2014年2月1日土曜日

映画で奥州を観て

火怨・北の英雄 アテルイ伝

 NHKが、2013年に震災被災地岩手県への応援歌として制作したテレビドラマです。原作は高橋克彦の『火怨 北の耀星(ようせい)アテルイ』。

 主人公の阿弖流為(アテルイ)が活躍したのは8世紀の終わりころの蝦夷です。7世紀の半ば、大化の改新のころ令制国が設置されますが、その東の端にあったのが、常陸(茨城県)・下野(栃木県)・越後(新潟県)でした。そこから東は蝦夷の土地です。ところで、「蝦夷」と書いて「えみし」と「えぞ」という二つの読み方がありますが、この二つは同じものではありません。「えぞ」は北海道の先住民で、現在のアイヌを指し、「えみし」は東北地方の先住民です。「えぞ」と「えみし」のルーツは同じだと思われますが、その後「えみし」はヤマト文明に同化され、「えぞ」はオホーツク文明などの影響を受けてアイヌ文明へと発展していきます。したがって、ここで蝦夷という場合、東北の「えみし」を指します。


 ヤマト政権は、7世紀半ばに朝鮮や中国との関係が悪化すると、国内統一を急いで蝦夷への侵略を強化します。阿倍比羅夫(あべ ひらふ)は、658年から3年間、水軍180隻を率いて日本海側を北上し、北海道にまで侵攻します。そして662年百済救援のため朝鮮に向かい、翌663年に白村江の戦いで大敗します。ヤマト政権の東北経略は、朝鮮情勢と深く関わっていたのです。この頃、常陸国から蝦夷への攻略も進み、7世紀の終わりころには現在の福島県を越えて宮城県南部まで進出し、8世紀初めには陸奥国を創設してここに多賀城を建設し、ここを拠点にさらに蝦夷への侵略を進めていきます。同じころ、今日の山形県・秋田県方面に出羽国を創設し、ここに陸奥と出羽を合わせて奥州が成立することになります。

 陸奥国では、ヤマト政権は多賀城建設の後、北上川を遡って北上していきますが、その途上にアテルイの故郷が存在しました。北上川は岩手県を縦断する河川で、奥羽山脈と北上高地の間を縫うように釜石に向かって下っていきます。日本の河川としては勾配が穏やかであるため、水運として利用することができ、東北の最深部から海へと抜ける通路となっています。そのため古くから河川沿いに多くの集落が発展しました。上流には盛岡(志波)があり、中流には平泉があります。このドラマの舞台となったのは、胆沢川が北上川に合流するあたりで、現在の奥州市にあたります。アテルイの故郷とされる太墓(たも)の場所は、特定できないようですが、奥州市であることは間違いないようです。
























 ヤマト政権が陸奥に進出する時も、8世紀初めに建設された多賀城を拠点に、北上川にそって北上していきます。まず柵を作って軍事拠点とし、内国から移民を送り込みます。そうすると、しだいに蝦夷もヤマトの文化に同化するとともに混血も進んで、蝦夷の文化と民族性は消滅していきます。これに対して、繰り返し蝦夷の反乱が起きますが、中でも大きかったのは伊治呰麻呂(これはり あざまろ)の乱でした。朝廷は769年に蝦夷攻略の最前線として伊治城(宮城県栗原市)を建設し、当初呰麻呂は朝廷に協力的でしたが、780年に反乱を起こし、多賀城を焼打ちします。ドラマでは、この乱にアテルイが加わっていたことになっていますが、事実かどうか不明です。


ところが781年に桓武天皇が即位し、蝦夷に対する強硬策を打ち出します。桓武天皇の二大政策は、平安京への遷都と蝦夷の征服であり、久々に実力派天皇が登場しました。この積極策に立ちはだかったのがアテルイです。アテルイについては詳細がほとんど分かりません。第一、阿弖流為という字は当て字であり、読み方さえもはっきりしません。いずれにせよ、朝廷は胆沢に柵を造るため大軍を派遣しますが、789年にアテルイが指揮する軍隊に惨敗します。こうした中で桓武天皇は、797年坂上田村麻呂(さかのうえ たむらまろ)を征夷大将軍に任命し、蝦夷討伐を命じます。征夷大将軍という役職は、後に鎌倉幕府や江戸幕府で武家の統領の地位として用いられるようになりますが、この役職が最初に使用されるようになるのは、この頃です。結局、朝廷の大軍を前にアテルイはなすすべもなく、802年友人のモレとともに降伏し、都に送られて処刑されます。田村麻呂はアテルイの助命を願いますが、東北制圧に異常な執念を燃やす桓武天皇は拒否します。しかし東北遠征と平城京遷都を同時に進めることは、民衆への負担があまりに大きいため、結局東北遠征は中止されることになります。


アテルイは朝廷にとって反逆者だったので、長く悪者扱いされ、明治政府もアテルイを国家統一の妨げとなった、と考えていました。アテルイが朝廷軍を破った30年程前に、中国の唐で安祿山が反乱を起こしますが、彼もまた反逆者として悪者扱いされることになります。歴史の評価とは、そのようなものです。しかし、地域研究が盛んとなり、1980年代になってアテルイが再発見され、今やアテルイは東北が生んだ英雄とまで言われるようになっています。ただ、空白期間があまりに長かったこと、蝦夷が文字資料を残さなかったことなどにより、確実に知りうる事実があまりに少ないことが残念です。

このドラマで、私の印象に残ったエピソードが二つあります。一つは、アテルイと彼の兄との関係であり、もう一つは製鉄と馬の飼育です。アテルイの兄は朝廷軍に捕らえられて都に連れて行かれ、やがて坂上田村麻呂に仕え、ヤマト政権の下で生きていくことを決意します。ヤマトの文化は明らかに蝦夷の文化より優れており、このことは文字の使用一つをとっても明らかです。結局、蝦夷はヤマト政権の下で生きていくしかない、と考える人々が多数いたのは当然です。伊治呰麻呂もそういう人々の一人でしたが、最後にヤマト政権に逆らいます。アテルイの兄は、坂上田村麻呂にアテルイの暗殺を命じられますが、実行できず自殺します。蝦夷とヤマト政権との間で揺れ動くこうした心情は、当時の蝦夷のすべての人々に共通する心情だったと言えるでしょう。

 製鉄はヤマトから学んだ技術であり、これが蝦夷の生活をどれほど向上させたか分かりません。当時蝦夷は鉄製品の多くをヤマトから買っていたのですが、ヤマトと戦うということになれば、自前で鉄を造る必要があります。幸い製鉄に必要な砂鉄と森林資源は豊富でした。そこでヤマトから技師を招き、大々的に製鉄を開始します。このころに蝦夷で造られた刀は蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれ、日本刀のルーツの一つとなったとも言われます。しかし製鉄は皮肉な結果を招きました。製鉄のために美しい山は禿山となり、美しい川は汚染されます。故郷の山や川を守るためにヤマトと戦う、そのために鉄が必要である、そして製鉄のために故郷の自然が破壊されるという結果です。つまり蝦夷はすでにヤマト化されていたのであり、そこから逃れることはできなかったのです。なお、今日東北地方には南部鉄器と呼ばれる優れた鋳物製品があります。この製鉄技術を直接アテルイに結び付けるのは飛躍しすぎだと思いますが、南部鉄器は北上川流域で発展しますので、何らかの関係があるのではないかと思われます。

 騎馬技術もヤマトから学んだものと思われ、これも蝦夷の発展に大きな役割を果たします。いつの頃からか、東北地方で馬の飼育が盛んに行われるようになります。東北産の馬は日本の在来種とは異なり、大型で強靭な馬でした。一説には、遊牧騎馬民の馬を沿海州を経由して導入したのではないかとされています。いずれにせよ、東北産の馬は、後に平将門や源頼朝により使用されたとのことですから、当時から名馬として知られていたようです。
炎立つ(ほむらたつ)

 1993年に放映されたNHK大河ドラマで、平安時代末期、東北の平泉に君臨した奥州藤原氏の4代にわたる興亡を描いたものです。高橋克彦原作です。ドラマは三部構成となっており、第一部が阿部氏の滅亡と藤原経清の死、第二部が清衡による奥州藤原家の創設、第三部が奥州藤原家の滅亡となっています。


 舞台となるのは、アテルイが活躍したのと同じ北上川流域、時代はアテルイが蜂起してから250年以上たっています。アテルイは反逆者として歴史から抹殺されましたが、陸奥では250年以上たった後にも、人々の心に生きていました。


ヤマト朝廷の支配下に入った蝦夷は、俘囚と呼ばれました。彼らの一部は他の地に強制移住させられ、結局その多くが倭人の生活に馴染めず、一部は部落民になっていったのではないかという推測もあります。また蝦夷は軍事的能力に優れ、特に騎馬・弓術に長けていたため、ヤマト朝廷の軍事力を形成し、後の武士の形成に大きな役割を果たしました。一方、ヤマト朝廷は蝦夷の統治を俘囚の中の有力者に委ねましたが、彼らの中には在庁官僚になったり、その地位を利用して金の採掘や商業活動などで富を蓄える人々もいました。ここで登場する阿部氏や清原氏は、そうした人々です。彼らは北方と交易するとともに、日本海側から直接中国と交易し、都から見ても信じられないような富を蓄積していました。


それとは別に、蝦夷には内国からやってきた人々もいました。朝廷から派遣された役人は、任期が終われば帰国するのですが、帰国せず俘囚を妻に迎え、土着化する人も沢山いました。藤原氏もそうした役人の一人でした。さらに朝廷の政策によって移民してきた人々、新天地を求めて中央から流れてきた貴族の末裔、そして圧倒的多数の俘囚がいました。そしてドラマは、在庁官人藤原氏、中央から派遣された陸奥守、陸奥の豪族阿部氏、出羽の豪族清原氏などが複雑に絡みながら展開していきます。

藤原氏は、藤原秀郷(ひでさと)の子孫です。藤原秀郷は、下野(しもつけ、群馬)の在庁官人で、これより100年余り前に下総(しもうさ、千葉)で起きた平将門(まさかど)の乱の鎮圧に功績があり、下野などの国司となった名門で、平氏・源氏とともに武家の棟梁となります。ちなみに、この時秀郷とともに将門の乱を鎮圧した平貞盛は、後に平清盛を生み出す伊勢平氏の祖となります。そしてもう一人重要な人物である源頼義(よりよし)が登場します。彼の出身である河内源氏は、彼の父の時代に関東で起きた平忠常の乱を鎮圧して関東に勢力を広げ、これが後の鎌倉幕府の基盤となります。源頼義は、武家の棟梁として源氏の名を全国に轟かせたいと思っていましたが、武家は戦争がなければ手柄をたてることができません。そうした中で彼は陸奥守に任命され、強引に戦争をしかけます。彼の子孫には源頼朝(よりとも)などがおり、さらに室町幕府を建てる足利氏もいます。まさにこの時代に、後の武家社会の形成に重要な役割を果たす役者が登場するようになります。

さて、1051年に陸奥守藤原登任(なりとう)が強引に阿部氏を攻撃しますが敗北し、解任されます。これが前九年合戦の始まりです。翌年源頼義が陸奥守として赴任しますが、藤原経清(つねきよ)は阿部氏の娘を妻とし、頼義の側近の地位にありながら、阿部氏との関係を強めていきます。そうした中で、1056年に再び阿部と頼義との間で戦闘が始まり、今度は経清は阿部側について戦い、頼義は惨敗します。その結果頼義は朝廷の信頼を失つたため、彼は出羽の清原氏に接近します。もともと清原氏と阿部氏は幾重にも血縁関係で結ばれ、友好関係にあったのですが、1062年に清原軍は頼義軍とともに阿部領に侵入し、あれほど勢力を誇った阿部はあっけなく敗北し、阿部氏は滅亡することになります。また経清も捉えられ、斬首されます。こうして前九年合戦は終結します。

戦後清原氏が陸奥をも支配し、俘囚の出身としてはじめて鎮守府将軍に任命され、東北の一大勢力に発展します。これに対して頼義は、朝廷から十分な恩賞も与えられず、任地替えを命じられて、失意のうちに陸奥を去っていきます。そもそも朝廷は武士の台頭を恐れており、役職と官位の授与を巧みに操って武士を抑えようとしますが、こうしたやり方に対して武士は強い不満をもつようになります。一方、経清の子清衡は当時7歳で、本来なら経清の嫡男として殺されるはずでしたが、経清の妻が清原に嫁いで清衡を清原の養子としたため、生き残ることができました。これは母が息子を助けるための苦渋の決断だったと思われますが、結果的にはこれによって、阿部と藤原の棟梁の血と清原の姓が結びつき、奥州統合の核が形成されることになったのです。「炎立つ」とは、この親子の清原に対する復讐の炎を意味していると思われます。

 清衡は、清原氏の養子になったとはいえ、かつての敵である阿部氏と藤原氏の血を引くものとして、肩身の狭い忍従の生活を強いられることになります。ところが清原氏の当主の死をきっかけに、1083年に後継者を巡って兄弟間の争いが始まります。これが後3年合戦です。養子の清衡は微妙な立場に立たされますが、ここでかつて阿部氏と藤原氏を滅ばした頼義の子である義家が、陸奥守として着任します。そして彼は、なんと清衡を援助して清原氏を滅ぼしてしまいます。ドラマでは、藤原経清と義家との熱い友情によるものとして描かれますが、実際には陸奥への源氏の影響力の拡大を目指したものと思われます。事実、その後成立した奥州藤原氏は、源氏に強い恩義を持ち続けます。いずれにしても、ここに、アテルイの反乱からほぼ300年の後に奥州藤原が成立することになります。

 義家の行動は、都からは私闘への介入とみなされ、義家は恩賞も与えられず陸奥守を解任されます。そのため、義家軍に従った関東武者を中心とする武士たちに恩賞を与えることができず、義家は私財を投じて武士に恩賞を与えたとされ、このことが返って、源氏に対する関東武者の忠誠心を強めたとされます。ただしこの話は室町時代が初出で、足利氏が源氏の正統性を示すために創り出されたのではないか、とも考えられています。義家は石清水八幡宮で元服をおこなったため、八幡太郎と呼ばれ、源氏の守護神のように扱われ、鎌倉幕府や室町幕府の崇拝の対象となりました。鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼義により創建され、義家により修復され、頼朝により拡大されたものです。

ところで、陸奥を揺るがした二つの戦い、前九年合戦(1051-1063)と後三年合戦(1083-1087)の「前九年」「後三年」の名称の由来については、実はよく分かりません。陸奥での「前の九年の戦い」、「後の三年の戦い」という意味らしいのですが、前九年合戦は12年続いており、どうも歴史のどこかで勘違いが生じ、こういう名称になったようです。間違いなら正せばよいのですが、気づいた時にはすでに固有名詞として定着していたため、そのまま使用されているのではないでしょうか。

 話が逸れましたが、彼は平泉に拠点を遷し、以後奥州藤原氏4代の繁栄の基盤を築きますが、この奥州の山深い平泉の地に奇跡が起きます。つまり空前の文化の繁栄と極楽浄土の再現です。当初、清衡は長年の戦乱で死んだ多くの人々を弔うために中尊寺を建立しましたが、第二代基衡が浄土式庭園を持つ毛越寺(もうつうじ)を建立、さらに第三代秀衡が京の浄土式建築である平等院を模して無量光院を建立します。そして平泉全体に、地上の浄土世界が形成されたのです。こうした浄土世界の建設の背景には、当時広く語られていた末法思想があります。

 末法思想とは、釈迦が教えをといてから1500年だか2000年だか後に、教えがまったく行われない末法の時代がくるというもので、その末法は目前に迫っているというものです。特に1052年は末法元年とされ、現実に朝廷や仏教界は堕落し、武士が台頭し、災害や飢饉が相次ぐなど、末法を感じさせる世相が存在しました。末法の世では現世における救済の道がないため、人々は阿弥陀如来がおわす極楽浄土で往生したいと願うようになります。そして奥州藤原氏は平泉に極楽浄土を復元しようとしたのです。こうして、奥州の山深い平泉に、豊富な金を惜しげもなく用いて、極楽浄土が出現したのです。

 ところで、西アジアに生まれた信仰の一つに、終末論とか千年王国といった思想があります。この思想はゾロアスター教がルーツだと思われ、それはキリスト教やイスラーム教、さらに仏教にも影響を与えました。実際キリスト教では、イエスが死んでから1000年目に、いよいよ最後の審判の時が来るとして人々は不安に陥りましたが、結局何も起きませんでした。16世紀にノストラダムスという予言者が、1999年に「恐怖の大王」が到来すると予言しましたが、今のところ何も起きていないようです。一方、仏教では567千万年後に世界の終末がくると予言しています。この数字が何に基づいているのか知りませんが、今日から見れば、この方が現実味があります。太陽系が形成されてから50億年程経っていますが、さらに50億年後には地球がなくなっている可能性が高いからです。もっとも、ブッダが死んでからまだ2500年程しか経っていませんが。なお、567千万年後の週末と末法思想との関連ははっきりしません。

 さて、清衡から始まった奥州藤原家の政治姿勢は、ほぼ一貫していました。それは朝廷とは距離を置くということです。朝廷には定められた貢物の献上を怠らず、さらに朝廷やや有力貴族に金や馬などの特産品を貢ぎ、国司も受け入れますが、奥州の自立的な立場を維持します。もちろんそれが可能であったのは、奥州が各地に金山を保有して豊かであったこと、そして中央では源氏と平家の対立が深まって、奥州などに構う余裕がなくなったということがありました。やがて平家が権力を握りますが、平家は西国を基盤とする勢力であるため、奥州は直接的な脅威ではありませんでした。この限りでは、奥州は平家と朝廷とのバランスを維持していればよかったのですが、やがて源氏の勢力が台頭すると、奥州はバランスの維持に苦慮するようになります。

そんな中で、第三代当主藤原秀衡は、源氏の嫡男で鞍馬山に蟄居していた16歳の少年牛若丸を引き取ります。おそらく、これにより秀衡は朝廷とも平家とも距離を置くという意思を示したのであり、頼朝が挙兵したとき、秀衡は義経の出陣に反対しました。奥州の政策の基本は諸勢力のバランスであり、義経を頼朝のもとに送り出せば、バランスが崩れるからです。そのため秀衡は義経に援軍を与えませんでしたが、このことが奥州に対する頼朝の不信感を生み出します。頼朝が最も苦しい時期に一兵の援助もなかったということは、隙を見せれば奥州が鎌倉を攻撃するかもしれないと疑ったのです。

いつの時代でも、北の大国というのは地政学的に嫌なもののようです。中国がロシアを恐れ、東南アジアの国々が中国を恐れ、日本もロシアを恐れます。源頼朝にとって北の大国奥州藤原は潜在的な脅威であり、後には徳川家康が仙台の伊達正宗を恐れて懐柔に苦労します。頼朝にとって、北に奥州藤原が存在する限り、安易に鎌倉を離れて西に進軍することができません。こうした中で、頼朝に追われた義経が奥州に入ります。頼朝にとって、もはや義経などはどうでもよく、義経の存在はむしろ奥州を攻める絶好の機会となります。

嫡男であった泰衡は、義経を鎌倉に引き渡すべきだと主張しますが、秀衡は死の直前に、義経を君主として仰ぎ、泰衡など兄弟が結束して鎌倉と戦うべし、と遺言を残します。しかし泰衡は、義経を殺してその首を鎌倉に送りますが、1189年頼朝は大軍を率いて奥州を攻め、泰衡を殺害します。ドラマでは、もう少し複雑に描かれていますが、結局は同じことです。ここに、100年近く続いた奥州藤原氏は滅亡し、黄金の極楽浄土たる平泉も事実上消滅します。泰衡は平泉を無傷で頼朝に引き渡し、頼朝も平泉を破壊しませんでしたが、その後何度かの火災で、建造物の多くが焼失しました。しかし、平泉はその政治的な重要性が失われたため、乱開発が行われず、その結果遺跡の保存状態がよく、「浄土が再現された文化的景観」として、2011年に世界遺産に登録されました。

かつて人口が10万人を超え、平安京を上回るとさえ言われた平泉は、現在人口9000人弱の、岩手県で最も面積の小さい自治体となっています。

このドラマで、二つのエピソードに興味を持ちました。一つは宋との交易です。このドラマの最初の方で、俘囚の長が陸奥守に「茶」をふるまう場面がありました。「茶」は、中国の宋の時代に飲茶が流行し始め、それが日本にも伝わっていたのですが、当時まだ都でもめったに手に入らない貴重品でした。当時中国からの輸入品は博多を通じて都に運ばれていましたが、奥州藤原家は直接宋と交易をしていたようです。青森県にある十三湊(とさみなと)が貿易港になっていたようで、秀衡が義経を伴ってこの港を訪れる場面があります。この港に入った宋の商品が都に運ばれて、何倍もの高値で売買されるという話です。奥州藤原の富の源泉は、豊富な金の算出と宋との貿易にあったようです。やがて平清盛が瀬戸内海ルートで海上貿易を発展させ、それが清盛の権力の源泉となります。この時代は、海のネットワークが生まれつつあった時代で、これと結びつくことが権力の盛衰にも影響を与えつつありました。なお、マルコポーロの「世界の記述」に、ジパングの黄金の宮殿の話が出てきますが、これはマルコポーロより200年近く前に建てられた中尊寺の金色堂の噂を伝えたものかもしれません。金閣寺の建設は、彼の死後70程後の事です。

もう一つは、第三部でしばしば登場する西行です。彼は藤原秀郷の流れをくむ名門武士の子として生まれ、武家のエリートコースともいうべき北面武士の一員となります。しかし23歳の時に出家し、諸国を遍歴し、多くの歌を残した歌人でもあります。彼の交際範囲は極めて広く、当時の政治的対立とは関係なく、さまざまな人々と交流します。何よりも彼は、北面武士の時代に平清盛と同期であり、平泉を訪れてその極楽浄土の世界を絶賛し、さらに源頼朝にも接触します。さらにドラマの最後で、西行は平泉の文化の勝利を説きます。あれほどまでに仏に帰依し、この世に極楽浄土を作り出した平泉が、かくも簡単に滅びるには理由が必要です。このドラマは、西行の言葉を通じて、平泉の文化が不滅であることを説きたかったのだと思います。

 なお、奥州藤原の基礎を築いた経清と、奥州藤原最後の当主泰衡を、渡辺謙が二役で演じていましたが、奥州藤原の形成と滅亡を象徴的に描くことを目的としたと思われます。さらに、次に述べる「独眼竜正宗」も渡辺謙が演じていますが、これは偶然でしょう。「独眼竜正宗」は渡辺謙の出世作で、大変視聴率の高い番組だったので、「炎立つ」で起用されたのだと思われます。
独眼竜正宗

 1987年のNHK大河ドラマで、戦国時代に奥州で台頭した伊達正宗の生涯を描いたもので、原作は山岡荘八「伊達正宗」です。

1189年に奥州藤原家が滅びたのち、源頼朝は奥州に多くの御家人を送り込み、当分奥州には有力な勢力は登場しなくなります。伊達家もそういった御家人の一人で、与えられた領地の地名である伊達を名乗るようになります。その結果奥州には多くの勢力が割拠するようになり、領主間の争いは絶えず、複雑な婚姻関係結び、内部でも親子・兄弟の間で骨肉の争いを繰り広げました。もっともこの様な状態は他の地域でも似たようなもので、徳川家康の生い立ちなどは悲惨そのものでした。この間、正宗などは母親に毒殺されそうになったとされ、ドラマでもこの事件が描かれていますが、最近はこの件については否定されているようです。


 伊達正宗が当主となった頃、他の地域ではすでにある程度統合が進んでいました。1551年に上杉謙信が越後を統一、1553年に武田信玄が甲斐・信濃をほぼ平定、1566年に毛利元就が中国地方を統一、1573年に織田信長が室町幕府を滅ぼし事実上天下人となります。そして1584年に伊達正宗が18歳で当主となりますが、翌年豊臣秀吉が関白に宣下されます。つまり正宗が世に出ようとした時には、時代の趨勢はほぼ固まりつつあり、正宗が入り込む余地は少なかったのです。奥州藤原が滅びてから、すでに400年近くたっており、正宗はようやくその統合に乗り出したのですが、天下を取るには遅すぎました。


 正宗は、幼少の頃疱瘡(天然痘)にかかって右目を失明し、後に独眼竜と呼ばれるようになります。18歳で当主を継承した後、相当血みどろの戦いを経て領土を広げ、1589年に会津を滅ぼして、拠点を米沢から会津に遷します。この時伊達の領土は、福島県を中心に山形県・宮城県に及び、奥州きっての大勢力に成長していました。しかしこれが豊臣秀吉の警戒心を強め、1591年に米沢72万石から宮城県岩出山城58万石に減封されることになります。これにより伊達家は苦労して手に入れた領地のみならず、本拠地の大半を失うことになりましたが、もはや秀吉に逆らうことは困難でした。

 すでに1589年に徳川家康が三河から関東に遷されています。これは150万石から250万石への大幅な加増でしたが、本拠地の三河を去ることは苦渋の決断でした。一方、1598年に越後の上杉氏は90万石から会津120万石に加増されます。上杉氏にとって、名将上杉謙信が育てた越後を去ることは断腸の思いでしたが、従わざるをえませんでした。ここに、関東から東北にかけて、関東の徳川、会津・米沢の上杉、宮城の伊達が鼎立することになりますが、上杉は豊臣に忠誠を誓っていたため、いわば上杉は徳川と伊達に打ち込まれた楔でした。徳川にとって、西に進もうとする場合、背後から上杉や伊達の攻撃を受ける危険性があり、伊達にとって上杉は旧領を支配する敵であり、領土の奪還は悲願でした。まさに秀吉の絶妙のバランス感覚による勢力配置でした。

 1598年に豊臣秀吉が死ぬと、家康と正宗は急接近し、縁戚関係を築いて上杉に対抗します。1600年徳川と伊達が呼応して上杉討伐を開始すると、石田光成が大坂で軍をあげたため、家康は急きょ軍を西方に向け、関ヶ原の合戦へと至ります。この結果正宗は上杉と独力で戦わねばならず、相当の苦戦を強いられますが、関ヶ原で東軍が勝利したため、形勢は一気に逆転しました。実は、伊達正宗も、戦場こそ関ヶ原ではなかったものの、この戦いに参戦していたのです。これによって正宗は上杉の大軍を、会津・米沢にくぎ付けにし、家康は安心して関ヶ原に向かうことができたのです。1615年大坂の陣が終わり豊臣家が滅亡すると、もはや徳川の地位は盤石となり、ここに正宗の天下取りの夢は潰え去りました。

 正宗が奥州の覇者となってから天下取りを断念するまでの間に、正宗と秀吉や家康との間に激しいやり取りがありました。彼は秀吉に三度も謀反の疑いをかけられながら、三度とも切り抜けることに成功しました。しかも三度とも、まったく無実という分けではありませんでしたので、かなり危ない橋を渡っていたことになります。家康は、豊臣家との対抗上正宗と同盟関係を結びますが、豊臣家が滅びたのちは、正宗が最も危険な勢力の一つとなります。家康は、伊達家と婚姻関係を結ぶなど、外様大名としては破格の扱いをします。さらに、かつて秀吉が家康たちに秀頼の補佐を懇請して死んでいったように、家康も正宗に徳川将軍家の補佐を懇請します。家康の死後、正宗は2代将軍秀忠や3代将軍家光により丁重に扱われ、特に家光は戦国武将の生き残りであると同時に、家康と互角に渡り合った正宗を非常に尊敬していたと伝えられます。

 奥州の暴れ者と呼ばれた正宗の行動は奇抜で、秀吉に面会する際に金箔を貼った十字架を背負って京の町を練り歩き、京の人々を唖然とさせました。また、朝鮮出兵の際には、武者に華麗な鎧兜を着用させて京を行進し、京の人々の拍手喝さいを浴びます。「伊達者」という言葉は、豪華な」とか「粋な」といった意味で以前から使用されていたようですが、伊達正宗以降、彼のような人物を伊達者と呼ぶようになったとされています。彼のこうした奇抜なアイデアは、派手好みの秀吉に大層気に入られたとのことですが、正宗自身はシックで大層センスの良い鎧兜を身に着けていました。三日月形の飾り(前立て)は特に奇抜ではありませんが、非常に美しくセンスの良さを感じさせます。ただし、戦場で刀を振り回すのには、少し邪魔になるのではないかとも思いますが。





















 ちなみに、兜の飾りにはそれぞれの武将の個性が反映されて、様々な意匠が用いられました。正宗の側近で、猛将として名の知られた伊達成実(しげみつ)の兜の飾りは毛虫をかたどっており、これは決して後退しないという成実の心意気を示しているそうです。


また、次に述べる上杉家の直江兼続の兜の飾りは「愛」という文字で、戦国武将の飾りとしては異色です。これは、ドラマでは「愛」を提唱する武将として描かれていますが、実際には彼が信仰する愛宕(あたご)神社に由来するようです。

 話が逸れましたが、正宗は文芸にも秀で、詩・茶・能などに非凡な才能を示しています。あたかも正宗にアテルイ以来の奥州自立の伝統と、平泉以来の文化の伝統が蘇ったかのようです
 

 1636年、正宗は享年70歳で死没しました。彼の死後25年程後に大騒動が起き、この騒動は半世紀近く続きます。1970年のNHK大河ドラマ「樅の木は残った」は、山本周五郎原作で、従来悪党とされてきた原田甲斐を仙台藩を救った忠臣として描いています。伊達騒動の経過は極めて複雑で、山本周五郎の解釈には異論も多く、私には判断しかねます。いずれにしても、幕府の介入でようやく解決し、以後伊達家には奥州の自立という気概は失われ、幕末期に幕府側について官軍と戦い、破滅します。







 このドラマで、大変興味深かったのは、ヨーロッパとの関係です。当時ヨーロッパでは宗教改革後の宗教対立が激しく、旧教と新教が激しく対立していました。フランスではユグノー戦争が起きており、新教徒の多いオランダがスペインからの独立戦争を戦っており、オランダを援助したイギリスが1588年スペインの無敵艦隊アルマダを破ります。そして、はるか彼方のヨーロッパでの、こうした宗教対立が日本にも影を落とします。


当時、日本でのキリスト教の布教活動はスペインの宣教師が中心となっており、ヨーロッパとの交易もスペインが中心で、彼らは南蛮人と呼ばれていました。そこへオランダ人やイギリス人が登場します。1600年にオランダ船が日本の豊後(大分県)に漂着します。この船にウィリアム・アダムスというイギリス人航海士が乗っており、彼に引見した家康に気に入られ、江戸へ招かれます。彼は家康に、ヨーロッパでの新教と旧教の対立や、アルマダ海戦でスペインが敗北したことなどを語り、彼自身は帰国を希望していたのですが、家康により三浦按針と名前を与えられて日本に留まることになりました。以後家康はオランダやイギリスに関心を持つようになり、彼らは紅毛人と呼ばれました。 


その結果、紅毛人は、今や関ヶ原の戦いで実権を握った家康の保護のもとで、日本との交易を進めます。これに対してスペイン人=南蛮人が危機感をつのらせ、豊臣家との関係を強めていきます。つまり、ヨーロッパでの宗教対立が、そのまま豊臣家と徳川家との対立に持ち込まれたわけです。それはまた、スペインとオランダとの商業覇権をめぐる戦いでもありました。1602年オランダは東インド会社を設立し、スペインの商業覇権に激しく挑戦していたのです。

 一方、正宗はヨーロッパ最強の勢力はスペインであると信じ、領内のカトリック教徒を保護します。さらにスペイン人に大型船を建造させ、一応家康の許可を得てスペインに使節を派遣します。1613年に支倉常長(はせくらつねなが)を副使として、まず太平洋を横断し、メキシコで船を乗り換えて大西洋を横断、スペイン・ローマなどを訪問します。その際支倉が帯びていた密命は、驚くべきものでした。それはスペインと軍事同盟を結び、スペインの艦隊派遣を依頼し、徳川幕府を倒そうというものでした。この点についての詳細には異論があるので、私にはなんとも言えませんが、いずれにせよ正宗は、関ヶ原の戦いから13年も経っているのに、まだ天下を諦めていなかったのです。

 徳川家康が、いつまでも伊達正宗を信用できなかったのは当然のことです。しかし1614年・15年に大坂の陣で豊臣家が滅びると、さすがに正宗は天下取りを諦めたようです。そうした中で、1620年に支倉使節団が帰国しますが、もはや彼は正宗にとって危険な存在となっていました。支倉常長は、7年の歳月をかけて太平洋と大西洋を横断し、ヨーロッパのさまざまな文物を持ち帰りましたが、それはすべて無駄に終わり、彼自身は故郷で失意の内に余生を過ごすことになります。要するに家康は、すでにスペインが衰退しつつあるという、当時の国際情勢を正確に把握していたのに対し、正宗はこの点で完全に見誤っていました。ここに、正宗が家康に及ばなかった理由の一つがあるように思われます。

 
天地人


 2007年のNHK大河ドラマで、火坂雅志原作です。上杉謙信の後継者上杉景勝の家老直江兼続の一生を描いた作品です。

 戦国時代の越後は、他の国と同様、紛争に明け暮れていましたが、上杉謙信が登場すると、一気に統一に向かいます。彼は後世に軍神と呼ばれる程の戦上手で、生涯に70回前後の戦を行って、敗戦がほとんどないとのことで、越後の龍とまで呼ばれました。さらに彼は内政にも力を尽くし、彼の時代に越後の民の生活水準は大幅に向上したと言われますので、まさに彼は名君でした。また、彼は「義」を重んじ、彼の宿命のライバルである甲斐の武田信玄すら、自らの後継者に「自分の死後は謙信を頼れ」と遺言した程です。ただ、彼は妻子を娶らなかったため実子がおらず、養子を迎えていたのですが、誰を後継者とするかを明言しないまま、1578年に49歳で死にます。


 上杉謙信が死ぬと、後継者をめぐって養子同士の争いが始まり、直江兼続が仕える上杉景勝は旧敵武田と同盟し、1580年景勝が上杉家の当主となります。しかし翌年に再び内乱が起き、1582年には同盟関係にあった武田が織田信長により滅ぼされ、さらに越後は織田軍の攻撃を受けて窮地に立たされます。しかし、まさにその時信長が本能寺の変で死に、上杉は壊滅の危機から脱することができました。とはいえ、上杉は相変わらず内乱の火種を抱え、さらに四方から敵の侵入の危険があり、謙信時代の国力を取り戻すことは困難となっていました。そうした中で、1586年に景勝は上洛して秀吉に臣従することになります。それより5年遅れて、1591年には伊達正宗もようやく上洛し、もはや秀吉の天下は動かしがたいものとなります。


 ここまでが、このドラマの前半です。その後の上杉は、北条討伐をはじめ多くの戦いに参陣し、秀吉の信頼を勝ち取って行きます。そして1598年に秀吉から、越後から会津への国替えの命令が出ます。これによって上杉は120万石の大大名となります。いわば栄転です。この時代には国替えは頻繁に行われており、サラリーマンの転勤族のように、家族や商人まで引き連れて移動していきます。伊達や徳川さえも国替えされる時代なのです。それは勢力バランスという意味合いがあったと思われますが、それよりもこの時代には、領地は領主の私有物ではなく天下のものであるという考えが生まれてきたのだと思われます。さて会津への国替えが行われた1598年に秀吉は死亡し、景勝は家康などとともに五大老の一人となって、豊臣体制の支柱となります。まさに上杉の会津移封は、秀吉が伊達や徳川を牽制するために打った最後の一手だったといえるでしょう。

 こうした中で、家康は上杉に謀反の疑いありとして、上洛して釈明することを求めました。これに対して兼続は家康に激烈な反駁書を送ります。世に「直江状」と呼ばれているもので、実物は現存しませんが、幾つかの写本が残っているそうです。これによって徳川と上杉の関係は修復不能となり、家康は会津討伐を決意します。ところが、上杉に呼応して大坂で石田光成が軍をあげたため、家康は急きょ軍を西に向けます。上杉は伊達や出羽の最上と戦って家康を背後から脅かしますが、1600年に光成は関ヶ原でわずか1日で負けてしまいます。その結果上杉は存亡の危機に立たされます。

 結局、上杉景勝は家康に謝罪し、米沢30万石に減封された上で、家名の存続が許されます。そして徳川家に忠誠を誓い、大坂の陣にも参陣します。家康としては伊達を牽制するために上杉を残しておきたかったのかもしれません。のちに保科正之が会津に入るため、伊達に対する備えは盤石となったといえます。しかしその後の米沢藩は悲惨でした。領地が4分の1に減らされたにも関わらず、120万石時代の家臣を一人もリストラせず引き受けたため、藩財政は常に逼迫し、藩士の生活は貧困のどん底にありましたが、それに耐えて困難を乗り越えました。大政奉還後に、米沢藩は会津などとともに奥羽越列藩同盟に加わって官軍と戦いますが、最後は官軍に屈服します。

 このドラマは、上杉謙信以降の越後についてまったく知識がなかったため、この時代の知識を整理するのには役立ちましたが、この脚本家は事実を平気で捻じ曲げる傾向があるり、また「義」と「愛」を強調するあまり、綺麗事が多く、また話にこじつけが多いように感じました。なお、タイトルの「天地人」について、私は原作を読んでいないのでよく分かりませんが、漢字では、三本の横線を引き、上の線が「天」、下の線が「地」、真ん中の線が「人」を指し、これに縦の線を入れると「王」となります。ちなみに周りを囲いで囲むと「国」となります。直江兼続の国造りの精神を、こうした意味で「天地人」という言葉で表現したのではないでしょうか。

 ところで、上杉家が去った後の会津について一言触れておきたいと思います。1643年保科正之が藩主となりますが、彼は第二代将軍秀忠の実子で、母親の身分が低かったため、信濃高遠の3万石の藩主だった保科正光に預けられ、正光の子として育てられました。2000年のNHKの大河ドラマ「葵徳川三代」では、秀忠の妻が淀君の妹である江で、気が強かったため隠したことになっていますが、真偽の程は不明です。
 

 第三代将軍家光は正之という弟がいることを知ると、これを呼び寄せます。有能で忠誠心の強い正之は家光によって重用され、第四代将軍家綱の代にも大老として幕府の重責を担いました。この間、彼は出羽山県20万石を与えられ、1643年には会津23万万石に引き立てられます。こうして会津は、伊達・上杉などを経て保科へと引き継がれました。後に彼は松平姓を名乗ることを認められますが、保科家への恩義からこれを断り、保科姓を守りました。







 正之は「会津家訓十五箇条」を定め、そこで「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。幕末期には京都守護職を拝命し、新撰組とともに佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦いました。その結果若松城は官軍により包囲され、会津藩は破滅することになります。2013年に放映されたNHK大河ドラマ「八重の桜」の前半は、若松城の攻防戦を中心に展開されています。







 話がそれますが、会津藩と対照的なのが長州藩です。広島の安芸の国人領主だった毛利元就(もとなり)の時代に、毛利家は中国地方十国と北九州の一部を領国に置く大名に成長しました。しかし、元就の孫の輝元の時代に秀吉に臣従し、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に擁立されますが、敗北します。その結果、領地は周防・長門2ヶ国の37万石に減封され、長州藩と呼ばれるようになります。長州藩は幕府に深い恨みを抱き、新年の会において、家臣より「今年は倒幕の機は如何に?」と藩主に伺いを立て、それに対し「時期尚早」と藩主が答えるのが毎年の習わしだった言われています。そして幕末期に討幕の中心となったのが、この長州藩でした。




 戦国時代の大河ドラマについては、ここに挙げたものの他にも、「風林火山」(2007)「徳川家康」(1983)「真田太平記」(1985)などを観ました。「風林火山」は甲斐の武田信玄の軍師山本勘助の生涯を描いたものです。山本勘助は、今日知られている限りでは、実在の人物ではなく、彼の生涯の物語のほとんどは後世に造られたものです。武田信玄は天下取りを目指していましたが、彼の前に立ちはだかったのが上杉謙信です。4回に及ぶ川中島の戦いは、戦史に残る戦いであり、絶好の講談ネタでもありました。武田信玄は天下を狙っていましたが、結局時間切れで、彼の死後武田は織田信長によって滅ぼされます。なお、上杉謙信役としてミュージシャンのGacktが出演しており、多少現実離れしていましたが、特異な謙信像を作り出していました。


徳川家康の祖母は4回夫を変えさせられ、母も家康を生んでから離縁されて他家に嫁ぎます。いかに戦国時代とはいえ、これはいささか度が過ぎています。そして家康自身も忍従の幼少時代を過ごすことになります。松平家の本拠地は三河の岡崎にあり、それは新興の織田と守護大名今川との狭間にありました。松平氏は弱小な一地方豪族で、家康の祖父が家臣に暗殺され、嫡男・広忠も命を狙われ、伊勢に逃れるといったように、家康が生まれたころの松平家は惨憺たる状態でした。その後、松平家は有力な守護大名・今川氏に忠誠を示すため、子・竹千代(家康)を人質として差し出すこととしましたが、竹千代が今川氏へ送られる途中で拉致され、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となります。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の人質交換という形で今川氏へ送られ、そこで竹千代はさらに数年間今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごします。1560年桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川氏と決別し、信長と同盟を結びます。こうした不幸な事態は戦国大名の多くが経験していることですが、それにしても家康の幼少期は悲惨でした。その後の家康についてはあまりによく知られているので、ここでは触れません。いずれにしても、この幼少期の家康の経験が、家康の人格形成に大きな役割は果たしたことは確かです。



「真田太平記」は、戦国時代の真田昌幸・信之・幸村の生涯と一族の興亡を描いたものです。真田の本拠は、千曲川上流の、信州の山深い土地にあり、絶えず周囲から侵略され、猫の目のように同盟国を変えて生き延びてきました。そして最後に幸村が大坂の陣で戦死しますが、兄の信之が徳川方についていたため、真田家は生き残りました。これは真田家が生き残るための究極の策だったのかもしれません。しかし徳川家康は、信濃の小国にすぎない真田家には三度も痛い目に合っています。一度目は1585年で、この時に7000人の徳川軍が真田を攻撃しますが、真田は2000人の軍勢で守り切りました。二度目は1600年で、38000人の軍勢を率いる徳川秀忠が関ヶ原に向かう途中で真田を攻撃しましたが失敗し、結局秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。諸侯の連合軍を率いる家康は、結局徳川の主力部隊なしに戦うことになり、大いに面目を失いました。三度目は1614年と1615年の大坂の陣で、幸村の活躍により苦戦を強いられました。徳川のような大大名が真田のような小領主に翻弄されたことは、民衆の溜飲を下げるものでした。

 こうした話は講談や映画や小説で語りつくされています。とくに幸村を中心とした真田十勇士の物語は、民衆に大変人気がありました。幸村に人気が集まった理由として、「判官びいき」ということがあります。「判官(はんがん・ほうがん)びいき」とは、朝廷から判官の職を与えられた源義経に関して用いられた言葉です。義経は平家討伐に大きな功績をあげながら悲劇的な最後をとげたため、人々の同情をかいました。ここから、「弱い立場に置かれている者に対しては、同情を寄せてしまう」心理現象を指すようになります。幸村に対する民衆の人気は、義経にたいする民衆の人気と共通するものがあったのです。いずれにしても真田家は、戦国時代の動乱に翻弄されながらも、したたかに生き抜いたといえるでしょう。
 

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