「グローバル・ヒストリー」ということが言われるようなって久しいのですが、では従来「世界史」と言われてきた歴史とどう違うのでしようか。この点については次章で詳しく述べますが、ここでは最も基礎的な用語の解説だけをしておきます。地球のことをEarthと言いますが、これは平たんな地面を指します。それに対してGlobeは地球儀で、まさに「丸」なのです。つまりグローバル・ヒストリーとは、丸い地球を一つのものとして捉えるということです。
人類は、日本の足で歩くことから始めます。歩けば移動し、その人にとっての世界が広がり、他の人とも接触するようになります。やがて言葉が生まれ、コミュニケーションはますます発展し、馬・蒸気機関車・自動車・航空機などを用いて、この地球が互いに密接に繋がれた球となります。このようなグローバル化がどのようにして形成されたのかを学ぶのが、グローバル・ヒストリーです。
人が歴史をどのように見るのかは、その人が生まれ育った環境が強い影響を与えます。今日グローバル・ヒストリーが声高に叫ばれるのも、グローバリゼーションが世界の趨勢だからです。私自身はグローバル・ヒストリーに全面的に同調している分けではないのですが、歴史を理解するために必要な一つの側面として、一度体系的に整理してみる必要があると考えました。
グローバル・ヒストリーには、色々な捉え方が可能であり、ここで述べるグローバル・ヒストリーは、私が大学での講義のために作成した一つの試論です。さらに工業ではパワーポイントを使用して講義を行ったため、多くの図版を用いました。そうしたものを可能な限り使用しました。また、これとは別に、ブログで歴史に関連する映画を紹介しました。そうした映画もここで触れていきたいと思います。グローバル・ヒストリーはカバーする範囲があまりに広いため、内容的に皮相的になりがちです。その点を映画で補い、歴史に肉づけをしていきたいと思います。
冷戦はヨーロッパで発生しましたが、やがてそれがアジアに波及し、アジアでは熱戦(ホット・ウォー)に発展しました。
ベルリン空輸作戦
1948年にソ連がベルリンを封鎖したため、アメリカは西ベルリンへの物資の空輸作戦を開始し、空輸は約1年続きました。結局、ドイツが東西に分断され、米ソの直接戦争には至らず、冷戦は緊張状態のまま、固定されることになります。
戦時下の韓国国民
ベルリン封鎖が終わった1949年に、社会主義国家中華人民共和国が成立し、翌年北朝鮮が韓国に侵入して朝鮮戦争が始まりました。戦争には中国やアメリカが介入し、戦火は朝鮮全土に及び、多くの犠牲者がでました。戦争は1953年に一応終結しますが、朝鮮半島はその後も分断状態が続きます。
そこでまず、私自身がどのような歴史的環境の中で生きてきたかを考えてみたいと思います。私は1946年に生まれました。それは第二次世界大戦終結の翌年であり、翌年の47年から49年にかけて、堺屋太一がいう「団塊の世代」が誕生しますが、すでに前年から出生率は急速に伸びていました。一方、この頃から冷戦が本格化します。トルーマンドクトリン、ベルリン封鎖、朝鮮戦争などが続きますが、当然のことながら私は全く記憶していません。わずかに記憶に残っているのはハンガリー動乱ぐらいですが、もちろん意味はまったく分かりませんでした。
ベトナム戦争 ナパーム弾
1965年にアメリカが北ベトナムを爆撃してヴェトナム戦争が始まります。密林でのゲリラに手を焼いたアメリカは、ナパーム弾や枯葉剤を使用します。ナパーム弾は1000度以上の高温で広範囲を焼き尽くし、さらに大量の酸素を燃焼させるため、周辺でも窒息死します。それはまさに小型原爆ともいえるもので、ベトナムは荒廃します。
私が大学に進学する頃から、受験者人口が急増し、いわゆる受験戦争が始まりました。同時にこの頃からベトナム戦争が本格化します。私は毎日図書館へ行き、3種類の新聞を読み続けました。当時、ベトコンとか、北爆とか、エスカレートという文字が新聞に踊っていました。そしてある時気が付きました。新聞によって書き方が違うということです。それ以来マスコミ不信に陥り、自分で調べるしかないと思い、歴史を勉強し始めました。私が歴史を学ぶきっかけとなったのは、ベトナム戦争であり、私の知的出発点は常にベトナム戦争にありました。今日から見れば、マスコミを全面的に否定することはできません。マスコミは営利を目的とするため、色々と問題があるとは思いますが、結局われわれは世界の出来事についてマスコミから情報を手に入れるしかありません。ただ、マスコミから得られた情報を鵜呑みにするのではなく、自分で判断する賢明さをもつことが大切なのだと思います。
マルタ会談
1989年に地中海のマルタ島で、ソ連のゴルバチョフとアメリカのブッシュが会談し、冷戦の終結が宣言されました。これによって米ソによる核戦争の危険は低下しましたが、各地で局地紛争が頻発するようになります。
9.11同時多発テロ
2001年にイスラーム過激派のアルカイダがアメリカの航空機を乗っ取り、ニューヨークの募役法センタービルに突入するなどの事件が発生しました。これをきっかけに、アメリカはイラクやアフガニスタンに対する強硬な政策を推し進めます。
1989年にマルタ会談で冷戦の終結が宣言されました。私の前半生は冷戦とともにあったといえます。とりあえず冷戦は終わり、米ソの全面核戦争の危機は薄らいだものの、世界各地で局地紛争が頻発するようになります。そして2001年にアメリカで9.11事件が起きます。こうした情勢の変化の中で、冷戦の中で構築されてきた私の歴史観を再構築する必要に迫られました。その一つの結果が、これから紹介する内容です。
≪映画≫
プラトーン
1986年 アメリカ合衆国
ベトナム戦争に関する映画。アメリカは1965年に北ベトナムへの爆撃を開始し、本格的にベトナムに介入するようになります。ベトナムに駐留したアメリカ兵は最高時で50万人を超え、200万人のベトナム人が殺され、6万人以上のアメリカ兵が死にました。この映画は、一人のアメリカの青年が、この戦いを自由と民主主義のための戦い信じて志願兵となり、そしてこの戦争の現実と空しさを知る、という物語です。結局アメリカはベトナムで敗北し、1975年にベトナムから全面撤退をすることになり、そのほぼ10年後にこの映画が製作されました。
ベトナム戦争とは一体何だったのか。アメリカは何のためにベトナムで戦ったのか、そしてなぜアメリカは今なおイラクやアフガニスタンで戦っているのか。この問いには簡単に答えることができませんが、グローバル・ヒストリーという側面から、こうした戦争の背景を考えてみたいと思います。
ベトナム戦争とは一体何だったのか。アメリカは何のためにベトナムで戦ったのか、そしてなぜアメリカは今なおイラクやアフガニスタンで戦っているのか。この問いには簡単に答えることができませんが、グローバル・ヒストリーという側面から、こうした戦争の背景を考えてみたいと思います。
2006年 アメリカ合衆国
2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突入し、数千人が死亡するというテロ事件が発生しました。この映画は、この事件を題材として、命がけで救出活動に当たる港湾警察官たちの英雄的な活動を描いたものです。登場人物は実在の人物で、ドキュメンタリー風に描かれています。内容的には、アメリカでよく製作されるパニック映画ですが、事実に基づいているだけに、重みのある映画です。多分、この映画がわれわれに訴えようとしているのは、絶望的な状況の中でも「希望」を見出そうとする「意思」ではないか、と思います。しかし、その後アメリカが行ったことは、アフガニスタンへの侵攻とイラク戦争でした。それは、この映画が訴えようとした「希望に向けた意思」とは異なっているような気がします。
この事件はなぜ起こったのでしょうか、また、アメリカはなぜこんな酷い目に合わされなければいけないのでしょうか。この問いにも簡単に答えることはできません。ただ、同じ年の3月にアフガニスタンでバーミヤンの石窟が爆破されました。実は、この二つの事件は深く関わっているのです。こうした事件が起きる背景を、グローバル・ヒストリーとい側面から、考えてみたいと思います。
2007年 アメリカ合衆国
2001年9月11日に4機の飛行機がハイジャックされ、その内の2機が世界貿易センタービルに突入し、もう1機はワシントンの国防総省に突入しました。そして4機目がユナイテッド航空93便で、この飛行機もワシントンに向かいましたが、自分たちの飛行機が自爆テロに使われることを拒否した乗客たちが反乱を起こし、飛行機は目的地に到達する前に墜落して、乗客・乗員が全員死亡しました。この映画は、その時の客室の状況を再現したものです。
追記
当初、ホームページを作ることを考えていたのですが、かなり難しそうなので断念しました。しかし、ブログの作製でも思うようにいかず、行間がやたらに空いてしまったり、図版がぼけてしまったりで、大変見苦しい内容となりました。行間は、編集画面では詰まっているのですが、プレビュー画面では空いてしまい、どうすることもできませんでした。また、図版は、ペイントで作製したものがぼけてしまいます。拡大すればぼけないのですが、方法が分からないため、そのままにしてあります。
なお、使用した図版については、ネット上から借用したものが多数ありますので、不都合があればご連絡下さい。
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