命を燃やして
2008年に製作されたメキシコの映画で、1930年代から40年代のメキシコにおける一人の女性の生き様を描いた映画です。
主人公はカタリーナという女性で、貧しい家で育ちました。15歳の時に、アンドレス・アセンシオという30代前半の将軍が、突然彼女に求婚し、体を求め、16歳の時に結婚します。彼女は、何も分からないまま性体験をし、妻となり、母となり、夫の人形としての暮らしを淡々と続けます。アンドレスは野心家で、州の知事選に立候補して州知事となり、カタリーナを州の厚生大臣に任命します。彼女はまだ二十歳前ですから、今日から見ればとんでもない話ですが、当時は権力者が周辺を親族で固めるという意味で、そんなことはよくあったようです。
もちろん彼女に大臣が務まるはずはありませんが、陳情者から色々な話を聞く内に、夫の不正行為も知るようになります。夫は殺人や暴力などさまざまな犯罪行為に関わり、さらにあちこちかに女性がいて、他に子供も何人もいました。さらに大統領選挙への立候補も画策していました。こうした中で彼女はしだいに夫から距離を置き、若いオーケストラの指揮者と恋をし、初めて女性として目覚めます。しかし指揮者は夫に殺されてしまったため、彼女は密かに夫を毒殺します。こうして、16歳で結婚して以来、15年の後に初めて彼女は自立した女性として生まれ変わることになります。物語は淡々と進められ、何を言いたいのかよく分かりませんでしたが、一人の女性の成長過程を描いているものだと思います。この映画はメキシコでは大評判だったそうですが、日本では劇場公開されていません。
私は、この物語そのものより、当時のメキシコそのものに関心があり、この映画を観ました。メキシコは19世紀前半の独立以来、他のラテンアメリカ諸国と同様に、政治的にも経済的にも極めて不安定でした。1910年にメキシコ革命が始まり、1917年に極めて民主的なメキシコ憲法が制定されましたが、憲法はほとんど無視され、相変わらず混乱が続いていました。しかし1934年にカルデナスが大統領に当選すると、一連の民主化政策を推進し、メキシコにようやく民主主義が定着していくようになります。アンドレスが活躍した時代は、こうした時代だったのですが、映画にはカルデナスの名前は一度も登場せず、政治には相変わらず陰謀・政敵の殺害・収賄が横行し、正義の片鱗すらありません。
カルデナスの功績は大きいとしても、これが当時の政治の実態なのかもしれません。1940年にカルデナスは引退しますが、その後カルデナスの与党である制度的国民党は一党独裁を続け、腐敗・堕落し、まるで戦後日本の自民党による一党独裁のようでした。そして、2000年にようやく政権交代が実現しましたが、なおさまざまな問題を抱えています。とはいえ、他のラテンアメリカ諸国の中にあって、メキシコは民主主義が最も「順調」に発展してきた国だとされています。
エビータ
1996年のアメリカのミュージカル映画です。「エビータ」は過去に何度も舞台や映画で上演されました。この映画は、アメリカで最も人気のある歌手マドンナがエビータを演じています。エビータとはエマの愛称で、アルゼンチン大統領夫人であり、夫のペロンとともにアルゼンチン国民に最も愛された人物です。
エバは田舎町で生まれ育ち、15歳の時に家出してブエノスアイレスに行きますが、なんのつてもない15歳の少女にはなかなか仕事が見つかりません。初めの内は雑誌のモデルなどをしていましたが、1930年代の後半からラジオや映画に出演するようになります。そして仕事が代わるたびに、相手の男性も代わっていたようです。一方ペロンは、陸軍師範学校を卒業した後順調に出世し、1943年には陸軍次官に任命されるとともに、初代労働福祉協会の長官となり、次々と労働者に有利な裁定を行って国民の人気を得ていました。そして1943年に、二人はあるパーティで出会います。エバは24歳、ペロンが48歳の頃でした。
その後エバはペロンの愛人となるとともに、ラジオ放送で盛んにペロンの宣伝を行います。1944年にペロンが副大統領に就任すると、親ファシズム的で反アメリカ的な態度をとるペロンを嫌ったアメリカの圧力で、1945年にペロンは逮捕されます。これによって、むしろ外国の圧力に屈しなかったペロンは民衆の英雄となり、ペロンの釈放を要求する運動が高まります。そしてエバも、ラジオを使ってペロンの釈放を訴えます。こうした運動の過程で、*多様な民族からなるアルゼンチンが初めて一つの国民としての意識をもつようになります。
*19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパから大量の移民がアルゼンチンに流れ込みます。1914年の段階で、国民の3割が外国出身者という状態でした。したがってアルゼンチン人としてのアイデンティティなど生まれようもありませんでした。
釈放後ペロンはエバと正式に結婚し、1946年に大統領選に勝利し、かくしてエバは大統領夫人となります。そして映画では、ペロンの大統領就任後、エバは大統領官邸のベランダから民衆に向かって、この映画のテーマ曲である「アルゼンチンよ 泣かないで」を歌います。これはなかなか感動的な場面でした。アルゼンチン人という国民が誕生したことを象徴するような場面でした。
大統領就任後のペロンは、労働組合の保護や労働者の賃上げ、女性参政権の実現、外資系企業の国営化、貿易の国家統制などの政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受けます。一方エバも積極的に政治に介入します。彼女は、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立するなど、ブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をしました。
しかしこれらの政策は、財政的基盤のないばらまき政策でしたので、まもなく破綻します。1952年の大統領選挙ではペロンは再選を果たしますが、この年エバは子宮癌で死亡します。33歳でした。葬儀は盛大に行われましたが、エバを失ったペロンはしだいに民衆の支持を失い、1955年に軍事クーデタで失脚しました。1973年にペロンはもう一度大統領に復帰しますが、すでにこの時78歳であり、翌年死亡しました。その後もアルゼンチンの政治は混乱を続けますが、今日でも二人は多くの国民に崇拝されており、いわばアルゼンチン人としてのアイデンティティのシンボルとなっているのかもしれません。
この映画は、アルゼンチンでは不評でした。まずアメリカのセックス・シンボルであるマドンナが、神聖なるエバを演じたことに対する不快感があったようです。また、映画には、チェという名前の狂言回しが繰り返し登場してエマを批判します。キューバ革命で活躍したチェ・ゲバラはアルゼンチンの出身で、映画でのチェは彼を想定していると思われます。もちろんそれはフィクションですが、ちょうどこの頃、彼はアルゼンチンで医学を勉強していました。彼の皮肉たっぷりの口調を通して、民衆に崇拝された「聖なる」エバと、その実像である「俗なる」エバを語っています。そしてこの「俗なる」エバを描いたことが、アルゼンチンで不評だった理由のようですが、見方を変えれば、エバは今日でもそれほどアルゼンチン人に愛されているということです。
なお、マドンナは多くの映画に出演していますが、演技力は今一で、最悪主演女優賞を5回もうけています。しかしこの「エビータ」では、ゴールデングラブ賞を受賞しています。この映画でのマドンナは大変魅力的で、さすがに歌唱力は抜群でした。
話しは変わりますが、ペロンはポピュリストだと言われます。ポピュリズムとは、既存の強力な体制に対抗するため、直接民衆に語りかけ、民衆の利益を約束して支持を得る政治手法のことです。日本語では大衆主義とか人民主義と訳されますが、「大衆迎合」と否定的に捉えられることもあります。しかしそれはもともと衆愚政治化しやすい民主主義の欠点であり、ポピュリストの責任ではありません。古くは、ローマのカエサルが元老院に対抗するため、ローマ市民に直接訴えかけました。また、メキシコでも、前に述べたカルデナスが地主寡頭支配に対して、全国遊説を行いました。そしてペロンは、中南米のほとんどの国で見られる地主寡頭支配に対して、労働者階級の支持を獲得します。最近では、小泉首相が「大衆迎合」という意味でポピュリストと揶揄されましたが、そのような指摘が当たっているのでしょうか。
ただ、ヒトラーやムッソリーニも、資本主義や社会主義といった既成の体制に反対して市民に直接訴え、絶大な権力を獲得しました。彼らもまたポピュリストと言えるのではないでしょうか。いずれにしても、この時代はポピュリストの全盛時代だったとように思われます。それは、一部の人々のみが政治を独占していたのに対して、大衆を政治に参加させる役割をはたしました。ペロンもヒトラーやムッソリーニに親近感をもっていたようで、彼ら程ではありませんが、民衆による熱狂的な支持の裏で、反対者を過酷に弾圧していました。また、アルゼンチンはアイヒマンをはじめナチスの残党の亡命を受け入れましたが、だからといってペロンをファシストと呼ぶこともできないと思います。また彼は、ユダヤ人の差別に対しては断固反対していました。
そして、ひと粒のひかり
2004年に制作されたアメリカ・コロンビア合作映画で、マリアという一人の少女を通して、コロンビア社会の矛盾を描いています。
「コロンビア」の名はコロンブスに由来します。「新大陸」は、これを大陸であることを確認したアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって、「アメリカ」と命名されました。これに対して、19世紀初頭にシモン・ボリバルが独立運動を推進し、中南米にコロンブスの名をとった統一国家の樹立を目指しますが、結局失敗に終わり、コロンビアの名は現在の国にだけ残りました。
コロンビアでは、長く一部の特権階級による寡頭支配が続き、それに反対する勢力は徹底的に弾圧されてきました。こうした中で、左翼によるゲリラ活動が盛んとなり、さらに巨大な麻薬シンジケートが形成され、身代金目的の誘拐、殺人、麻薬シンジケート間の抗争などが頻発します。そのため世界の多くの国は、コロンビアを旅行自粛国に指定している程です。さらに政府の腐敗も大きな問題となっています。経済は比較的順調に発展しているにも関わらず、一般の国民がその恩恵を受けることは少なく、政府は国民の教育にもあまり熱心ではありません。国民の多くは生活難に苦しみ、将来への展望が開けず、麻薬の生産や密売に手を出す人が後を絶ちません。中南米諸国は、大なり小なりコロンビアと似たような状況にあり、アルゼンチンのペロンの試みは、こうした状況の打破を目指したものでした。とはいえ、いまだにこうした体制が維持されている国は、中南米でも少数派になりつつあります。
マリアは地方のバラ農園で働いていました。バラの生花はアメリカや日本などに輸出され、コロンビアの重要な輸出品の一つです。仕事は単調で給料も安く、しかも彼女は母と祖母、さらに姉とその赤ん坊を養っていました。また、大して好きでもない青年と関係を持って妊娠し、さらにバラ園の主任と喧嘩をして仕事を辞めてしまいます。こうした中で、アメリカへの麻薬の運び屋の仕事に勧誘されます。一度で6000ドルもらえるとのことで、これだけあればコロンビアでは家が買えます。
仕事は、小さなゴム袋に麻薬を詰め込み、それを飲み込んで胃袋におさめて渡米することです。小さいとはいっても繭くらいの大きさがあり、これを60個も詰め込むわけですから、大変です。最大の危険は、お腹の中で袋が破裂することで、破裂すれば命は助かりません。事実、彼女の友人が目の前で死に、胃袋を裂かれて麻薬が取り出されました。彼女は怖くなって逃げ出しますが、ある病院で胎児の生育を検診してもらい、エコーで胎児が動く姿を見て、アメリカに残ることを決意します。もちろん彼女は不法移民ということになりますが、アメリカで生まれた子はアメリカ市民となります。コロンビアで子供を産んでも、将来に何の希望ももてませんが、アメリカ市民なら将来にチャンスが与えられます。
アメリカには不法移民が500万人いるといわれ、さらに毎年30万人近くが流入しているとされます。こうした移民はアメリカ人の仕事を奪っていると批判される一方、彼らはアメリカ人がしたがらない低賃金労働力の担い手になっています。移民は社会保障などを受けることができず、低賃金で不安定な生活をしていますが、節約すれば本国に送金でき、本国ではこの送金だけを頼りに生活人いる人々も多いそうです。そして不法移民は、自分はだめでも、子供はアメリカ人になれるという希望をもつことができます。
中南米の少なからぬ国では、こうした貧困のために農民が麻薬の栽培を行ったり、マリアのような普通の少女が運び屋になったりすることは、珍しいことではありません。その中でもコロンビアは、特にひどい国の一つのようです。タイトルの「一粒のひかり」とは、彼女のお腹の子のことだと思われます。コロンビアでは何の希望も見出せませんが、アメリカでなら、少なくとも子供には希望を見出すことができるということです。
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