2015年5月9日土曜日

映画で古代ローマを観て(1)


ガーディアン ハンニバル戦記

2006年にイギリスでテレビ用に制作された映画です。タイトルの「ガーディアン」というのは、「守護者」といったような意味なのでしょうか。この映画の内容との関連性がわかりません。原題は単に「ハンニバル」です。この映画の背景となったのはポエニ戦争については、「グローバル・ヒストリー 第6章 古代帝国の成立 ローマ帝国―地中海世界の成立」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/6.html)、および「ローマ・カルタゴ百年戦争」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_13.html)を参照して下さい。





 カルタゴは、現在のチュニジアの首都チュニスの近くにありました。カルタゴは紀元前8世紀頃フェニキア人の都市ティルスの中継地として建設され、紀元前6世紀には北アフリカ沿岸・シチリア島・イベリア半島南部に勢力を伸ばし、西地中海の覇者となっていました。この頃東地中海ではギリシア人が活動し、ペルシア戦争が起き、ローマはようやく歴史にその姿を現します。ローマは長い年月をかけてイタリア半島を征服し、紀元前264年に始まったポエニ戦争でシチリアを獲得します。ローマではフェニキアはポエニと発音されていたので、ポエニ戦争とはフェニキア戦争のことです。なお、これより百年程前に、アレクサンドロスが東方に大帝国を建設し、その際にカルタゴの母市ティルスは徹底的に破壊されます。つまり地中海世界は激動の時代だったのです。
 紀元前264年に始まった第1回ポエニ戦争で、カルタゴはシチリアを失いました。ハンニバルの父はローマへの復讐を誓ってスペインへ渡り、そこで軍隊を養成します。彼は夢は実現することなく死亡しましたが、息子のハンニバルが父の夢を実現します。彼は歩兵 50,000、騎兵 9,000、戦象 37 頭の兵力でガリア(フランス)に入り、アルプスを越えます。アルプスを越えた時、彼の兵力は26000まで減っていました。しかしその後ハンニバルはローマとの戦いで連勝し、カンナエの戦いではローマ軍を壊滅させます。ローマは大混乱に陥り、そのままハンニバルがローマを攻めていたら、ローマは消滅していたかもしれませんが、彼はローマを攻めず、その後本国からの援助もないまま、15年間もイタリア各地を転戦します。
 この後ローマはハンニバルとの直接対決を避け、ローマの若き将軍スキピオがハンニバルの拠点スペインや故郷の北アフリカ・カルタゴを攻撃します。イタリアで次第に孤立していったハンニバルは、カルタゴに呼び戻され、カルタゴ近くのザマでスキピオと決戦を行います。そしてハンニバルは敗北しますが、スキピオはカルタゴを攻撃せず、ハンニバルの身柄を要求することもありませんでした。そのためスキピオはローマで非難されますが、スキピオはかつて壊滅状態にあったローマを攻撃しなかったハンニバルへの温情に応えたのかもしれません。
 その後ハンニバルはカルタゴの改革に努力しますが、しだいにローマに追い詰められ、東方に亡命し、やがて自殺します。彼は用兵の天才で、その用兵術は今日に至るまで学ばれ続けています。一方スキピオは、ハンニバルを尊敬し、彼の用兵術を徹底的に学び、それを用いてザマでハンニバルを打ち破りました。しかし彼はローマでは疎まれ、やがて隠遁し、奇しくもハンニバルと同じ年に死にました。ハンニバルは、ローマを恐怖に陥れた最大の敵として、長く人々の記憶に残り、親が子を叱る時に、「ハンニバルが来るよ」と脅したのだそうです。
 映画は、それなりに面白くはありましたが、特に目新しいものはなく、ハンニバルの生涯をドキュメンタリー風に描いたものでした。

スパルタカス

1960年に制作されたアメリカ映画で、紀元前1世紀にローマで発生した大奴隷反乱の指導者を扱っています。
 共和政時代のローマの基盤は、自由な農民にありました。彼らはローマが必要とする作物を栽培するとともに、戦時には重装歩兵としてローマのために戦う軍事力の基盤でもありました。ところが、ポエニ戦争あたりから、農民たちが没落し始めます。従来の戦争は、ローマ周辺か、イタリア半島内で行われていたため、農民たちは農繁期になると故郷に帰ることができました。ところが、ポエニ戦争以来海外での戦争が増えため、農民たちは自分の土地を耕作できないことがしばしば起こってきました。その結果、農民たちは土地を手放し、その土地を一部の有力者が買い占めて大土地経営を行うようになります。
 大土地経営においては大量の奴隷が使役されるようになりますが、当時相次ぐ征服戦争によって、大量の安価な奴隷が流入するようになります。初めは、奴隷の流入は征服戦争の結果だったのですが、やがて奴隷を獲得するためにも征服戦争が必要となり、原因と結果が逆転してしまいます。いずれにしても、奴隷たちはわけも分からず遥か彼方から連れてこられ、売買され、過酷な労働を強いられます。こうした中で、過去にもしばしば奴隷の反乱が起き、大きなものだけでも、スパルタクスの反乱を含めて3度あり、スパルタクスの乱は第3次奴隷戦争と言われています。
 奴隷の大部分は農場や鉱山での肉体労働に使役されていましたが、邸宅内の雑用、家庭教師、職人など多くの職種に従事していました。そしてスパルタクスは剣奴でした。剣奴とは、奴隷同士が戦って殺し合いをするのを見せるために武術を学ぶ奴隷で、民衆に非常に人気のあるショーでしたが、奴隷にとってはショーではなく、文字通り命をかけた戦いでした。スパルタクスは、出身地も、生年も、経歴もはっきりしませんし、反乱の直接のきっかけもよく分かりません。映画では、彼が剣奴の訓練所で働いていた女奴隷に恋をし、彼女が他所に売られることを知って、反乱を起こすことになっています。当初70人ほどの奴隷が反乱を起こしましたが、周辺から次々と奴隷が集まり、女子供を含めてたちまち数万人に膨れ上がり、最終的には30万人に達したとされます。
 スパルタクスは非常に聡明な人物だったようです。集まってきた多くの技能をもった人々の能力を生かし、また無秩序な行為を許さず、巨大な集団生活の共同体を作り上げます。戦術的にも様々な工夫をし、ローマの正規軍を次々と打ち破ります。彼が目指したのは、ローマの支配領域の外に逃れることだったようで、アルプス越えを模索したり、海賊船を雇って海に逃れようとしたりしますが、結局うまくいかず、ローマ軍と決戦を行い敗北します。彼は戦場で死んだとされますが、死体は発見されませんでした。ローマは生き残った6千人の奴隷を磔にしますが、映画ではその中にスパルタクスがいたことになっています。
 結局、反乱は失敗に終わり、その後も奴隷制は続きますが、まったく無意味だったわけではありません。その後ローマでは奴隷に対する過酷な扱いは多少緩められるようになり、さらに地主の中には奴隷制から小作制へと転換する人々も現れました。つまりスパルタクスの乱は、ローマにおける「奴隷制全盛の最後の段階だった」といわれています。また、この反乱はハンニバルと同様、ローマの人々を震撼させ、長く子供が言うことを聞かないと、「スパルタクスが来るよ」といって脅したそうです。

 その後スパルタクスの名は忘れ去られますが、19世紀にカール・マルクスがスパルタクスを階級闘争の見本として高く評価したため、以後彼は社会主義運動の英雄として崇拝されるようになり、20世紀にはドイツで共産党の母体となったスパルタクス団が結成されます。またソ連でスパルタクスの研究が大々的に行われたため、スパルタクスと共産主義が同一視される傾向が生れます。1950年代のアメリカでは、赤狩り旋風が吹き荒れていたため、スパルタクスを主人公とした映画を制作するには勇気がいりました。この映画の原作は、引き受ける出版社がなかったため、自費出版されましたが、大変大きな反響を呼びました。それでも、この映画の制作に対する世論は二分されていましたが、大統領になったばかりのJ.F.ケネディが自ら映画館に出向いて、この映画を鑑賞したため、世論から評価されるようになりました。


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