2014年6月4日水曜日

第2章 東南アジア




















1)東南アジア諸国の独立
東南アジア諸国の植民地化
 東南アジアには古くから多くの国家が興亡したが,君主は人民を支配するのであって,人のいない領土を支配するという観念はなく,人民の移動や増減によって国境は伸縮した。地面に縄張りをして国境を画定するのは,ヨーロッパの近代国家が生み出したものである。
 したがって,今日の東南アジアの国境はヨーロッパの植民地支配が生み出したものであった。
 ヨーロッパ人の進出は16世紀に始まるが,18世紀までは半島部・島嶼部の海岸沿いにわずかな貿易拠点を築いただけで,内陸部にはほとんど関心は示されなかった。

 しかし19世紀になるとヨーロッパ人の進出が本格化しはじめた。特に1869年にスエズ運河が開通すると東南アジアヘの距離が短くなり,それとともに東南アジアヘの民間投資が拡大し,進出の目的が通商から生産と資源開発に転換した。その結果,植民地統治が強化され,他の植民地との国境が画定され,それが今日の東南アジア諸国の国境として引き継がれることになった。


図1のように東南アジアは,タイを除いてほとんどヨーロッパの植民地となり,そのとき東南アジアに刻まれた刻印が今日まで深く残存している。
 こうした東南アジア諸国の独立に決定的な影響を与えたのは日本軍の進駐だった。














ヴェトナム民主共和国の独立宣言
 フランス領インドシナ(ヴェトナム・ラオス・カンボジア)では、1940年にドイツ軍によってパリが陥落すると日本軍が進駐したが,日本軍はフランス植民地当局との協定を結び,従来の植民地機構をそのまま維持して利用し,フランス植民地当局は支配体制の維持を条件に日本に協力するという,日仏共同支配という特異な形が生まれた。
 しかし日本の敗勢が明確になると,フランス側の対日協力派が後退したため, 1945年日本はフランス側を攻撃してフランスの統治機構を破壊し,皇帝バオ・ダイの下に独立を宣言させたが,事実上インドシナは完全に日本の支配下に置かれることになった。
 一方,独立運動のほうは、1941年ホー・チ・ミンがヴェトナム独立連盟(ヴェトミン)を結成し,徹底的な抗日闘争を展開した。
 日本の降伏後,ヴェトミンは八月革命と呼ばれる一連の事件をへて、1945年9月ハノイにおいてヴェトナム民主共和国の独立を宣言した。
 カンボジアでは,日本が降伏するとシアヌークが独立宣言を行ない,彼を国王として新政府が樹立された。1949年にはヴェトナム・ラオスとともにフランス連合内での独立が認められたが,それは形式だけにすぎなかったため,シアヌークは1953年に完全独立の要求をつきつけてタイに亡命した。そして1954年ジュネーブ協定で完全独立が承認され,シアヌークの下で国家建設が開始されるが,やがてシアヌークにとってもカンボジア国民にとっても苦難の歴史が始まることになる。
 ラオスも同様に1954年完全独立が認められるが,ラオスにはもともと統一国家がなかったこともあって,ヴェトナムでの戦乱の影響を受けて政治的混乱が続くことになる。

タイ―東南アジア唯一の非植民地化国
 東南アジアで唯一独立を維持していたタイでは、西欧留学の経験のある官僚・軍人を中心に人民党が結成され、1932年のクーデタによって立憲君主制が樹立された。1938年にピブンが首相になると、1939年には国名をシャムからタイに改称した。第二次世界大戦中,タイは日本軍の通過を認めるという条件で独立を保ち,さらにアメリカやイギリスに宣戦布告することを強いられた。ピブン政権は,かつてフランスに奪われた領土の一部を取り戻すなど,日本の後援を最大限に利用した。
 対日抵抗運動派はアメリカに支援を求め,日本の降伏直前に親日派のピブンを退け,さらに戦争中に占領した領上を返還した。そのため,連合国はタイを敵国として扱わず,タイは,日本軍占領の被害を最小限度にとどめることができた。

ビルマ独立―アウン・サンの抗日闘争
 1942年に日本軍に占領されたビルマは,日本軍をイギリス支配からの解放軍としてとらえ,ビルマ独立義勇軍が積極的に日本軍を支援した。
 しかし,日本軍は口ではビルマ人政治家が行政機構に参加できるなどとしたが,実際にはほとんど実行されなかったため,しだいに両者の対立が激しくなっていく。
 このような中で1944年に反ファシスト解放同盟が結成され、1945年からアウン・サンを指導者に抗日武装闘争を展開した。彼は学生時代からタキン党を結成して植民地闘争に身を挺し,一時日本に亡命して軍事訓練を受け,日本軍とともにビルマに帰ったが,やがて日本に失望するようになり,抗日闘争に転じた。日本降伏後はイギリスと交渉し,   1947年独立を承認させたが反対派により暗殺される。
 翌1948年ビルマは正式に独立を達成した。

マレーシア連邦の成立とシンガポールの分離
 マレー半島では多くのスルタン(イスラーム教国の主権者)が割拠・抗争し,さらに大量の中国人やインド人が流人して社会不安が増大したため,スルタンたちはイギリスと協定してイギリスに行政権を委ね,イギリス領マライ連邦が成立していた。
 太平洋戦争が始まると,日本軍は驚くべきスピードで半島を南下し、1942年にはシンガポールを占領した。日本軍は社会・経済的に大きな力をもっていた華僑を排除し,行政機構においてマラヤ人を優遇するなどして彼らの支持を得ようとした。したがって戦争中本格的な民族運動はほとんど起きなかったし,日本降伏後も独立を推進しようという動きがほとんどなかった。各地に割拠するスルタンたちは,自分たちの権威と利益が守られさえすれば満足していたのである。
 そのためマラヤは,他の地域に比べて独立が大幅に遅れることになった。1949年マラヤ共産党が民族解放軍を結成して反英闘争を開始したが,そのメンバーのほとんどが華僑だったため,広範なマラヤ大衆の支持を得られず,やがてイギリスに鎮圧された。
 この間マラヤ人の間にもようやく独立の動きが生まれ,イギリスもこれに応じて1957年マラヤ連邦の独立を承認した。そして1963,シンガポールと北ボルネオのサバ・サラワクを含めたマレーシア連邦が成立する。
 シンガポールは当初単独では経済が成り立たないと考えてマレーシア連邦に参加したが,華僑中心のシンガポールはマレー人優遇政策に反発し、1965年に独立した。

インドネシア独立―スカルノとパンチョシラ
 インドネシアでは,イスラーム知識人を中心としたサレカツト・イスラーム(1911年結成),   1920年アジアで最初に設立されたインドネシア共産党,スカルノの指導するインドネシア国民党などが独立運動を推進し,さらに1939年には諸団体が連合してインドネシア政治連盟が結成された。
 1942年オランダがジャワ海海戦で敗北し,日本がインドネシア全土を制圧すると日本軍は,捕えられていた民族主義者たちを釈放し,オランダ語による教育を禁止してインドネシア語による教育を義務づけるなど,現地人の懐柔に努めた。そのため,民族主義者たちは日本人司令官の黙認の下に独立準備を進めることができた。
 日本は容易に独立を認めようとしなかったが,戦争末期になるとようやく独立承認を決意した。1945年3月に独立準備調査会が作られ,6月にその会合が聞かれたとき,スカルノが有名な演説を行なった。それは独立後の国家建設の五大原則を示したもので,パンチョシラと呼ばれている。①インドネシア民族主義,②国家主義または人道主義,③話し合いまたは民主主義,④社会福祉,⑤神への信仰。これは現在もインドネシアの基本理念となっている。
 1945年8月18日,インドネシア共和国の独立が宣言されたが,オランダが拒否したため武力闘争が開始された。武力闘争とはいっても,スカルノらの独立運動は都市での政治工作が中心で,ほとんど武力闘争の経験がなかった。しかし各地で自然発生的に起こってきた武力闘争がやがて統合され,これが後の国軍の起源となるが,このように独立運動を担った政治勢力とは別個に発生した軍隊の存在は,その後インドネシアに大きな影を落とすことになる。
 ともあれ,国連の仲介でハーグ協定が結ばれてオランダはインドネシアの独立を承認し,   1949年インドネシア連邦共和国が成立した。

フィリピン独立―アメリカヘの従属化
 フィリピンは1898年以降アメリカ植民地となったが,アメリカは建て前上,民主主義国家の自立を助けることを植民地支配の目的としていたため,フィリピンに多くのアメリカ人教師を送り込み,英語による小学校教育を普及させた。さらにフィリピンの農鉱産物はアメリカに非課税で輸出されたため,フィリピン経済はおおいに発展した。しかし世界恐慌が起きると,アメリカの農民やキューバに投資していた砂糖業者がフィリピン農産物の輸入削減を要求し,さらに労働者はフィリピン労働者の出稼ぎの排除を要求した。その結果,1933年,10年後のフィリピン独立を約束する法案が議会で可決された。
1942年アメリカが敗北して日本軍がフィリピンを制圧すると,地主・財閥を中心とした支配層は日本軍に迎合し,1943年独立宣言を行なったが,形式だけにすぎなかった。
日本軍が敗北すると,日本軍に協力しなかったリベラル派の政治家たちが独立の準備を進め,戦争中抗日闘争を続けたゲリラグループ・フクバラハップも自主的に武装解除したが,アメリカの支援を受けた対日協力派が巻き返し,結局彼らを中心に1946年フィリピンは独立を達成した。

2)戦乱やまぬインドシナ
ホー・チ・ミンの抗日闘争
 ヴェトナム独立とインドシナ戦争を指導したホー・チ・ミンについては,不明な点が多い。彼自身も自分の経歴について多くを語らなかったし,また逃亡生活の過程で何度も名を変えているため,彼の行動の軌跡を正確に追うことが難しいのだ。
 彼は, 1911年宗主国フランスに渡った。そこでホー・チ・ミンが見出したものは,祖国の植民地人を人とも思わぬようなフランス人ではなく,フランス革命の精神を受け継いだフランス人だった。ホー・チ・ミンはフランスの社会主義者たちと幅広く交際するが,彼らも彼の聡明さと温厚な人柄に引き付けられたようだ。やがて彼は共産党に入党し,   1923年にソ連を訪問した後, 1924年中国に入った。ここで彼はあわせて20年近く活動することになるが,その生涯は波瀾にとんだものだった。 1925年ヴェトナム青年革命同志会,さらに1930年にはヴェトナム共産党を結成。その後香港で逮捕されて獄死したとの噂が流れたが,実は脱走して1935年モスクワでのコミンテルン第七回大会に出席した。1941年からは前述のヴェトミンを結成して抗日闘争を行ない、1942年に初めてホー・チ・ミンという名で登場し,ハノイでヴェトナム民主共和国の独立を宣言した(新憲法はその前文で『アメリカ独立立言』の前文を引用しているが,ヴェトナムはやがてそのアメリカと長期におよぶ戦争を展開することになる)

インドシナ戦争
 しかしインドシナヘの復帰をめざすフランスは,サイゴンの行政権を奪って南部の分離を図った。
 そのため194612月にホー・チ・ミンはフランスに全面抗戦を宣言し,ここにインドシナ戦争が勃発した。この間ホー・チ・ミンはフランスに対し,今ならフランスのメンツと利益を損なうことなく解決できること,ヴェトナムには強硬派が多くおり,今を逃せば自分も彼らを説得できなくなることを説明し,フランスの妥協を求めたが,フランスは応じようとしなかった。また彼はアメリカにも援助を求めたが,アメリカはこれを無視した。
 戦争はフランス軍が都市を占領し,ヴェトナム軍が山岳地帯を拠点として抗戦する形となり,そのまま膠着状態に陥った。
 1949年には成立しだばかりの中華人民共和国がヴェトナム民主共和国の全面的支援を開始し,一方フランスはバオ・ダイを首班にヴェトナム国を建国して対抗した。
 バオ・ダイはヴェトナム最後の王朝である阮朝の君主で,フランスに留学後即位し,フランス統治下での機構改革に情熱を燃やしたがことごとく失敗に終わり,以後無気力となって日本の傀儡政権を担い,日本の敗北後,退位するが,再びフランスの傀儡政権を担うことになった。
 第二次世界大戦ですでに疲弊していたフランスには,戦争の継続はかなり負担となり,当初からアメリカに援助を求めていたが,植民地支配に反対するアメリカはこれに冷淡だった。
 ところが1949年に中華人民共和国が成立し,さらに1950年に朝鮮戦争が勃発すると,アジアでの共産主義の台頭に脅威を抱いたアメリカは,本格的にフランスの援助を開始した。この時から戦争の性格は大きく変わり,フランス軍は反共十字軍と化した。
 これに対してヴェトナム民主共和国も共産主義的改革をつぎつぎと実施し, 1953年には解放区で土地改革を実現させた。さらに1954年,すぐれた戦略家ボー・グエン・ザップの率いるヴェトナム民主共和国軍がフランスの要塞ディエンビエンフーを陥落させ,インドシナ戦争の勝敗は決した。
 1954年,ベルリン四国外相会議(米・英・仏・ソ)の合意にもとづいてジュネーブ会議が開かれ,ディエンビエンフーの陥落後インドシナ問題の討議は本格化し,国際舞台にデビューしたばかりの周恩来が東奔西走して休戦協定(ジュネーブ協定)にこぎつけた。協定は,北緯17度線を暫定的軍事境界線とし,フランス軍はすみやかに撤退し, 1956年に統一選挙を行なうというものであった。当時ヴェトナム民主共和国は国土の3分の2を手中にしており,17度線への後退は大幅な譲歩を意味した。それにもかかわらずこの協定を受け入れたのは,ソ連と中国の圧力によるものだった。スターリン死後のソ連はヨーロッパでの自国の安全保障を優先してフランス案を支持したし,中国にとっても朝鮮とヴェトナムでの紛争の長期化は自国の安全を脅かすとともに,ヴェトナムに強力な国家が成立することは好ましくなかったのだ。

南ヴェトナム解放民族戦線の結成
 ところがアメリカはジュネーブ協定調印直後にこの協定に拘束されないと声明し,さらに東南アジア集団防衛条約機構(SEATO,アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・パキスタン・フィリピン)を発足させて,反共軍事体制を固めていった。
 また、1956年の統一選挙でホー・チ・ミンが大統領に選ばれることは明らかだったので,アメリカは選挙の実施を阻止するために全力を傾けた。
 まず1955年ゴー・ディン・ディエムを大統領にヴェトナム共和国を樹立させ,この政権に軍事・経済援助を与えた。しかしディエム政権は腐敗堕落して民衆の不満がつのり、   1960年には南ヴェトナム解放民族戦線(通称ヴェトコン)が結成された。
 1960年代になると民主党のケネディ政権の下でヴェトナム共和国への軍事援助が強化されていったが,アメリカにとって悩みの種は,ディエム政権がアメリカの主張する民主主義国家とはほど遠いことだった。
 1963年ディエムはクーデターで失脚したが,その後も政権の腐敗は続き,戦況も悪化するばかりだった。

北爆の開始とパリ和平会談
 ケネディに続く民主党のジョンソン大統領は米地上軍の投入を強化し,最終的には50万の兵隊が投入されたが,北からの援助によるヴェトナム共和国内でのゲリラ活動はますます活発化した。
 そのため、1964年アメリカ駆逐艦がトンキン湾でヴェトナム民主共和国に攻撃されたと称して、アメリカはヴェトナム民主共和国に報復爆撃し(北爆),   1965年以降本格的な北爆が開始された(このトンキン湾事件は,今日アメリカの偽装であることが明らかとなっている)。
 しかし,サイゴン政府は権力闘争に明け暮れ,軍の精鋭部隊もクーデターに備えてサイゴンを中心に配備されていたため,解放軍と有効に戦うことさえできなかった。
 このような中で、1968年1月30日(旧正月=テト)に解放勢力はテト攻勢と呼ばれる大規模な攻撃を開始し,一時は決死隊がサイゴンのアメリカ大使館の一部を占領するにいたった。この攻勢は直接的には成果を得られなかったが,予想をはるかに上回る攻勢の規模と激しさはアメリカに大きな衝撃を与え,アメリカの士気を著しく低下させた。またアメリカ国内でも反戦運動が高まり,アメリカに対する国際世論の批判も激しくなった。
 そのためジョンソン大統領は,次期大統領選挙に立候補しないことを表明するとともに,北爆の停止を表明して和平会談の開催を提案した。ヴェトナム民主共和国もこれを受け入れ、1968年からパリ和平会談が開催された。

サイゴン陥落
 会談は遅々として進行しなかったが,共和党のニクソン大統領はヴェトナム化政策を推進してアメリカ軍の役割を次第にヴェトナム共和国軍に肩代わりさせていき,1971年にはヴェトナムのアメリカ軍は15万人に縮小した。
 この間ニクソンは中国を訪問し,ヴェトナム・ソ連・中国の分断を図る。中国にとっても,もはやヴェトナムで決定的勝利を得る可能性のなくなったアメリカより,チェコ事件に見られるように、必要とあれば軍事介入の可能性のあるソ連のほうが現実の脅威となっており,対ソ安全保障の上でアメリカと接近することが得策だった。
 こうした動きに対してヴェトナム民主共和国は不快感を露にしたが,国境を接する北の大国中国の暗黙の圧力を感じないわけにはいかなかった。
 こうして1973年パリ和平協定が成立し,停戦の実現とアメリカ軍の撤退が決定された。
 しかし戦争はその後も続き,アメリカ軍の庇護を失ったヴェトナム共和国軍は敗北を重ね、1975年サイゴンが陥落してヴェトナム共和国は崩壊し,翌1976年統―選挙によりヴェトナム社会主義共和国としてようやく統―国家の成立を実現し、1977年には国連加盟にも承認された。
 このようなヴェトナム統一の動きの中で,ヴェトナム共和国政府に協力した人々や社会主義を嫌う人々がつぎつぎとヴェトナムを脱出し,このいわゆる難民問題は今日まで統いている。

ヴェトナム戦争の後遺症
 ヴェトナム戦争は多くの後遺症を残した。アメリカ空軍は猛烈な爆撃を行ない,インドシナ全休で800万トンもの爆弾を投下した。それは実に第二次大戦で投下された爆弾の3倍にあたる量である。この他さまざまな新兵器が登場し,ヴェトナムはさながら兵器の実験場となった。また枯れ薬剤は森を消滅させ,多くの奇形児を生んだ。これらが及ぼした人的・物的被害は計り知れず,まさにヴェトナムは焦土と化したといっても過言ではない。
この痛手から立ち直るのは容易ではなく,さらに南部ではアメリカにより移植された資本主義経済が根強いため,南北の統一も容易ではない。また,中国との関係の悪化やカンボジア紛争への介入により,国家の再建は遅々として進まず,最近はASEAN諸国や西側諸国との接近を模索している。
 一方アメリカも,この戦争で威信が傷ついただけでなく,経済困難と社会問題を引き起こし,国際社会における指導力を著しく低下させ,世界の多極化がさらに進んだ。

インドシナ半島にうずまく大国の思惑
 第二次世界大戦後のヴェトナムの苦難の歴史は,フランス・アメリカ・ソ連・中国といった大国の身勝手な行動に翻弄され続けた30年間であった。そして,ヴェトナムでの戦争はカンボジア・ラオスをも巻き込むとともに,やがてヴェトナムがインドシナの大国としてこれらの国に深くかかわることになる。
 ヴェトナムにとって中国は2000年以上にわたって侵略をうけてきた隣接する大国であり、潜在在的にその政治的・軍事的圧力を感じている。また,インドシナ戦争でもヴェトナム戦争でも,中国の行動を裏切りと感じていた。だから,同じ社会主義国でも,中国よりも距離的に離れたソ連のほうに接近する傾向があった。
 一方,ラオスとカンボジアは,大国ヴェトナムの存在に潜在的に脅威を抱いている。カンボジアの人口は約700万,ラオスは約350万であるのに対して,人口増加率の高いヴェトナムは約6500万人であり,しかも自然条件の悪い北部ヴェトナム人は新天地を求めて絶え間なく膨張しようとする。このヴェトナムの圧力はラオス・カンボジアには脅威であり,ヴェトナムと対立する傾向にあったのに対し,ヴェトナムはこれらの国に自国の息のかかった政権を樹立しようとする。このような潜在的な対立関係に,アメリカ・ソ連・中国などの大国が関係してくると,もつれた糸を解きほぐすことが容易ではなくなっているのである。

ラオス人民民主共和国の樹立
 ラオスは、1954年ジュネーブ会議で完全独立が承認され,王国として発足した。
 ラオスでは,ヴェトナム共産党の指導により作られた左派のラオス人民党が,ヴェトミンと協力して反仏武力闘争を展開して,インドシナ戦争でも間接的にヴェトナムの勝利に貢献していたが,独立後はラオス愛国戦線(パテト・ラオ)と改称して勢力を拡大し,ラオスは右派・中立・左派が入り乱れて内戦状態に陥った。
 1957年,中立派のプーマを首相とした王国側との連合政権がいったんは成立したが,再び分裂。 1960年にプーマ政権が再び成立すると,パテト・ラオは名目上連合政権に参加するが,北部に拠点をおいて北ヴェトナムから南ヴェトナムヘの輸送ルートである「ホー・チ・ミン・ルート」を支えた。
 1970年から71年にかけてヴェトナムではアメリカ軍の撤退が進んだが,逆にラオスとカンボジアでは戦闘が拡大した。
 1970年にパテト・ラオが攻勢に出ると,右派の援助を名目にアメリカ軍が爆撃を開始し,ラオス内戦は完全にヴェトナム戦争の一環に組み込まれた。
 しかしパテト・ラオの攻勢の中で1973年に米軍が撤退し,1974年プーマとの間でパテト・ラオの要求を大幅に入れたラオス民族連合政権が樹立された。
 1975年には,すでにサイゴンを陥落させたヴェトナム軍の全面的援助を受けて全土を制圧,王制を廃止してラオス人民民主共和国を樹立。ヴェトナム軍はそのままラオスに駐留し続けた。

カンボジア内戦
 カンボジアでは,独立後シアヌークが王位を父に譲り,自らは首相となって人民社会主義共同体(サンクム)を結成した(1960年以降元首)。サンクムは右から左までを結集した組織で,彼は強烈なナショナリズムを基盤に中立と王制社会主義を唱え,ヴェトナム戦争をよそに独自の国内建設を進めた。
 詩人でもあり,巧みにフランス語をあやつるシアヌークは,国際的にも華々しく登場し,ネルー・スカルノらとともに中立を掲げて活躍した。
 しかし,パリに留学していた学生たちの間で結成されたカンボジア共産党が,ポル・ポトを中心にシアヌークの一党独裁に反対して密林に潜入し,またシアヌークの経済自主路線の失敗もあって,しだいにシアヌークの政権基盤は揺らいでいった。
 1970年右派ロン・ノルによるクーデターが起きてシアヌークは追放され,アメリカ軍とサイゴン政府はロン・ノル政権を援助するためカンボジアに侵攻した。
 シアヌークは中国から解放闘争を指揮すると同時に,当時クメール・ルージュと呼ばれるようになったカンボジア共産党と同盟し,カンプチア民族統一戦線を結成し,ロン・ノル政権との内戦に突入した。
 ロン・ノル政権は権力闘争に明け暮れ、1975年アメリカ軍が撤退するとプノンペンは陥落した。

カンボジアの悲劇
 かくして1975年に,プノンペン・サイゴン・ビエンチャンというインドシナの3つの首都が陥落し,アメリカはこの地域では完全に後退することになったのである。
 だが一つだけ問題が存在した。ラオスの政権は完全にヴェトナムに依存しており,したがってソ連側に属するのに対し,カンボジアの統一戦線の中心だったクメール・ルージュはヴェトナムとは無関係であり,むしろヴェトナムヘの脅威をいだく強烈な反ヴェトナム民族主義であり,しかも中国寄りであった。
 1976年ポル・ポトを中心に民主カンプチア(カンボジア民主国)が成立し,シアヌークは国家元首の地位を提供されたが辞退し,後に幽閉されるようになった。
 ポル・ポト政権は中国の文化大革命にならい,集団方式の大改革を実施した。200万人のプノンペン市民を農村へ強制移住させて強制労働を課し,さらに貨幣の廃止や国内移動の禁止など,既成の価値体系を無視する政策をつぎつぎと強行した。また徹底した粛正が行なわれ,ポル・ポト時代に100万人以上が死亡したと伝えられる(死亡した数については30万~300万と諸説があり,不明)。ただ,都市住民の移動については,当時戦争を避
けて農村から流入した人々が多かったこと,また当時の死者の多くは戦乱による農地の荒廃にともなう餓死者が多かったことも考慮されねばならない。また極端な農業中心主義をとった背景には,当時のアジア・アフリカで行なわれた無理な工業化が石油危機により破綻を引き起こす国が多く,そのため世界的に工業化の見直しが行なわれていた時期であったこともあるだろう。
 しかし,初めロン・ノル政権の残党狩りで始まった粛正が,親ヴェトナム派の粛正に発展し,やがて他人を粛正せねば自分が粛正されるという恐怖状態が発生したのも事実である。そのような情報が断片的に外部に伝えられるにつれ,カンボジアに対する国際非難が高まっていった。

中越戦争の勃発
 このような中で,ヴェトナム派勢力が1978年カンボジア救国民族統―戦線を結成し,   1979年ヴェトナム軍の援助を受けてプノンペンを占領して、カンボジア人民共和国を樹立した。
 議長となったヘン・サムリンは当時まったく無名の人物で,政権もヴェトナム軍の援助なしには存立しえないものであった。これに対して中国はヴェトナムに侵入して中越戦争が勃発したが,長い間実戦から遠ざかっていた中国軍はヴェトナム軍に太刀打ちできず,結局「懲罰した」という言葉を残して撤退した。
 一方,タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派は,   1982年シアヌーク派,ソン・サン派とともに民主カンボジア連合政府を樹立して対抗した。
 国連では,カンボジア人民共和国は外国軍隊の援助によるものという理由で認知されず,連合派が認知されている。連合派が西側諸国および中国に支持された理由は,インドシナにおいてヴェトナム・ソ連勢力が強大になりすぎて勢力均衡が崩壊することを恐れたからである。

カンボジア和平への道
 しかしこのような国際情勢が1989年頃から変化しはしめた。一つはソ連と中国が柔軟な外交政策をとるようになってきたこと,それにともない1989年ヴェトナム軍がカンボジアから撤退したこと,さらにアメリカが連合政府の支持をやめたことである。
 その結果,連合政府(1990年カンボジア国民政府と改称)と人民共和国との話し合いがもたれるようになった。1990年には,「カンボジア和平に関する東京会議」がもたれて和平への歩み寄りが行なわれ、1991年にはパリで和平協定が調印されたが,最終的合意にいたるにはなお多くの紆余曲折があるであろう。

3)ミャンマーとASEAN諸国
ビルマ―アウン・サン・スー・チーの登場
 ビルマは農業資源・森林資源・水資源・也下資源が豊富で,本来なら東南アジアでもっとも豊かな国のはずである。ところが,今日世界でもっとも貧しい国の一つになってしまったのはなぜであろうか。
 もちろん独立直前にアウン・サンというすぐれた指導者を暗殺されたという悲劇もあるが,何よりもビルマ自身のかかえる構造的問題がある。それは,一つは少数民族をかかえ,彼らが武力闘争を展開してつねに分裂の危険性をはらんでいること。もう一つは,イギリスの支配時代に経済をインド人(印僑)と中国人(華僑)に握られてしまったことだ。この印僑・華僑の問題は,東南アジアのどの国もかかえている問題である。
 独立後ウー・ヌーが初代首相となったが,政治的・経済的混乱が続いたため, 1962年軍部の左派がクーデターを起こしてネ・ウィンが実権を握った。彼は唯一の政党としてビルマ社会主義計画党を組織して自ら議長となり,ビルマ特有の社会主義政策を推進した。彼がめざしたのは,まずインド人や中国人などの外国人を追放して経済の実権をビルマ人の手に戻すこと,そして強力な政府により少数民族を抑え込むことであった。つまり彼の社会主義は強い民族主義に支えられていたのである。
 まず行政の末端にまで軍人を配置して強力な行政機構を築き,外国資本の国営化を進め,さらに上地解放を行なって農民に土地を分配した。また外国資本に頼らない民族経済の樹立を目標に掲げ,鎖国政策を実施した。
 これらの政策は当初国民から大きな支持を受けたが,あまりにも国家管理が強いため生産意欲が減退し,主要な輸出品である米でさえ品質が低下して買い手がなくなる有り様だった。
 一般に,経済に関して素人である軍人が実権を握ると,その意図がどんなにすばらしく,また一時的に成功するように見えても,経済原則を無視した政策はやがて破綻に向かう傾向がある。これは発展途上国に共通に見られる現象で,ビルマでも1970年代になると物価の上昇や物資の不足のため国民生活は窮乏した。そのため政府は外国の援助を受け入れるなど経済政策を転換したが,それも一時的な効果しかなく, 1980年代にも石油危機の影響を受けて再び経済は行きづまった。
 このような中で1988年に大規模な大衆集会やデモが展開されたが,ソウ・マウンの軍事クーデターにより弾圧された。
 弾圧された学生たちの一部は山岳部へ逃れて少数民族のゲリラ闘争と共闘するようになり,同時に大衆運動の指導者としてアウン・サン将軍の娘アウン・サン・スー・チーが彗星のごとく登場した。彼女を中心に全国民主連盟が結成され, 1990年の総選挙では圧勝したが,サン・スー・チーは自宅軟禁され,政権委譲は行なわれていない。
サン・スー・チーには1991年ノーベル平和賞が与えられた。
 なお,ビルマは1989年よりその名称をミャンマーとしている。

タイ―繰り返されるクーデター
 タイでは、1948年ピブンが首相として復帰し,国営企業主体の工業化を推進したが,経営効率が悪いのみならず,国営工業が政治的エリートの利権と化したため,1958年サリットがクーデターによって政権を握った。サリットは民間主道型の経済運営を推進し,外国投資の受け入れにより輸入代替工業の発展を促した。その結果工業が飛躍的に発展して高度経済成長期を迎えたが,同時に多様な社会的階層が発生して社会的矛盾が拡大した。
 1963年に成立したタノム政権も国民の不満に応えることができず、1971年軍事クーデターによって全権を掌握した。
 1972年には,日本の経済侵略に反対する日本品不買運動が起き、1973年には大規模な学生デモが発生してタノム軍事政権は崩壊した。その後自らの力に自信を得た学生はデモを繰り返し,やがて右派との武力闘争に発展し,1976年には再び軍事クーデターが発生、   1977年軍政が復活した。
 1988年には総選挙でタイ国民党のチャチャイ連立政権が成立し,ひさびさに文民政権がうまれたが,まもなく軍部との対立が表面化していった。
 タイは第二次世界大戦の影響をほとんど受けなかったため,国家統合のシンボルである王室や仏教がそのまま存続し,政治は軍人・高級官僚などに独占されている。そして彼ら政治的エリートの権力と利益配分をめぐってクーデターが繰り返され, 1932年に立憲君主制が成立して以来主要なものだけでも十数回のクーデターが起こっている。1991年2月にも軍事クーデターが起こったが,日本ではあまり注目されなかった。
 また,東南アジア諸国に共通する問題である華僑は,表面的にはタイに同化されてうまくいっているように見える。すなわち華僑は政治権力の枠内に取り込まれ,華僑もまた政治権力の保護なしには経済活動が困難な状況が作り出され,政治的エリートとの持ちつ持たれつの癒着関係が成立している。そのため経済の中枢は一貫して華僑に握られているという現実も存在している。

マレーシア連邦とブルネイ
 マレーシア連邦では,もとイスラーム王国の9人のスルタンの中から国王が選ばれる。スルタンは最近では宗数的権威を持っているが,住民に対する政治的権力はほとんどなく、   1981年には3代読いた王族出身の首相に代わって,初めて庶民出身の首相が誕生した。
 マレー人が人口の約半分を構成し,その他に中国人・インド人・ボルネオ人などかいるが,政府はマレー人優遇政策をとっているため、1969年には中国系住民による人種暴動が発生した。
 また,マラヤ共産党は一貫してゲリラ活動を展開してきたが、1989年政府との間で武装闘争停止協定に調印した。
 ブルネイは1963年マレーシア連邦結成の際加盟を求められたが,領海内に石油・天然ガスが存在したため加盟を拒否し、1983年イギリスの保護を離れ、1984年王国として独立した。

シンガポール―リー首相下の経済発展
 シンガポールは、1957年以来リー・クワン・ユーが首相の地位にあり,彼の指導の下に統制のとれた独自の国家を築き,経済的繁栄をとげた。また人種間の平等が貫徹されており,アジアでは珍しく人種問題がない。独立後一貫してリー・クワン・ユーの独裁政治に近かったが,1990年リー・クワン・ユーが引退したため,その後の政治の動向が注目される。

インドネシア―アジア・アフリカ会議の開催
 インドネシアが独立したとき,国家はほとんど崩壊状態だった。行政機構も軍隊も崩壊し,プランテーションの所有権は1949年のハーグ協定でオランダ資本に認められていた。内部ではパンチョシラに基づく民主主義を唱えるインドネシア国民党,イスラーム政党,インドネシア共産党が対立していた。しかも,インドネシアは東西5000キロにおよぶ地域に3000以上の島々が散在しており,それをいかに統一するかが問題だった。
 国際政治の上では,冷戦の波及で国家が分裂することを恐れ,中立主義をとって外国とは一切軍事同盟を結ばないことを原則とした。1955年バンドンで聞かれたアジア・アフリカ会議はその一環であった。
 しかし1950年代後半になるとさまざまな対立関係が鮮明となり,しかも軍閥化していた国軍が各地で反乱を起こしていた。
 そこでスカルノは,   1959年から「指導された民主主義」と呼ばれる一種の危機管理体制を開始した。まず国軍中央と結んで軍閥を制圧し,さらにオランダ資本を摂取してこれを国軍の支配下におき,旧軍閥の指導者を国営企業に天下りさせた。また地方行政にも軍人を配備して集権化を図っていった(この時の国軍中央の初代司令官がスハルトである)。このように不満分子を官庁に取り込んでいった結果,貧困な財政状態にもかかわらず官僚機構が膨れ上がった。さらに,民族主義とイスラーム教と共産主義の統一戦線ナサコム(NASACOM)体制を提唱して,スカルノのカリスマ性によって国家の統合を維持しようとした。
 一方,インドネシア共産党もスカルノの保護を受けて成長し続け,特に1960年代の成長は驚異的だった。スカルノ自身も左傾化し,反共主義をとるマレーシアと対立し,   1965年には国連を脱退した。このことは軍部の反発を招き,この不安定なバランスは1965年に一気に崩壊していくことになる。
 1965年9月30日陸軍将校と共産党指導者の一部が関係したクーデター計画が,スハルトらによって阻止された9 30事件後、スハルトは激しい共産党弾圧を繰り広げ,共産党は崩壊した。
 この事件を契機にスカルノは実権を失い,  1968年にはスハルトが大統領となった。この間政治への軍部の介入は一層強化され,中央・地方の重要ポストに軍人が配置された。対外的にはスカルノの行き過ぎを是正し、1966年国連に復帰,マレーシアとの関係を改善,他の東南アジア諸国との関係も改善に努力し,経済的には外国資本を導入し経済の再建に努めた。
 スハルトの支配体制は基本的にはスカルノ体制の延長線上にあるが,スハルトは共産党との関係を清算して右寄りに修正し,より強力な官僚機構を樹立して力による国家の統一を図っていった。しかし軍部による官僚機構の私物化は腐敗を生み,さらに資本主義経済の本格的導入は社会矛盾を一層増大させている。また,非常に長期にわたって権力を握り続けたスハルトの後継者の問題も,大きな問題となっている。

フィリピン―マルコス独裁とアキノ政権
 フィリピンでは,独立後成立した政府は親米的というより,完全にアメリカに従属した政府だった。1947年に締結された軍事基地協定により,アメリカはフィリピンで22の軍事基地を99年間使用できるようになり,さらに1951年には米比相互防衛条約が締結された。そして,大戦後多くの新興国家が反植民地主義の下に結束を強めていたとき,フィリピンのみがアメリカ追随政策をとり続け,アジアの孤児とさえ呼ばれた。一方国内では,数百家族からなる特権グループが,一貫して政治と経済の実権を握り続けてきた。アキノ家やラウレル家はその代表的な存在で,彼らの多くは地主であり,また外国資本と結んで産業・金融にも進出し,さらに上院を拠点に政治を支配してきた。
 これに対してはゲリラ・フクバラハップが土地改革を要求して激しい武装闘争を展開し,社会不安が増大した。そのため1955年以降政府はしばしば土地改革法案を議会に提出したが,地主が支配する議会でことごとく骨抜きにされてしまった。そのため民衆の反米・反政府運動が高まり,フィリピン共産党も再建されてその軍事組織としてフクバラハップが新人民軍(NPA)と改称され,ルソン島を中心に勢力を拡大していった。またミンダナオ島を中心にモロ民族解放戦線が結成され,分離独立をめざして政府軍との武装闘争を展開した。
 1965年に大統領となったマルコスは,混乱を収拾するため1972年に戒厳令を発して独裁政治を開始した。彼は大衆を引き付けるため,「寡頭支配の廃絶」をうたって土地改革などを進めた。特権階級は上院が廃止されたため政治的影響力を弱められ,土地改革によって大土地所有制の一角が崩れた。しかし,独裁は腐敗を生み,マルコスとその一族による権力と富の集積が顕著となると,反マルコスの運動が高まった。
 1983年マルコスの政敵ベニグノ・アキノが暗殺されると,アメリカも独裁に反対するようになったため,マルコスは最後の延命策として1986年に選挙を行なった。
 結局ベニグノ・アキノの妻コラソン・アキノが大統領に当選し,マルコスは海外に亡命した。アキノ政権を成立させたのは広範な大衆運動であり,アキノも彼らの支持を受けて土地改革を約束したり,新人民軍との休戦協定を結んだりした。だが,アキノ政権を支える人々は,かつてマルコスによって排除された旧特権階級であり,改革は容易に進行せず,新人民軍とも戦闘が再開されている。

ASEAN(東南アジア諸国連合)の発足
 ASEAN(東南アジア諸国連合)は、1967年タイ・インドネシア・フィリピン・マレーシア・シンガポールが,弱体化した東南アジア巣団防衛条約機構(SEATO)に代わる反共国家の協力機構として発足した。
 1975年ヴェトナム・ラオス・カンボジアで社会主義国家が成立すると,それに対抗して結束を強化するとともに,友好とこの地域の中立化を主張し,ヴェトナムをインドシナ半島に封じ込めようとした。それとともに政治・経済・文化の地域協力を進め,西側諸国との関係強化に努力している。その結果加盟各国の経済が順調に成長,その実績が国際的にも認知されるようになった。
また各国は中国やソ連とも国交を開いて、できる限り多角的な外交に努め,反共軍事体制になることを極力避けおり,最近ではカンボジア紛争の解決にも努力している。1984年にはブルネイも加盟して現在6カ国からなり,事務局をジャカルタにおいている。
A.SEANは地域協力機構としてはよく成功しているようで,ヨーロッパのECに見られるように地域のブロック化が進行する中で一つのモデルを提供しているといえよう。ただ,各国ともほとんど民主主義が機能しておらず,今後各国の国内体制がどのように展開するかは,SEANの運命にも大きな影響を与えるであろうし,東南アジア全体のゆくえをも左右することになるだろう。また,そこにおける日本の役割はますます増大していくといえる。



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