと思います。十字軍運動が終われば宗教騎士団の存在は意味を失います。テンプル騎士団はその資金力で金融業者のようにして生き延びますが、14世紀に入って、フランスの強欲な国王フィリップ4世によって弾圧され、金を強奪され、滅びて行きます。ドイツ騎士団は、東欧へのキリスト教布教を名目に東方植民を行い、やがてこれがプロイセン国家の母体となります。そして聖ヨハネ騎士団は、その後ロードス騎士団、マルタ騎士団と名前を変えつつ生き延び、現在もローマに本部を置いて慈善活動を行っています。


2015年7月15日水曜日

「西部の町の物語」を読んで

ダグラス・D・マーティン著(1951)、高橋千尋訳、晶文社(1986)

 本書は、1880年代のトゥムストンという町を、この町の新聞社エピタフ社が発行した新聞をもとに再現しています。
















 トゥムストンという町は、現在アリゾナ州にある、人口1500人程度の小さな町です。1877年に一人の山師がここで銀の鉱脈を発見し、その場所をトゥムストン=墓石と名付けました。まもなく多くの山師たちがトゥムストンに殺到し、1880年には500件もの家が立ち並び、さらに1879年には日刊紙「エピタフ」が創刊されます。「エピタフ」とは、ギリシア語で「墓の上に」を意味するそうです。アメリカでは、町が生れればすぐに新聞社が創設されるようで、こうしいたことがアメリカの民主主義の原動力になっているのだと思います。
 この町が最も活気に満ちていた1880年から1882年までの新聞が、今まで発見されていなかったのですが、著者はこの新聞を発見し、この新聞に基づいて主に1881年から83年までのトゥムストンの町の様子を再現します。この時代には、二度の大火とワイアット・アープのOK牧場の決闘などの事件があり、これらの事件が詳しく書かれています。当時の新聞はどれも同じですが、記事には編集者の思い入れが強く反映されており、必ずしも客観的とはいえませんが、それだけに一層面白く読むことができます。
 その後のトゥムストンは、1880年代半ばに銀鉱山が枯渇したためゴーストタウンとなり、現在では人口1500人程度の小さな町ですが、「1870年代から1880年代にかけての辺境の町の町並みが最もよく保存された例」として国の歴史地区に指定され、観光業が主産業だそうです。なお「エピタス」は、月刊誌として今も残っているそうです。

2015年7月11日土曜日

映画で西欧中世を観て(3)

はじめに
 アーサー王については、このブログの「映画で西欧を観て(1) キング・アーサー」で、要するにほとんど分かっていないことを述べました。ただ、6世紀前後にベイトン山の戦いというのがあり、ブリトン人がアングロ・サクソン人を破ったらしいのですが、その戦いにアーサーが居た可能性があります。この戦争は「キング・アーサー」でも扱われています。その後しばらく平穏な時代が続きますが、20年程後にアーサーの甥と思われるモルトリッドが反乱を起こし、カムランの戦いでアーサーは戦死します。ベイトン山やカムランについて、年代や場所も特定できていませんので、これらはすべて伝説の域を出ません。
 この間にアーサーに忠誠を誓う円卓の騎士が生まれ、さらに理想都市キャメロットを建設したり、王妃の不倫事件が起きたりします。また聖剣エクスカリバーの伝説や聖杯伝説、ドラゴン、妖精、魔法使いなど、さまざまな要素がアーサー王の物語と結びつき、様々なバージョンの騎士道物語が生まれます。ここでは、たまたま私が観た4本のアーサー王に関わる映画を紹介しますが、その他にも数えきれない程の映画があり、欧米人はよほどアーサー王が好きなようです。アーサー王についての研究も数えきれない程あるようですが、未だに「アーサー王は居なかった」とまでは言えない、というレベルのようです。アーサー王自身が伝承の域を出ないわけですから、アーサー王にまつわる様々な物語は、伝承の上塗りということになりますが、ヨーロッパの中世世界の一端を垣間見るのには役立つでしょう。


エクスカリバー 聖剣伝説

 1998年にアメリカで制作されたテレビ用のファンタジー・ドラマで、原題は「マーリン」です。日本語版のタイトルは、ゲームのタイトルを借用したのだろうと思います。
 映画でエクスカリバーはそれ程重要な役割を果たしていませんが、一応エクスカリバーについて説明しておきたいと思います。エクスカリバーはアーサーが使っていた剣とされ、岩に刺さっており、これを抜くことができる者のみがブリテンの王の資格をもつとされます。こうした聖剣に関する神話は世界各地にあり、日本でもスサノウが大蛇の体から取り出した草薙剣(天叢雲剣)は、三種の神器の一つとなっています。「キング・アーサー」では神話的な話が回避されているため、アーサーが父親の墓に刺してあった父の剣を抜いて使ったことになっています。
 映画のタイトルとなっているマーリンとは、イギリスの伝説的な魔術師のことで、トランプのジョーカーのモデルとなっているそうです。アーサー王の物語では、マーリンはアーサー王の助言者として脇役でしばしば登場します。「キング・アーサー」では、現地人の族長で、ア-サーの妻グネビアの父ということになっています。また、この映画でのマーリンは魔術師というより、ハンサムな好人物として描かれています。
 映画は、キリスト教と伝統的宗教との対立という形で進められます。キリスト教に改宗する人々が増え、伝統的な宗教を信じる人々が減って行きます。伝統的な宗教の神々は、信じる人々がいなくなれば消えていくしかありません。こうした中で、妖精の女王メイヴは神と妖精の混血であるマーリンに魔法を教え、彼に国を治めさせようとします。しかしマーリンは魔法を嫌い、真に正義を行える人物に国を治めさせようとします。彼が目をつけたのはアーサーです。マーリンは泉の要請からもらった聖剣エクスカリバーを岩に突き刺し、王にふさわしい者がこの剣を抜けるようにします。そして成人したアーサーは剣を抜き、真の王となります。しかしアーサーを助けさせるためにマーリンが連れてきたランスロットが妃と不倫をし、さらにアーサーの不倫の子モルドレッド(あるいは弟)が反乱を起こします。そしてアーサーとモルドレッドは、戦場で刺し違えて死にます。結局、妖精の女王メイヴもマーリンも、何もなすことができず、歴史は動いていきました。そして伝統的な宗教は忘れ去られ、キリスト教が世を支配するようになります。

 この映画は、従来のアーサー王物語とは異なり、魔法使いマーリンを主人公とし、マーリンの目を通して当時のイギリスの混乱を描いています。そういう意味では新鮮で、面白く観ることのできる映画でした。

円卓の騎士

1954年にアメリカで制作された映画で、典型的な中世騎士道物語=ロマンスで、アーサー王に関わるエピソードがほとんど出てきます。ただ、騎士たちの衣裳は1213世紀頃の騎士の衣裳で、時代考証も何もありません。
 円卓とは文字通り丸いテーブルであり、上座下座を設けないで、アーサーの12人の騎士たちが周りに座って議論するためのテーブルです。これが最初に設けられたのはキャメロットであるとのことで、12人の騎士が座り、彼らは円卓の騎士と言われました。物語のバージョンによっては、数百人の円卓の騎士がいたとされますが、はっきりしたことは分かりません。12人というのは、イエスの12人の弟子を暗示していると思われます。その中には、当然ランスロットが含まれていますが、このブログの「映画で西欧中世を観て2 トリスタンとイゾルデ」のトリスタンも含まれています。
 円卓の騎士は中世騎士道精神の模範とされていますが、そこで示される騎士の徳目とは、武勲を立てることや、忠節を尽くすことは当然であるが、弱者を保護すること、信仰を守ること、貴婦人への献身などです。しかし現実は全く逆で、騎士たちは領地を巡り絶え間なく争い、虐殺・掠奪・放火・裏切り・強姦など、何でもありの連中でした。むしろ騎士道なるものは、そうあってはならないという戒めのようなものでした。ただ、こうした理想型は、後のヨーロッパの社交術に影響を与えたことは間違いありません。また、婦人に対する愛の表現は、決して肉体的なものであってはならず、ほとんど神のごとく婦人を崇拝するというもので、ほとんど倒錯的なものさえ感じられます。日本の武士道は、婦人にたいする態度は別として、外見的には騎士道とよく似た側面をもっています。ただ、根本的な違いは生死観にあるように思います。騎士は死を恐れませんが、死を目的とはしません。しかし日本の武士道は、たぶんの禅の影響と思われますが、死を究極の目標としているように思われます。
もう一つ、この映画で扱われているのは、聖杯伝説です。聖杯とは、イエスが最後の晩餐で使徒たちにワインを飲ませた杯のことで、この盃を発見すると王の病が治るとか、国が安定するといった伝説です。こうした伝説は聖遺物崇拝と呼ばれ、十字軍運動の前後から大流行したもので、12~13世紀にアーサー王伝説に取り込まれたと思われます。すべての騎士が聖杯を捜しに出かけますが、映画ではパーヴェルという騎士が発見したことになっています。しかし、現実にはやがてアーサー王は死に、国も乱れるようになります。
この映画は、アーサー王に関する多くの伝説を扱っていますが、ただごちゃ混ぜにして放り込んだだけという映画で、12~13世紀に流行した騎士道物語=ロマンスそのものでした。

トゥルーナイト

 1995年にアメリカで制作された映画で、原題は「ファースト・ナイト(第一の騎士)」で、何故日本語版のタイトルを「トゥルーナイト」にしたのか、よく分かりません。この映画は、事実上ランスロットを中心とした物語で、後はお定まりの内容、アーサーとモルドレッドの対立、ランスロットとグィネヴィアの恋が描かれています。
 ランスロットはフランスの領主で、ブリテンに武者修行の旅に出ます。当時は、イギリスからブルターニュに渡ったり、ノルマンディーからブリテンに渡ったりすることはよくあることで、今日のようなフランス・イギリスという区別は在りませんでした。ランスロットは、武術において右に出る者がなく、アーサー王に気に入られて「第一の騎士」と呼ばれるようになります。トランプのジャックがランスロットをモデルとしているそうです。ただ、この映画では自由奔放に生きるランスロットが描かれています。
 ランスロットに関しては様々なエピソードがあり、中世騎士道物語の花形ですが、アーサー王の妃グィネヴィアに道ならぬ恋をしてしまいます。この後のバージョンは様々で、この映画では二人が裁判にかけられ、死刑の判決を受けるところで、モルドレッドが攻めてきたため、一致協力して戦うということになっています。別のバージョンでは、グィネヴィアが火炙りになるところをランスロットが助け出し、フランスに帰ります。アーサー王は彼を倒すためにフランスに遠征しますが、その隙をついてモルドレッドがアーサーの城を攻撃したため、急きょアーサーは帰国し、ランスロットもアーサーを助けるためにイギリス渡ります。結局この戦いでアーサーもモルドレッドも死んでしまい、ランスロットとグィネヴィアは出家します。いずれにしても、アーサー王の物語は、アーサー王自身より周辺の人々が主役になっていく傾向があるようです。
 映画では、自由奔放なランスロットと情熱的なグィネヴィアとの恋が描かれ、それなりに面白く観ることができました。

キャメロット

1967年にアメリカで制作された映画で、ミュージカルです。上に述べた「円卓の騎士」と「トゥルーナイト」と比べて、内容的には、登場人物の出自が異なるだけで、話の筋はほとんど同じです。キャメロットとは、アーサーの王国の理想の都で、その所在も実在も分かっていません。何しろ、キャメロットという名称自体が登場するのは、1213世紀頃の騎士道物語においてですので、存在事態が疑わしいと言わざるをえません。
 この映画はミュージカルなので、ドラマを盛り上げるためには何でもしますから、時代考証や歴史的意味など考える必要はないと思います。ただ、ミュージカルとして楽しめば、結構楽しめる映画です。

 アーサー王に関わる映画を5本観ました。最初の「キング・アーサー」は、事実かどうかは別として、現実感のある映画であり、民族大移動期におけるイギリスが置かれた立場を理解するのに役立ちました。「トリスタンとイゾルデ」のトリスタンは、アーサー王の円卓の騎士の一人でしたが、アーサー王は全く登場しません。多分、アーサー王とは別個に生まれた話が、アーサー王に関連付けられただけだろうと思います。「エクスカリバー」は魔法使いのマーリンを主人公とする異色の映画でした。「円卓の騎士」はつまらない映画でしたが、アーサー王に関わるさまざまなエピソードが扱われており、それなりに参考になる映画でした。「トゥルーナイト」と「キャメロット」は、ランスロットとグィネヴィアの恋を描いた映画で、ただ楽しめばよいという映画でした。
 いずれにしても、アーサー王の物語は、しだいにアーサー王自体は脇役に追いやられ、王の周辺の人々が主人公になっていく傾向があるようです。


2015年7月8日水曜日

アメリカ黒人奴隷の歴史を読んで

「アメリカ黒人の歴史」

ベンジャミン・クォールズ著(1987)、明石紀雄・岩本裕子・落合明子訳 明石出版(1994)
 アメリカの黒人奴隷に関する本は、過去にも何冊も読みましたので、本書に描かれていることは、概ね知っている範囲内のことでした。ただ本書は、単に奴隷の悲惨さや不当性について述べるだけでなく、アメリカの歴史において黒人が果たした役割を体系的に述べています。アメリカの生産のあらゆる分野で黒人が果たした役割、独立戦争や南北戦争で黒人が果たした役割、そして奴隷制問題を議論していく過程でアメリカの民主主義の発展に果たした役割などが述べられます。内容は多岐にわたりますが、宗教が奴隷制の発展に果たした役割に触れてみたいと思います。
 1619年に初めて20人の黒人がヴァージニアに連れてこられましたが、彼らは奴隷ではありませんでした。当時の法によれば、キリスト教に改宗した奴隷には選挙資格が与えられることになっていました。不信心者はキリスト教徒になるべく奴隷とされたのであるから、彼らが改宗するならばもはや身分を拘束しておく根拠がなくなるということです。中南米でも、先住民を改宗させることがスペイン人の第一の義務であり、一応建前上は先住民を奴隷とすることはできませんでした。
 しかし労働力に対する需要はますます高まって行きます。初めは白人に対して行っていた年期奉公人という形を黒人にも適用しましたが、この場合年期が明ければ解放せねばなりません。17世紀後半になると、洗礼が奴隷の自由を意味するなら、奴隷の所有者は黒人への洗礼を拒むことになり、そのため教会からもこの制度に対する反対が起こってきました。結局、植民地議会は、「奴隷であれ、自由人であれ、洗礼はそれを受ける人の地位を変えるものではない」という決定を下します。

 そして奴隷制が定着すると、「奴隷は皆、白人は神の命令で支配していること、そして、この白人神授説に疑問を唱えることは……神の怒りを招くと、教えられた。奴隷の状況は天の主人の御意志の成就したものであると告げられた」という考えが普及し、教会も奴隷制の普及に一役買っていたのです。中南米でもでも同じように、教会はインディオに「地主に逆らうことは、神に逆らうことである」と教えていました。


「数奇なる奴隷の半生」

フレデリック・ダクラス著(1845)、岡田誠一訳、法政大学出版局リブラリア選書(1993) 。フレデリック・ダグラス(1818-95)は、メリーランドで奴隷の子として生まれ、1838年に20歳の時に北部へ逃亡し、その後、奴隷解放運動に身を投じます。そして1845年に本書を出版し、大変な評判となりました。
 本来、奴隷が読み書きを覚えることは厳しく禁じられていましたが、彼は主人に隠れて読み書きを覚えました。また奴隷の脱走は非常に困難であり、命がけの行為でしたが、彼がいたメリーランドが自由州に近かったことにも助けられ、脱走に成功します。彼の文章は、感情の高ぶりを抑えた淡々とした名文で、それだけに一層人々の心をとらえました。私は過去に、アメリカ黒人奴隷に関する本を何冊も読み、また映画も観ました(「映画でアメリカを観るhttp://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/2.html)。そしてこれらの作品にも本書からの引用が多数あったはずですので、内容的には知っていることが多かったのですが、それでも直接その文章を読むと、心を打たれます。
 以下に、印象に残った部分を2カ所だけ引用します。
 
 頭に浮かんだ考えは―たとえ言葉ではなくとも、音に現れたのだ。また、音と同じ頻度で言葉に現れたのだった。彼らは時々、最も熱狂的な調子で最も悲しい感情を唄い、また、最も悲しい調子で最も熱狂的な感情を唄ったものだった。


 その休日は、奴隷制の最もひどい欺瞞、不道徳、残酷さの、肝心かなめの部分と言ってよい。それは表面上は奴隷所有者の慈悲心によって作られた習慣なのだ。だが、それは利己心の結果であり、虐げられた奴隷になされた最もひどい欺瞞の一つだ、と私は請け合って言う。奴隷所有者が奴隷たちにこの時間を与えるのは、この期間は奴隷たちに働いてもらいたくないからではなくて、奴隷たちからそれを奪うのは危険だろうとわかっているからだ。このことは、奴隷たちがまさにその休日が始まるのを喜ぶのと同じように、終わるのを喜ぶよう、奴隷所有者たちは奴隷たちにその休日を過ごさせたいと思っている、という事実によってわかるであろう。彼らが目指すことは、奴隷たちを遊興の最も深い深みへと陥れることによって、「自由」にうんざりさせることであるようだ。たとえば、奴隷所有者は、奴隷が自発的に酒を飲むのを見たいと思うばかりでなく、奴隷を酔っ払わせるためにさまざまな計略を取り入れるであろう。ある計略に、誰が酔っ払わずに一番多くのウィスキーを飲めるかもということで奴隷に賭ける、というのがある。こうして彼らは多数の奴隷たちみんなに過度に飲ませることに成功するのだ。したがって、奴隷が高潔な自由を求めるときには、奴隷の無知を知っているずるい奴隷所有者は、自由という名前のラベルを貼ったひどい遊興を一服与えて、彼を欺くのである。私たちの大多数の者はそれを飲み下したものだった。そして、その結果は想像される通りだったのだ。私たちの多くは、自由と奴隷制の間にはほとんど選ぶところがないと、考えさせられたのである。私たちは、ラム酒の奴隷でも、人間の奴隷でもほとんど変わるところがない、と考えたが、それはまったく的を射たことだったのである。したがって、休日が終わると、私たちは酒に溺れていた堕落な状態からよろよろと立ちあがり、深呼吸し、主人が私たちをだまして自由だと思い込ませていたものから、奴隷制の腕の中へと戻って行くのを、概して、むしろ喜びながら、畑へと進んで行ったのである。


「奴隷文化の誕生」

トーマス・L・ウエッバー著(1978)、西川進監訳・竹中興慈訳、新評論(1988)
 本書には「もうひとつのアメリカ社会史」というサブタイトルがついており、奴隷制社会における黒人コミュニティーを、文化人類学的な手法で描き出しています。資料としては、前に述べた「数奇なる奴隷の運命」のようにかつて奴隷だった人物が書いた自伝などがありますが、こうした資料は奴隷制の残忍さを強調する傾向があります。それに対して、奴隷制度時代や解放後に、奴隷やかつて奴隷だった人々に多くの「聞き書」が行われ、それらがふんだんに利用されます。
 白人は、奴隷が従順で勤勉であるように教育しますが、その教育はほとんど役に立っていませんでした。黒人のコミュニティーの中で独自の文化が形成され、その文化が子供たちに伝えられていきました。「アメリカの奴隷制下の文化は深い河にたとえることができる。偉大なアフリカの水源をその源としているが、この絶えず移動し、常に変化する河は1850年代までにははっきりとしたアメリカ的な姿となって現れた。新しい土地の中に深く流れ込みながら、その河はアメリカの風景に溶け込み、また河が接したそれぞれの岸辺は形を変えた。それは決してアフリカ的伝統の底流を涸らすことはなかった。それは黒人にとっては心を癒す河だった。その水は彼らを再び元気づけ、苦痛に満ちたアメリカの環境から逃れるのを助けた。抑圧された奴隷にとって、彼の文化は深い河のようなものだった。酢の水の中に沈潜することは、自分の文化の独自性と親しむことであった。」
 「すくなくとも、四つのテーマ―共同性、真のキリスト教、黒人の卓越、霊的世界―は白人権力というテーマの無制限な表現と直接対立するものである。奴隷は、彼らが個々の策略をめぐらすことだけでなく、基本的には黒人宗教の神を含む者であるが、霊力の助けや他の奴隷の助けによって白人権力とたたかうことができると思った。神の偉大な力と奴隷制に対する神の断固とした反対を確信することによって奴隷居住区は、神の究極の摂理においては白人権力が無力であることに気づいた。さらに奴隷居住区共同体の奴隷は、特に夜や余暇の時間に白人たちが影響を及ぼそうとしてもほとんど及ぼしえない、奴隷自身の組織を作りだすことができた。」
 黒人は厳しい労働と懲罰を課せられているとはいえ、刑務所に拘留されているわけではなく、居住区共同体の中で、そしてその核となる家庭の中で暮らしていましたので、いかに白人が監視していても、彼らの心の文化まで監視することはできませんでした。その意味では、黒人の居留地はインディアンの居留地と似ており、両者を比較して黒人居留地の在り方を検証しています。

 また、本書は全体に黒人奴隷からの「聞き書き」が広く引用されており、それを読むだけでも十分に興味をもつことができる本です。